集英社新書WEBコラム
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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第10回 異界の不文律

 日が水平線に近づくにつれ、沖に白波が立ち始めた。前の晩はひどく荒れた。三十分ほど竿を出してはみたものの、すぐに撤収した。この日は昼ごろから凪(な)いできたので、夜釣りに期待を膨らませていたが、そんな願望に応えてくれるほど海はお人好しではない。
 二〇一七年一月初旬の伊豆大島。釣り人は旅客船が出入りする西側に点在する磯を「表磯」、東側を「裏磯」と呼ぶ。その日、私が立っていたのは裏磯の「穴倉」というポイントだった。頭上に人が一人しゃがんで入れるほどの窪みがある。それが名の由来らしい。
 ポイントへの道のりから釣りは始まっている。そこは難儀な場所だった。鬱蒼とした藪を掻き分けて下っていくと、海面から高さ十メートルほどの溶岩がむき出しになった断崖に出る。眼下の海に吸い込まれそうになりながら狭い崖沿いの道を行く。道が途絶えたところから下をのぞくと、三メートルほど下に「穴倉」の窪みがある。そこへ先人がはしご代わりに立て掛けてくれた太い古木と、岩に掛けられたロープを頼りに下りる。
 一歩間違えれば、海に転落する。先に竿と荷物を下ろし、スパイクの鋲を古木の節に掛けて慎重に下降していくのだが、ときたま足が滑って息が止まる。その窪みからまた人の背丈ほど下ったところに釣り座がある。ヘッドランプの光だけが頼りの夜間や早朝は、ときに眼下の海鳴りに吸い込まれそうな気分に襲われる。
 周囲を見回したが、釣り人の姿はなかった。風が次第に強くなり、こませを練り終えたころには、直下の海面もサラシ(波による泡立ち)に覆われていた。それでも、釣り座は海面から五~六メートルの高さにある。波がはい上がることはないはずだ。
 日が沈んだ。明日には帰らねばならないので、今晩のうちに良型のメジナを何匹か釣っておきたい。足元に何回か仕掛けを入れてみる。しかし、サラシに揉まれて仕掛けがなじまない。そこで左前方の五十メートルほど先にある沈み根(水中の岩礁)周辺まで、仕掛けを潮に乗せて流す作戦に切り替えたが、なかなか望むところへ仕掛けが届かない。
 悪戦苦闘の末、ようやく仕掛けが潮に乗った。暗い海面を漂っていく電気ウキの光をしばらく凝視していると、やがて光がスッと消えた。反射的に長さ五メートル三十センチの磯竿を煽る。グンと手応えがあり、一呼吸置いて生体反応が手に伝わってくる。この引きで魚種が予測できる。たぶん、待望のメジナに違いない。
 リールを巻き続けると、足元の波間に魚影が浮かんだ。やはり体長四十センチほどのメジナだった。ヘッドランプで照らしながら取り込もうとするが、波に玉網が引きずられ、上手く操れない。最悪竿が折れかねないが、魚を釣り座まで強引に引き抜いた。
 ボウズ(釣果のないこと)は、なんとか回避できた。その後も、同じ作戦で二枚ほど追釣した。再び餌を針に付けていると突然、腰から下にバシャッと波の飛沫が当たり、足元にあったこませのバッカン(バケツ)が水浸しになった。釣り座の高さまで、どこかの岩にぶつかった波が勢い余って飛んできたのだ。
 直撃ではないものの、危険を感じた。そこは崖の一角なので奥行きもなく、横に逃げ場もない。躊躇している暇はない。大波は連続して押し寄せがちだ。慌てて荷物を一段上の窪みのある岩場に押し上げ、自身もそこによじ登った。岩に膝を突けた瞬間、釣り座を大きな飛沫が襲い、一帯は水浸しになった。
 岩の上にしゃがんで時計を見ると、午後九時半を回っていた。今夜はここまでかなと思う。古木をよじ登るという帰路の難業が待っている。その前に一服しようと、ポケットをまさぐると幸い、たばこは濡れていなかった。空を見上げると、雨は降っていないが、ヘッドランプの光の帯に風に乗った霧雨状の波の飛沫が映る。眼下からは「ゴー」と唸るような波の低音が響いてくる。大島とはいえ、厳寒期の夜は底冷えする。煙混じりの白い息を吐き出すと、なぜ自分はここにいるのかという意味のない問いが頭をよぎった。


 戻った宿の玄関先で魚と釣り具を洗い、食堂に上がると、ベテラン客の一人と宿の主人がストーブを挟んで一杯やっていた。
 「おお、どうだった? 魚拓の準備はしなくていいか」。主人が振り向きざま、そう冷やかしてきた。食堂の天井は、多くの先人たちが釣り上げてきた巨大魚たちの魚拓で埋め尽くされている。「気長に待っていてください」と私は苦笑いして、上着を脱いだ。
 この宿には門限がない。それが釣り客たちには魅力だった。好きなだけ、夜釣りができるからだ。夜釣りは危険が伴うので普通の宿は嫌がるが、ここでは自己責任のルールが徹底されている。良質なベテラン客が多いことと、彼らを信頼する主人の度量がなせる業なのだろう。食事はいつでもとれるよう、ハエよけのネットを被せてテーブルに置いてある。
 「オレなんか、日が暮れて一時間で諦めて帰ってきた。よく頑張ったもんだ」
 島焼酎でいい顔色になったベテラン客のTさんがそう言ってくれた。Tさんは七十歳。この宿に通って三十五年の常連だ。最近は年一回、正月にまとめて数日間滞在するだけというが、その昔は月に一回は訪れ、自分専用のバイクも宿に置いてあったという。
 「こんな風向きの日はあっちの磯がいい逃げ場になる」「そういえば、遊歩道の先では十年も前はイカが際限なく釣れたことがあったが、いまは磯に下りる道が崩れてしまった」……。主人とTさんが延々と思い出話を交わしている。新参者の私には、そのどれもが興味深い。ひたすら釣りの話が続く。Tさんが何者でどんな暮らしをしているのか、私が何の仕事をしているのかといった話題は一切出ない。
 「あんた明日は何時の船で戻るんだ? 風が止んだら、朝、ブダイ釣りをやらないか。エサが余分にある。教えてやるよ」
 Tさんがそう誘ってくれた。これだけ飲んでいて、朝から釣りに行けるのかと訝ってはみたものの、好意を断る理由もなかった。
 翌朝、食堂に下りると、Tさんはもうビールを飲んでいた。「この風で磯はバシャバシャだ。釣りは無理だな」。もう、磯を見てきたらしい。


 磯釣り(上物のフカセ釣り)に嵌まって二年ほどになる。遅すぎるというか、五十歳を過ぎてからの手習いである。
 普段は東京の中央線沿いの自宅から電車とバスで、片道三時間弱かけて神奈川県の三浦半島へ通う。ときたま連休が取れれば、竹芝桟橋からの定期船で伊豆大島まで足を延ばす。数えてみたら、この二年で五十回ほど釣りに行っていた。
 子どものころは、数えるほどしか釣りはしていない。就職後、初めての支局勤務が熊野灘沿岸の三重県の尾鷲だった。ここでは地元紙の先輩記者に誘われ、ときたま船釣りに出かけた。とはいえ、それも四半世紀も前のこと。それに魚群探知機で探る船釣りと、岩場から勘を頼りに竿を出す磯釣りでは勝手が違う。
 嵌まった理由といっても、これといって思いつかないが、強いていえば、その直前に何回か、見知らぬ町で釣りのできる海辺を探して歩く夢を見ていた。福島原発事故の発生以降、四年ほどあれこれ仕事が立て込む日々が続いていたが、世の中はなかなか思うに任せず、少しくたびれていたのかもしれない。それと、私は車を持っていないので荷物の多い磯釣りなど無理だと諦めていたのだが、電車とバスで磯通いをしている人のブログをネットで見つけ、行ってみたいと思っていたのだ。
 最低限必要な初心者用の道具を通販で買い集め、最初に出かけたのが、やや荒れた日の城ヶ島。無謀にも運動靴を履いていた。当然、滑るわ、濡れるわと往生した。ただ、東映映画のオープニング映像のような波濤の景観に心が奪われた。
 とはいえ、景観だけならやがて飽きるし、ここまで足繁くは通わなかっただろう。つなぎ止めたのは、磯に集ってくる人びとの間を漂っている空気だったように思う。
 最初に気づかされた空気の特質は、釣りの技術や経験を除けば、磯での釣り人たちの関係が極めて平坦であることだった。
 ある日、三浦半島で竿を出していると、見知らぬ初老の釣り師が後ろに立っていた。こちらの釣りをじっと見ていたらしい。あいさつをすると、彼はおもむろに「いまは釣れなくても、夕方には右にあるシモリ(水面下の岩礁)沿いにでかい魚が入ってくる」「タナ(ウキ下)は二ヒロ(約三メートル)で、その一段下の平らな岩を足場にした方がいい」などとあれこれアドバイスをくれて、すぐに立ち去ってしまった。名前を聞く間すらなかった。言われた通りにやってみると、たしかに釣れた。
 初めて大島を訪れた際も、釣り宿に居合わせた七十歳前後のベテラン釣り師が宿に近い磯場を案内してくれた。険しい岩のアップダウンでこちらは息が上がりそうなのに、涼しい顔で岩から岩を渡っていく。夕方、宿の玄関先で会うと、ヘッドランプを付けたヘルメット姿で、これから高さ十八メートルの断崖からの夜釣りに出かけると張り切っていた。
 年齢を考えれば、驚異的な足腰の強靱さである。その強さの「秘密」を知ったのは、それから随分と後のことだった。この人は東京消防庁のたたき上げの元職員で、大隊長まで務めたという。とはいえ、これは私が宿の主人から聞いた情報で、当人はそんな経歴をおくびにも出さない。
 実社会での上下関係、ネットも含めた世間の評価、経済的な格差など、私たちが日常生活の中で無意識に拘束されているアイコンの大半が釣り場では無効化されてしまう。
 分かりやすい例が、あの『釣りバカ日誌』で描かれている万年ヒラ社員のハマちゃんと、勤務先の社長(のちに会長)であるスーさんの関係だ。ハマちゃんは釣りではスーさんの師匠に当たるのだが、この物語の魅力はハマちゃんがそうした釣り場での優位性を、決して会社生活に持ち込もうとしないところにある。もし持ち込めば、その瞬間、釣り場の聖域性は一気に瓦解し、白けてしまったに違いない。磯場では、お互い肩書に触れないし、聞きもしない。極端な話、仮に刑事と泥棒が隣同士で仲良く竿を出していてもちっとも不思議ではないのだ。
 顔見知りになれば、通称名と年齢、どこに住んでいるかくらいは分かってくるが、あくまで限定的だ。先に記した大島の宿で一緒だったTさんについても、私は「昔は宿に貼ってある釣り客番付で、大関を張っていた」ことくらいしか知らない。
 なぜ、釣り場では肩書などが無効化するのか。日常を忘れたいという気分も一因だろうが、それ以上に釣り場、なかでも磯場の場合、環境が釣り人に常時、非常事態に遭遇したときのような緊張を求めてくるからだと思う。
 それは災害時に似ている。あの東日本大震災の日、勤め先周辺の日比谷や虎ノ門、新橋で道行く人びとの表情が妙に生き生きとしていたことを思い出す。役人もサラリーマンも肩書なんか二の次で、その夜を明かす居酒屋の場所取りや食料の確保にわさわさと動いていた。非常時には、人の所作や思考を縛っている社会的な帰属の意味は希釈され、誰もがもっとシンプルにいま何をなすべきかという動機に突き動かされる。
 もちろん、好まざる災害と好きで行く遊びには違いもあるだろう。しかし、自然(現象)との対峙によって、人が自らの非力さを直視させられるという点では共通している。そうした環境では、実社会の肩書などノイズにすぎないし、ときに判断を誤らせる足かせにすらなりかねない。自らの力を過信し、主観的になることも危うい。
 実際、ベテランの釣り師たちはバカ話をしながら釣りの準備をしているときも、決して海に背を向けない。話をしながらも、その目はイレギュラーな波がどこまで及ぶのかといった海の表情を確実に追っている。
 客観性を疎んじれば、ツケは必ず回ってくる。こんな経験があった。コマセの入った重いバッカンは一度置くと、動かすのが面倒になる。私も波が荒れ始めたのに「大丈夫だろう」とそのまま放置し、突然来た大波にバッカンを柄杓ごとさらわれてしまった。別の日には背負子の荷をばらすのが面倒で、背負ったまま岩場を飛び越えようとして足を滑らし、潮だまりに落ちた。
 命取りにはならない程度の失敗で済んでいることに、感謝すべきなのかもしれない。学んだのは主観的になりがちな自らの甘さと、等身大の非力さだった。


 異世界への旅の体験は、しばしば自分の日常を見つめ直す機会になる。釣りにもそんな効能がある。
 たった一人の岩場で夜、波間を漂う電気ウキの光を見つめていると、ふと「記者生活もいたずらに長くなって、近ごろは人に説教を垂れるという行為に鈍感になっているのではないか」などと自問していたりする。
 そんな気分になるのは、釣り場に俗世間とは異なる価値観やそれに基づく人間関係があるからだと思う。それは旅で触れる異世界の価値観が、日ごろ無批判に受けいれている日常の価値観を揺さぶり、客観視することを促すことと似ている。たしかに釣りは個人ゲームだが、複数の人が釣り場を行き交う以上、そこには掟やルールができる。
 釣りを始めて間もないある日のこと、初めて尺(約三十センチ)を超えるメジナがかかった。片手で竿を掲げながら、もう一方の手で玉網を操って取り込もうとするのだが、下手なのでなかなか魚が網に入らない。いつバラしてしまう(魚を逃がす)か分からず、焦りばかりが募った。
 ようやくすくい上げると、すぐ後ろに玉網を手にした中年の釣り人が立っていた。それまで二十メートルほど離れた崖で釣っていた人で、こちらのドタバタぶりを見かねて手助けしようと駆け付けてくれたらしい。目が合うと「よかった。良い型だ」とだけ告げて、再び忍者のような足取りで岩場を戻っていった。
 誰かが困っていたら、名乗りもせずに助け合う。当時はそのことに驚いたが、気がつけば、自分も玉網を手に見知らぬ相手のところへ駆け付けるようになっていた。大げさなことではなく、それは作法のようなものだ。
 かつて勤務した尾鷲では年に一回か二回、荒天下に遊漁船が釣り客を沖磯に渡し、客が波に呑まれる事故があった。休漁中の漁師たちは遊漁船業者の無責任さをなじった。そうした日に磯に近い海域に船を出せば、船が損傷する恐れもある。それでも漁師たちはこぞって捜索のために船を出した。それが海に生きる人びとの掟だからだ。
 釣り人もまれにだが、事故に遭遇することがある。城ヶ島で知り合ったベテランの釣り師は「浮輪代わりに一番いいのは(魚を入れる)クーラーだ」と教えてくれた。「自分もその昔、三宅島の磯で近くの人が落水したんで、買ったばかりのクーラーを海に放り込んだことがあった。結局、その人は自力で這い上がった。オレのクーラーは沖に流されていってしまったが……」と苦笑した。いつか自分も落水しかねないのだから、他者への手助けを惜しむわけにはいかない。
 助け合いだけではなく、礼儀や行儀など釣り場には多くの不文律がある。総じて技術的に優れた人たちほど、こうした不文律を重んじる。
 例えば、後から釣り場に加わるのに、近くの人に許しを求めるのは当たり前。ゴミを捨てないことも鉄則だ。行儀の悪さを自認している私が、他人の捨てたエサの空き袋や吸い殻を拾っていることがある。環境意識に目覚めたせいではない。釣り客の捨てるゴミが原因で、釣り禁止の海辺が増えているからだ。
 メジナ釣りでは、アオサなどノリの類をエサに使うことがある。船揚げ場などに生えているのだが、ヘラなどでこそがず、手で摘むことが暗黙の了解になっている。手で摘めば、しばらくすればノリはまた成長するが、ヘラで根こそぎにしてしまうと再生しない。地元の人がアオサなどを生活の糧にしていれば、トラブルに直結する。
 いずれも不文律なのだが、そこに意味があると思う。磯場では、国籍も帰属する団体も問われない。まして個人ゲームなので自由なのだ。その分、自由人たちの倫理が問われる。倫理に基づく自治意識は個々人の自発性に基づかない限り、形骸化してしまう。つまり、明文化されないほど意味があるのだ。そうした場所だからこそ、権威や権力に寄りかかりがちな日常を内省できるのだろう。


 磯に立つたび「今日こそは大きな魚を釣りたい」と思う。
 とはいえ、釣り人は漁師ではない。取材でその昔、カツオの一本釣り漁船に同乗したことがあった。ある老齢の漁師は「相手が魚だと思ったら、十キロ近い魚はとても揚げられない。でも、魚がお札だと思えば、揚げられる」と話してくれた。若き漁労長は「あと一日粘れば、燃料費がどれくらいかかるのか。まだ漁獲量は少ないが、いまから戻った方が相場からして実入りが多いのでは。そんな計算を一日中している。毎日が博打。パチンコに通わなくなった」と話していた。プロの世界は常に数字の成果が求められる。
 だが、アマチュアの釣り人は対価を求めない。一日中、竿を振ってボウズということもある。もちろん悔しいが、だからといって「来なければよかった」と思うことはまずない。釣り人は磯に立って、海の空気に包まれれば、ただそれだけで幸せなのだ。
 実生活に戻れば、異様に気を遣う世の中が待っている。何か発言するときも内容より、他人の目にどう映るかという点ばかりが気になる。ネット世界での「いいね!」(あるいは逆に意図的な「炎上」)集めの思考は、いまや社会全体に浸透している。「いいね!」は消費者の反応だから、その論理に囚われれば、言葉も商品化の定めを免れない。
 差別扇動に対抗する「正義」の言動ですら例外ではない。そうした言動が自己プロデュースと結びついていれば、なおさら言葉は陳腐化する。誰であろうと差別問題を語ろうとすれば、わが身の差別性に向き合わざるを得ない。しかし、発言の底に自己承認欲求が横たわる限り、その肯定感が内省を妨げてしまう。それが言葉を薄っぺらにする。
 もっと言えば、戦禍の記憶や不条理な不幸さえも「商品」として扱われる世界では、受け手ですら損得計算を抜きに共感する心を制動される。
 私にとって、磯はそうした算盤ずくの世間から離れた「異界」だ。消費とも受け狙いとも縁のない、ただひたすらに個人の技能のみを追求する極私的な営み。世の人びとに釣り人の姿がしばしば偏屈に映るのは、「異界」には成果主義や市場原理といった世間の常識が通じないからだろう。
 釣り人にすれば、いくらカネを積んでも潮の流れは変えられないし、国家や市場への依存も釣果には影響がない。巷で流行する「ポスト真実」が通用するほど自然は甘くない。だから釣り人は謙虚に、そして倫理的にならざるを得ない。何ということはない。「異界」の方がよほど正気ではないのか。
 福島原発事故以来、社会は力ずくの不条理に覆われてきた。避難者の子どもへのいじめは世間の劣情の体現にすぎない。しかし、そうした狂気に包囲される日々が続けば、生身である限り、誰もが流されない保証はない。後付けめいているとはいうものの、私は自らの正気をつなぎ止めようと磯に走ったような気がする。


 二〇一七年二月某日。その日は城ヶ島の磯にいた。水温は低く、魚の食いは渋い。吹き付ける北西風に指先が凍える。しかし、磯の釣り人にとって、この季節は脂ののった大きなメジナ(寒グレ)を狙える絶好のシーズンだ。 
 〈よい子が住んでる/よい町は……〉
 午後四時、防災行政無線から、童謡「歌の町」のメロディーが流れ始めた。
 この歌を作曲した故小村三千三氏は、城ヶ島がある三浦市三崎町出身。石碑によれば、一九四七年、戦災孤児たちへの贈り物として「大きな声で歌える歌」を作曲したのだという。そんな作曲家の思いを知ってか知らずか、釣り人たちはこのメロディーが鳴り響くころから、夕まずめ(魚がよく釣れる日没前の時間帯)に備えて一段と寡黙になる。
 とはいうものの、この日は結局、午後七時に竿を納めた。乏しい釣果で岩場から離れる足取りも重かった。作家で釣り人でもあった故開高健によると、「釣人不語」(釣り師は語らないもの)という言葉があるのだそうだ。それに従えば、こんな風に駄文を記している時点で、私などヘボ釣り師を自認しているようなものだ。それでもしばらくすれば、懲りもせずまた磯を訪れる自分の姿が想像できる。
 ヘッドランプの光の先に、磯の袂で一人用のテントを張る人影が見えた。この厳寒期にこれから夜通し、竿を出すのだろうか。人が原初に立ち返れる釣り場という居場所。すれ違いざま、どちらからともなく黙礼を交わした。

(完)

 

(2017年3月20日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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