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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第8回 極北の「持ち場」

 もうかれこれ十年ほど、便りを交換している人生の先達がいる。メールやらラインやらが当たり前のこの時代に、封書に切手を貼って送っている。
 理由がある。相手がメールの届かない場所にいるのだ。どこかというと刑務所である。具体的には徳島刑務所だ。徳島は全国的にも有数の「LB級」の刑務所。「L」はロングの略で、懲役十年以上を指す。「B」は犯罪傾向が進んでいるという分類である。
 文通相手の名前は和(わ)光(こう)晴(はる)生(お)さんという。一九四八年生まれの団塊世代で、二〇〇一年に解散した日本赤軍の元メンバーだったが、当人は一九七八年に脱退届を提出。その後、パレスチナ解放闘争の外国人義勇兵となった。私がカイロに勤務していた九七年、レバノンの首都ベイルートで、メンバー四人とともにレバノン当局に拘束された。
 二〇〇〇年に日本へ強制送還された。一九七四年のオランダのフランス大使館占拠(ハーグ)事件、翌年のマレーシアでの米国大使館領事部・スウェーデン大使館占拠事件での逮捕監禁・殺人未遂容疑で起訴され、二〇〇九年に無期懲役の判決が確定。翌年四月に東京拘置所から徳島刑務所に移送された。裁判の過程では、孤立を恐れずに日本赤軍の実像を告発し、かつての同志たちに総括を呼び掛けたことで関係者に衝撃を与えた。
 和光さんは大学除籍後、東京・新宿のいまはなき小劇場「アンダーグラウンド蠍座」で働いていた縁で映画監督の故若松孝二氏と知り合い、演出助手を務めた。若松監督が赤軍関連のドキュメンタリー作品を製作していたこともあり、その流れでアラブの地の日本人コマンド(兵士)となった。
 まだ、現役コマンドだった当時の和光さんに、私は一度だけ会ったことがある。たしか九〇年代の半ばごろのことだ。レバノンのベカー高原にあったPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の拠点を訪ねた。案内役の気のいいパレスチナ人兵士が、頼みもしないのに前線基地にジープを走らせた。ほどなく到着した赤茶けた山の斜面に軍服姿の和光さんが立っていた。「あーあ、連れてきちゃったんだ。オレは会っちゃまずいんだよね」と苦笑しながら、傍らの穴を指さして「これは一昨日のイスラエル軍の爆撃跡」と説明してくれた。


 二〇一六年の米大統領選では、没落した白人の中下層労働者層の排外主義的な憤りがトランプ旋風の原動力になったと語られた。そうした空気は米国や欧州のみならず、閣僚が警官の「土人」発言を擁護する日本にも共通している。ただ、日本の場合、米国ほど怒りのベクトルが既得権益層に向かわない分、その病巣は一段と深刻に見える。
 憤る人びとの典型的な思考は「自分が不遇なのは○×のせい」であり、保身のために自分よりも弱い立場の○×を叩きたがる。叩かれた者も鬱憤晴らしに、より弱い人たちを足(あし)蹴(げ)にする。ヘタレた感情の連鎖。だが、その連鎖にも端がある。声を出せず、堪えるしかない場所。日本社会ではいま、刑務所はそうした場所に位置する。
 刑務所での日常は、塀の外にはなじみが薄い。私も海外で何回か、官憲に留め置かれた経験があるが、日本の刑務所で暮らしたことはない。
 和光さんが下獄後、最初に入った房は八人用の雑居房だったという。広さは畳十畳に板の間が二畳、半畳分ほどのトイレ、そこに蛇口が三つある流し台があり、壁には各人用の本棚、衣類棚が括り付けてある。収容者は和光さんを含めて六人で、そのうち半分が無期懲役。和光さんを除き、全員七十代で読み書きの苦手な人が少なくなかったという。
 懲役には作業(労働)が科せられるが、徳島刑務所には十数種類の「工場」がある。和光さんが最初に配属になったのは、プラスチックやビニールなどの半製品材料を組み立てる軽作業の工場だった。就業時間は午前八時から午後四時。昼休みは四十分で、午前と午後にそれぞれ十五分の休憩がある。
 受刑者は一類から五類までの等級に分けられ、最初は五類からスタートする。品行方正な期間が長いほど昇級する仕組みで、「二類と三類の人たちは月一回、工場内の食堂で自費購入の四百円相当のお菓子と飲み物にありつける集会に参加できます。その間、四類以下の人たちは歌番組のビデオの音が食堂から聞こえる工場内で、黙々と作業に取り組んでいるのです」(二〇一一年四月の手紙)。
 だが、この等級は上がるばかりでなく、ときに下げられる。四十八にも上る些末な規則(禁令遵守事項)に違反すれば、行為によって程度の差こそあれ、転落する。では、どんな規則があるのか。
 和光さんの経験によれば、例えば服のそでまくり。トイレ掃除で腕が濡れたのでまくっていたら、反則切符の指導票(Cランク)を切られた。Cの指導票を三枚切られるとDの票になり、そのDが二枚で昇級に影響する。本を重ねていたり、パジャマをハンガーではなく布団に置いていてもCの指導票が切られる。
 工場での会話禁止もそうだ。昼食時も六人掛けのテーブル内でしか、会話をしてはいけない。終業時、顔見知りに「お疲れさん」と声をかけることも違反になる。同じ房内であっても、雑誌や本の貸し借りは違反だ。言い訳は「抗弁」扱いで懲罰になりかねない。
 和光さん自身、一発で懲罰(一週間の独居房入り)になったことがあった。食事の際、隣の高齢の受刑者が食べきれないご飯を和光さんの丼に入れた。それを食べた時点で、二人とも「物品不正授受」の現行犯とみなされた。刑務官は常時、廊下を巡回しており、目を光らせている。
 外部との交通も厳しく制限される。面会は現状では事実上、親族のみ。彼の場合、徳島に立ち寄った若松監督や弁護士までもが面会を拒まれている。手紙についても、発信は親族以外には事前に「特別発信願」という願箋(許可を求める書面)が必要だ。発信回数の上限は等級によって制限されており、徳島の場合、五類で一カ月四通、四類で五通、三類で七通、二類で十通だという。それだけに手紙を出す側も、返事を安易には期待できない。
 発信は検閲付きだが、これは受信も同じで、受け取る手紙の数に制限こそないものの、内容次第で受刑者当人に届かない。この際、誰からの手紙が不交付になったのかも告知されないという。例えば、徳島に無期懲役で収監され、冤罪を訴えて再審請求している中核派活動家に関するチラシや記事は一切渡されないか、黒塗り扱いにされている。こうした検閲の対象は手紙のみならず、購入書籍や新聞記事にも適用される。
 ちなみに作業の報奨金(労賃)は極めて安い。ここでも格付けがあり、十等工から始まって最高は一等工だが、十等工の時給は六円六十銭(二〇一三年七月現在)。一等工でも四十七円七十銭にすぎない。この額は、塀の外の法定最低賃金の十分の一にも満たない。この結果、「服役五年ほどの人が満期出所する際、所持金が数万円しかない。どうやって社会復帰できるのでしょうか」(二〇一三年七月の手紙)という状況が生まれる。

 受刑者の著しい高齢化も、現在の刑務所を象徴している。「厳罰化、長期刑化がエスカレートした結果、刑務所は特別養護老人ホームの代替施設と化しています」(二〇一〇年七月の手紙)。法務省によれば、一九八九年に入所した六十五歳以上の新規受刑者は三百十五人(1.28%)だったが、二〇一五年には二千三百十三人(10.73%)に膨れている。政府は刑務所に介護専門員を配置する方向で動いているが、少なからずの人びとが刑務所で生涯を終えるという現実についての本質的な議論は聞こえない。

 塀の内外での管理強化と厳罰化。そこでは人権意識など紙風船に等しいのが実状だ。約十年前、そうした状況を変えようという試みがあった。
 一九〇八年施行の監獄法を約百年ぶりに改定し、二〇〇六年五月に施行された「刑事施設・受刑者処遇法」がそれだった。この処遇法は翌〇七年には対象を受刑者のみならず、拘置中の被疑者、被告人、死刑囚にまで広げた「刑事被収容者処遇法」に改定された。
 きっかけは〇一年から翌年にかけ、三人の受刑者たちが刑務官の暴行で死傷した「名古屋刑務所事件」だった。刑務所の闇が塀の外からも注目され、法務省は行刑改革会議を設立し、そこでの議論が法改定につながった。
 改定の理念は「開かれた刑務所」。交通の対象を親族以外にも拡大し、受刑者による外部への不服申し立て制度も新設した。弁護士らを含めた第三者委員会「刑事施設視察委員会」を各地に設けた。これにより、塀の中の風通しが少しはよくなるだろうと思われた。
 たしかに一時的にはよくなった。〇七年には交通違反、選挙違反などの初犯者だけを対象に、官民協働の職業訓練施設「社会復帰促進センター」もつくられた。しかし、こうした改革の流れは一年も続かなかった。まず、刑務官らが不満を募らせた。新法により面会の立ち会いや検閲の増加など仕事の総量は増えたが、刑務官らの数は増えない。つまり、忙しくなったのだ。
 不服申し立て制度も不発だった。作業は事実上、各地の弁護士らが担ったが、何百もの申し立てが殺到すれば、本業に支障が出る。その結果、申し立てても大半が却下された。視察も形式的にすぎず、受刑者の日常には目が届かなかった。
 すぐに逆流が始まった。法務省矯正局は〇七年五月、局長名で通達を出している。内容は塀の内外の交通の厳格化で、暴力団員が獄中の仲間に連絡を試みたことを理由に再び制限を強化した。通達後、各地で新法によって新たに面会できるようになっていた人たちの許可が相次いで取り消された。
 例えば、岐阜刑務所では二〇一〇年九月から、親族(養子縁組を除く)以外で面会できるのは受刑者が事前申請し、刑務所側が「更生に役立つ」と判断した人のみと規定された。手紙についても、府中刑務所では一行の字数は約三十字、便箋七枚以内と制限された。
 各地で不満が噴出したが、新法であっても条文上、面会は「刑事施設の長は…許すものとす」機会であり、信書に関しても「管理運営上必要な制限ができる」という法的根拠が書き込まれている。つまり、新法も「受刑者の権利」ではなく、「お上のお許し」の拡大にすぎなかったのだ。
 こうしてほんの一時期、開かれかけた刑務所の門扉は、再び固く閉ざされた。
 ちなみに世界的にも悪名高いイスラエルの刑務所では今年八月、収容されているパレスチナ人囚人二百八十五人が待遇改善などを要求し、集団ハンストに突入した。この結果、当局に裸体による身体検査の中止、テレビのニュース番組のチャンネル増などを認めさせた。日本の受刑者から見れば、夢のような話だ。日本の矯正施設の人権状況は、このように世界的にも極めて低い水準にある。


 和光さんは六十一歳のとき、徳島刑務所に身を移した。たとえ望まぬ環境であろうとも、そこが終の棲家になるかもしれない。だとすれば、自らの主体性を失わないために、どうその場所で生きていくべきなのか。移送された時点で、彼には逆境を逆手に取る思索と判断が迫られたのだと思う。
 「生まれて初めてカラオケというものを経験しました。体育館兼講堂で三十分間運動できる日が月に何回かあり、そのうち一回は希望者数名がマイクを手にできます。満期出所となる人がいて、その歓送ということで何人かが歌うことになり、私も声をかけられ参加しました。歌ったのは河島英五の『時代おくれ』(笑!)」(二〇一二年六月の手紙)
 彼は境遇に背を向けるのではなく、受刑者の間になじみ、溶けこもうとした。支えたのは一つの意思だった。居場所づくりである。
 「とにもかくにも『居場所』『持ち場』は必要なのですね」(二〇一一年十月の手紙)
 「塀の中をいかに更生への拠点、囚人が自主性をもち、元気におツトメするような『居場所』にしていくのかということを考えているのです」(二〇一五年十一月の手紙)
 人と人との関係で編まれる居場所という空間に固執したことには理由があった。その根っ子には、全共闘運動から始まった自らの運動経験を振り返っての反省があった。
 刑務所への入所当初、同房の五人の受刑者の名前がなかなか覚えられなかった。アラブでの二十数年間、その後の東京拘置所の独房での約十年間、人の名前を覚えない、覚えなくてもよい生活に慣れていたためだ。そうした自らの社会性の欠落に気づいて、思わず呆然としたという。
 「六〇年代以降の活動家であった時期を思うと、どうにも『社会人』たりえていなかったなあ、との深刻な反省に立たざるを得ません。『社会主義』を掲げ、『社会革命』を求めていた主体が、社会人たるための基本である『家庭・地域社会・学園・職場』等での人間関係をしっかり築けていなかったし、結果として、どこにも足場、基盤をつくれずにいたわけです。今あらためて、『まず社会人たれ』を自らのモットーとせざるを得ません」(二〇一〇年九月の手紙)
 「『失われた二十~三十年』に、旧『新左翼』勢力はなんら対応策をとれないままでした。この限界は何に由来したのか。『活動家』一人ひとりの非社会性を問う必要があります。(略)活動家諸個人が政治闘争に関わる中で『反権力』と『反社会』とを混同し、取り違えるような事態を生み出しました。(略)万引行為などをよしとするような倫理道徳上での、人としての退廃もあらわになったりしました」(二〇一五年十二月の手紙)
 獄中で受刑者たちが手を携える試みは過去にもあった。新左翼運動系の政治犯が多かった一九七四年には、処遇改善要求を掲げた受刑者団体「獄中者組合」(分裂後、一九八五年に『統一獄中者組合』として再統一)が結成されている。しかし、現在も解散こそしてはいないものの、「組合」は獄外事務局によってかろうじて支えられているだけと聞く。
 七〇年代と比べて、現在の管理ははるかに厳しい。大半の人が一生、自分は塀の中とは無縁と思いがちだが、そんな保証はどこにもない。にもかかわらず、自己責任論が猛威を振るう今日、受刑者に対する世間の見方は格段に冷たい。しかし、塀の中の居場所づくりが指向される必然的な根拠はある。
二〇一六年版の犯罪白書によると、出所者の約四割が五年以内に再び罪を犯して入所、とりわけ六十五歳以上の六割超が出所から一年未満に再入所している。厳罰化と不景気で受刑者は増え、刑務所内は過密化している。それがトラブルを引き起こす一因になっている。刑務官の負担は重くなり、交通制限など管理強化に走るが、外と隔絶すればするほど、受刑者の出所後の行き場は狭まる。その結果としての再犯増。そして、一層の厳罰化。更生とはかけ離れた悪循環のループは、もはや行刑当局のみでは断ち切ることができない。受刑者の自主性と更生を結びつけるしかない。


 社会性の回復と居場所づくりの地ならしのために、和光さんがまず自らに課した目標は「プロの囚人」になることだった。
 「まずは五年、十年単位での年季を雑居房で積んでいくことによって、他囚や刑務官から『古参』『古株』と認められることを目指します。(略)そうなることができて、初めてより能動的にプリズン・ライフを構築していけるでしょう」(二〇一〇年九月の手紙)
 彼は自らの不運を愚痴るのではなく、与えられたコミュニティの一員になることで、自分の位置を客観的に把握し、積極的な姿勢に転じようとしていた。やがて現実に深く身を沈めるにつれ、矯正行政の問題点を確実に把握していった。
 例えば、規則についてこう考えている。
 「入所以来、四年八カ月が過ぎ、ようやく理解できたのが『矯正指導』とは『調教』の強制だということです。万事、号令で始まり、命令・叱声・怒声・罵声で進められ、一日が終わる世界です。そこでは号令に注意を集中させ、犬の条件反射の如く即応することが問われます」(二〇一四年十一月の手紙)
 命令や罵声は規則に基づくが、その規則はケンカなどが起きるたびに増えていく。その結果、「統制や規則が微細にわたり、厳しすぎること、叱声、怒声がとにかく多いことなどから所内の空気がギスギスしています」「(画一的な規則増が)何か問題を起こしたら、全員に連座責任を負わせるという発想によるものであるとしたら、まったく逆効果にしかなっていないことは『ケンカ事犯』の拡大増加という事実によって明らかになっています」(二〇一五年二月の手紙)と分析する。
 「徳島で六年が経過し、このところ自分でも妙に思われるほど気持ちが沈静化しています。(略)塀の中のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)の一員になってしまったのかもしれません。管理統制する側、される側、怒鳴りつける側、られる側…。ただし、これは猫をかぶって、犬のように従順にふるまっているだけのこと。出所してシャバの風に吹かれたら、猫の皮はすぐはがれます」(二〇一六年六月の手紙)。規則を増やしても更生にはつながらない。これが結論だった。
 面会や手紙の交通権の制限も逆効果でしかないとみる。年長の無期囚三人と過ごした体験を振り返り、「皆さんは長期の服役にもかかわらず、実に元気いっぱい。日課の体操、書道、読書などで過ごしていました。その活力は三人とも塀の外の肉親、知人、友人といったつながりが支えになっているという事実を認識しました」(同)と記している。
 「つくづく感じ入っているのですが、獄中者にとっては塀の外で自分のことを気にかけて下さっている方々がおられるということ、それがとても強い支えになっているのです」
ただ、居場所づくりにつながる道筋は少なくとも手紙には記されていない。でも、こんなエピソードが紹介されていた。
 徳島刑務所では二〇〇七年十一月、暴動が起きている。ある医官が症状とは無関係に、患者(受刑者)の肛門に指を入れるといった虐待行為を繰り返していたためだ。和光さんが収監される以前のことだが、彼はこのことについて「暴動の折りにはリーダー格の人が『無期の者は関わるな。満期が近い者、短期刑の者は加われ』と呼び掛けていたらしいです。『無期』の受刑者は『仮出所』になることへ希望を抱くしかなく、その実現のためには『無事故』でおツトメし続けることが前提となるからです」(二〇一二年八月の手紙)と書いている。受刑者同士の配慮に共同体の萌芽を感知したのだろう。
 とはいえ、現場での規律は厳しさを増すばかりだ。二〇一五年四月以降、工場への出入りの際に裸で受ける身体検査(通称「看々踊り」)が強化された。従来は両手の表裏と足の裏を見せるだけだったが、新たに脇の下、口中、左右の耳、さらに片足ずつ足を後ろに振り上げるよう指示されているという。


 「今後は塀の中を自らの『持ち場』とし、そこでできること、やるべきことを果たしつつ、時代に関わり続け、未来を見つめ続けます。塀の中に骨を埋める覚悟で元気に出発します」(二〇一〇年四月十一日)
 和光さんは徳島刑務所への入所直前に東京拘置所で執筆した著書『日本赤軍とは何だったのか』の後書きにこう記した。不屈の意志といえば美しいが、彼とて生身の人間である。まして「骨を埋める」は比喩にならない。彼が背負っている無期刑は今日、事実上の「終身刑」と化している。
 厳罰化の流れを受けた二〇〇五年の刑法改正で、有期刑の上限が三十年に引き上げられたため、無期囚の場合、三十年は服役しないと仮出所の審査対象にならなくなった。実際、二〇一六年十一月の法務省の発表によれば、前年末現在、全国の無期囚は千八百三十五人で、平均服役期間は三十一年六カ月に達する。この年に仮出所した人数はわずか九人で、逆に獄中で亡くなった無期囚は二十二人に上る。
 まして和光さんら政治犯は、検察が「マル特」と呼ぶ「死刑に準じる凶悪犯」の扱いを受け、より条件が厳しい。一例を挙げれば、連合赤軍事件で無期の判決を受けた吉野雅邦さんは、すでに千葉刑務所に三十三年(二〇一六年二月現在)もの間、服役している。その誠実な人柄からか、刑務所内の養護老人ホームともいえる「養護工場」を担当して約二十年になるが、いまだ仮出所の兆しはない。
 七〇年代初頭の爆弾闘争にかかわり、懲役二十年の刑で九〇年代まで岐阜刑務所に服役した知人のSさんは「自分の場合、満期出所までストレスを溜めないよう、古典ばかり読んでいた。当時は無期といっても、十六年くらいで出る人が多かった」と振り返る。
 「でも、いまは状況が全く違う。ゴールのある有期とない無期はまるで別物。正直、無期のしんどさは自分には想像もつかない」
 二〇一六年七月の和光さんの手紙には、こう記されていた。「私がいる工場で、六年ほど前まで糖尿病から失明に至ったお年寄りが介助の人に助けられながら造花組み立ての一工程だけを手探りでやっていたのだそうです。この人はその後、高齢者用病棟入りとなり、症状が悪化して転送された大阪医療刑務所で、身寄りの人の看取りもなく亡くなったとのことです。他人事とは思えません」


 服役して六年半。当初抱いていた、爆弾が降ってきたり敵襲があるパレスチナの兵舎に比べれば日本の刑務所はましという興奮が、数年間の修業期間を経て「プロの囚人」としての自覚を持つに至ったという。最近の手紙には、白内障の手術を受けて視力が回復したと淡々と書かれていた。時の経過とともに、和光さんの心模様も移り変わっている。
 ただ、それでも変わらないのは居場所づくりの視点だ。あらためて、刑務所という隅々まで管理監視された環境で、それは可能なのだろうか。
 Sさんは「具体的にはお上の許す範囲内でやるしかない。異議を唱えれば、独居房行きにしかならない。良識ある刑務官もいるが、それでもシステムは超えられない」と語る。
 究極の空間。ともすれば、無期刑の重みもあって自暴自棄にでもなりそうなものだが、和光さんはぶれない。その一因は刑務所という環境の認識にあるのかもしれない。
 「刑務所は社会の縮図とこれまで言われてきたけど/今じゃ社会全部が刑務所化/監視カメラがここかしこ/リストラ・パワハラ・雇用不安/奴隷労働・低賃金・格差拡大・貧民増大/地球全球・生き地獄/誰も彼もが獄中者」(二〇一三年七月の手紙)
 状況の厳しさに強弱はあれ、同じ社会の一部である限り、彼にとってはそこが与えられた仕事の場なのだろう。手紙には書けない生身の苦悩もあるに違いない。だが、そんな周囲の穿鑿を圧倒して、伝わってくるのは彼の不屈の意志である。
 人と人との関係に成立する居場所は自然には発生しない。そこには関係を編む意思を持つ個人がいなくてはならない。それは塵が核となって、次第に星を形成していくようなものだ。そうした意思を持つ人には居場所の風景をいま見える視野の先に空想する力が求められる。
 いま、私たちが漂っている世界とは異なる匂いがする空気。そんな居場所へ導く灯火を和光さんは掲げ続けている。刑務所での居場所づくりは困難を極めるだろう。しかし、刑務所のそれとは別に、怠惰に流されがちな私への叱咤でもある彼の生き様は、塀に象徴される人と人との分断を超えた、いまだ見ぬ居場所の原型を示唆している。

 

(第8回 了)
(2016年12月16日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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