集英社新書WEBコラム
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東京大学大学院 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)戦後日本と立憲主義・民主主義――その緊張関係を巡って

 日本国憲法が軽んじられ、その大前提である立憲主義体制が崩壊しかねない状況だ。「美しい日本」を掲げる人びとがこの動きを加速させてきた。それは国民多数の支持を得ているとはいえないものの、それなりの政治勢力となっている。こうした状況をもたらした戦後日本の思想と文化をどのように捉えるか。
集英社新書『「憲法改正」の真実』の樋口陽一氏と『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』の島薗進氏も登壇し、憲法学、政治学、哲学、宗教学などの視点をつきあわせながら討議した。その報告を一部、公開する。

登壇者:樋口陽一(東京大学名誉教授) 片山杜秀(慶応義塾大学) 島薗進(上智大学)
松平徳仁(神奈川大学) 川村覚文(UTCP)

日時:2016年6月2日(木)17:00-20:00
場所:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム

第1部前半はこちら
第1部後半はこちら

UTCP 第2部 討議

動画①:サンダース『正義とは』 ※youtubeの動画を参照下さい

動画②:SEALDs戦後70周年メッセージ ※ youtubeの動画を参照下さい

松平 いま流した動画について若干ご説明します。バーニー・サンダース陣営の『正義とは』はテレビではなくネット上で流れているものです。サンダースは巨額の選挙資金を集められるいわゆるスーパーPACをもたない主義なので、テレビで選挙CMを打つお金はありません。そこで、アート系の支持者たち――映画監督のスパイク・リーもその一人ですが――から作品を募り、選りすぐりのものをYouTubeにアップするという革命的な選挙戦術をとっています。そしてSEALDsの戦後70年動画も、彼らを支持しているアーティストたちとの協力で出来たものです。出演・脚本・ナレーションは昨年の運動にかかわった若者たちがやったのですが、音楽はあの坂本龍一さんが担当したといわれます。

 では、第2部を始めます。まずは川村さん、コメントをよろしくお願いします。

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』
中島岳志 島薗 進

『「憲法改正」の真実』
樋口陽一 小林 節

川村 第1部のご鼎談ありがとうございました。非常に多岐にわたって、かつ複雑な内容で、大変濃密な議論がなされていたと思います。そこで、いくつかのコメントというか、質問をさせてください。

 現代は、非常に錯綜した状況です。お話を聞いていて思ったのは、近代、あるいは合理性、合理主義といったものをどのように捉えたらいいのかなということです。これは特に近代日本の文脈においてということを念頭に置きつつ、ということなのですが。

 例えば、今日の日本において、立憲主義を批判している人たちが非合理主義的な人たちで、立憲主義を守ろうとしている人たちが合理主義的であるという、単なる二項対立的な話であれば、おそらく話は非常に簡単だと思います。けれども、実際の状況はそうではないと思うんですね。おそらく立憲主義に敵対的な人たち、つまり現状の統治の側にいる人達は、必ずしも非合理的ではないと思います。これは片山さんのお話にありましたけれども、例えば「電通=シュタージ」的な形で、情報の流通や人々の思考・嗜好を管理する権力として、統治側の能力が非常に向上しているという側面があります。つまり、これは一方では合理性がものすごく高まっている状況だと思うんですね。これは最近、統治性といった言葉によって指摘される権力の問題だと思います。

 その一方で、非統治者の側の政治とでもいいましょうか、つまり自分たちの代表を決める投票行動の際の動機や、インターネットなどで見られる政治的なディスコース等とか、そういった領域・問題においては、あまり合理主義的な行動をしているようには見えないところがあるのではないでしょうか。というよりも、例えば感情や情緒などの、普通は非合理的なものとみなされている要因のほうが実は高まっているんじゃないかというふうに見える状況だと思います。そういった事態に対して、やっぱりある種の合理性をもって対抗しよう、合理的に考えることの重要性を訴えよう、ということ。これが立憲主義ということを訴える際に念頭に置かれている重要性なのかな、というふうに、私は理解しています。ただ、そうなるとこれは、立憲主義がわかっている人というか、合理的に思考し熟議できる人のみが対象となるある種のエリート主義になってしまうのではないかな、というような危惧がひとつ感じられるというのが、私の素朴な疑問です。あるいは、合理的に思考できない人を、そうできるように啓蒙しよう、といったようなことを目指しているのでしょうか。

 もう一つは、例えば島薗さんは立憲主義に対して民主主義ということが重要なのではないか、というようなお話をされていたのではないかと思うのですが、ただ、その場合に民主主義をどういうふうにイメージするのかという問題があると思うんですね。例えば、民主主義がもともと西洋合理主義の伝統にあるものだとすれば、われわれがイメージすべきものも合理的なものとして民主主義なのか。もちろん、このシンポジウムでも名前が挙がったハーバーマスなどを参照すれば、非常に合理的なもの、合理的なコミュニケーションによって担保されるものとして民主主義を捉えることになるわけですけれども。しかし、ハーバーマス的合理性が批判されている事情も考える必要があるのではないでしょうか。つまり、合理的なコミュニケーションは、合理的な統治を追認してしまうだけではないのか、という問題です。そこで、あるいはそういった合理主義に回収しきれない、非合理的なものを汲み取ることができる原理として民主主義を捉え、実はそこにこれまでにない新たな可能性があるというふうに考えることもできるのか、という問いも立てられるかと思います。

 そもそも、例えば近代や合理性ということの日本の言論空間における扱いを考えた場合、これは伝統主義者というか、あるいはこれは片山さんのご専門だと思うのですけれども、例えば反動主義者といった人々からは、「いや、それはそもそも日本のものじゃなくて、日本の伝統的な美風を汚すものだから、そんなものはいらん」といったような、お決まりの批判が常に出てくる状況があると思うんですね。しかも、それがある種のポストモダン的な発想、つまり近代を相対化あるいは超克しようという発想と野合して、片山さんが少し触れられた保守的なポストモダン(ポストモダン右派)が出現するというような状況があるのではないかと思います。「近代の超克」などはその先駆的な代表例だと思いますし、丸山真男が50年以上前にすでにこの問題について『日本の思想』で触れたりしています。

 つまり、こういった形で、伝統主義・合理主義・ポストモダンをめぐる言論状況が非常に錯綜している中で、民主主義と立憲主義の問題に関して、合理性と非合理性という観点からあらためて考えた場合に、どのようなことが問題になるのだろうか、あるいは、民主主義と立憲主義の可能性をどういうふうに捉えられるのだろうかということについて、質問させていただきたく思います。

 もう一つちょっと私が考えたのは、やはり普遍とか、近代とかといった問題をどこまで立憲主義や民主主義を支える論理の中に入れるのか、というような問題があると思うんですね。そもそも普遍的な原理の問題、あるいは普遍主義というのは非常に近代主義においては強かったものだと思います。しかしその近代主義を日本の文脈に照らし合わせて考えると、そこに非常にねじれた状況というのがあると思います。それは、普通は西洋世界であれば近代がはじまり、そこで国民国家が出現し、それが帝国となり植民地主義があって、その植民地をめぐって戦争が起こる、といった形の歴史が描けると思います。そこで、たとえばアドルノが『啓蒙の弁証法』で主張したみたいに、近代的普遍主義や啓蒙主義は西洋の他の世界への支配を正当化した暴力的な原理である、と言ったような批判がされるというような状況にあると思うんですね。つまり、近代的な普遍主義というのは、そういった帝国主義やコロニアリズムだとかを引き起こした、西洋中心主義的発想というものを正当化する理屈なんだという形で批判される状況が、今日におけるある種の趨勢だと思います。これは、ポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズといった、いわゆるポストモダン左派に属すとみなされている人々が特に強く主張している議論なわけですけれども。

 しかし、日本において、ここは非常にねじれた状況になっていて、(片山さんの言葉をお借りすれば)日本は近代未完率が高いにもかかわらず、コロニアリズムの宗主国、つまり帝国であったという問題があるわけですね。つまり、植民地獲得のための戦争を起こし、そこで自分たちは他のアジア諸国よりもより優れているのだ、ということを主張してきた大変な負の歴史があるわけです。そして、そこを経由して、憲法第9条が我々に突きつけてくる問題がある、というような状況になっていると思うんです。つまり、近代国民国家が帝国化するプロセスにおいて生じた戦争への反省、というモメントが9条にはある、ということです。そうなってくると、例えば立憲主義を守ろうという主張する陣営の中では、一方で、非常に近代主義的あるいは普遍主義的な原理の問題、例えば人権だとか、立憲主義が含意する理念、といったものがまだ日本には完全には根付いていないから、ちゃんと根付かせないといけないという議論があります。しかし、その一方で、ある種のポストモダン的な国民国家批判というか、近代普遍主義への批判につながるような原理、そういった理念というのが9条には入っていて、それを大切にしなければならない、ということが立憲主義を掲げる人々の主張の中にもあるのではないかなと感じます。

 そういった中、近代なんだ、普遍なんだという主張は、そこに9条を支えるポストモダン性と齟齬を来すのではないかという問題があるのではないでしょうか。だから、そこで何とか整合性を持たせようという話で、9条の部分だけ変えればいいのだという話が、どちらかというとリベラルな人たちの議論においてあるように感じます。こういった問題について、どういうふうにお考えになるかのなと思いますので、コメントいただければと思います。

松平 どうもありがとうございました。

 私は、この種の集会で話すことはもちろん、メディア取材も原則としてお断りしています。これはもちろん考えがあってやっていることで、いまの憲法危機を招いた原因と責任は憲法学者にもある、ほんとうは社会にむかって憲法守れとエラそうにいえる立場じゃない、と考えているからです。しかし、若い学生たちに矢面に立たせておいて自分は書斎に閉じこもる、あるいは評論家ふうにあれこれいうことは教師の倫理に反する、とも思ったので、恥を忍んでこの場に出てきたしだいです。

 これは樋口-松平論争といえるほどのものではないかもしれないけれども、一言でいえば、アウシュヴィッツをどう受けとめるかということですね。「アウシュヴィッツ以降、哲学を語ることは野蛮である」というのは過言だとしても、20世紀初頭まで呪術・魔力からの解放をめざす学問と大学人のあり方で世界をリードしていた、ほかならぬあのドイツでホロコーストが起きてしまったことの意味の決定的な重大さを、法学者は真摯に受けとめるべきだと思うのです。たしかに、お詫びの表明や法的補償は丁寧にしているのでしょうが、それをこえたところでの「償還」(redemption)、たとえば戦前のベルリンやハイデルベルクがもっていたコスモポリタン的な文化と社会の回復に、ハーバーマスも含めてドイツの知的伝統は、実践をともなった応答ができていません。それができないような人文科学ないし精神科学(Geisteswissentshaft)は信用できないと思いますね。戦後ドイツでは現実の話、ユダヤ系のような他者は政治上重要な集団としては存在しません。エスニックな多様性がないところでは単一国民的な偏見からくる恐怖・反発は表面化しないので、戦う民主制だ、憲法にもとづく愛国主義だ、とだれもが好き放題にいえるわけですね。ところが、いま、平均的なドイツ人にとってユダヤ系よりはるかに「他者性」が強いイスラムを自分のアイデンティティとしている人たちが、ドイツ社会の一部を形成しています。連邦大統領と連邦宰相が良識的な発言をしているとか、そんなこととは関係なく、戦後のドイツ社会が「アウシュヴィッツの克服」にどこまで成功しているのか。それがまさにいま、問われているのだと思います。

 私は、「68年」の運動をきっかけに活性化したフランスの現代思想も、アメリカの社会科学も、ナチスやスターリニズムが突きつけた決定的な問題に、「解決」としてはともかく「省察・応答」として評価していいという立場ですが、そう考える憲法研究者は戦後の学界ではむしろ少数派です。戦後になってもなお西欧、なかんずくドイツにこだわる方々は、法学・社会学・政治経済学・制度史学が未分化であった時代にナショナリズムを所与として構築された、規範的・教条的な学問体系にアウシュヴィッツに通じる排除と浄化の毒が入っていることへの警戒は足りないと思います。これは島薗さんのご友人で、昨年亡くなった宗教学者ロバート・ベラーの議論ですが、ウェーバー的社会科学では伝統的共同体の呪術・魔力から解放された個人が「外向的超越」をする。しかし、その超越が国民国家形成の段階で自然に止まるようになっている。不思議な予定調和の理論ですね。ヘーゲルの国家法哲学もそうですが、フィヒテ、ルナン、コビノーといったナショナリズムの思想家の言説にひそんでいる、国民国家の「免疫過剰」を抑えられるようになっていません。

 ご本人の名誉のために言っておくと、樋口さんは警戒を怠らなかった少数の憲法学者の一人です。すなわち、国家への予定調和を、人権をもった国民=個人対主権をもった国民=国家の緊張関係において問いなおす一方、想像上の一体にすぎぬ後者はエスニックな集団として実在することはないという鋭い指摘をしたうえで、エトノスの国家=ナショナリズムに対抗するデモスの国家=「Nationなき国家」の可能性を提示しました。これは、自由主義とナショナリズムという近代以後に定着した、エリート寡頭制的ヤーヌスのうち、自由主義を民主主義の側にひきよせ、両者の妥協として成立した立憲主義=リベラル・デモクラシーと大衆動員的ナショナリズムの対立関係をあきらかにした意味で、日本発の比較憲法学の偉業といわなければなりません。ところが、樋口さんは同時に、日本の問題状況を念頭に、想像上の一体である主権者国民に根拠をおく権力による個人の抑圧を許す、そういう集団性のなかに民主主義のレアル・ポリティックスを見定め、立憲主義から民主主義を追い出して両者を対立させてしまいます。しかし、民主主義の集団性は、政治そのものの集団性に由来するものです。個人=自由主義一本槍の立憲主義は、自由な個人の集団的生に意味を与えるナショナリズムに太刀打ちできるはずがないので、ますますエリート寡頭制、場合によっては国家に対抗的な伝統的共同体の権威主義への依存を強いられます。その結果、民主主義の定義およびアジェンダ・セッティングをまるまる、ナショナリズムによる民主主義の解消を志向する勢力に委ねてしまうのです。

 立憲主義と民主主義は対立するものと私は思っていません。なぜなら、両者はそもそも次元の違う話だからです。樋口さんの立憲主義にとって要警戒・規制の対象である、実在する一体不可分の国民の主権も、議会制も、国民を代表する公職者の選挙も、多数決も、じつは民主主義ではなく寡頭制の要素です。しかし、ここは百歩譲って、民主主義をルソー以後の一国民主主義に限定するとしよう。その場合、現実可能な政治制度としての民主政は寡頭制ぬきには成り立ちえません。それでも、民主主義を建前としているかぎり、寡頭制的支配から排除されているもろもろのカテゴリーに属する人々が、何人も政治に参加する能力・利益があることの承認――樋口憲法学的にいいかえれば、人一般の尊厳と権利の承認――を求めてくるのは避けられません。この、デモスとはだれかをめぐる争議的・争訟的政治過程を通じて寡頭制から民主主義をまもっているのは、ほかならぬ憲法による権利保障と権力分立です。意図的に民主主義から切り離された「立憲主義」は、寡頭的なエリートによる権威主義体制の別名でしかありません。その意味で、寡頭制を維持したければ、ほんとうは立憲デモクラシーの実践をエリート自身が一所懸命しなければならないはずだ、という逆説的状況が生まれるわけです。

 私の知人でフライブルク大学教授、ラルフ・ポッシャーというドイツの憲法学者がいますが、彼によると、戦前ドイツの「立憲主義」――比較憲法学では「外見的立憲主義」とよばれているが――は、君主・貴族・軍人・官僚が国家制度の枢要を占めていた時代に、民主主義の機能的代替物として生まれたものです。これは、じつはカール・シュミット『政治的なものの概念』戦後版の序文ですでに示唆されていたことですが、要するに議会の選挙制、議会制定法による権利の保障、法律による行政、裁判所による権利救済などを実現する「市民的法律国」がきちんと機能していれば、民主主義の基盤であるポリティックスがポリス>=行政のなかへ解消されるので、民主主義はいらないという議論です。最近では、裁判所による法令の違憲審査を通じて公共政策的な政治までもが、司法官僚による法の適用に解消されるという「政治の司法化」(judicialization of politics)論が、比較憲法学でさかんに論じられていますが、政治を消えてなくなるものとしてとらえている点で同じ話です。しかし、シュミットのいう「政治的なもの」が拡散するグローバリゼーションの時代に、民主政の実践も演出も放棄するような「立憲主義」はうまくいくはずがない。寡頭的支配者による「政治殺し」に対し、寡頭制にハイジャックされた民主主義から排除されている人々が、集会・結社・デモ・表現の自由、参政権など人権および憲法上の権利行使を通じて、デモスとしての尊厳の回復を求めて声をあげる運動、これはまさに民主主義です。その意味で、日本国憲法12条前段の「不断の努力」は、立憲主義で民主主義を動かす一般的な枠組みの規定であると理解しています。

 というわけで、昨年のSEALDsの運動について憲法学者としていちばん興味深いと思ったのは、そのなかに旧帝大の学生が少ない、とりわけ法学部の学生がほとんどいないことですね。積極的に動いているのは、人文・芸術系の若者たちです。法律系の学生、そして若手の教員はむしろ、運動に冷やかです。学界の同僚に聞いたら、あいつらと一緒にされても困るみたいな空気がひろがっていると。それはあたかも、アテネ民主政を牛耳っていた貴族が平民の声を人間の言葉と認めなかった、あるいは民の声とエリートの文字表現は対等と考えなかったヘーゲルが、「民衆が、自らが望み、考えることを知らしめる非有機的な方法」としてのメディア世論でない民意の存在を認めなかったのと同じ構図です。

 私は、エリート法学部生のことはどうでもいいと思っています。かのエマニュエル・トッドも指摘したように、自分たち以外のところで個人の尊厳と人権、個人間の平等がどうなっているかには無関心で、寡頭制のなかでいかに自己実現ができるかという人が多いのはグローバルな趨勢です。そういうおめでたい方々には、ご好運を祈るとしか贈る言葉はないですね。問題は、いま運動に参加している若い人たちに憲法学者がどう応答するかです。君たちの運動は民主主義じゃなくて立憲主義なんだと、彼らから拠りどころを奪うようなことを憲法学者はエラそうにいえる立場か、ということです。多数決に還元されない一般意思の表明としての法の遵守とか、法解釈の首尾一貫性とか、憲法にはいじってはいけない部分があるといったようなことは、立憲主義そのものではなく、立憲主義の意味内容に充填された、それ自体独立した価値です。保守・右派が好きな道徳とは違うが、それでも道徳的重要性をもつ価値ですね。そうした価値をなぜ大事にしなければならないのかは、立憲主義以前の問題だと私は思います。

 したがって、立憲デモクラシーと、立憲デモクラシーの社会を成り立たせているもろもろの価値とを区別する、そういう二段構えが必要だと思います。たとえばSEALDsのコールでも、「人権守れ」って彼らは絶対いわないんです。樋口憲法学、そしていまのロースクール憲法学のマジック・ワードですが、実感のない美辞麗句をコールしても響かないでしょう。他方、途中から「立憲主義って何だ」のコールが頻繁に出てくるようになった。あれは憲法学者へのリップ・サービスだとよく冗談でいいますが、とにかくSEALDsの皆さん、大人を利用するのが非常にうまいですね(笑)。そのしたたかさにそのつど感心してしまうけれども、彼らを動かしているのはけっして立憲主義ではないのです。そんな彼らと対等に向き合えない法学者・法学徒は、権威主義的な体質もあると思うが、価値相対主義にとらわれすぎて感覚マヒになっているところはあると思います。政治的・文化的多元主義と、価値相対主義とはまったく別物ですが。

 1980年代いこう、違憲審査制を基軸とする「司法的立憲主義」が日本の憲法学界を支配するようになりました。それはとりもなおさず、戦後民主主義との別れを意味します。だって普通の人びとの声を傾聴し彼らにもわかる憲法の話をしてもしようがない、それより裁判所・裁判官に聞いてもらえるような憲法論を書けないとプロではない、という話ですから。司法府による非政治的自由の保障で十分だというなら、権威主義体制でもいいわけです。またこれは、保守・右派への一方的な休戦宣言である点で、アメリカの憲法学者でハーバード大学教授のマーク・タシュネットの造語を借りれば、「臆病なリベラルの保身的立憲主義」ともいえます。イデオロギー論争をやめて、実定法にもとづく権利主張の対立を裁判所が裁定する「法の支配」、つまり政治的に中立な立憲主義を「この国のかたち」にとりこむことができれば、保守も乗ってくれるじゃないかという甘い期待をしていたから。このように、憲法学界・実務法曹の主流は、憲法訴訟と実定法解釈論を通じてリベラルな価値を社会に定着させようとがんばってきたけれども、20年たって気づいてみると、保守・右派は歩み寄るどころか、死に物狂いになってわれわれに文化戦争を挑んでいるのです。しかも、市場国家と安保国家の時流に乗り政権を味方につけて。まさに「失われた20年」ですね。自分たちはやはりエリート寡頭制が居心地いい、それで民主主義と政治を見捨ておいて、いまさら若い人たちに「立憲あってのデモクラシーだ」と説教を垂れる立場にないじゃないですか。少なくとも私自身が、釈然としないし、憲法学者としての責任を痛感しています。

島薗 川村さんのコメントなのですが、立憲主義とか民主主義というのが合理主義、近代の啓蒙主義の帰結みたいなふうに語られてきたということですが、サンダースもモラルということを言っていましたね。あれはややキリスト教の人たち、右派に抵抗するためにわざとモラルということを言っている気配がありましたけれども、でもモラルです。それから、SEALDsの人たちは、種をまくともいいますし、それから絶望というようなことを言ったり、彼らは生き方をあらわそうとしているというか、一種実存的ですね、そういうことを表に出すことが民主主義の具体化のひとつの形だというふうに思っているので、これは私はとても重要なポイントではないか。

 それに対して安倍首相は、民主主義のルールにどうのこうのという前に、嘘ついている。あれはとても尊敬できない。そういうようなことが、今民主主義とか立憲主義というのを考えるときに、おのずからそうなってきているところがある。世界的にもそうなんじゃないでしょうか。なので、むしろカトリック教会の言っていることを聞いたほうが、民主主義とは何か、立憲主義とは何かということを考える上でともしびになる、灯台になるというようなところがある時代になってきているように思います。

 そういうことこそ文化的伝統と結びつけながら、あるいはモラルにもかかわりながら、価値観ということも言っていたと思いますね、SEALDsの人は。そういうことも含めて、立憲主義とか民主主義を理解する。ということは、立憲主義は憲法学者や西欧近代思想を勉強した人の教えるものというのではない時代に入っているんじゃないかなというふうに私は思いました。

樋口 立憲主義も民主主義も、生き方は教えてはならない、と私は考えています。一人一人が、もがいてもがいて、神様にすがるのか、自分自身で納得するものをつかまえるのかは、わかりませんが、立憲主義も民主主義も、生き方を教えてはならない。その前提をはっきりしておかないといけません。

 憲法が生き方を教えてはならないというのは当たり前ですけれども、刑法や民法などほかの法律にも「○○しろ」「○○するな」とは書いていないのです。たとえば、刑法には「人を殺した者は○○の刑に処す」と書いてあるけれども、「人を殺してはならない」とは書いていない。つまり、良心や道徳には踏み込んでいない。

 法に携わる人間はそういう限定されたフィールドで物を書いたり考えたりしているのだ、という突き放した見方をまず皆さんに理解していただきたい。

 ですから、松平さんは少し過剰な法学者の任務、あるいは憲法学者の任務を背中に負い過ぎていると思います。そんなことは関係ないのです。民主主義を嫌だという人や、立憲主義を嫌だという人にむかって、「立憲主義や民主主義を尊敬しろ」とは言えない。「尊敬」はしなくとも、公共という場をみんなで維持するためにはそれを毀すことだけはやめよう、その意味で「尊重」し合おう、というのが「近代」の約束事のはずです。それも嫌だ、という勢力にどう対処するか。立憲主義や民主主義は、立憲主義や民主主義の適用を敵に対してやめることでしか自分自身を防衛できないのか。――そう問題は、つながってゆきます。

片山 私のほうは、民主主義に関してコメントさせていただきます。民主主義といいますと、基本的には、選挙権を持っている人が、個々の生き方とかそういうことはそれぞれが尊重した上で、そういう人間が束になった社会、民主主義を成り立たしめる仕掛けはとりあえず国家単位ですから、その社会の器としての国家ということにどうしてもなってしまいますけれど、その自分の国だけのことをまず考えてみる。すると、まあ、社会的、経済的、政治的、軍事的、安全保障的諸問題について、どの問題についても最適と思える合理性のある選択というものを、主権者である国民ができる。そういうフィクションでできているのが民主主義ですね。代議制民主主義となると、その最適の選択をしてくれるはずの政党や議員を選ぶわけですが。とにかく選挙権を有する人間が、最低限義務教育を受けて、それからマスコミの提供してくれる今の世の中についての情報に接することによって、政治的判断ができるんだというのが代議制民主主義の大前提です。これはフィクションですから完全に理想通りに機能することはないにしても、ある程度機能してもらわないと困るわけで。その意味で民主主義は常に未完なんですが、選挙者も被選挙者もそれを完成させようという意気込みをもって、しかも両者がそこそこフィットしてくれれば、まあ、民主主義はとりあえず大丈夫だろうということになる。

 ですから、とりあえず選挙者が、もちろん選挙者にはいろんな立場の人が居ていいわけですが、その立場の公約数といいますか、選挙者の側の一定の欲求をかたちにして表現して公約にしてくれる候補者がちゃんとあらわれて、政党であればそういう政党がちゃんとあらわれて、選挙者としては自分の言いたいことは、この候補者が、この政党が言ってくれているなあと。思いが表現されているなあと。だからその思いを表現してくれている人に入れようと。それが民主主義が機能していると呼べる状態ですね。その点、アメリカはさすがというか、サンダースでもトランプでも、有権者の欲求を体現してそのときどきの新しいことを言う候補者がちゃんと現れて、選挙も盛りあがる。そういうふうに、あるまとまった数の有権者の欲求をかたちにしてくれる人がちゃんと出てきて、そこにみんなが、ああ、そうだ、私もこういうことを言いたかった、世の中に要求したかったと頷いて支持すると。でも、欲求がかたちになって頷いて支持しているだけだと批判や反省がないですから、そこでマスコミが機能して、ちゃんと評論したり、サポートしたり、反対したり、問題点を指摘する。そういう具合に新聞、雑誌、放送といったものが働く。そうすると、自分の欲求をかたちにしてくれている候補者が居るから安心だといったんは思っても、よく考えてみると、駄目かもしれないぞ、まずいかもしれないぞ、別の考え方をしないと、現実的には運ばないかもしれないぞと、いろいろと考え直すことができる。投票までにですね。こういうのが健全でまっとうな民主主義でしょう。

 例えば、日本の戦後の55年体制だったら、もちろん基本的に一人一人の人間を幸福にするということが大事で、1945年までの敗戦を踏まえて、ただ大事にして自己実現を、最大多数の国民が自己実現をしていくような仕掛けというのが、より自由市場的、資本主義的枠組みで実現できるのかという人は自民党を支持したし、そうじゃない、やっぱり社会主義的なことが必要だと思ったら社会党で、社会党で物足りなかったら共産党で、両方とも行き過ぎだと思ったら、じゃあ民社党とか、公明党とか、こういうような選択肢が用意されていて、ここに入れればこうなると、有権者みんなが読めたし、政党も国民のどんな層のどんな価値意識を代表しているかについての矜持があって、中長期的にみてもそんなにぶれなかったわけです。ここに入れればこの方向になるという、国民の振れ幅に対応する政党の種類があったので、政党政治としてはなかなかよくできていた。

 55年体制というのは、自民党がずっと結局長期政権でよくないよくないと政治学者やマスコミは言っていたし、問題はむろんいろいろあったけれど、その後の時代のことを考えたら、やはり相対的にはましであった。私は今、そのように判断しています。

 ともかく、どの政党に入れればこうなるということが、今と当時では世界情勢も変化したし、経済も資本主義か社会主義かの二者択一、もしくは混合というような分かりやすいことでうまい筋書きを書けなくなってしまいましたから、今に55年体制をそのまま復活させることは残念ながら当然不可能ではありますけれども、基本的にはメニューがはっきりしているものがあって、それをそれぞれ応援する、あるいは批評するマスメディアも機能していて、社会主義や資本主義が何かということも理解するような教育というものが、ある程度中学校に行って、高校に行って、あるいは行ける人は大学まで行けば、まず自分の価値観と現状とで決定的な判断ミスは、選挙のときに犯すということはちょっと考えられない。民主主義が機能しやすかったんですね。

 ところが90年代の冷戦構造崩壊以後、「政界再編だ」「イデオロギーの時代は終わった」「社会主義は敗れ資本主義が勝った」「これからは資本主義の土俵の上での政策選択の時代だ」「ほかの土俵をのぞむのは無意味だ」「アメリカ的な二大政党でいくべきだ」というような話になってきた。アメリカの二大政党制というのは、基本的にはアメリカの憲法の、「自由の女神」に象徴されるアメリカの国是を保つという意味で、コンサバティブな、どちらも根本的に革命を起こそうとしているわけじゃない2つの政党が、ある程度必要に応じて選ばれるということでずっと回るというものですね。「これを日本でも真似れば、大丈夫なんだ」「だから、政策型の政党、保守政党で、大きいのが2つできればうまくいくんだ」「イデオロギーの時代は終わったのだから、理想主義を追求するのは時代錯誤だ」といったような流れだったわけです。

 大学でも、冷戦構造の崩壊で、マルクス主義の看板を掲げて根底的変革を目指すという立場を取っていた人たちも、内心はそのままで転向せずという人も多かったでしょうけれど、みんな表向きは看板を付け替えてしまって、現状の土俵を根底からもう変えようとは思わずに、政策論的な話をする新しい習慣を身につけていったわけでしょう。その意味でみんなが保守主義者になったんですね。ところが、そのあと資本主義も壊れていった。その中で資本主義の延命を図るためと言ってよいと思うのですが、複雑怪奇な金融資本主義がしかもグローバル化してゆくなかで発達していって、どうすればもっと経済が成長するのか、いや、そもそも景気が今、よいのか悪いのかという資本主義にとっていちばんのポイントのはずの事柄すらよく分からないというまことに奇異な時代になってきたわけですね。少なくとも高度資本主義国ではそうでしょう。そうなると国民がどこに投票するとどうなるなんて古典的図式は見事に壊れてきてしまうんですね。その壊れてきた歴史の果てについにこうなってしまっていて、その処方箋をどう考えたらいいのかということが非常に難しい。

 たとえば、「どうすれば経済がよくなるんですか」とか「どうすれば福祉が保てるんですか」ということについて、学者や政治家の誰が言っていることが正しいのかが分からない。

 リフレ派が正しいのか、反リフレ派が正しいのかとか、それどころか今、経済が上向きなのか下向きなのかすら、何と申しますか、好みの問題のようになってしまっている。ある統計を選んである解釈を施すと、良いものが悪くなり、悪い物が良くなる。どうとでも言える。ほとんど宗教のようになってきている。数字で判断できるからごまかしの利かないはずの経済がそうなっている。アベノミクスが成功しているという人と失敗しているという人が居て、話が噛み合わないのが当たり前になっている。これは驚くべきことです。

 社会科学って一体何だったのか、ですね。政治学とか経済学は、みんなご都合の、自分の好みに合う人がいて、この人を支持していればいいみたいな、どっちが正しいかもよくわかりませんと。それじゃ困るでしょうといったときに、判断停止状態に陥って、朝日新聞しか見ませんとか、産経新聞しか読みませんとか、そういうふうになってしまっています。

 そうやって民主主義の実質はかなり壊れてしまっても、形式は生きている。選挙とか得票とか議席とか。数になって出てくる形式は生きて動いている。選挙で勝たなくちゃという形式だけは残っている。だから、さっき島薗先生が一番最初におっしゃった、日本会議を応援している神社本庁等々、歴史的に大本を辿れば日本会議を生み出したのは生長の家の人たちになるのでしょうけれども、そういう右派的な宗教勢力。さらには公明党、創価学会。こういうまだかたちとして残って選挙の票を確実に取れる団体がクローズ・アップされてくる。判断力を失って浮動する票は宣伝でつかむとして、基礎票、絶対入れくれる票はやはり宗教的な票ですよ。そして神社本庁や生長の家や創価学会に歴史的に共通していることといえば反共産主義・反社会主義であり、資本主義擁護ですね。人間の精神に革命を起こせば、社会主義革命という経済の仕組みをかえる革命を起こさずとも、資本主義のママで矛盾もなくなるというような考え方ですね。そういう勢力だけが政治的なかたちをもって存在して、あとは判断停止の人たちがたくさん居る。この状況は冷戦構造崩壊以後約四半世紀かけてできてきたので、簡単には直りません。残念ながら。平和主義とか理想で現実に抗するという基本的態度を根こぎされている人間が多数なので、現実的に危機ですからとか言われると、すぐああそうかなあと思ってしまう。樋口先生が立憲主義の当然の立場を国民に当たり前のこととして訴えても、もうその意味が分からないという人があまりにも増えてしまった。でも諦めずに啓蒙して対話するしかない。民主主義ですから。

 SEALDsの人たちは、私はほんとうに偉いと思うけれども、やっぱりロック歌手みたいな闘いの叫びみたいになっちゃうと、対話にならない。立場の違う人は遠ざけてしまう。もちろんデモのスタイルは強い叫びでよいのですが、それで押しても限界がある。憲法を踏みにじっているからけしからんといっても、相手は憲法をたとえ無視しても日本を守るためには他に選択肢がないと感じているのだから、そんなことはないのではないですかと、客観的に同じ土俵に立って対話して説明して、こっちのほうがいいでしょうということを説明しないと、叫んで護憲だと言っても、共感する人は共感して、しない人は遠くに行くという、それだけのことにしかならない。

 民主主義は、やっぱり選挙の票の数字であっさり決まるわけですから、そういう共感、涙のレベルになってしまっては、まずい。向こう側の人を突き崩すには、理想主義と思われているものの現実的有効性をひたすらに説明しなくてはならない。他に手はない。そんなことを言って本当に説得できるのかと言われると、うーん、難しい。すみません、なかなか建設的な話にならなくて。

樋口 私の最後の発言として、川村さんが出された一番大きな問題に答えさせてください。近代というのは何なのかということです。

 ご存じのように「近代の超克」という議論から、進んでいないと私は思います。同じことを結局繰り返している。

 私から言わせると、近代は単純化すれば2つの顔がそもそもあるわけで、ひとつの顔は西欧列強がそうですし、明治維新以降の日本は、西欧列強という先進国を後から追いかけてきたでしょう。近代の一面は、軍艦と大砲という手段による植民地主義です。

 そして、しばしばそれには宗教がくっついていた。アメリカ新大陸でのスペイン人によるインディオに対する不当な扱いを告発したラス・カサスみたいなちゃんとした宣教師もいたけれども、圧倒的にはそうじゃない。宗教は植民地主義的なものについているわけですよ。

 それと違う、もう一つの近代というのは、そういう宗教とか民族からあえて身を離した一人一人の個人の自立です。到底実際にはありそうもないようなフィクションをホッブズ、ロック、ルソーという流れで立ててきた。そういう近代がある。それは別の言葉で言えば、「考える」近代ということです。「感じる」前近代、ポストモダンと、「考える」、説明する、議論する近代というふうに私は整理します。

 だから、私は近代を死守する。そういうことをどうしてもお話しして終わらなければならない、ということです。

松平 くりかえしになりますが、立憲主義と、立憲主義によって固定された価値の選択は分けて議論すべきだと思います。平和主義とちがって、立憲主義それ自体は、あるいは民主主義それ自体もそうですが、手続的価値です。両方とも、いい結果を保証するものではないが、いい結果を生みだす基盤を維持するうえで必要不可欠とは思います。

 立憲主義とは、およそ民主主義の憲法体制であれば共通する規範的理解であり、文法です。そして民主主義は、政治に参加する当事者としての尊厳・能力と当事者間の平等を、理念ではなく論理的前提としているという点が重要です。しかしレアル・ポリティックスとしての民主主義は、多数決・議会制・世論という寡頭制的支配の3点セットによって民主主義の原理的不安定性――それをデリダがアポリア、ランシエールがパラドックスと呼ぶわけですが――を抑える一方で、民主主義の論理的前提を歪めてしまいます。そこで、二つ民主主義の間の緊張関係を調整することが、立憲主義に託されている役割だと思います。これは10数年前に長谷部恭男さんとも議論したことがありますが、内部に論理的前提とレアル・ポリティックスの矛盾を抱えているのは、立憲主義も資本主義も同じです。前者は植民地主義、後者は新自由主義です。しかし長谷部さんは、立憲主義と資本主義については論理的前提しか認めないという立場ですね。ではなぜ民主主義についてだけ、その現実の生態を強調するのでしょうか。

 それから、さきほど片山さんがいわれた、理性と感情の対立についてですが、ファシズムを生みだす集団的狂気ははたして感情の仕業なのだろうか、私にはよくわかりません。例の、人工知能(AI)がヒトラーを賛美した件がそうだけれども、じつは現時点の人工知能には理性しか入っておらず、感情がありません。ということは、AIはまさに理性にもとづく判断でヒトラーを賛美するようになったとしか考えられません。じつは、アウシュヴィッツの教訓もそこにあるのではないかと思います。というのは、強制収容所の管理にかかわっていた人たち、だれひとりとして良心の呵責にたえられず精神を病んだとか自殺したという話を聞かないですね。日本についていえば、それがポスト3・11の社会的分裂やヘイトスピーチの問題として表れているように思います。自分自身の感情に向き合うというか、自己との対話をしないまま、抑圧された情動をまず世間の常識や希望的観測でごまかそうとする。そして抑圧がきかなくなるときは、部外者への野次にすりかえてしまう――自己保存の理性のゆえに集団的狂気に順応するわけですね。これがいま日本で進行中の事態であると私は認識しています。

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(2016.08.10)

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