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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第7回 食堂が紡ぐモノ

 その日、おかわりの一番人気は「いとうさんのからあげ」だった。古今東西、子どもたち、なかでも男の子は肉と油に目がないのだ。そう確信しながら、目の前の麺同士がくっついて絡まっているソーメンの塊を飲み込んだ。
 二十畳ほどのスペースに六人掛けのテーブルが四卓、空いた場所に受付の会議机や玩具が置いてある。テーブルには冬瓜(とうがん)に糸を結んだハート形の風船が浮いている。奥の厨房では五人の女性たちが食事の準備をしていた。
 相模原市の生活クラブ相模原センター(配送センター)の二階にある会議室。九月の平日の夕方、閑静な住宅街の真ん中にあるその場所で、五月から八回目になるという『「あいおい」みんなの食堂』が開かれた。昨今話題になっている「子ども食堂」の一つだ。
 午後三時にスタッフが集まり、四時半に開場。食事は五時半からで、七時半には後片付けを終えて閉める。参加資格は子どもに限らない。食事代は原則、大人が三百円、中学生までが百円。ホワイトボードに書かれた当日のメニューには「やまぐちさんのかきあげ、じゅんちゃんのとうにゅうプリン……」と、調理した人の名前が付いている。
 四時すぎに小学四年生の妹と六年生の兄が現れた。兄より背の高い妹は見学に来た若い女性とトランプの「スピード」に興じている。「いま、小学校って何が流行っているの?」という女性の問いに、ポツリポツリと答えている。「五時までしかいられないから早く食べさせて」と小学校高学年の男の子が駆け込んできた。母子の親子連れも訪れた。
 受付も含めて七~八人のスタッフは一人を除いて全て女性。その母子の空間で、バルーン・アートなる風船による装飾を生業としているボランティアの男性が孤軍奮闘、風船芸を食事前の子どもたちに披露していた。
 やがて全員が着席し、スタッフの一人が「今日、初めて来てくれた○○君が『いただきます』をしてくれます。それではご一緒に」と声をかけ、食事が始まった。視察に来た民生委員たちもいて、子ども食堂ながら参加者は大人が二十人、子どもは十一人だった。
 子ども食堂は家で十分な食事が取れていない子どもたちを主な対象に無料、あるいは低料金で食事を提供するという催しだ。定期的に開催されている場所は、全国ですでに三百を優に超しているといわれている。
 この相模原の食堂は生活クラブ生協が場所を無償提供している。というより、生協の組合員たちの声で始まったのだという。業務用並みに広い厨房は、かつて生協の調理会で使われていた。子ども食堂の活動日誌には「片付けの際は一般参加者だけにしない」など、長年の生協活動で養われた気配りが書き込まれていた。
 こうした社会活動の蓄積のある団体ではなく、会場を空き店舗や教会、寺院、会社の事務所、個人宅などに設けて、草の根の有志で運営しているグループも少なくない。資金は自治体などの助成を受けている場合もあれば、丸っきりの手弁当というケースもある。食材は農家や食料品店などから現物カンパを受けているグループが多い。
 開催回数も千差万別だが『「あいおい」みんなの食堂』は月に二回。月初めに会合を開き、メニューなどを決める。「スタッフもおいしいという声を聞いて、社会の役に立っているという充足感を得られている」(広報担当のJさん)。食事だけでなく、希望する子どもに学習支援をするところもある。


 敗戦から七十年余。この社会に食べられない子どもたちがいる。この単純な事実に、私はうろたえた。最初は実感できなかった。このことの重大さに比べれば、近隣諸国の核実験など私にとっては大した話ではない。
 半世紀前、横浜の京浜急行沿いにある工場労働者らの長屋(社宅)で育った。玄関先には近隣数軒分の代表電話があった。当時は電話のない家が少なくなかったのだ。そうした環境でも、食べられない子がいたという記憶はない。いまに比べれば、はるかに貧しい時代だったのだろうが、母が忙しければ、隣の家でご飯を食べたし、その逆もあった。
 学生時代に日雇い労働者の寄せ場で、炊き出しを手伝ったこともある。しかし、寄せ場と距離のある住宅地の一角で、子どもたちが飢える時代が来ようとは予想もしなかった。
 私は子どもがいないせいもあって、子どもと向き合うことが苦手だ。なぜ、食べられないのか。それを初対面の子どもに尋ねられるような度胸はない。それにどれだけ悲惨な話を聞かされても検証のしようもない。
 それでも、ある重大な問題があり、その事実を露呈させている現場があるのに無視することはできない。何も立派な倫理観からではない。三十年の記者生活でこびりついてしまった性癖に近いものだ。
 食事が終わり、子どもたちがテーブルから離れ始めたころ、残っていた小学三年生くらいの少年に「どうだった?」と聞いてみた。少年はしばし間を空けて「おいしかった」とぼそっと言った。その後、席を立つ間際「でもカレーが一番うまい」と小声で付け加えた。


 「子ども食堂ね。あれで問題が解決されるような言い方をされるとムカつくけど」
 ひとり親の当事者団体「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の赤石千衣子さん(「さん」は余所行きで、通常は「姐さん」と呼んでいる)は、いつものゆったりとした口調ながら、この日も核心にズバッと切り込んできた。
 「結局、親の貧困の深度が深まって、ついに食べられない子どもまで出てきたということ。貧困というのは単純におカネの問題だけでなくて、それで精神を病んでしまったというような余波も含まれる。いずれにせよ、親の生活の立て直しが必要なんだけど、それがどんどん難しくなっている。特に母親は自分の親の介護を背負っていたり、働く形態も非正規ばかりで低賃金。そのうえ、社会保障も脆弱になる一方。その全てを変えないと、解決には届かない」
 「相対的貧困率」などの統計をここでは繰り返さない。ひとつだけ挙げると、女性がひとり親の家庭の平均年収は二〇一〇年に二百二十三万円(このうち、就労収入は百八十一万円で、残りは児童扶養手当や養育費など。厚生労働省調べ)。注意すべきはこの額が「平均」だという点だ。より深刻な事例はあまたある。
 収入の問題だけではない。現代の貧困は認知されにくいという意味で、一昔前よりたちが悪い。例えば、食費を削ってでもスマホを持ち続けるケース。スマホが求職活動に必要なためだが、一見「スマホを持っているくらいだから余裕がある」と誤解されかねない。親がメンタルを患って、家事を放棄している例もある。これも子どもにとっては「飢え」に直結するが、外からは見えにくい。『「あいおい」みんなの食堂』のJさんはこう振り返った。
 「子ども食堂を始める前に、組合員同士の集まりでこんな話が出た。ある人は公園で身ぎれいな格好をしている小さな子に『おばさん、パンを買ってくれない?』と突然、ねだられて驚いたことがあった。別の人は六歳か七歳の子が夕方、保育園に弟や妹を迎えに来ているのを見かけたという。本当は大変な事態が進行しているのでは、というみんなの心配が、子ども食堂を始めるきっかけの一つになった」
 そうした可視化されない貧困の怖さは食堂を始めた現在も感じるという。「ここに来る子たちの親はまだ大丈夫。自ら情報を得るリテラシーがあるから。本当に来てほしい対象はここを知らない、足を運べない人たちです」
 私が座っていたテーブルに、高齢の男性がいた。白いシャツにプレスされたズボン。同席していたバルーン・アートの青年が自らの仕事について紹介すると、「戦争中には『風船爆弾』というのがあって……」と会話に加わった。近くの市営住宅に独り暮らしで、訪れたのは二回目。最初は回覧板で知ったという。
 「あいおい」では、あえて「子ども食堂」という名称を付けていない。それは地域のあらゆる人びとに対して、開かれた空間を目指しているためだ。Jさんは「いまは子どもの貧困が注目されているけど、独居老人の問題も深刻。『大人食堂』が必要になるのは、時間の問題です。そうした事態に対応するには、自力でネットワークを編み込んでいくしかない。この食堂も世代を超えて、見知らぬ者同士が出会える場所に育てていきたい」と展望した。
 あえて強気を装えば、こうした試みは国や地方行政の不作為を世直しの好機に転じることにつながる。仰々しく言えば、それは地域共同体の再建であり、自治権力の構築でもある。「あいおい」の場合、メニューの選択や食材の調達などにしても、上からどうこうと命じるのではなく、時間がかかってもスタッフ同士の対話を重んじている。そうした人びとのやりとりが自治の力になると信じるからだ。小さな食堂の底に壮大な計画が透けて見えた。


 「あいおい」では食事に来た参加者は受付で名前を書き、料金を払う。それだけだ。なぜ来たかというような穿鑿(せんさく)は一切ない。
 もちろん、スタッフたちには困っている子どもたちに力添えしたいという気持ちがある。でも「当事者からメッセージが来るまで待つ」(Jさん)という姿勢が徹底されている。
 同時にスタッフには不安もある。仮に深刻な問題を相談された場合、対応しきれるかどうか。それは食堂を開く際、最大の悩みでもあったという。
 Jさんは「どんな相談がくるのか。最初から諦めているわけではないけれど、そのことを想像すると、不安が募って食堂など開けないと思った。そのころ、一足先に始めていたある団体の方から『何もしてあげられないと思っているくらいでいい』と言われ、やっと踏み切ることができた」と振り返る。
 そうした「あいおい」とは対照的に、どんな子どもでも丸ごと抱えようとする団体もある。
 「うちも『子ども食堂』と紹介されがちですけど、あくまで『青少年の居場所』。食事も週に五日間、無償で提供しています」
 東京西部で居場所スペースを運営するNPO法人「K(仮名/イニシャルのみ)」。その代表理事であるMさんはそう切り出した。Mさんは長年、中高生向け施設の相談員や民生委員を務めてきた。
 「『子ども食堂』を開こうと思っているのだが、という相談はよく来ます。そのたび言うんです。おカネを取って関係を完結させるなら、どうぞと。でも子どもたちと本気で向き合いたいのなら、うちのようにとことんやるべき。でもそれは大変ですよ、と」
 「K」は二〇一〇年七月、六畳一間に子ども三人を集めて開設。一二年二月にNPOの法人格を取得した。現在はカトリックの修道会施設の一角を無償で借りている。施設の門扉をくぐると、広い敷地に神学校や教会、修道院、グラウンドなどがあり、俗世とはかけ離れた雰囲気が漂う。
 午前十一時から夕方まで開放され、対象は中学生から二十代まで。健常者のほか、知的障害や発達障害のある人たちも訪れる。登録者は約二百七十人で、平均一日二十人ほどが立ち寄る。行政の支援センターからの紹介もあるが、六割は友人の紹介だという。
 スタッフは運営メンバーのほか、学習支援、送迎、調理のボランティアなど約六十人。「自閉症スペクトラム支援士」など聞き慣れない専門資格を持つ人もいる。年間六百万円の経費は行政や企業、宗教団体などからの寄付、チャリティーコンサートに依っている。たしかに世間でいうところの子ども食堂ではない。


 「ねえねえ、よく撮れているかな?」
 年齢は中学生くらいか。記録係を自任する知的障害のある男の子が、私の目の前にデジカメの画面をぐいと差し出した。「K」を訪れた日の夕食は流しソーメン。玄関先には半分に割った青竹が組み立てられていた。
 十人弱の大人に、お椀と箸を手にした二十人ほどの子どもや青年たちがいた。「一気に流さないで」とテキパキと場を仕切る中学生の女の子は、数年前に中国から日本へ来たという。隣には高校生時代の友人を伴った知的障害の女子がいて、近況を大人に話している。少し離れて、数人の高校生ほどの男の子たちがスマホを片手にしゃがんでいた。
 中学生の小柄な男の子が一人、はしゃいで走り回っているが、総じておとなしやかだ。子ども同士が言い争うような場面はこの日、一度も目にしなかった。メニューにはソーメンのほかにおにぎりとトリの唐揚げがあったが余っていた。食べ盛りのはずなのに、誰も箸を出さない。大人たちに促されて、ようやくさばけた。「ケンカも滅多にない。ここに来る子たちには、そうしたエネルギーもないんです」。スタッフの一人がそう説明した。
 建物には事務所、厨房を兼ねた談話室、子どもたちが寝そべれる部屋があった。談話室の備品には「○△基金」という寄贈団体の名が貼られ、掲示板にはその月に誕生日を迎える子どもやスタッフの名が書かれている。傍らのパソコンでは、ヘッドホンを耳にドラえもんの動画を熱心に見ている子がいた。
 「K」の冊子を読んだ。子どもたちの感想が紹介されていた。「病院に連れて行ってもらった」「二日に一回だったごはんが毎日、食べられるようになった」。以前、学校給食が唯一の栄養源という子どもたちの存在が話題になった。だが、不登校となれば、そうした機会すらない。
 「コンビニ製品ばかり食べて、排便障害になった子」「家では廊下で寝ている子」「ホームレスだった子」「リストカットの跡がある子」「母親が亡くなり、父親が再婚するや邪魔者扱いされた知的障害のある子」「中学生になって『ペット扱い』できなくなった母親に部屋の電球やカギまで奪われて、閉じ込められていた子」…。スタッフらから耳にした子どもたちの事情は、テレビドラマのような壮絶体験のオンパレードだった。
 そうした子どもたちの「止まり木」。それが「K」のコンセプトだ。Mさんは「一人でも世の中には信頼できる大人がいて、自分を受け止めてくれると分かると、それが自己肯定感になって、子どもは必ず元気になっていく。こちらからは何も聞かない。二年でも三年でも待つ」と強調した。ただ、「待つ」ことは、この「止まり木」では何もしないという意味ではない。
 その日の流しソーメンには、たれはしょうゆとゴマの二種類が用意され、ネギに大葉、生姜の薬味が付いた。普段の食事でも取り皿と取り箸を備え、立ち食いは許されないという。基本的な生活習慣を備えていない子が多く、しつけが必要という考えからだ。
 流しソーメンの後、市販の花火で花火大会をした。子どもたちの表情に興奮の色は見えなかったが、あえて企画したのは「夏の夜にこうした遊びをするという世間の常識を知らないと、この子たちが大人になったときに困るかもしれない」(Mさん)という配慮からだという。
 Mさんは子どもをファーストネームで呼んで、ハグをする。「子どもの心の安定にスキンシップは不可欠」と語る。昨年暮れから出入りしている二十七歳の青年に、私がここを訪ねた経緯などを聞いていると、横から青年の顔をのぞき込んで「やっと出会えたんだよね」とほほ笑んだ。正直、その距離感にぞっとした。
 Mさんは今年六十七歳になる。「K」を開くにあたって離婚したという。「夫の面倒を見ながら、ここに来る子どもたちと全力で向き合うことはとてもできないと思った」
 そうしたMさんに、少なからぬスタッフが心酔しているようだった。雨で靴を濡らして来た子どもがいた。事務室でMさんと話していると、フリースクールで働いていたという女性スタッフが「○□君が靴を濡らして来ちゃったんですが」と指示を仰ぎにきた。傍からは『相談するまでもなかろうに』と思えたが、Mさんは細かく指示を与えた。
 開設以来、この六年間に「K」は四回移転した。家賃以外にどんな理由があったのかは知らないが、まるで漂流する「方舟」のようだ。その舳(へ)先(さき)にMさんは立っている。


 ケンカのない「K」である日、健常者の少年が知的障害のある子をからかい、珍しく殴り合いの騒ぎになった。しばらくして、健常者の少年が「本当は僕が先に手を出した。あの子に謝りたい」とMさんに告げた。「その誠実さに驚いた。子どもはやはり変わるのだ」。Mさんは最近、感動した体験のひとつとして、そんなエピソードを紹介した。
 Mさんの懸命さ、スタッフたちの献身。その実践に圧倒されつつも、この体験談を聞きながら心にざらつきを覚えた。自分が天の邪鬼だからだろうか。ふと十代の終わりごろ、出入りしたことのある東京・蒲田の繁華街にあった「らんがく舎」を思い出した。
 そこは小学生や中学生の健常児と障害児が一緒に学ぶ塾で、二十代の東大OBの無党派活動家たちが運営していた。もう誰の言葉だったかは定かではないが、「感動と縁を切りたい」という話が記憶に残っている。
 「あの子は字が書けないが、友だちには優しい」といった定番の美談がある。だが、そこには「字が書けて一人前」という多数派の常識が隠されている。その常識、健常者(多数派)優位の意識自体を放置して「共に生きる」などと言えるのか。結論として、有り体の感動(美談)に飲み込まれるなというような趣旨だった。
 「K」と「らんがく舎」では施設の目的が異なる。ただ、守る側と守られる側、大人と子どもという無意識の峻別が「K」にはある。善意か否かという問題ではなく、「傷ついた子」を保護し、導くという空気が私の感じた「ざらつき」の正体だったのだ。
 「導く」先にはある種のモデルがある。そのイメージをMさんはこんな風に説いた。
 「子どもが育つには母性が不可欠。ところが、社会に出ることを優先する母親たちが増えた。そのことが子どもたちの悲劇を生んでいる大きな原因だと思う。こうした考えに反発があることは十分に承知している。それでも、お母さんがどんと居間に座って、お茶を飲んでいるような家庭の風景。再び、そうした一昔前の風景を取り戻すべきではないのか」
 Mさんの主張は特異な意見ではなく、むしろ世間ではありふれた考えかもしれない。実際、シングルマザーの同僚に伝えると、「よく聞く話」と動じなかった。「でも、私の周りには自分と自分の子のことしか考えないような専業主婦が珍しくない。それでいい子が育つのかな」。彼女は首をかしげた。
 福祉の家族依存が引き起こす悲劇で、反論することも可能だろう。それでも、体を張って修羅場を潜ってきたMさんの言葉には無視できない重さがあった。ひとり親家庭の支援に携わってきた赤石さんはこう話した。
 「面倒を見ていた子が勝手に出て行って、十年くらいして『元気だった?』と立ち寄ってくれるのが理想。恐いのはね、支援って支配と紙一重だということ。これ以上、踏み込んではいけないという一線はきっとある」
 流しソーメンの後、「K」でガンプラ好きの高校三年生の女子と話した。中学生時代に太っていていじめられ、ここに来たという彼女はいまも月一回、顔を出す。「あなたにとってKって何?」と尋ねると、「変な場所。でも家にいるよりはまし」と答えた。


 現在の子ども食堂の増殖には、世代の巡り合わせもあるようだ。「リタイアして暇があり、小金があって、社会にも一言あって、つるむのが好き」。団塊の世代の知人は自らの世代をそう皮肉り、子ども食堂がその条件に当てはまると解説した。「だから、いつまでもは続かない。体力的にあと十年かな」
 振り返れば、二〇〇八年の暮れに東京・日比谷公園に年越し派遣村が現出し、貧困問題が可視化された。派遣村は民主党への政権交代を促す原動力となった。それは「貧困とは社会の問題である」という認識が共有されていた証左でもあった。ところが、民主党政権がほぼ自滅に近い形で崩壊するや、この認識も崩れた。政治への失望感が「貧困は自己責任」という論調を一気に台頭させた。
 モノの貧しさには救いようがある。だが、現代の貧しさは人間関係の貧困だ。困っていると声を上げ、助けを求めることすらできない。〇七年に北九州市で「オニギリ食いたーい」とメモを残し、孤独死した男性がいた。いくら不況だといっても、オニギリを分け与えられないほど、いまは貧しい世の中ではない。
 たしかに月に数回の食事会はセーフティネットとしては頼りないし、居場所での人間関係についても、Mさんのような指向、つまり復古主義の追い風と化する危険もある。そもそも田舎のムラ社会が嫌で、都会の個人主義的な生活を選んだ多くの人びとにとっては、共同体や家族への回帰という指向はウンザリ感をもたらすだろう。ただ幸か不幸か、頭に思い浮かぶような農村共同体はすでに壊れている。戻ろうにも現存していない。
 ただ、そうした悩ましさを差し置いてみてもなお、たしかなことは、食べられない子どもがいるという現実だ。「鬱陶しい」「気にくわない」という感情も、人が生きていればこその産物だ。面倒と思われるほど、関係性の糸を張り巡らすことができれば、子どもの悲劇は減らせる。
 個人主義的ということでは人後に落ちない私に、あえてそこまで思わせた参加者の感想が『「あいおい」みんなの食堂』の日誌にあった。そこには短くこう記されていた。
「もしもご飯をおかわり、大盛りにできたらうれしいです」。

 

(第7回 了)
(2016年10月28日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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