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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
『昆虫記』の誕生 奥本大三郎(フランス文学者)

南仏の高等中学教師であったジャン=アンリ・ファーブル。
彼が昆虫研究の世界に足を踏み入れる一九世紀半ば以前の昆虫研究といえば、
形態描写中心の分類学的研究がほぼすべてであった。
それに対し、生きた昆虫の研究に没頭したファーブル。
ダーウィンの進化論でも説明できない、昆虫の不可思議な生態を数多く観察した。
三〇年の月日を費やし、『完訳 ファーブル昆虫記』(集英社)を完成させた筆者が、
『昆虫記』が書かれた、その背景にせまる。

昆虫研究のきっかけ

 南フランスの、古代ローマ時代以来の古いアヴィニョンの街に住む高等中学(リセ)の若い教師、ジャン=アンリ・ファーブルが、生きた昆虫の行動と観察、そして文章によるその描写、という研究テーマの着想を得たのは、『昆虫記』第一巻第三章にあるとおり、ある冬の寒い夜のことであった。
 話が初めから逸れてしまうようだが、そのころ彼が間借りしていたのは、あの、ルネサンスの詩人ペトラルカが、永遠の恋人ラウラを見初めた教会を改装した建物であったという。ローマ教皇をこの地に〝捕囚〟してきたころのアヴィニョンの上流階級は、おおかたイタリア人によって占められていたらしい。それはさておき、小さな教会の階層を増やし、無理に人家に造り直した借家であるから、居住性の点では快適なものではなかったようである。
 そのときたまたま眼を通した「自然科学年報」という雑誌に、まさに彼にとっては天啓のようなことが書いてあったのである。それは、大西洋岸のランド地方に住む医師でアマチュアの昆虫学者、レオン・デュフールの書いた、あるハチの巣造りに関する研究であった。その部分を引用したい。

 それは当時の昆虫学の長老、偉大な学者レオン・デュフールによる、タマムシを狩るあるハチの習性についての研究であった。もちろん私は、そのとき初めて昆虫に興味をもったわけではない。子供のときから甲虫やミツバチやチョウが大好きであった。幼いころまで、可能なかぎり記憶をさかのぼってみると、オサムシの鞘翅やキアゲハの翅を前にしてうっとり見とれている私自身のことが思い出される。
 暖炉の薪はすでに準備されていたのである。それを燃えあがらせる火花だけがなかった。まったく偶然に読んだレオン・デュフールの論文がこの火花だったのである。  新しい光がほとばしり出た。それはまるで私の精神への天からの啓示のようであった。美しい甲虫をコルク張りの箱の中に配列し、種を同定して分類すること、それが昆虫学のすべてではなかったのだ。
(『完訳 ファーブル昆虫記』第一巻上)

 そして次の年、暖かくなって、土から虫が飛び出すとともに、ファーブルも活動を始めることになる。
 しかしその前に、ファーブルの時代の博物学と、彼の〝フィールド〟の環境について概観しておこう。

一九世紀半ばの昆虫研究

 それまで昆虫の研究といえば、今の引用文の最後のところに書かれているように、昆虫を採集して針を刺し、形を整え、採集データをラベルに書くこと、つまり標本にして、その形態、大小、色彩斑紋などを描写する、というような分類学的研究がほとんどすべてであった。採集品が珍しいものであれば、文献を参照し、またタイプ標本と比較し、それまで知られているものとの区別点を明確にして、新種として命名記載するのである。タイプ標本とは、種の基準として登録された、いわばメートル原器のような標本である。
 しかし、そのために用いる文献は膨大なものになるし、入手し難いものが多い。タイプ標本となれば、自然史博物館のような、しかるべき場所に保管されているので、素人には、おいそれとは近づくことができない、というような事情もある。したがって昆虫研究というのは、どうしても生活に余裕のある、というか、貴族、富豪の──少なくともファーブルの時代には──趣味的研究になりがちであった。
 それに、一八世紀ごろからこうした研究が進んでくると、一九世紀の中ごろには、フランスなどに産するめぼしい、たとえば体長が一センチ前後もあるような大型の昆虫は、たいてい、記載し尽くされていた。もちろん、小型の、数ミリ程度のものとなると現在でも未記載のものばかりではあるが。
 それで、新種を求める研究者らは競って東南アジアや南米、アフリカに赴いたのである。
 西欧列強による帝国主義はまだまだ盛んであった。新しい大陸や島嶼を〝発見し〟、旗を立て、名前をつけて領有宣言をする。そこにはすでに人が住んでいる、固有の文化がある、などということはあまり問題にならなかったようである。その人たちがキリスト教徒であればよし、でなければ、改宗させればよいだけの話なのである。
 冒険者、探検家、山師らが、黄金と珍奇な産物の溢れる異国の話を持ち込み、パトロン、あるいは投資家が、それに興味を示したり、示さなかったりしたわけである。
 国家もまた、軍艦に博物学者と軍人と宣教師を乗せて、新しい領土と、鉱物、生物資源の発見を競っていた。小さな島国で資源の乏しいイギリスなどは、とりわけそれに熱心で、生物資源の発見と研究、飼育、栽培のために大英自然史博物館やロイヤルキューガーデンなどを充実させていた。
 こんな時代に、ファーブルのような立場の人間には、ほとんど出る幕がないと言ってよかった。
 だから、ファーブルとしては、昆虫研究では、自分のような人間に残されている分野はもうあまりないだろうなと思っていたのだが、このレオン・デュフールの論文を読んで彼は、新しい広大な研究分野の宝庫がまだ手をつけられないまま眠っていることを直感したのであった。

レオン・デュフールの研究の内容と弱点

 先のデュフールの論文によれば、タマムシツチスガリは、タマムシを捕まえ、(幼虫の餌として)土の中の巣に蓄える。その巣を壊さないよう気をつけてごっそり掘り出してから細かく砕いてみると、それまで野外でめったに採集されなかった珍品のタマムシが続々と出てくる。しかもそれらのタマムシは、死んではいるものの、乾いてぱりぱりになってもいず、反対に湿気のために腐ってもいないのであった。
 その原因についてデュフールは、ハチが獲物のタマムシに、ある種の防腐剤を注射するのだと考えた。そしてその防腐剤は、学界にいまだ知られていないものなのに違いない、と結論づけている。
 この論文を読んでファーブルがまず驚き、喜んだのは、最初に言ったとおり、「昆虫の行動についての研究」という分野の存在である。昆虫を採集し、標本を造り、記載してそれですべておしまいではないのだ。しかも彼は、デュフールの論文には何となくおかしいところがあるように感じたようである。動かないけれど、生きているように新鮮なタマムシの死体、という不思議なものの存在を未知の防腐剤のせいにするのは、単に問題を先送りしているだけではないのか。
 実際に考えてみれば、あれほど研究の進んでいるように見える蝶についてさえ、羽化した後、成虫はひらひら飛んでどこで何をしているのか、何もわかっていないではないか。みんなただ、蝶を標本にして、形態の分類研究、あるいは、せいぜい、食草、卵、幼虫、蛹についての生活史の研究、でなければ分布調査ぐらいで終わってしまっている。何と驚くべきことに、人類はそれまで、死んだ昆虫の姿を見てはいても、生きた昆虫となると、ろくに見てこなかったということになるのである。
 蝶のように目立つ昆虫でさえ、可憐なとか嫋嫋たるとか妖艶なとか、適当な形容詞をつけて昔から詩に歌われてきたりはするけれど、実のところ誰も正確には見ていないのである。西洋の古い絵画の中の蝶は、悪魔のような角を生やしていたりするし、蛹となると?の生えた老人の顔をしていたりする。精密に描くことさえできていない。
 まして小さなゾウムシなど、ぽろりと植物から落ちてしまえば、もう二度と捕まえることさえできない、ほとんど目に見えない世界の住人である。知識人にとっても、昆虫は、存在しないも同然のものどもであったし、農民にとっては、ほとんど災いそのものであった。

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奥本大三郎(おくもと だいさぶろう)

フランス文学者。NPO日本アンリ・ファーブル会理事長。一九四四年、大阪府生まれ。東京大学文学部仏文学科卒業。同大学大学院修了。『虫の宇宙誌』(集英社文庫)で読売文学賞、『楽しき熱帯』(講談社学術文庫)でサントリー学芸賞を受賞。他にも『虫のゐどころ』(新潮文庫)、『パリの詐欺師たち』(集英社)など著書多数。翻訳に携った『完訳 ファーブル昆虫記』(全二〇巻二〇冊、集英社)が今年五月に全巻刊行された。