集英社新書WEBコラム
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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第9回 砂漠の団欒

 店先には消火器が数本転がっていた。店の戸には「ご自由にお持ち下さい」「FOR FREE」と張り紙されている。でも、未使用なのか空なのかは分からない。「ゴミを捨てるな」という注意書きもあった。これにはうなずけた。思わず、そこがごみを捨てたくなるような風景だったからだ。斜め向かいにある定食屋はさぞ困っているだろう。
 東京・池袋駅から一駅。地下鉄の要町駅から歩いて十分ほどの住宅街の中に「リサイクルショップ落穂拾(らくすいしゅう)1号店」はあった。二階建てアパートの一階で、店名は窓に貼られた紙に書かれていた。
 ボタンを押すと「ガラガラ」と音を立てて自動扉が開いた。他に客はいない。五百円、百円など金額ごとに棚がある。そこに無造作にオーディオアンプや冷蔵庫、鏡が置かれていた。服はどれも百円。漫画の棚もある。食器の一部だけが唯一、整理されていた。
 便利屋も兼ねているようだ。ポスターには、粗大ごみの処理は「軽トラ積み放題」「豊島区に依頼した場合の半額」と書かれている。引越しの手伝いもするらしい。
 店のツイッターはこう紹介している。『この店は革命の拠点であり、革命の同志を募集しています。東京近郊在住で定職がなく、今の社会では自分の能力が活かされていないと感じていて、何をすればよいのか分からず道を求めて苦しんでいる35歳までの男女が対象です。無給ですが衣食住は保証……』
 店の奥を覗くと、マスク姿の青年が一人、無言で服を畳んでいた。目を合わせることはなかった。
 店を出て、そこからまた十分ほど歩いた。夜の住宅街だけに人通りはほとんどない。
 一角に数軒の飲食店があった。端の店は庇が骨組みだけになっていた。店名は「イベントバーエデン」。「エデン」のツイッターによると『宗教、政治、メンタルヘルス系のイベントを常時開催中』だという。これまで「死にたいバー」「大卒無職バー」「発達障害バー」などを開いてきたようだ。その夜は講演があり、テーマは「間違いだらけのハラール認証」。講師は同志社大客員教授の中田考さん(イスラーム名ハッサン)だった。
 ハラールはアラビア語で「合法なもの」を意味する。日本ではもっぱらムスリム(イスラーム教徒)の食餌規定との関連で、食品がハラールか、もしくはハラーム(禁じられたもの)かという文脈で語られる。昨今ではイスラーム圏からの観光客の増加に伴い、飲食店などが宗教機関から「ハラール認証」を得ていることを売りにしがちだが、中田さんはかねてその認証の欺瞞性を訴えてきた。
 入場料は二千五百円。扉を開けると、店内は鏡張りでカラオケスナックのようだ。カウンターに七席と椅子が四脚。そこに客が十一人と講師、バーテンダーの青年がいた。四人の女性客は酒場には不似合いなヒジャーブ姿で、残りは生まじめそうな青年たちだった。カウンターには「黒霧島」や「CAMPARI」などの瓶が並んでいたが、レジュメとともに配られたドリンクはノンアルコールだった。
 「えー、えーと、始めましょうか。あ、いらっしゃいませー」。客がまた一人来た。
 中田さんの長い顎鬚は、しばらく見ぬ間に白くなっていた。「非ムスリムは地獄に行ってしまうので」という彼のいつもの口癖を耳にしつつ、目は正面のカラオケ装置に吸い寄せられていた。無音の画面では、元AKB48の高橋みなみがインタビューを受けていた。
 この講演の約一カ月前、中田さんの名前が再び新聞の社会面に載った。「再び」というのは以前にも騒ぎがあったためだ。二〇一四年十月、北大を休学中だった青年(当時二十六歳)が中東の「イスラム国」(IS、ダーイシュ)に加わろうとした事件で、中田さんは「仲介役」として、警視庁に私戦予備・陰謀容疑で事情聴取や家宅捜索を受けていた。
 そして今回は二〇一六年十月、彼が経営に携わっていた「落穂拾」が警視庁に古物営業法違反(帳簿不備)の疑いで家宅捜索を受けた。この件は翌々月、実質経営者の二十代のMさんが書類送検されて落着したが、捜索には公安警察も加わっていたので、真の狙いは中田さんの監視ではないかとささやかれた。
 「いやー、お久しぶりです」。講演が終わり、店の外に出ると中田さんが笑顔で寄ってきた。差し出された名刺の肩書には「神聖エデン帝国 カワユイ食品衛生責任者」とある。この店のために、講習で「食品衛生責任者」の資格を取ったのだという。バーテンダーの青年からも名刺をもらった。「神聖エデン帝国枢機卿 すごいひと」と書かれていた。
 「落穂拾」の1号店、2号店と「エデン」は、中田さんが二〇一三年に立ち上げた株式会社「東講」(旧社名カリフメディアミクス)が経営しているが、当人は「今回の事件で代表取締役も辞めた。株も昨年、Mくんや昔の学生らに譲った」と頭をかいた。「ここの家賃は八万円ほど。元はカラオケスナックで二代続けて夜逃げした物件なんですよ」
 路上の中田さんに、講演客の青年の一人が「東京ジャーミー(モスク)って信用できますか」などと質問していた。その様子を隣の小料理屋の女性が、店内からガラス越しにこっそり眺めていた。不安げな眼差しだった。
 「警察が来たり、新聞に載ったりしましたからねえ。得体が知れないと心配なんでしょう。だから、最近は『落穂拾』の店番もしていない。家賃四万五千円の部屋で、イブン・タイミーヤ(中世のイスラーム法学者)の訳をしています」。中田さんはそう苦笑した。


 中田さんとの出会いは偶然だった。初めて会ったのは一九九七年。かれこれ二十年前のことで、場所はエジプトのカイロだった。当時、私は新聞社のカイロ支局勤務で、支局のあるビルの同じフロアーに日本学術振興会カイロ研究連絡センターの事務所があった。センター長は一年交代で、そこに山口大助教授(当時)の中田さんが夫婦で赴任してきた。
 挨拶に訪ねてきた際、私の机の上にあった『週刊ゴング』を見つけるや「ちょっと借りていいですか」と目を輝かせた。彼はプロレスファンの中でも、いわゆる「U信者」(前田日明らがいたUWFという団体のファン)だった。少女漫画も好きだと言っていた。
 一九六〇年生まれだから、学年は私の一つ上。兵庫県育ちで灘中、灘高から東大イスラム学科へ進学した。貿易商だった中田さんの父は息子を「幼時より精神世界に対して特別な気持ちが強く、特殊な状態にいる」と分析していたが、それゆえの進学先だったのだろうか。ただ、東大では担当教授と折り合いが良くなかったらしく、カイロ大で博士号を取得したものの、就職先は地方大学だった。
 一九八〇年代のカイロ大留学中、大学近くの本屋で知り合ったエジプト人にアラビア語の家庭教師を頼み、その人物が非合法の武闘派組織「ジハード団」の幹部だったというのが、彼の特異な人脈形成の始まりだったようだ。
 人脈は物騒だが、権力との緊張など現実に疎い分、その行動は傍(はた)からは随分と危うく見えた。ある日、支局のあるビルの周囲に私服警官が蝟集していた。案の定、センターの事務所に中田さんがイスラーム武闘派の活動家を招いていた。状況をこっそり告げに行くと、彼は「え、本当?」と慌てふためいていた。
 帰国後の二〇〇一年、米国同時多発テロ事件が起きた。「イスラーム」、特にその「過激派」は一躍、注目の的となった。彼の研究への世間の関心も高まり、同志社大に招聘され、学者としての歩みは順調に見えた。
 だが、突然、深い谷間に落ち込んだ。中田さんの「同志」であり、敬虔なムスリマである妻の香織さん(イスラーム名ハビーバ)が二〇〇八年に病気で亡くなったのだ。
 その約二カ月後、西新宿のビジネスホテルで上京した中田さんと会った。彼は憔悴していた。妻に先立たれ、現世にとどまる意思はないが、ムスリムなので教義上、自殺はできない。本も何冊か出版したものの、イスラームへの理解は広がらない。ジハードで殉教して、妻の元に行きたいが、痛風の足ではアフガニスタンでの従軍もままならない……。
 慰めにもならなかったが、私は「絶望は早すぎる。学術書以外の版元の編集者らを紹介するので、一般向けに原稿を書いてみてはどうか」と提案した。世間での知名度の向上が、最大の理解者を失ったことによる落胆を少しでも和らげるのではないかと思ったからだ。
 その提案は後に現実となったが、おそらくそれ以上に彼を悲嘆の淵から救い上げた道具があった。スマートフォンだ。
彼は二〇一一年に大学の常勤職を辞した。退職の詳しい理由については知らない。彼は「妻が死んで、扶養するための定期収入が不要になったから」と説明するが、本当のところはどうだったのだろうか。いずれにせよ、このころから彼は急速にスマホ漬けになっていった。
ある日、彼が「私には六千人の信徒がいるんです」と話しかけてきた。ツイッターのフォロワー数が六千人を超えたのだという。冗談口調だったが、まんざらでもない表情だった。
 その一方で当時、彼は持病の痛風を悪化させ、ツイッターにも連日、痛風発作の苦しさを書き込んでいた。見かねた私や友人たちが、彼を呼び出して強引に病院へ運び込んだ。「先生、いくらツイートしても、リアルに助けに来るのは旧知の知り合いだけ。スマホ呆けからいいかげん目を覚ましてはどうか」。私たちは待合室でそう説教したが、彼はわれ関せず「病院NOW」と発信していた。
 やがて、彼はネットを介してリアルな人間関係にたどりつく。現在、彼と「落穂拾」や「エデン」を運営するMさんもその一人だった。中田さんは「神からの啓示を受けた」というMさんのツィートをアフガン支援のムスリム仲間から知り、自らMさんにツイッターを介して連絡をとり、「預言者が現れた」と吹聴して回った。Mさんは当時、新左翼系を自称する学生たちのサロン「りべるたん」と関わっていた。その後、中田さんもそこに出入りするようになる。彼は池袋の中古マンションに居を構え、ネット上では「野良博士」を自称するようになっていた。


 二〇一二年はシリア内戦で、アルカーイダ系のイスラーム武闘派が台頭してきた年である。アラブ各国からも、武闘派の活動家たちが吸い寄せられていった。中田さんもこの年と翌年、エジプトのジハード団の人脈でシリアへ密入国し、体験記を発表している。
 やがてシリアのアルカーイダ系は分裂し、イラク人が中枢を占めるISが台頭。ISは二〇一四年六月、イラク・モースルでカリフ制国家の樹立を宣言し、世界を驚愕させた。
 ISに加わったジハード団のエジプト人青年らとは別に、中田さんのISとの人脈には元生薬売りのシリア人司令官のルートもあった。日本人フリージャーナリストのT氏がシリアへ潜入し、知り合った人物だ。アラビア語の苦手なT氏が現地から日本の中田さんに電話して、その電話で初めて話したという。その後の渡航で、T氏とともに中田さんも、このシリア人と現地で対面。ISの黒旗の前で、自動小銃を構えている中田さんの写真がネット上に拡散した。
 かねて「カリフ制再興」を唱えていた中田さんは当時、ISに心酔していた。ツイッターで激賞し、IS筋の要請に応えて物資支援にも協力していた。だが、その熱狂に水をかけられる事件が起きた。先にも触れた北大生事件だ。
 ちなみにISに憎悪を抱いていた私は、そのころ中田さんと距離を置いていたので、彼が警察の事情聴取を受けたことも報道で知った。
 正直、驚きはしなかった。というのも、彼は大学人だった時代も、教え子たちをシリアのスンナ派の寺院兼教育機関に送っていたからだ。その一人が渡航する際、カイロの私の自宅に立ち寄ったことがあった。「よく改宗したね。やめたら、背教とみなされ死罪なのに」と話しかけると、「やめられないんですか! 先生からそんなことは聞いていない」と動揺され、こちらが狼狽えたこともあった。また似たようなことをしたのだろうと思ったのだ。
 警察の事情聴取の数日後、中田さんから電話があった。切羽詰まった口調で、すぐに記者会見を開いてほしい、その後、警視庁に出頭すると一気にまくしたてた。とにかく落ち着くようにと説得し、知人の弁護士を紹介した。
 当人の説明によれば、事件はこんな具合だった。
 知人の日本人ムスリムの紹介もあって、中田さんは二〇一二年に東大の戦史研究会で講演した。その際、知り合った同研究会OBが後に秋葉原で古本屋を開店。店先にシリアや中国・新疆ウイグル自治区での「求人」広告を貼り付けた。このOBは「軍事オタク」で「発達障害の人たちに衣食住を与えることが自分の使命と考えている人」(中田さん)だという。軍事と衣食住の部分で、ISとその給料制に惹かれたらしい。
 休学中の北大生と、千葉県のフリーターがこれに応募した。北大生はツイッターに「脳が改造されるメジャートランキライザーを飲んだけど健常者なので何も起こらなかった」と書き込んでいるようなタイプだ。
 二〇一四年夏、このOBから中田さんに「北大生に会ってやってほしい」と連絡があった。中田さんは「ISはキツイよ」と説明したが、北大生はどうしてもと懇願。フリーターはすでに脱落しており、中田さんは準備のために、北大生のムスリムへの改宗に立ち会った。ちなみにイスラームでは、入信に動機は重要ではない。
 渡航は八月に決まった。シリアのISと接触するためのルートは、トルコからの密入国が通常である。実際にはトルコからシリアのISメンバーへ電話し、トルコ側のIS(もしくは協力者)が手引きをする。中田さんは連絡先として、エジプト人二人、シリア人一人のISメンバーの電話番号を教えた。
 だが、北大生にとっては初の海外渡航で、中田さんは同行をジャーナリストのT氏に依頼し、T氏も承諾した。しかし、計画は頓挫する。渡航寸前、北大生がパスポートを紛失したためだ。「壮行会で友人に盗まれた」と主張し、警察にも届け出ていた。そして十月に再計画するが、実行寸前に摘発された。
 警察の介入は不思議ではなかった。この渡航は計画段階からツイッター上で半ば公然化していたからだ。


 当初、中田さんの仲介という「奇行」に世間の批判が集まった。しかし、風向きが変わる。ISに拘束され、二〇一五年初頭に殺害された民間軍事会社経営・湯川遥菜さんとフリージャーナリストの後藤健二さんの救援を、中田さんが試みていたという話が浮上したためだ。とりわけ、ISが二人の拘束を明らかにした後は政府の無策もあり、日本人としてISとほぼ唯一ルートを持つ中田さんに救出の期待が高まった(ただ、彼のルートもISの中枢には通じていない)。
 追い風はアカデミズムの一部からも吹いていた。ISを近代帝国主義の中東支配を覆す旗手とする見方が台頭し、研究の先駆者としての「中田評」が急上昇していたのだ。加えて私大の常勤教授職を捨て、在野に下った「潔さ」が彼の評価をさらに引き上げた。
 彼は一躍、時の人になった。しかし、私はしらけていた。中田さんを持ち上げ、便乗する一部知識人たちにもうんざりしていた。それは舞台裏で走り回っていたからだ。
 警察に逮捕されるか、まだ微妙な時期に彼に「救援ノート」を手渡した。この冊子には警察や検察のでっち上げを避ける心得が書かれている。公安警察にすれば、実社会に疎い中田さんは赤子同然に違いない。彼は冊子を手に「実はよく眠れず、うどんも喉を通らない」と愚痴をこぼしていた。普段、ジハードで死にたいと公言している人物が、最高刑で五年の禁錮という容疑にすっかりまいっていた。
 京都の自宅を弟子筋に譲っていたことは事実だったが、それで彼が食うに困っていないことも知っていた。経済的に余裕がある両親は彼の生活支援をしていた。
 ISはヨルダン将校の捕虜を生きたまま焼殺した。その残虐性に非難が高まった際、中田さんは焼殺を肯定するファトワ(イスラーム学者の見解)を探し、ツイートで流していた。私が「あの焼殺映像を見て、肯定する神経が分からない」と憤ると、彼は「私は流血や残虐なシーンは苦手なんです。だから焼殺のシーンは見ていない」とあっさりと答えた。
 さらにISがイラクのヤズィーディー教徒の女性らを拘束し、奴隷として売買している件でも、彼は「奴隷と言っても妻に近い扱いだ」とISを擁護した。「そもそもヤズィーディーの証言は矛盾だらけ」「私は信仰を大切にしている。ヤズィーディーの連中も信仰を重んじるなら、ISと戦って殉教すればいい」と言い放った。
 その後、日本人拘束者の件でIS側から彼の交渉提起が拒否され、逆にスパイ扱いされ始めると「ISはもうダメ。これからは(西アフリカのイスラーム武闘派の)ボコ・ハラムに期待する」と言った。
 事例を並べていけば、きりがない。学問的な知識は卓越していても、私にとって彼は「しょうもない」人である。
 しかし、そんな冷ややかな視線などどこ吹く風と、中田さんは高揚していた。「新幹線に乗っていたら、見知らぬおばあちゃんに『あ、中田先生だ』と言われちゃいまして。やはりテレビの影響でしょうか」。心底、嬉しそうだった。


 私は彼にあきれていた。
 対談本などが次々出版され、大学や経済団体、仏教団体などから講演依頼はあるものの、旧知の中東、イスラーム研究者たちは中田さんと距離を置きつつあった。アカデミズムに進んだ弟子たちもすっかり困惑していた。ブームはブームにすぎず、次第に熱は冷める。しかし、目をこらすと、そんな彼の周りを若者たちが取り巻いていた。
心酔して弟子入りしているという雰囲気ではない。なんとなく漂い、去って行く子もいる。でも、また別の誰かが来る。
 その周りとは、具体的には数年前は一軒家に暮らす「りべるたん」、現在は「落穂拾」や「エデン」である。
 「りべるたん」をよく知る編集者は「あの空間は『(ノンセクトの)黒ヘル全学連』をつくり、その拠点にする構想から始まったのですが、いつの間にか、中核派シンパと中田信者、それに窃盗などの犯歴のある青年たちの妙な宿泊所になってしまって」とため息をついた。「エデン」に出入りしたことのある若者は「あそこにいる人たちの大半は病んでいる。ドロップアウトした連中の受け皿みたいなもの」と冷たく評価した。
 遠慮のない言い方をすれば、吹きだまりだ。「革命」の二文字を掲げてはいても、ツイッター上で互いに内紛まで書き散らすなど、警戒心のなさは戯画に近い。
 数にすれば、通り過ぎていったのは二、三十人だろうか。知っている限り、彼らはぎらぎらした感情には乏しく、どこかぼんやりしていた。ツイッターの世界から這い出し、リアルな人間関係の縁で出会ったのが中田さんだったのかもしれない。世間とは異なる信仰世界というもう一つの尺度が、生きにくい彼らの目には魅力的に映ったのだろうか。それに中田さんは人の話を遮らない。本当に聞いているかどうかは別にして、話す相手を攻撃しない。それは小さな安心を与える。彼がご執心のラノベも、リアルに他人と結びつきにくい青年たちにとっては、人間関係の一種の緩衝材や潤滑剤として働いているのかもしれない。
 中田さん自身は、「エデン」にしても「タウヒード(神の唯一性)を伝える布教の拠点」と見なしている。大学に通わなくなった「エデン」のバーテンダーの「すごいひと」君には、いまトルコ語を教えているという。中田さんがトルコのエルドアン政権にいま、ご執心なことと無縁ではないのだろう。
だが、彼は周囲の青年たちについて「ムスリムになる子もいるが、まともな信徒はいない」とクールに見ている。
 それでも青年たちと一緒にいる理由を聞くと「自分が若かったころは勉強と信仰ばかりだったので、青春というものがなかった。だから、『エデン』に集まる子たちを見ていて、こういうものかなって感じて……」と神妙な表情で話した。
 彼らの空間とイスラームはさほど関係がない。彼らの周囲を歩いていて、一九七〇年代後半から八〇年代にかけて注目された「イエスの方舟」事件を思い出した。「おっちゃん」と呼ばれた主宰者の故千石剛賢氏と、家庭に居場所を感じられない若い女性を中心とした信者たちとの漂流生活。当初、教団の異様さばかりがクローズアップされたが、時間の経過とともに、世間はその集団が現代社会の虚構を映し出す鏡であることを知らされた。
 中田さんと周囲の青年たちも、そうした鏡のひとつなのだろう。大学のキャンパスにはいま、一昔前の「サークルボックス」などない。学生運動のみならず、労働組合など自発的な中間団体も衰退した。人びとが分断される中、国家や民族に自らの支えを求める者、逆に政権を非難することで自らの立ち位置を確認する者はいるが、そのどちらにもなじめない人びともいる。砂漠のような社会の片隅での奇妙な学者と世間から弾かれた青年たちの「団欒」――それがこの集団の実相なのかもしれない。
 そこには強者の論理も自己責任もない。その一方で、彼らはスマホを通じて世界各国の治安機関が標的とするような武装集団にも水脈を保っている。私たちが「絶対」と信じがちな常識や建前の頼りなさを、この片隅の団欒は映し出しているのではないか。


 講演の後、しばらくして中田さんと池袋でもう一度会った。警察に押収されていたというスマホはようやく返還され、その待ち受け画面には以前のように亡き妻の写真があった。
 長年のジハード計画はどうなっているのかと聞くと、トルコには入国禁止で入れず、足腰も弱くなってもう無理ですと笑っていた。自らのブームを振り返って「やっぱり、世の中は変わらないですね」と恬(てん)淡(たん)と話した。
 それでも、妻を亡くした数年前の憔悴は遠くなっていた。その日もこれから「エデン」に行くという。「今日はイベントでして」。二階の喫茶店を出ると、彼は手すりに掴まりながら階段を一段一段下り、やがて雑踏の向こうに姿を消した。
 寂しさの共同体。今夜もその団欒が待っている。――だから何だと問えば、その問いは我身にはね返る。
 「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。彼の後ろ姿を見ながら、私はふと故茨木のり子の詩の一節をつぶやいていた。

 

 

(第9回 了)
(2017年2月09日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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