集英社新書WEBコラム
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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第6回 残された旗

 昨年十月末、新宿ゴールデン街の「銀河系」というバーが閉店した。それ以来、この街からはすっかり足が遠のいてしまった。十年ちょっとの間、年齢でいうと四十代前半から五十代にかけ、私はおよそ週に一回、その店に顔を出していた。生活のリズムになっていたと言ってもいい。
 正確にいうと、いまも店の看板は経営者を替えて同じ場所に残っている。しかし、一人で店を切り盛りしていた経営者が辞めて、常連客たちも散り散りになってしまった。経営者も常連もいなくなれば、それはもう別の店だ。
 店に顔を出すのはいつも仕事が終わってからだった。午後十時半ごろから中央線の終電まで、ときには終電後も、その店でぐだぐだしていた。そこでの私はどこまでも「素」で、精神はあたかもパンツ一枚の状態だった。
 閉店が決まり、四、五人の常連たちとどこか別に溜まり場をつくろうと、探してはみたものの、結局、代わりとなるような波止場は見つからなかった。その誰もが閉店後は、ゴールデン街から姿を消した。


「銀河系」が閉まってから約半年後、唐突にゴールデン街が全国ニュースになった。二〇一六年四月十二日に発生した昼火事だ。三棟がほぼ全焼し、周囲を含めて約十五軒が被災した。
 「銀河系」の客でもあり、知人でもあるピロの店も二階の屋根と天井が焼けた。西側のまねき通りで、「G」という店を開いて六年余になるアラフォーのママだ。
 最初に彼女の携帯が鳴ったのは、午後二時ごろだったという。深夜営業の店の経営者にとっては、まだ夜中ともいえる時間だ。着信履歴を見ると、知り合いの店のママ。遅いランチの誘いだろうと思い、シカトしたという。
 ところが五分も経たないうちに、また携帯が鳴った。今度は借りている店の不動産屋からだった。電話に出ると、不動産屋が慌てふためいてこう言った。
 「ゴールデン街が火事だ! あんたの店にも燃え移るかもしれん!」
 一気に目が覚め、現場にダッシュした。
 この密集地火災は死者こそ出なかったものの、場所柄から大々的に中継された。原因は放火らしく、翌日には容疑者が逮捕された。「G」にも火が電線を伝わってきた。一階も消火活動でグチャグチャになった。冷蔵庫もだめになったらしい。
 「見舞金をもらった。火元で店をやろうと改装していた人から三万円。出入りの酒屋さんから一万円。不動産屋さんから五千円。あと、新宿区からも一万円」
 ピロはそう指折り数えていたが、合わせても焼け石に水だ。屋根や天井こそ大家さんが改修をしてくれるが、内装は自分持ちだという。家賃は休業する間、払わなくて済むが、肝心の収入が途絶えてしまった。
 「それでいまはバイト中。でもね、ゴールデン街って田舎みたいで、被災したほとんどの人たちが知り合いの店でバイトさせてもらっている。私もそう」
 現場の瓦礫の片付けには二百万円ほどかかったが、それも各店が加盟する同業組合のプール金で賄ったという。この火事を機にゴールデン街全体が違法建築物扱いされ、街が潰されかねないと案じる声もあったが、新宿区も再生には前向きらしい。被災した店舗のうち、高齢者が営む二軒は閉店するが、そのほかは営業を再開する予定だという。

 ピロの慰労を兼ねた飲み会で、そんな状況を聞いたのは火事から三カ月ほど経ってからのことだった。それだけ、あの街と距離が空いてしまった。なんだか遠く離れた故郷の近況を聞くような気分だった。

 私がゴールデン街に初めて足を踏み入れたのは一九七〇年代後半、高校生のころだった。すでにアングラとか、文化人の聖地として知られていて、自分も生意気盛りのころだったから、ミーハーに大人たちの世界を覗いてみたかったのだと思う。
 運動(といっても「スポーツ」の方ではない)関係の先輩に初めて連れられていったのは、木造の急な階段を上った二階にある「ひしょう」という店。この店はいまもあるが、トイレの壁を埋めていた「ゲバ字」の落書きが印象的だった。この店にはたしか「中三階」というか、二階と屋根の間に二畳弱ほどの空間があった。「青線(もぐりの売春街)」時代の名残だったのだろう。
 同業組合の解説などによると、敗戦直後、新宿にあった闇市がバラックの飲み屋街(竜宮マート)となり、それも一九四九年のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の撤退令で追いやられ、それらの店の行き着いた先が青線、つまりゴールデン街の原型になったという。中三階は警察の手入れの際、屋根伝いに逃げられるように造られたと聞く。
 青線は五八年の売春防止法の完全施行で廃止され、そこは十数年後には、アングラとかサブカルの発信地となった。けれども、私が出入りし始めたころは、まだ「立ちんぼ」の男娼たちが8番街の傍らに立っていたし、性サービスが売りのぼったくり系の店も少なくなかった。
 そのころは性に合わなかったのか、その街にはまることはなかった。たぶん、当時の自分には飲み代も高かったし、「アンチ権威主義」というもう一つの権威主義の匂いが鼻を突いたような気がする。西口の「しょん横(思い出横丁)」や「二丁目」の方がよほど気楽に遊べた。

 その後、八〇年代には地上げで路地に「O建設」の黄色い看板が乱立し、店の並びが歯抜け状態になったのを見たが、バブルが弾け、残った人びとの尽力もあり、ゴールデン街は再び活気を取り戻した。いまでは外国人観光客の名所にもなり、ピロの話では三百近くの店が営業しているという。

 バーの客はママやマスターに付く。閉店した「銀河系」のママは、伊藤清美さんという北海道出身のピンク女優をしていた人だった。ポルノではなく、あくまでピンクである。彼女はそれをよく「裸仕事」と呼んでいたが、いまも現役の女優であり、故若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」などにも出演している。
 「銀河系」は七八年に開店した。清美さんは二〇〇二年の春、二代目のママとして経営を引き継いだ。誘ったのは映画評論家で、アナキストの松田政男さんだったという。
 清美さんが店を引き継いだ年に、私は転勤で十数年ぶりに東京に戻ってきたのだが、「銀河系」を初めて訪ねたのはその翌年か、翌々年のことになる。ピロが経営する「G」の前身の「J」という店を経営していた思想家の矢部史郎に連れて行かれた。それまで「銀河系」には映画や演劇の関係者が多いと聞いていたので、自分には場違いな気がしていた。
 朝方まで開いていたせいか、開店が遅い店だった。たまに午後九時ごろに開くこともあったが、概ね十時すぎ。それ以降になることも珍しくない。それによく臨時休業した。清美さんの気分だから仕方がない。そう割り切れる客だけが、残ったような気がする。
 ドアの上の雨よけは破れたままで、ときたま物陰でネズミの走る音がした。後方のソファはほぼ荷物置き場と化し、いすはガムテープで補修された止まり木だけ。画家で作家の森泉笙子さんの描いた埴谷雄高の肖像画が飾ってあった。ボトルが入っていれば、二千円で飲めた。
 映画や演劇関係の客が多かったが、そうした人ばかりではない。作家や編集者、福祉施設の職員、大学の教員、銀行マン、女性会社員、党派・無党派を超えた老若の活動家、日系米国人の操縦士、書店員、近隣のお店の人たち……。思い返せば、雑多な人びとが集っていた。「昔のゴールデン街の空気を保っている店」という評判もあったが、清美さん自身は「『銀河系』は『銀河系』。六〇年代や七〇年代のゴールデン街の店ともと違う」と言い張っていた。
 実際、そうだったかもしれない。「銀河系」が閉店する間際、矢部史郎はブログで、この店について次のように回顧している。

 「(客には)有名人もいれば、裏方もいた。成功した人もいれば、挫折した人もいる。ひとクセもふたクセもある大人が集まって、酒を飲んでいた。そしてみんな、暴力の匂いをさせていた。 
 そう。銀河系という店には、暴力の匂いがあった。暴力、と言っても、いつも客同士で殴りあっているということではない。そうではなくて、人間の姿勢である。たとえ相手が何者だろうと馬鹿なことを言いやがったら殴るぞ、という姿勢があった。それは、松田政男氏や東郷健氏のような長老クラスから、私のような新入りの若造まで、それぞれ経験も課題も違っていたが、だれもが自分の言葉の奥底に暴力を蓄えていた。
 自分の暴力だけを頼りに、ピンで立っていた。」

 世渡り上の肩書は、この店では何の意味もなさなかった。権威が否定されるということは、政治が通用しないということだ。そこが古き良き時代のゴールデン街とも違っていた点かもしれない。もっとラディカルだった。
 「暴力の匂い」というが、匂いだけでもなかったように思う。ある日、客同士の諍いで腕に覚えのある一方が相手を「瞬殺」した。別の日には七十代だった松田さんが酔って図体のよい男に手を出し、暴れ出した男を羽交い締めにした私が床に叩きつけられたこともあった。ただ、そうした戯れを警察沙汰にするような恥知らずは一人もいなかった。
 「歴戦自慢」も馬鹿にされた。あるとき「自分は学生時代、赤軍派で死んだAと昵懇の仲で……」と、初対面の隣客に自慢し始めた輩がいた。「へー、そうですか」とにこやかに調子を合わせていた隣の客は、十年以上も地下に潜行していた赤軍派の元兵士だった。それを知る常連客たちは意地悪く素知らぬふりをしていた。
 互いに少し緊張しながらも、ときに弱みをさらけ出せる場所でもあった。ほろ酔いの松田さんに「僕は自らの生き方を下らなかったと思うことがある。君はどう思う?」と目をのぞき込まれたことがあった。大御所の無防備な質問にどう返答したらよいのか、どぎまぎして、うまく返答できなかった。
 「一見さんお断り」の店ではなかったが、物見遊山の客には入りにくい店だった。清美さんが何気なく、そう演出していたように思う。客はママに付くが、ママもまた客を選んでいた。


 ピンの客たちが集う店である以上、つるむこととは縁遠いはずだった。ところが何の酔狂か、「銀河系」には旗があった。店名を白抜きにした黒旗である。旗を作ったのは福島で原発事故が起きた二〇一一年の、暮れごろだったと思う。その旗を手に、清美さんと数人の常連客、その知人たちが何回かデモに参加した。
 旗を作ったきっかけはひょんなことだった。お店が休みの日、何人かの客と清美さんで食事でもしようかと計画した。その日は新宿で夕方から反原発デモがあり、共通の知人たちも参加するので、その様子を見物してから行こうとなった。だが、そのデモは思いの外に盛況で、その人混みのためになかなか落ち合えなかった。その晩、居酒屋で誰からともなく「こんな日には目印がほしいね。旗でも作るか」という話になった。
 どうせ作るのなら本格的にと、店の看板のロゴ通りに染めてくれるよう、プロの旗屋に注文した。できあがった旗を皆で眺めながら「そういえば、客はアナキストだけじゃなかったな。元毛沢東主義者もいる」なんて話から、ロゴの中央にある星印の部分だけ筆で赤く塗った。
 なかなか見栄えのよい旗だった。となれば、見せびらかそうと、デモにも行くようになった。二十回ほどは行った。多いときには十数人の隊列になった。労働組合でも、政治団体の名でもないから、沿道でメモを取っている公安警察のみならず、他の参加者たちも怪訝にその旗を眺めていた。どういうグループかと聞かれれば「いまどき『何とか派』とかはもう古いでしょ。これからは『系』です」なんて答えては、煙に巻いた。
 こんな旗ありきのノリだったが、世の中にはデモに参加することに逡巡を感じる者もいる。弾圧がどうの、世間体がどうのではない。銀河系の常連には新左翼系の元活動家たちもいて、それも中国派、ブント系、構改系など何のまとまりもなく、一昔前に山谷で右翼と白兵戦を演じていた武闘派アナキストもいた。
 そうした人たちは概ね、戦線から離れた「脛に傷持つ身」である。過去の自己と折り合うことは容易くなく、政治的な舞台を忌避してきた年月もあった。まして、参加するデモはかつての身体を張るそれでもない。どうにも中途半端だった。
 それでも時折、そうした人たちが参加してくれたのは福島の災禍の大きさのみならず、政治とは縁の薄い若い客や、常連客で編集者のKさんの真摯さに押されたからだろう。
 綱領的なものどころか意思一致すらなく、まして求めもせず、共有する展望も何もなかった。おそらく唯一、皆が楽しみにしていたのはデモの解散後の飲み会だけだったと思う。そのくせ、逮捕時の救援態勢すら整えていないのに、ときに「好き者」の血が騒ぐのか、国会前でデモ隊を規制する鉄柵をこっそり倒して、群集の波を決壊させるような悪戯もした。そんな悪戯はどこか照れ隠しのようでもあった。

 政治を特別視することに、少し疲れていたのかもしれない。その旗はきっと政治も、ご飯を一緒に食べることも、色恋ネタで盛り上がることも、その全てを覆っていた。だから参加してもよい気になったのではないか。清美さんに聞いてみると「デモに参加しない理由もない。やってもいいかなと思っただけ」と言って、やんわりと笑った。


 旗を作ってから四年弱が過ぎ、いつの間にか、この国の政権も代わり、次第にデモに行く機会が減っていったころ、「銀河系」は閉店した。
 閉店の理由を清美さんは「体力がまだあるうちに、やりたいことをしたかった」と淡々と語るが、朝方までの営業は五十歳を過ぎた身にはきつかったに違いない。
 加えてここ数年、ゴールデン街には若い店主や客が増え、ネットで広まったのか、外国人観光客も数多く徘徊するようになった。「無邪気な顔をした外国人が店の戸をがばっと開けて、遠慮なくのぞき込んでくる。こっちは裸商売を辞めたのに、まるで脱いでいたときのような気分になる。子ども連れだったりすると、思わず『飲み屋をナメンナヨ』って怒鳴りたくなった」(清美さん)。時ならぬブームの到来は本来、歓迎すべきことなのかもしれないが、「銀河系」にはあだとなった。
 閉店する直前、清美さんは顔を覚えている客たちに手紙を送った。文章はA5サイズの青い紙七枚に印刷され、計百通ほど出したという。
 もともと議論になると、まるでアングラ演劇の評論家の文章のような面倒な物言いに溺れていく人だったが、この手紙も例外ではなかった。それはこんな調子だ。

 「その〈銀河系〉は『私』と同様に、例えば、『事態』を現す言葉として、在りもしました。『私』は予め〈銀河系〉に在ったとも言えるわけです。
 その予め〈銀河系〉に在った『私』であるところの私の具現としてのこの身体が、〝銀河系〟と呼ばれることに成った店としての具体としてのこの場所に、立つ時、『銀河系』は出現し、即ち、存在します。
 それが『私の店』でした。『銀河系』の出現と同時に『私の店』は消え、『銀河系』が、在りました。
 そして、君が、そこに座る時、『銀河系』は出現し、即ち、存在します」

 こんな難解な記述を読みながら、再び旗の意味を考えていた。ピンの人たちが「つるんだ」ひととき。ただ、そこにはいかなる強制もなかった。「つるんだ」というより「交わった」に近い。ただ、その帰属感の薄さが自己の在り方を一層意識させたように思う。
 それは無意識にせよ、時代に対する抵抗であったようにも感じる。あくまで体感的にではあるが、八〇年代以降、この社会では労働組合や学生自治会に限らず、井戸端会議や床屋政談の場になるような「溜まり場」、つまりは社会的中間団体の解体が続いてきた。
 数年前、現役の学生活動家たちと話をしたとき、彼らが最も欲していたのは「サークルボックス」だった。サークル施設の学生による自主管理など、いつの間にかなくなっていた。汚い小部屋にたむろし、政治だけでなく、他愛ない話に興じる。そんな一昔前にはあたりまえにあった空間が、キャンパスからは淘汰されていた。
 そうした居場所の喪失は人を歪める。
 順序立てて言うと、こういうことだ。人がピン、つまり個人であろうとすれば、自分の頭で思考する作業が不可欠になる。状況を分析し、自己を対象化しなくてはならない。そうした思考は他者との議論によって培養される。ところが、そうした議論を保障する場が消えてしまった。
 それでもIT化の進行も一因として、情報や言説はかつてない量で一人一人に降ってくる。とりわけ、権力のそれは脅しすかしの意図を込めて降り注ぐ。周辺国の脅威論などは、まさにその典型といえるだろう。
 他者との議論によって情報を相対化する場があれば、人はそれらを検証し、そのうえで自己決定できる。しかし、そうした機会を失えば、不安だけが募り、同調圧力に飲み込まれやすくなる。ハンナ・アーレントは「ナチスの悪の凡庸さとは『言葉と思考』を拒むもの」と説いた。「悪の凡庸さ」は居場所の喪失によって増幅されていく。とどのつまり、いまの日本社会なのだ。
 「銀河系」に、あるいはその旗の周囲で感じた「心地よさと緊張」のうち、心地よさはその空間が居場所たり得たからだろう。ただ、そんな空間に秩序(権力)が不用意に入り込めば、その居場所はすぐに腐敗し始める。そうした危険を排する緊張が、常にあの店には漂っていた。たかが小さな飲み屋にすぎない。けれども、その場所はこんな時代に個人が個人たり得る希有な空間であり、旗はその目印だった。


 七月末、炎天下の火災跡地を訪れた。午後三時のゴールデン街の路地は、夜の喧騒がまるでうそのように、行き交う人もいない。
 電柱にはまだ束ねられたままの電線がぶら下がっていたが、半焼した棟でも真新しい土台や柱が青い工事用ネットの向こうに透けて見えた。人がようやくすれ違えるほどの路地で、職人たちが何かの柵を溶接している。飛び散る火花にヒヤヒヤした。
惨事はすでに新たな始まりに転じていた。秋になれば、きっといくつかの店が再開するだろう。
 ピロの店も修理が進んでいた。結局、内装は材料を買ってきて、店のスタッフやその友人たちと自前でやることにしたという。二階の床にはすでにフローリングが張られていた。
 「いま、ゴールデン街の経営者たちの間では『二〇二〇年問題』が話題になっている。この数年は外国人もそうだけど、振りの若い客が増えた。『何これ、チョー面白いんだけど!』って騒いでいる女の子たち、あれね。そうした客に合わせて、ショット売りの店も増えた。でも、そういう客はたぶん残らない。飽きられるのが五輪の二〇二〇年のころ。その後、この街はどうなっていくのかなっていう話よ」
 あと十年はやりたいと言いながら、ピロは冷静に先を見通していた。


 火災の半年前に閉店した一軒の店には、一枚の旗が残された。それはいま、常連客だったKさんが保管している。
 「銀河系」に未練がないといったら、うそになる。他の常連客たちもそう感じているに違いない。でも、清美さんが閉店前に書いた手紙を読み返してみると、強がるしかないという気がする。そこにはこんな一文があった。

 「私が〝銀河系〟に来てからの月日、『君はいつまでここに居るんだろうね』と、誰彼に、時々に、問われ続けて来ました。
 それは、私に問う誰彼の、自身にむけての問いだったのかもしれませんが」

 誰でもピンで立っているのは疲れる。だから安逸がほしくなる。ただ、その居心地のよさに埋もれていると、次第に守りに入っていく。
 でも、守りに入れば、やがて包囲され、殲滅される。攻撃こそが最大の防御だ。私にはこの一文はそうした「叱咤」に映った。こうした解釈のダメ押しは、末尾の一文だった。

 「逝ってしまった仲間達、牢屋にいる戦士達、ここに在る皆、感謝します。アンダーグランドとして未分化としてあることを厭わない皆を、尊敬します」

 この夏、Kさんや清美さんと久しぶりに飲んだ。その席で残された旗をどうするのかを聞いた。清美さんはあっけらかんとこう言った。
「『店は無くても、既に常に実態は在る』って手紙に書いたでしょ。今度はいつ旗を出したらいいと思う?」

(第6回 了)
(2016年09月09日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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