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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
天皇のあり方しだいで日本の近代が吹き飛ぶ 島薗 進(東京大学名誉教授)×片山杜秀(慶應義塾大学法学部教授)

明治維新からまもなく一五〇年。
奇しくもそうしたタイミングで発表された今上天皇の「退位」の御意向は、天皇とは何か、日本の近代とはなんだったのか、という論争に火をつけた。
『近代天皇論─「神聖」か、「象徴」か』(集英社新書)を上梓したばかりの気鋭の政治学者と国家神道研究の泰斗に論争の深層を聞いた。

「退位」問題の核心は「神聖」か、「象徴」かの闘い

─昨年八月に今上天皇が退位の「お気持ち」を表明されて以来、「生前退位」を認めるか否か、また、その具体的な法整備はどうあるべきか、という侃々諤々の議論が続いてきました。一方、世論調査の結果などを見ると分かるように、「恒久的に生前退位を認めるべきだ」という意見が、大多数の人々の声で、議論の余地もないほどです。識者の議論と普通の国民の意見との間にある、この乖離は、どこから生まれてきたのでしょうか。
島薗 識者の間での、退位をめぐる「侃々諤々の議論」の中身をまず、整理しておきましょう。
 官邸が主導した有識者会議がヒアリングをしたメンバーの中には戦前の国体論への回帰を目指すような発言をしてきた人が多かった。右派の多くは当初から退位に反対でした。たとえば、日本会議の代表委員の加瀬英明氏は「畏れ多くも、陛下はご存在自体が尊いというお役目を理解されていないのではないか」と述べたと報道されていますし、同じ記事でジャーナリスト櫻井よしこさんによる「天照大神の子孫の神々様から始まり、神武天皇が即位なさって、神話が国になったのが日本だ」という発言も引用されています。
 こうした考え方の人々の主張は、退位は国体の破壊に繋がるので認めるべきではない、というものだったのです。
 一方、リベラルと呼ばれるような識者の多くは、多くの国民の気持ちと同じように、退位を認めようという姿勢を見せました。
 安倍政権の閣僚の多くが神道政治連盟などに参加していますから、政権側の考えが、右派の意見に近いものだということは明らかです。
 生前退位の議論の流れを見ている一般の国民にも、「天皇と安倍政権は、考え方に大きな違いがあるんじゃないか?」ということが、じわじわと伝わりつつあるのではないでしょうか。
片山 今回、島薗先生との対談をまとめた『近代天皇論』のサブタイトルは、〈「神聖」か、「象徴」か〉というものでした。
 退位の是か非か、という表面に出てきた問題を一枚めくるとその下に見えてくるのが、天皇という存在の根本理由は、〈「神聖」か、「象徴」か〉という大きな問いなのです。つまり、戦前の「神の子孫としての権威をもつ天皇」に戻るのか、敗戦後に始まる「国民の統合の象徴としての天皇」を深化させるのか、という深刻かつ根源的な対立です。
 といっても、退位の問題は天皇のご高齢の問題であるというのが一般的な理解でしょう。なぜ、今さら戦前のような「神聖な天皇」に戻りたい人々が、政治的な力をもっているのか、ということからして、分かりづらいと思います。
 少し遠回りになるのですが、背景から説明すると、世界的に経済が低迷し、資本主義の終焉なのではないかとまで言われる事態です。そうなると、政治には国民に配るパイがありません。福祉国家が機能しなくなってきます。すると、民主主義も変調をきたすのです。
 歴史を振り返れば分かるように、資本主義と民主主義、あるいは国民国家というのは、セットになって発展してきました。
 経済においては資本主義が富を増やす。そこに不平等も生じる。是正せよ、政治に参加させろ、と民主主義が活性化する。富の再分配が促され、国民の最大多数が満足し、国民国家としての一体感が強まる。これが理想の歯車の回り方です。
 ところが、今、先進資本主義国では日本を含めて、この歯車が噛み合わなくなってきた。そこで、「神の国の神聖な天皇」というような「仕掛け」を再生させて、失われつつある日本の統合を維持しようと考える勢力がある。国力が落ちていっても、日の丸、君が代で教育して「日本は神代に繋がる、万世一系の天皇をいただく特別な国だから、大丈夫」と統治しようとする。
 ただし、そういう仕掛けを使おうと、天皇の神性みたいなものを強調しようとすると、当然、戦後民主主義の建前であった「人間天皇」や「象徴天皇」との矛盾が露わになって、ごまかしが利かなくなってくるわけです。
 そういうタイミングに今上天皇は、神格化された天皇の「神性」に拠るのではなく、「退位」問題という形で、これまで自らが実践してきた、人間としての「象徴天皇制のありかた」を投げかけられた。
 つまり、あの「お言葉」の中にこめられているのは「象徴天皇というものを戦前のようなものに戻さないでほしい」というメッセージなのだと思います。
 ですから、ある意味、安倍政権の姿勢は、天皇を統治の道具として見る「天皇機関説」だと思うのです。戦前の憲法学者・美濃部達吉が主張した「天皇機関説」と中身は、かなり違いますが。
 今上天皇のお立場は何かといえば、「機関」ではなく、「人間天皇説」ですね。人間だから高齢にもなるし、病気にもなる。人間としての限界を天皇がもっている。
 そういう「人間としての理屈」を伝える形で、神的な権威ではないことを強調しているのでしょう。

儒教的要素を取りこんで「創造」された国家神道

島薗 宗教学の観点から見ると、明治維新をきっかけに創造された国家神道に、儒教的な要素がインストールされていることが、結構、重要なのです。儒教的な要素が強いということは、国家神道に基づく「神聖な天皇」像は、すなわち、上下の関係を強調する、権威的な存在です。垂直的と言っていいかもしれません。
 一方、今、片山さんがおっしゃった「人間としての天皇」は、国民と横の関係を結ぶ水平的な天皇像と呼べるでしょう。
片山 日本全国を回って国民と触れ合うとか、災害時に被災地の人たちを励ますとか、そういうことをやっていくのが「象徴天皇の務め」だと今上天皇は考えておられる。国民との横のつながりを大切にする、水平的なあり方です。
島薗 人間としての弱さや限界をもった天皇が、人間同士のつながりを国民と築いているわけですね。
 ところが、政治権力にとっては、垂直的な天皇のほうが、権威あるいは道具として担ぎやすい。逆に彼らにとって、国民と横のつながりのある、人間的で水平な天皇は利用価値が低いのでしょう。
 一昔前には穏健な保守であったはずの自民党は、変質してしまい、宗教ナショナリズムにもとづいた「戦前回帰」的な傾向を強めています。冒頭でも申し上げた神道政治連盟であったり、昨今、スポットライトがようやく当たるようになった日本会議であったり、いわゆる宗教ナショナリズム的な運動に近づいていっているのです。
 たとえば、「文化の日」を「明治の日」と改称しようという動きが自民党内にありますが、これには単なる呼称の問題ではなく、明治天皇を神格化して寿ぐ明治節の復活という文脈があります。つまり、自民党の右派は、明治維新を機に創造された国家神道と、神として、あるいは神の子孫としての天皇を掲げる国体論を取り戻したいのです。
片山 今上天皇があの「お言葉」を通じて、天皇というのはあくまでも人間なのだ、という、民主主義下における象徴天皇のありようを示されたことに対して、「いや、そうじゃないんだ、天皇は神聖なものとして、ただ、宮中の奥で静かにしていてくれればいいんだ」という人たちがいる。
 彼らは、この機会に「人間天皇」の意義を盛り立てるような議論が活性化するのが「嫌」だから、少しでも早く、火が小さいうちに片づけてしまいたいのでしょう。
 昨年末ごろから、一代限りの特別法制定という「既定路線」を前提にして、すべてが動いているように見えるのも、おそらく、そういうことなんじゃないかと思うんですね。
島薗 もうひとつお話をしておきたいのが、敗戦のときにあった昭和天皇の「退位問題」です。
 当時は昭和天皇自身も退位の可能性を考えておられたし、昨年亡くなられた三笠宮崇仁親王は一九四六年に枢密院に提出した「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という意見書の中で「天皇に譲位の道を開くべきだ」と主張された。しかし、そうはならなかった。
 なぜかといえば、やはり「国体護持」の問題です。つまり「日本はあの戦争でアメリカに負けたけれど、『神代から続く、万世一系の天皇』故にこそ尊い、神聖な日本の本質は変わらず守られたのだ」という考え方の人たちがいて、彼らは数としては、けっして多くはないけれど、そういう人たちが、戦後も非常に強固な力をもって、国の権威体系を支えようとした。
 その人たちにとっては、皇室典範にこそ、「国体」の精神が今もこもっているのです。その皇室典範は、アメリカに「押し付けられた」憲法よりも高位のものだという考え方が彼らにはあるわけです。
「退位」をめぐる議論が、皇室典範の改正による恒久的な制度ではなく、「一代限りの特別法制定」という流れになっている背景には、そういう考えがあるのです。皇室典範が変わるということは「国体」に手がついてしまうということですから、守旧派というか、戦前回帰派にとっては、これが一番、嫌なことなんだろうと思いますね。
片山 そういう保守的な人たちから見ると、「お言葉」から読み取れる、戦後の民主主義的な天皇の「完成形」に対して、強い危機感みたいなものがあるのでしょう。
島薗 昭和の時代の最後の年に、四〇歳だった自分の実感としては、人間天皇宣言をしたとはいえ、昭和天皇はあの戦争の記憶と生身の形で?がっていて、緊張感というか、重苦しさがまだあった。
 当時は、昭和天皇に対して神のように接していた人たちが、三島由紀夫をはじめ、たくさんいたのですよね。そういう人々の系譜が、皇室典範の改正に強い抵抗感を示したりしている日本会議系の宗教ナショナリストに繋がっていて、国民と「信頼と敬愛」の関係をもとうとしている「象徴天皇」を歯痒くみているのでしょう。

宗教的な次元と民主主義は折り合えるのか

─しかし、そもそも天皇の神性や伝統的な宗教的価値と、近代的な民主主義は折り合いがつくものなのでしょうか。
島薗 「宗教的な権威は、現代社会には関係ない」と二〇世紀後半の先進国では、多くの人が思っていました。ところが、実は、他者を思いやる倫理性に宗教的な基盤のないところでは、民主主義そのものが機能しにくいのです。
 宗教的な文化、あるいは精神文化が、現代の社会においても我々の背後にあって、社会の秩序が成り立つための「重石」になっていたのではないか。そういう見直しも、世界中で起きています。たとえば、ローマ法王の発言力の高まりであったり、アメリカのキリスト教原理主義の興隆であったりするわけです。
 もちろん、宗教が前景化してくるにつれて、大きな問題も見えてきます。典型的なのがイスラムフォビア(イスラム嫌悪)でしょう。「文明の衝突」的な問題も噴出しています。
片山 近代の原理原則からいくと、やはり世俗的な価値が優越していて、いわゆる宗教的なものは、せいぜい「内面の問題」に留まっていた。
 つまり、他人に迷惑をかけなければ、個人が何を信仰しようが「内面の自由」だけれど、公共の空間は世俗的な価値に基づいて行われなければならない、とされてきた。そして、その世俗的な価値が最大に調整されるための政治的な手続きが、自由主義、個人主義を基本とした「民主主義」である、ということでした。
 そうした近代の「西洋的な価値観」がグローバル・スタンダードでしたが、その「歪み」が、あの二〇〇一年の9・11でハッキリしてしまった。
 島薗先生がおっしゃったような「文明の衝突」的な問題、「調停不能な価値観の相違」みたいなものが露わになりはじめた。そうやって、西欧的な近代というものの限界が露呈しはじめた中で、今また、島薗先生のような宗教学者が、再び最前線に立つ時代に戻っているわけです。
 その中で、日本的な宗教の問題と政治の問題がどうなるのかという時に、明治維新以降の日本が抱え続けてきた「西欧的な近代国家を目指す中で、天皇制をどう捉えるのか?」という問題もまた、再び表面に噴出しはじめている。日本会議のような「天皇は神だ」とか「だから日本は特別な国だ」という、非合理的なナショナリズム、いわば「近代がとっくの昔に克服したはずのもの」が蘇ってきているのです。

天皇のあり方しだいで日本の近代が吹き飛ぶ

島薗 日本の場合、明治維新後の体制をどう評価するのか、ということが問題になっているのも、そこですね。
 世間では、いわゆる「司馬史観」、つまり小説『坂の上の雲』のように「明治維新そのものは前向きで健全だった、歪んだ体制になったのは昭和以降だ」という認識も根強くあります。
 この歴史の見方では、戦前はダメだけれど、明治的なものに戻るのはいいんだ、ということになりかねない。しかし、実際のところ、近代国家・日本の失敗は、明治維新で作られた体制の失敗の帰結です。
 それを知ってか知らずか、政府は、二〇一八年を「明治維新150年」ということで、盛り上げていこうとしているようです。たとえば、明治維新を題材にした映画に対して政府が補助金を出すとか、先ほど申し上げたような「明治の日」の制定だとか。
 その背景にあるのは、「日本の近代化は正しく、世界に誇るべきものだった。それこそが、今後の日本が自信を持って世界に打ち出してゆく基盤なんだ」という「明治回帰」的な考え方なんだと思います。昨今の風潮に対して「戦前回帰」であるという批判も当たっていますが、さらに問い直すと「明治回帰」が出てくる。
 けれども、私と片山さんの今回の新書でまさに問題にしているのは、その認識を改める必要があるということです。つまり、明治維新のビジョンは確かに括弧つきの「成功」を導いたが、そこには同時に「その後の失敗を準備するもの」が埋め込まれていたのだということです。
 これは、片山さんが以前から議論されていることですが、要するに「天皇」をトップに掲げて、すべてを天皇のためにという形で民衆を駆り立てる、そういうシステムを作ってしまったがために、結果的にコントロールできない、暴走する国家になってしまったという認識ですね。
片山 結局、天皇の在り方を考えることは、日本の近代を考えることでもあるのです。天皇のあり方しだいでは、日本の近代なんて吹き飛んでしまうのです。
 明治維新から一九四五年までの日本。つまり「天皇は神だ」ということで、この国を強引にまとめていった歴史というのは、それこそ『坂の上の雲』という、司馬遼太郎の小説の題名に示されているように、近代的な国家をめざして「坂の上の雲」を目指して上がっていく中で、いろいろと無理を重ねてゆく。急激な産業化で貧富の差が拡大したり、日清、日露戦争、日中戦争でも、国民に大きな犠牲を強いたりというようにです。
 しかし、その先に日本が領土的に拡張し、経済的にも成長してゆくんだという希望があった。「天皇」をいただくこの国が「特別な国」であることさえ信じていれば、豊かにもなるし、世界の平和も神である天皇が作ってくれる。そういう神話で、この国を束ねようとしてきた。それが、明治維新から第二次世界大戦までの近代化の歴史でした。
 でも、今の日本には、それがないわけですよね。戦後も高度成長期のように、「今日よりも良いであろう明日」というものを日本人全体が実感できていた時代ならば、「国民を束ねる理屈や道具」なんて必要なかったかもしれないけれど、バブル崩壊後、ずっと低成長になった日本では、だんだん社会の綻びが大きくなってきて、今のところはアメリカ程ではないにせよ、貧富の差も確実に顕在化してきている。
島薗 明治期、日本の近代化に右肩上がりの希望を重ねた「坂の上の雲」ではなく、むしろ、下り坂を迎えた国の「坂の下の霧」のような不安に覆われていますね。
片山 そうそう、「坂の下の霧」ですね。その霧の中で、国民を束ねる道具として、先ほどいった垂直的な天皇像が再活用されようとしているわけです。
島薗 不安が強いから、若い世代の一部の層は安倍政権的なやり方に共鳴しているんですね。「今のままでは自分たちの未来がない。そうした状況を打破するためには、何かナショナリスティックな、神聖な権威に通じたものが必要なんじゃないか」という考え方が広まっている背景には、不安があると思います。

(構成・文=川喜田研)

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島薗 進(しまぞの すすむ)

宗教学者。東京大学名誉教授、上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所所長。1948年、東京都生まれ。専門は日本宗教史。主な著書に『国家神道と日本人』(岩波新書)、共著に『愛国と信仰の構造─全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)など。

片山杜秀(かたやま もりひで)

治学者、政治思想史研究者。慶應義塾大学法学部教授。1963年、宮城県生まれ。主な著書に『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、『未完のファシズム─「持たざる国」 日本の運命』(新潮選書、司馬遼太郎賞受賞)など。