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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
「作家の妻」をめぐる二つの物語──『狂うひと』『檀』の真実 沢木耕太郎(作家)×梯 久美子(ノンフィクション作家)

夫の情事をきっかけに狂乱する妻を描く島尾敏雄の『死の棘』。
女優を愛人にもつ作家の奔放な人生を描く檀一雄の『火宅の人』。
日本文学史に圧倒的な存在感を放つこの二作品をテーマに
傑作ノンフィクションを書いた二人が語る、
小説に書かれなかった妻の人生、作家という生き物のもつ業とは?

「愛の物語」への違和

沢木 『狂うひと』は昨年読んだ本の中で、もっともスリリングな一冊でした。
 ありがとうございます。
沢木 そのスリリングさには三つの位相がありましてね。第一に素朴な読者としての僕の「驚き」、第二に同じノンフィクションの書き手としての僕への「刺激」、そして第三に『檀』という作品を書いた者としての僕にとっての「共感」とほんの少しの「疑問」という具合に複雑なものでした。まず、梯さんはこの作品で何を書こうとしたんだろう。難しいだろうけど、この対談の読者に向かってひとことで言い切ってしまえばどうなります?
 夫・島尾敏雄によって『死の棘』で描かれた「嫉妬に狂う妻」の範疇に収まらない島尾ミホの実像、ということになるでしょうか。ミホさんは私とのインタビューで、愛人との情事が綴られた夫の日記を見た瞬間のことを「そのとき私は、けものになりました」と語りました。そこには彼女を狂乱させた内容が書かれていたわけですが、それはたった十七文字の言葉だったそうです。その日から彼女は精神の均衡を失い、執拗に夫を問いつめる。次第に敏雄も正気を失ってゆき、夫婦で精神科の病棟で暮らすことになる──。そうした『死の棘』に刻まれた出来事としての狂気から少し視野を広げ、島尾敏雄とミホの人間として、作家としての狂気、さらにその周囲にある奇妙な人間関係に充満する狂気を、ノンフィクションで書いてみたかったんです。
沢木 なるほど。『死の棘』における狂気をはらんだ様々な関係性が、梯さんの「仮説」のもとに整理されていくプロセスは『狂うひと』の読者にとっての大きな驚きのひとつですね。そもそもこの『死の棘』は、島尾敏雄の作品を同時代的に読んできた読者を混乱に陥れることになる作品でもあるんですよね。まず短編連作が十六年にわたって書き続けられてきましたけど、折々に短編集として刊行されている。その中には、精神を病んだ妻と一緒に入院するというような凄まじいものもある。ところが長編としての『死の棘』が刊行されると、夫婦で精神科病棟に入院する直前でぷっつりと終わっている。そこで、「あれっ?」と思う。長編の『死の棘』には肝心なところが書かれていないのではないかとね。その後、『「死の棘」日記』(島尾敏雄、新潮文庫)が刊行されますけど、それを読むと混乱はさらに深まるような気がしてくる。『死の棘』では、世間との隔絶こそが、その世界の悲劇性を支えているように思えるんですよね。『死の棘』における島尾家は、まるで暗闇の海に漂うただ一艘の小舟のような存在に見えてくる。小舟の上で起こることが彼らのすべてであり、外部からの助けはなく、ただただ漂流する運命にあることが読む側を何度も不安や絶望に陥れていく。
 ところが島尾さんの死後、『「死の棘」日記』が刊行されると、島尾一家は小舟に乗った漂流者ではなく、当然のことながら世間と?がっていたことが明らかになる。たとえば島尾家には、彼らの親類縁者とのむしろ濃密なかかわりがありますし、吉本隆明や奥野健男といった文学者たちが訪ねてきたり、泊まったりしている。そこでもやはり、「あれっ?」となるんですね。梯さんの「仮説」は、長編としての『死の棘』と、その前後に書かれた短編や日記を突き合わせることで、そうした読者の「あれっ?」という思いに応えてくれるものになっているんですね。その「仮説」の最も重要なもののひとつが、吉本隆明や奥野健男が論じてきた、島尾ミホの少女性・巫女性に対する「ノー」ですよね。たとえば、「島尾と出会ったときのミホは満年齢で二十五歳である。もとより少女といえる歳ではなく、あの時代では婚期を過ぎた女性とみなされる年齢だろう」と。これは吉本さんや奥野さん以後の多くの人が踏襲してきた島尾ミホ像に異を唱えるというだけでなく、『死の棘』の見方を根本的に変える指摘となっています。
 吉本さんや奥野さんの著作を読み直すと、彼らはミホさんが本来もつ人間性とは別の文脈で、彼女の少女性や巫女性を強調してきたのではないかと思えてきます。彼らはまず特攻隊長としての島尾敏雄を「島を守りに来た神」と定義します。そして、守られる存在である島の人々の代表あるいは象徴として、ノロ(沖縄・奄美地方でかつて祭祀をつかさどった巫女)の家系に生まれたミホさんを規定する。この構造の中では、ミホさんは守られる者にふさわしい属性を備えていなくてはなりません。つまり、か弱く、無垢・無謬で、素朴でなければならない。そこで、少女性・巫女性を強調することになったのではないかと思います。吉本さんも奥野さんも、二人の結びつきにある種の聖性を与えようとしましたから、「外来の神と南島の巫女」という組み合わせは重要な要素だったんです。でもミホさんが育った時代には、彼女の集落ではノロの制度はすたれていましたし、本人も、『死の棘』の騒ぎが終わって故郷の島に帰るときまで、自分が巫女の家系だということは知らなかったと言っていました。それに、ミホさんは幼児洗礼を受けたカトリックなんですよ。
沢木 確かに梯さんがおっしゃるとおり、島尾ミホの「巫女性」については後づけかもしれない。でも、「少女性」についてはどうだろう? 吉本さんも奥野さんも実際のミホさんと何度も会っていますよね。にもかかわらず、ミホさんの少女性にこだわったのにはそれなりの理由があったのではないかと思うんですよね。もしかしたら、ミホさんの少女性を強く印象づけられた経験がまず最初にあったのではないでしょうかね。事実、島尾敏雄も日記の中で、ミホさんの少女性についてたびたび言及しているくらいですし。
 確かにミホさんにはそういうところがあって、私がお会いしたときは、もう八十六歳でしたが、相対していると、ふと背後に少女だったころのミホさんが見えてくるような感覚に襲われることがありました。島で育った幼少期を回想した著作『海辺の生と死』(中公文庫)を読んでいた影響もあるかもしれませんが、ちょっと恐ろしくなるほど鋭くて世故に長けた部分と、子どものように無邪気な部分が同居している女性なんです。身のこなしにしても、たとえば立ち上がって台所からビールを持ってきてくれるときなど、高齢なのに野性的な敏捷さとでもいうようなものがあって驚かされたこともあります。
 沢木さんのおっしゃるように、彼らは実際にミホさんに接して彼女の少女性に惹かれた、つまり机上の空論ではなかったからこそ、二人が提示した論は魅力的だったのかもしれません。でも、彼らの論が検証されることもなく、何十年もそのまま受け入れられてきたのは、やっぱり変ですよね。後に続く論者たちも皆ミホさんを「少女」と呼び、彼女が二十五歳だったことにふれようとしない。調べようとさえしなかったのかもしれません。そして敏雄とミホを相変わらず「外来の神と南島の巫女」と定義している。私はもっと身も蓋もない場所から、二人のリアルな関係を探り、神話化されたヒロインではなく生身のミホさんに出会いたかったんです。
沢木 『死の棘』を「美しい愛の物語」と捉えて疑わないという文学的な見方があって、そのことをまず疑う。それはノンフィクションのライターとしては至極まっとうな考え方ですよね。
 文学という言葉に惑わされたくなかったというのはありますね。事実をゼロから積み上げて、ミホさんの実像を明らかにするとともに、彼女が本来もっている人間としての少女性とは異なる文脈で、彼女を少女にし、巫女にしたものはなんだったのかを解明したいという思いもありました。

読まなかった『檀』

沢木 そもそも、梯さんがミホさんを取材するために会ってみようと思ったのは、どんなきっかけからだったんですか?
 作家としてのミホさんとの出会いがまずありました。あるとき彼女の著作『海辺の生と死』と『祭り裏』(中央公論社)を読んで、もうびっくりしたんですね。『死の棘』の、あの狂った奥さんが、こんなにすごい作家だったなんて、と。ご存命と知って、これは会いにいくしかないと思いました。「取材」という名目で、会いたい人に会いにいけるというのが、ノンフィクションライターの唯一の特権ですから。もしいい話が聞けたら、当時よく仕事をしていた雑誌にインタビュー記事を載せてもらおうと思っていました。
 ミホさんへの初回インタビューは、二〇〇五年十一月十三日に奄美大島の名瀬市(現在の奄美市)にあるミホさんの自宅で行いました。その翌日、せっかくなので加計呂麻島に行ってみることにしたんです。ミホさんが島尾さんと戦争末期に出会って恋におちた場所ですね。
沢木 それはひとりで? それとも誰かの案内があって?
 ひとりで行き、一泊二日滞在しました。奄美大島と加計呂麻島の間には大島海峡という海峡があります。島を見て回った翌日、奄美大島に戻るフェリーを待っているとき、実はある出会いがあったんですね。フェリーの待合室は、トイレと飲みものの自動販売機があるだけの殺風景な所だったんですが、隅のほうに小さな本棚があって、十数冊の本が並んでいました。そこに沢木さんの『檀』があったんです。
沢木 そいつは劇的だ(笑)。それは文庫版でしたか?
 単行本でした。さっそく手に取って読み始めました。作家の妻にインタビューを重ねて書かれたノンフィクションですから、今まさに自分がやろうとしていることと同じだったわけです。でもすぐにそうしたことを忘れて、没頭して読みました。待ち時間は一時間くらいあったでしょうか。四分の一くらい読んだところでフェリーが到着したので、本棚に戻して乗船しました。東京に戻ってから本を買って続きを読もうと思っていたのですが、結局私はこの本を読まないという決断をするんです。
沢木 今は読まないほうがいい、と思ったのね。
 そうなんです。『檀』は最初から最後まで、檀一雄の妻であるヨソ子さんの一人称で書かれていますよね。フェリーの待合室で読んでいるとき、ヨソ子さんの声が聞こえてくるような気がしました。ご本人の声を私は聞いたことがないわけですから、それは『檀』の文体がもつ「声」なんですが、その声に影響されてしまうのを私は恐れたんだと思います。
 そのときの私は、一回目のインタビューで手ごたえがあって、これはもしかして長いものが書けるかもしれない、と感じていたんですね。その場合は基本的にミホさんの一人称で書くことになるだろうと思っていた。そうなったとき、『檀』の文体が体に入ってしまっていて、同じような呼吸の文章を書いてしまってはまずいわけです。そういう警戒心を起こさせるような、何か強い力が『檀』のヨソ子さんの語りにはありました。だから『狂うひと』を書き終わるまで読まなかったんですよ。
沢木 それは正しい判断だったかもしれないですね。
 結局、十年越しの読書になってしまいました。

逃れられない書く人の「業」

 取材を進めていくと、長いものになりそうだったので、いったん雑誌のインタビュー記事にすることは見送ったんです。すると私のデビュー作である『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)の担当だった新潮社の編集者から「『新潮』に書いてみたらどうだろう?」と提案がありました。『新潮』は島尾敏雄にゆかりのある雑誌で、『「死の棘」日記』も、もとはといえばミホさんの校訂で『新潮』に掲載されたものなんです。まず十五枚程度の原稿を書いてみたところ、編集長からゴーサインが出て、ミホさんに「『新潮』で連載を行うので、本格的にあなたの評伝を書きたい」と伝えました。
沢木 そうして四回の取材を重ねられたわけだけれど、その四回目の取材の後にミホさんから突然に取材の中止を求められ、彼女はその一年後に亡くなってしまう。
 そうなんです。
沢木 仮定の話なのだけれど、もしも断られなかったら……つまり、そのままミホさんが生き続け、取材も順調に進み、「十分に話を聞けた」という状態でこの本を書いていたとすれば、どんなものになっていたと思います?
 もちろん今と同じものにはならなかったでしょうね。ミホさんの「愛の神話」作りに荷担していたかもしれないです。
沢木 あるいはそうかもしれませんね。梯さんの「仮説」のもうひとつすばらしいところは、ミホさんが後年には「究極の愛の物語」を守るために、それ以外のものを捨象して、「演じていた」のではないかというところにまで到達する箇所です。それが可能だったのも、ミホさんのひとり語りではなく、評伝的な三人称の文体を採用したことが大きかったように思います。
 実はミホさんに断られたとき、私は一度、書くことを諦めたんです。私は、実在する人物を書くことは本質的に暴力的なことだと思っているんです。だから嫌だと言っている人を説得する気持ちにはなれなかったし、ミホさんのことが好きでしたから、しつこくして嫌われたくないというのもありました。そうしたらその一年後に、ミホさんは亡くなってしまうんです。
 すると、追悼の意味も込めて、ミホさんのことを書かないかという話が『新潮』からきた。そのとき、一度は「書きます」とお返事したんです。でも、いざ執筆を始めようとすると、どうしても筆が進まない。ミホさんが私を見ている気がするんですね。生前に取材を断られているのに、相手が死んだからといって書いていいものかという葛藤がどうしても振り切れない。結果的に、私は人生で初めて、締切直前に「やっぱり書けません」とお断りすることになりました。
沢木 そんな梯さんを「やっぱり書きたい」と思わせ、あらためて『狂うひと』に向かわせたものはなんだったんだろう。
 ものを書く人には、非情さがありますよね。暴力的なことだとわかっていても、「どうしても書きたい」という思いに突き動かされる瞬間があります。それを自覚したのは、島尾さんの愛人である「あいつ」と呼ばれた女性……。
沢木 あなたが「川瀬千佳子」という仮名を与えた方ですね。

この続きは本誌でどうぞ!

沢木耕太郎(さわき こうたろう)

作家。1947年、東京都生まれ。横浜国立大学卒業。79年、『テロルの決算』(文春文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。斬新かつ実験的なテーマに挑み、ノンフィクション、フィクションの新たな可能性を追求し続けている。『深夜特急』『凍』(共に新潮文庫)など、数多くの代表作がある。

梯久美子(かけはし くみこ)

ノンフィクション作家。1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業。編集者を経て文筆業に。2006年、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。17年2月には、『狂うひと』で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。