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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
ファーブルと多様性 丸山宗利(昆虫学者)

昆虫の興味深い生活や行動について紹介し、反響を呼んだ『昆虫はすごい』(光文社新書)の 著者・丸山宗利は、少年時代に『ファーブル昆虫記』を夢中で読んでいた。昆虫の多様性を解明する「昆虫分類学」を 研究する著者が、ファーブルが現在の研究者たちに示唆するものとは何かを読み解く。

 私は昆虫学者である。昆虫を採集しては、それを研究することを生業としている。昆虫少年だった私にとっては、もちろん悩みのない日々などないが、運に恵まれて夢をかなえた幸せな状態といえるだろう。
 そんな私とファーブルについて、まずは個人的な回想からお話しすることをお許しいただきたい。私は幼少のころから、テレビゲームや運動などに一切の興味はなく、昆虫を中心に動植物のことしか頭にない少年だった。おまけに勉強にもまったく興味がなかった。宿題をやれなどと口うるさく言わない家庭だったこともあり、「昆虫少年」どころか「昆虫だけ少年」を邁進していたわけである。
 あまりにも勉強をせず、当然成績も悪く、それどころか本さえ読まない私を心配したのだろう、小学四年生くらいのころだったか、母がファーブルの子供向け偉人伝のような本を買ってきた。興味もないまま本をパラパラとめくると、どうやら虫の話のようだ。勉強はしなかったが、さすがに字は読めたので、心配顔で本を買ってきた母に気を遣って読んでみた。すると、これが驚くほど面白い。抜粋して描かれた『昆虫記』の内容もとても魅力的で、すぐにその本に夢中になった。昆虫少年のご多分にもれず、漠然と「虫博士になりたい」と思っていたのだ。「虫博士」というのはこういうものなのかと納得したことを今でも覚えている。
 この本をきっかけに、読書という行為を覚えた。それから、今となっては誰の翻訳だったのか定かではないが、図書館で『ファーブル昆虫記』を借りて、枕元で読む日々が続いた。それを機に勉強というものが苦ではなくなり、中学受験をするくらいまでに活字好きで勉強好きになった。つまり私は、ファーブルの伝記と『ファーブル昆虫記』のおかげで、読書を知り、勉強を知り、紆余曲折を経て「虫博士」になることができたのだ。

多様性を解明する学問「昆虫分類学」

 ほかのいろいろな昆虫学者に話を聞くと、『ファーブル昆虫記』から薫陶を受けた学者は案外少ない。それどころか、滅多にいないという事実に驚かされる。昆虫学者は、幼少のころから昆虫少年だった人と、大学に入って研究から昆虫に入った人にほぼ二分されるが、幼少のころから昆虫少年だった人でさえ、『ファーブル昆虫記』を読んでいなかった人が多い。とくに収集家体質の人は驚くほどファーブルを「通過」していないのだ。いっぽう、昆虫の生態に興味がある人には、ファーブルを経た人が散見される。私も、今でこそ収集家丸出しで、とくに昆虫分類学という、標本の収集が基本となる分野を専攻しているが、もともとは昆虫の生活に興味があり、それでファーブルが好きになった。
 昆虫分類学というのは、いうなれば多様性の学問である。昆虫を研究材料として、ある特定の分類群(たとえばコガネムシ科やカナブン属など)について、世界ないし、ある地域にどんなものがいるかを調査し、その多様性を解明することが主要な研究課題である。もっと簡単にいえば、新種を見つけ、ほかの既知種(すでに学名が与えられている種)と区別するような論文を発表することが仕事である。私もこれまでに百数十種の新種を見つけて発表してきた。

世界の虫へと目を開かせた『ファーブル昆虫記』

 さて、ここではファーブルと多様性について少しお話ししたい。『ファーブル昆虫記』は、簡単に説明するのには難しいものがあるが、生物学的な見方をすれば、各種の昆虫を徹底的に観察し、その複雑な性質について詳しく解説したものである。さらに場合によっては、各個体の個性に関して、まるで表情があるかのように親しみやすく説明している。
『ファーブル昆虫記』を読み始めたころ、私は図鑑大好き少年でもあり、日本の子供向け昆虫図鑑の中身はほとんど暗記していた。そんな私にとって、『ファーブル昆虫記』に出てくる虫はどれも馴染みの薄いものであった。似たものも日本にいるけれど、なにか全体的に違うのである。
 そのときに感じた「違い」というものを詳しく知ったのは、それからかなりあとのことである。フランスの昆虫にどんなものがいるのかを概観してみると、ファーブルが住んでいた南フランスは、「西旧北区南部」の要素が強い。
 いきなり難しい言葉を出してしまったので少し補足すると、共通した分布傾向をもつ動物(昆虫を含む)の集団(以下、「動物相」)が生息する地域のカタマリとして、「動物地理区」(上図参照)というものがある。それにもいくつかの種類があるが、ユーラシア大陸の温帯〜極地を指す「旧北区」、北アメリカ大陸を指す「新北区」、東南アジア〜インドを指す「東洋区」、中南米を指す「新熱帯区」、オーストラリア〜ニューギニアを指す「オセアニア区」、そしてアフリカを指す「エチオピア区」という分け方が主流である。つまりそれぞれの地域が独特の動物相を擁しているのである。「西旧北区南部」は、「旧北区の西のほうの、さらに南のほう」という意味である。そこに棲む動物相は、ユーラシア大陸の温帯の影響を受けつつ、アフリカやインドなどの影響も受けている。基本的に温暖で、やや乾燥した場所を好む虫が多い。

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丸山宗利(まるやま むねとし)

昆虫学者。九州大学総合研究博物館准教授。一九七四年、東京都生まれ。北海道大学大学院農学研究科博士課程修了。博士(農学)。専門はアリと甲虫の研究。フィールド自然史博物館研究員(シカゴ)を経て、二〇〇八年より現職。著書に『昆虫はすごい』(光文社新書)、『ツノゼミ ありえない虫』『きらめく甲虫』(共に幻冬舎)、『アリの巣をめぐる冒険』(東海大学出版会)など。