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多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)
 
ヒトラーの略奪美術品と美術館建設の野望
――現代ドイツに姿を見せる「ナチスの亡霊」篠田航一(記者)

略奪によって集められた六〇万点にもおよぶナチスのコレクション。
そこにはヒトラーの美術館建設の野望があった。
ヒトラーとその部下ゲーリングの蒐集にまつわる歴史秘話を、
ドイツでの豊かな取材経験を持つ筆者が明かす。

 ヨハネス・フェルメール(一六三二~七五年)はおそらく、日本人に最も愛される画家の一人ではないだろうか。
 何よりテーマが分かりやすい。西洋絵画には、聖書やギリシャ神話などの「基礎知識」がないと理解が難しい作品が多いが、その点、フェルメールは安心だ。描かれているのは、牛乳を注いだり、手紙を読んだり、楽器を弾いたり、首飾りを着けたりという何気ない日常風景。彼が生きた一七世紀オランダの市民生活が寡黙に切り取られている。その一コマはだいたい室内で、静けさの中に不思議なほどの躍動感も見て取れる。筆者のような美術の素人にも「深い絵を見た」という感動が確かに伝わってくるのだ。
 フェルメール作品はそもそも点数が少ない。現存する作品数は専門家によって諸説あるが、世界中で確認できるのはわずか三十数点だ。
 二〇世紀前半、そんなフェルメールに魅せられた一人の男がいた。
 アドルフ・ヒトラー。
 ナチス・ドイツを率いた独裁者が、もともと絵描きを目指していたことは有名だ。彼は多感な青春期、ウィーンにある芸術の最高教育機関・造形美術アカデミーへの入試に二度失敗している。彼はその後も美術への屈折した思い、そして憧れを抱き続けた。政治家、そして独裁者となってからはその絶大な権力を使い、自身が少年時代を過ごしたオーストリア北部リンツに壮大な美術館を建設することを計画する。この美術館に欧州中の絵画や彫刻を収蔵することが、ヒトラーの生き甲斐にもなった。それはナチスが各地で美術品の略奪を重ねる動機の一つになっていく。
 リンツを「文化首都」にすべく計画された美術品蒐集や劇場建設。その経緯を調査しているドイツの美術史家ハンス・クリスチャン・レーア博士は、筆者の取材にこう答えた。
「ヒトラーがリンツにこだわった理由として、やはりウィーンへの対抗心があります。ウィーンへの復讐と言ってもいいでしょう」
 多感な青春期、自分を受け入れず、二度も試験で落とした美術学校があるウィーン。このハプスブルク帝国の都ではなく、あえてリンツに美術館を作ることにこだわった。ウィーンへの復讐を、ヒトラーは自らの政治権力を使って果たそうとしたのだ。

地下壕に疎開したナチス・コレクション

 ナチスが各地で略奪・没収した美術品は、敵軍の空襲から守るために一九四二年ごろから本格的な「疎開」を始める。その疎開先の一つが、オーストリアの小村アルトアウスゼーの岩塩坑。この坑道にはファン・アイク兄弟の「ゲントの祭壇画」、ミケランジェロの「聖母子像」などが運び込まれた。
 その中に、ヒトラーがこよなく愛した一枚がある。フェルメールの「天文学者」だ。
 この絵はもともと、ユダヤ系の大富豪ロートシルト家(英語名ロスチャイルド、フランス語名ロチルド)が所有していたものだった。ナチスはこれを見逃さず、一九四〇年にパリで押収。ヒトラーはこの絵をなんとしてもリンツの美術館に展示したかった。
 ヒトラーが好んだ画家としてはフェルメールの他に、寒々しい孤島をモチーフにした有名な「死の島」で知られるスイスの画家ベックリンや、ドイツ新古典派の代表的画家フォイエルバッハが挙げられる。ビスマルクの肖像画で知られるレンバッハもお気に入りだったらしい。
 「フェルメールは、ヒトラーにとってそれほど好きな画家だったとは言えないかもしれません。しかしフェルメールは作品数が少ないため、所有すること自体に価値があったのです」とレーア博士は続ける。
 人はなぜ「集める」のか。膨大な「量」を集めることに快感を覚える人もいれば、数は少なくても希少価値の高い「質」を重視する人もいる。世界に三十数点しかないフェルメールの作品を一つでも手に入れることは、芸術を愛した独裁者にとって確かに至福であっただろう。
 レーア博士によると、フェルメールを気に入っていたのはヒトラーよりむしろ部下の国家元帥ゲーリングの方だったという。ゲーリングの美術品蒐集も有名で、ベルリン北郊の森に構えた豪華な邸宅に数多くの絵画を運び込んでいた。この中にオランダの画商から入手したフェルメール作品とされる絵もあったが、これはのちにと判明する。
 ヒトラーが好んだ「天文学者」はフェルメールの他の作品同様、サイズは小さい。縦五一センチ、横四五センチ。書斎にいる天文学者が右手で天球儀に触れ、じっと観察をしているような構図だ。窓から差し込む光が天球儀の左半分を照らしており、書斎自体は暗いがどことなく力強さ、明るさを感じる。宇宙の神秘を解き明かそうとする学者の好奇心が絵から伝わってくる。この空気はきっと、商業市民社会が勃興した一七世紀オランダの勢いとも無関係ではないはずだ。
 ヒトラーはこの絵をなぜ好んだか。世界帝国建設の野望を抱いた男はおそらく、天球儀を回すような仕草の天文学者の姿に、やがては世界を手中に収めるべく進撃する自らの姿を重ね合わせていたのではないか。レーア博士にそんな質問をしてみると、「それは分かりません」と苦笑された。確かに宇宙の神秘に向き合う真摯な学者の姿に、第三帝国の独裁者が自身を重ね合わせるのは実に身勝手な想像だが、容易にそんな想像ができてしまうほどこの絵からは「気宇壮大」な空気が伝わってくるのも確かだ。
 ヒトラーは大戦末期の一九四五年一月以降、ベルリンの総統地下壕で指揮を執るようになっていた。二月になり、リンツの美術館の建築模型がヒトラーに届く。この時点でドイツは既に敗色濃厚。地下壕にこもりがちになった独裁者は、将来ドナウ河畔に建つはずの美術館の小さな模型と、そこに飾られるはずの「天文学者」の絵の写真をずっと眺めていたという。
 一九四五年四月三〇日、ソ連軍の砲弾が迫る中、地下壕にこもっていたヒトラーは自殺した。そして五月八日、ドイツは降伏する。
 その後、米軍はオーストリア・アルトアウスゼーの坑道に踏み込み、隠された大量の美術品を発見した。確認できただけで、六五七七点の油彩、二三〇点の素描または水彩、九五四点の版画、一三七点の彫刻、一二九点の武具、七九個の物品入りの籠、四八四点の公文書とみられるものが入ったケース、七八点の家具、一二二点のタペストリー、一八一箱分の書籍。この他にも大量のケースが見つかった。
 二〇一四年公開の米国映画「ミケランジェロ・プロジェクト」は、ナチスの魔の手から美術品を救出した連合国軍の英雄たちを描いた作品で、日本でもヒットしたが、実際に起きたこのような美術品救出劇をモチーフにしている。当時はアルトアウスゼーの他、ドイツ中部テューリンゲン州のメルカース岩塩坑、観光地として有名なロマンチック街道にあるノイシュヴァンシュタイン城など、各地に美術品が隠されていた。
 アルトアウスゼーの坑道から見つかった大量の美術品。これはナチスが集めた「コレクション」のほんの一部に過ぎない。
 ヒトラーが権力の座にあった一九三三年から一九四五年の間に、ドイツが主に欧州各地で略奪した絵画、彫刻、その他の美術品を総合した数は全部で「六〇万点」と推計されている。二〇〇〇年に米国の下院財政委員会が公表したもので、あまりに莫大な数のため、委員会も「正確な統計を出すのは不可能」と嘆いている。この数字には家具類や書物、切手やコインは含まれていないため、こうした財産も含めればその数はさらに跳ね上がる。
 内訳は、ドイツ国内とオーストリアで略奪された美術品が二〇万点、西欧で一〇万点、東欧と旧ソ連で三〇万点。このうち、今なお行方不明などの理由で元の所有者に返還されていない作品数は、一〇万点に上ると推測されている。

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篠田航一(しのだ こういち)

記者。一九七三年、東京都生まれ。九七年、毎日新聞社入社。甲府支局などを経て、東京本社社会部で東京地検特捜部などを担当。ドイツ留学後、二〇一一年からベルリン特派員。一五年から青森支局次長。著書に『ナチスの財宝』(講談社現代新書)、共著に『独仏「原発」二つの選択』(筑摩選書)がある。