お金とは、何かを購入するための「手段」だった。ところが、いつの間にか、お金自体が「商品」として扱われるようになってしまった。社会でモノやサービスを購入するお金と、バーチャルな金融市場を行き交うお金とが乖離してしまったのである。私たちの社会は、そんなお金の暴走に翻弄されている。「お金とは何なのか?」という根源的な問いかけから出発し、財政赤字、年金制度、グローバリズム、エネルギー問題など様々な論点に迫る、まったく新しい経済論=社会論の誕生。
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絶対に「なくなるはずがない」と信じ込んでいたものが、ある日突然「ない」と宣告されたら、あなたはどんな態度をとるだろうか。それも、なけなしのお金を貯めた「貯蓄」であったとしたらどうだろう。茫然自失。嘆き悲しむか、怒り狂うか。
人は自分の「虎の子」だけは「安泰」と信じている。私自身も、そうあってほしいと思う。しかし、これから書くことを読んだ後でもなおそう思うなら、それは書き手の能力不足か、読み手が他人の意見など最初からいっさい聞かぬ頑固者か、そのどちらかだろう。
国の債務は八三四兆円、地方の債務は二〇一兆円
二〇〇七年三月末現在で、国の総債務残高は、八三四兆円を超える。
内訳は普通国債、交付国債、出資国債などの国債が約五三五兆円、これとは別枠の、旧日本道路公団などに融通するために発行した財政融資向け国債(いわゆる財投債)が約一三九兆円で、借入金と政府短期証券(償還期間が超々短期の国債)を合わせて約一六〇兆円となっている 。他方、地方財政が総体として抱える長期債務は、〇六年度末で約二〇一兆円。これらを足し合わせダブルカウントとなっている部分の約三四兆円を引いた債務残高の総合計は、なんと! 約一〇〇一兆円。気がつけば、政府の借金は、ついに一〇〇〇兆円の大台に手が届いているのだ。
一万円札は乾燥したピン札状態で厚さ〇・一ミリ、重さ一グラムという。一〇〇万円で高さ一センチ、重さ一〇〇グラム、一億円なら一メートル、一〇キログラムということになる。認識できるのは、せいぜいこのあたりまでだ。普通のサラリーマンなら、一生のうち一万円札を三メートル、三〇キログラム程度も稼げば「上出来」といったところか。
それが、一〇〇〇兆円ともなると、積み上げた高さは一万キロ、重量でも一〇万トンにおよぶ。想像を絶するとは、まさにこのことだ。
ただし、一人当たりでいくらとか、四人家族でいくらとか、あるいは家計に置き換えて説明されれば、こうした政府債務の大きさもいくらか分かりやすくなるかもしれない。
財務省によれば、二〇〇七年度末時点で家計換算してみると、国債だけに限ってみても月収四〇万円の家計が四六〇〇万円のローン残高を抱えている状態だという。
しかし、こういわれても債務の重さはイマイチ実感できない。なにせ自分がこしらえた借金ではないのだから当然である。とはいえ、これが将来にわたって国民が返していかなければならない借金ということは、漠然とではあるにせよ自覚していることだろう。
ところが、見方を変えると、この莫大な借金は自分たちの「貯蓄」の「行き先」「なれの果て」なのである。これを日常から明確に意識することはほとんどない。政府もそのように説明することはほぼ皆無といっていいし、マスコミもこの観点から取り上げることをまずしていない。そんな意識を持てというほうが無理な相談だ。しかし、この政府債務の超々巨額な累積は、私たちの「貯蓄」があってはじめて可能となったのである。
青木 秀和(あおき ひでかず)
一九五五年長野県生まれ。緑の共生社会研究所共同代表。常に平場(庶民の立場)に身を置きつつ、高い分析能力と政策立案能力を兼ね備えた知識人(=ポリシー・インテレクチュアル)を目指す市民研究者。主著は、河宮信郎と共著の『公共政策の倫理学』(丸善)。エントロピー学会、ゲゼル研究会に参加。中村敦夫、川田龍平両参議院議員の政策ブレーンも務める。
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