集英社新書WEBコラム
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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第3回 あのころ「学舎(まなびや)」があった

 JR成田駅に到着する間際、無意識にぐっと腹に力が入った。気合いを入れるというやつか。わがこととはいえ、若い時分に刷り込まれた身体の反射にあきれてしまった。
 二〇一六年三月二十七日。三十数年ぶりに三里塚闘争の集会をのぞいた。毎年、この時期はふと空を仰ぎたくなるような気分に襲われる。一九七八年三月二十六日。当時、高校一年生だった私はその日、三里塚にいた。成田空港の開港予定日を四日後に控えたその日、空港反対派の支援部隊が空港に突入し、管制塔を占拠した。
 駅舎はすっかり様変わりしていた。集会場は成田ニュータウンにある赤坂公園。聞いたことのない場所だったが、西口のバス停には会場の案内係が立っていた。主催の三里塚芝山連合空港反対同盟は一九八三年以降、分裂を重ねて、この日の集会は中核派などの支援を受ける「北原派」が開催した。
 公園近くのバス停で降りると、濃紺のヘルメットの機動隊員らが立っている。対抗するように会場の入り口には、白いヘルメットに旗竿はたざおをかかえた「防衛隊」が三人立ち、わずか離れたところに七十人ほどの私服の公安警察が群れていた。馴染なじみの光景だったはずだが、国会前の集会にすっかり慣れてしまった目には新鮮に映った。
 予想していたとはいえ、参加者はかつての十分の一にも満たない。会場近くを走り回っているらしい「右翼の妨害を粉砕し」、といった発言にどこか寂しさを覚えた。かつては街宣右翼など近づかせもしなかった。
 小一時間で集会場を後にし、再び駅へと向かった。その昔、私が五年ほど通った団結小屋の跡地を訪ねてみたくなった。最寄りのバス停は「菱田」。だが、東口のバスターミナルも変貌し、どのバス停に並んだらよいのか分からない。尋ねた案内所の女性も首をかしげている。
 迷った揚げ句、ようやく駅から一日片道十本ほどしかないバスで菱田に着いた。見慣れない道ができた一方、あったはずの民家がない。三十年以上経つのだから仕方がないのだが、しばし途方に暮れた。
 見回すと乳牛たちが草をんでいた。そうだ、あのころも牛がいた。記憶の糸をたぐりながら、畑と水田、林に囲まれた道を往く。
 顔なじみだった反対同盟の人たちも、大半が移転したと聞いていた。バス停から三十分ほど歩き、団結小屋のあった集落に着くと、見知らぬ大きな果樹園があった。そこからさらに北へ数百メートル。柵の向こうに、やはり見たことのない不気味な建物があった。地図には「千葉県警多古訓練場」と記されていた。ライフル射撃の訓練もするSAT(特殊急襲部隊)の訓練施設なのだという。
 反対闘争は、暫定滑走路付近にある農地をめぐる裁判を軸に続いている。この日の集会では、農民の代表が「闘争が先細りする中、原点に立ち戻り、かつて分裂した一方のグループにも共闘を呼び掛けよう」と訴えた。しかし、ことには時宜というものがある。春にくべき種は、秋に蒔いても育たない。おそらく、こうした発言が可能になったのは分裂の主役だった支援セクトの力が落ちたからだろう。発言に拍手はまばらだった。


 人の記憶と世間での時間の流れにはいつも溝がある。戦争なんて生まれる前の遠い昔のことと思っていた自分が、三里塚に通い始めたのは敗戦から三十三年後。現在は管制塔占拠闘争から、それ以上の時間が過ぎている。自分にとってはつい昨日のことのようでも、世間では「三里塚」と聞いても、ピンとこない人たちの方がきっと多数派であるに違いない。
 三里塚闘争をテーマにした書籍や記録映画は数多くある。詳細はそちらに譲るとして、この場で略史を紹介するとこうなる。
 ことの始まりは一九六〇年代。高度経済成長に伴う新国際空港建設計画は、建設予定地をめぐって二転三転した。それが最終的に決まったのは六六年である。当時の佐藤栄作内閣は地元住民に何ら説明することなく、建設地を千葉県成田市三里塚に閣議決定した。
 寝耳に水の農民らは反対同盟を結成し、ピーク時には約一千戸、三千人を組織した。農民の多くは旧満州(中国東北部)からの引き揚げ者や、戦争での復員兵らの開拓農民たちで、食うや食わずの生活からようやく営農にめどが付いたころだった。数年前に始まったばかりの国策のシルクコンビナート事業に私財をなげうった人たちもおり、再び国策に翻弄されることに憤りは高まった。
 当初、反対運動の支援の主流は社会党(当時)や共産党だったが、共産党は翌年の空港公団による外郭測量の際、座り込みをする反対同盟に「挑発に乗るな」と言い放って退いたため、反対同盟は絶縁。社会党も選挙目当てという本音を見透かされ、脱落した。
 代わりに登場したのが、新左翼系の三派全学連だった。彼らは団結小屋を築いて常駐する。団結小屋は最盛期には四十ほどもあったはずだ。その後、三里塚は文字通り「戦場」となった。一九七一年、空港公団は代執行を請求し、反対同盟と支援部隊は機動隊と激突。警官三人が死亡し、反対同盟の若者が組織する青年行動隊のメンバーの一人も「空港をこの地にもってきた者を憎む」と自死。七七年には反対運動のシンボルだった大鉄塔が抜き打ち撤去され、その抗議の最中、野戦病院を防衛していた支援者の青年が機動隊の放ったガス弾を頭部に受けて、命を落とした。
 管制塔が占拠されたのはその翌年だ。この闘争でも、支援者側に死者が出ている。空港は二カ月遅れで暫定開港はしたものの、その後も空港周辺での反対派のゲリラ闘争は、毎週のように繰り広げられた。
 反対闘争の激しさに慌てた財界などが仲介に動き、政府と反対同盟の対話の試みが水面下で始まった。一方、八三年三月、反対同盟は最大支援セクトの中核派と青年行動隊の対立を軸に分裂。青年行動隊の主流を含む熱田あった派は九〇年代、政府と話し合いに踏み切り、政府はそれまでの姿勢を謝罪した。これを機に反対同盟の人たちの移転が加速した。一連の闘争で警官、支援者、関係民間人たち十人以上が命を落とした。
 個人的には、三里塚に通ったのは七八年から八三年までの五年余だった。きっかけは故福島菊次郎氏の『戦場からの報告』という写真集だった。脱穀機にしがみつく老婆の歯を折り、畑を蹂躙じゅうりんする機動隊員たちの姿を撮った一葉の写真に衝撃を受けた。その後、高校生新聞のつながりで知り合った他校の先輩に誘われ、援農に出かけた。サトイモの植え付け作業の後、その農家のお母さんに「親御さんはここに来ているのを知ってるのかい」と心配され、言葉を濁したことを覚えている。


 当時、三里塚は解放区だった。バス停から団結小屋までの行き来も油断できない。運悪く機動隊のパトロールと遭遇すれば、陰惨なリンチを受けることは間違いなかった。
 相手方も同じだったようだ。随分後に、仕事で神奈川県警の警官と話をする機会があった。こちらの過去を知らずに「昔は成田警備にも借り出された。どこで過激派と遭遇するのかと、心底恐ろしかった」とこぼした。
 ただ、そうした「暴力」の側面よりも、三里塚闘争の価値は農民たちが自らを変えて、社会の在り方を模索した面にあったように思う。その意味で、三里塚は「革命の学校」だった。革命の実験場と言い換えてもよい。
 ただ、そう公言するには逡巡しゅんじゅんがある。反対同盟(熱田派)事務局長だった石毛博道さんは『ドラム缶が鳴りやんで』(朝日新聞成田支局著)という本の中で、こう語っている。
 「自分らは別の所に住んでいて、この地域を犠牲に何かやるというのは、地域住民からすればたまらない。結局、三里塚闘争の支援者は、空港に反対した地域の人達が、少しでも良い状態になるということを望んで支援したのではなく、農民の政治闘争や反権力闘争の面だけを支援したということだ」
 その批判に返す言葉はない。それでも闘争の日々に垣間かいま見た現地の青年農業者たちの試行錯誤は、いまも反原発運動や他の抵抗の現場に通じる貴重さを持っていると信じる。
 当時、若輩ながら青年行動隊の人たちとの飲み会の末席に何回か加わらせてもらった。そこでポツリと漏らされた彼らの言葉は、いまも心に残っている。たとえば、一枚岩に見えた反対同盟の中にも、本家と分家、さらにはわずかな土地しか持たない農業労働者に近い人たちの間に「格差」があること。そうした現実に彼らは真摯に向き合っていた。
 力のあるボス農家は同盟内でも発言力が強い。大手の政治セクトは平等や社会主義を看板に掲げているにもかかわらず、政治力を行使したいがため、そうした農家に援農を集中する。それが農民の間の格差をさらに広げていく。
 「隣の家の田んぼの水をこっそり抜いてでも、自分んちの田んぼをよくしたいと思うのが百姓ってもんだ」。一人の青年行動隊員はそう苦笑した。そうした利己をどう克服していくのか。実際、働き手がいつ逮捕されてもおかしくないという状況下で、経済的に余裕のない農家ほど、闘争から離脱していった。同盟が崩れてしまう前に、なんとか一丸となって成果を得たいと考えた人びとは話し合いを模索し、暴露されては「裏切り者」扱いされた。
 闘争と生活の軋轢あつれきをどう乗り越えるのか。お互いをどう支えられるのか。富農や親世代との摩擦を怖れず、一部の青年農業者たちは農村社会の作りかえに挑んだ。
 そうした試みの一つに菱田地区の自主基盤整備があった。一九八〇年ごろのことだ。
 この地区には起伏のある土地が多く、水はけの悪い「深んぼ」と呼ばれる水田が少なくない。ひどいところは腰まで水にかる。農民は長年、そうした田と格闘してきた。開港後、そこに目を付けた政府・公団は「成田用水」という土地改良事業を農民に持ち掛ける。水はけをよくしてやろうというのだ。だが、これは「毒入りまんじゅう」だった。というのも、次段階の二期工事の用地内にある農家は対象外だったからだ。用水というアメによって、反対同盟を分断しようという企てだった。
 少なからずの農家が賛成に回る中、青年行動隊はその撤回と「戦う農業」と銘打った自力での基盤整備に挑む。水田に土管を埋め込み、排水するあんきょ事業に乗り出した。当時、回し読みされた青年行動隊の討論記録にはこう記されている。
 「反対同盟は、出て行く者に対しては、なんにも出来なかったりよ、これだけ大きな組織がありながら、生活面とか、その営農とか、そういう問題についての力というのは何一つない」「戦う農業っていうのは、戦える人間づくりって意味なわけだっぺよ。要するに、政府の言いなりになってやってく農民であってはさ、いくら戦う、戦うといってもさ、それは言葉に終わっちゃうわけよ」(『青行隊通信・第伍號』1980・5・25)
 私も何回か、手伝いのために水田用のゴム足袋を履いて、へっぴり腰でスコップを振るった。しかし、そうした試みを横目に「確かな営農基盤抜きに闘争は続けられない」と考えた人びとは成田用水を運び、反対同盟を去って行った。
 「ワンパック野菜」運動という産直運動もあった。いまも三里塚で「循環農業」を追求する元青年行動隊員の小泉英政さんの著作『土と生きる』などに詳しい。
 市民運動などから定期購入者を募り、無農薬野菜を配送する運動で、当初は闘争の中での農民の負傷や長期拘留といった事態を予想し、苦境に陥った農家を相互扶助で支え合うことが狙いだった。実際、青年行動隊の少なからずのメンバーたちは、強制代執行の際の刑事事件で裁判中の身だった。判決次第では、長期の拘束を免れない状況下にあった。
 各々が土地を提供し、共同で生産し、給料を受け取った。一時は生産者六軒、消費者側の会員は千四百人にまで成長したというが、やがて農家それぞれの事情でワンパック運動は終わった。
 あれこれの試みがあったが、もはや記憶が定かではない。ただ、闘いには個人の決意だけでは乗り切れない局面がある。利己的な一人一人が闘いを通じて共同性を編む。青年たちの試みは、末端支援者の一人である自分の目には「コミューン」づくりに映った。
 こうした志向の画期性はいまも色あせない。反原発運動での「安全」という都市の生活者の論理は原発立地では通じにくい。そこには現地の人びとの生活という壁がある。原発依存という「麻薬」は歴史的な産物だ。その地域の産業構造をどう変えられるのかという問いに、まだ明確な答えはない。大義や正義という理屈だけでは万人を支えきれない。それは、あのころの三里塚と同じだ。
 平凡で保守的な農民が一揆を起こした。一揆の中で、次の社会の担い手にふさわしい自分たちを模索する。そこに三里塚闘争の輝きがあった。普遍性は個別の中に宿る。反原発に限らず、あらゆる闘争の現場で生活と闘争は桎梏しっこくする。それを乗り越えようと、身をていして向き合った三里塚はまさに「革命の学校」だった。


 そうした闘争の全体像を彩る意味合いとは別に、三里塚は当時、十代だった私や同世代の仲間たちにとっても社会を学び、生き方を手探りする学舎だった。すでに内ゲバの泥沼にどっぷり浸かっていた新左翼運動界隈(かいわい)で、三里塚は数少ない真っ当な闘争の現場だった。七〇年代後半、決して多いとは言えないが、それでも私の知る限り百人を超す高校生たちが三里塚を軸に出会っている。
 手元に実家で荷物整理をしていたときに見つけた一枚のビラがある。いま風の「フライヤー」ではなく、手書きのガリ版刷りだ。
 タイトルには「東京・F学園(実物では実名)の不当な政治処分糾弾/Kさん(これも実名)の復学をかちとろう/高校生にも思想・信条の自由はある!」とある。
 一九七八年、東京の女子のミッションスクールに通う高校三年生がいた。三里塚に興味を持ち、あるセクトを通じて現地を訪ね、系列の高校生集会にも参加した。帰り道、公安警察の尾行に気づかず、自宅を割られて、学校にも通報された。自宅謹慎になった。その後、親が学校の圧力に屈し、「自主退学」した。たしか、そうした経緯だった。
 ビラの末尾に「激励先」として、Kさんの住所が記されている。「金子荘」とある。きっと、自宅を飛び出したのだろう。この復学闘争では、F学園の校庭にKさんを先頭としたゼッケン姿の数十人の他校の高校生たちが警備員をなぎ倒してなだれ込んだ。残念ながら、Kさんが復学できたという話は記憶にない。
 Kさんのその後のことは知らない。ただ、こうした出来事は当時、そう珍しくはなかった。私たち自身、処分への怒りはあっても、Kさん個人への憐憫れんびんや同情の感情はなかった。三里塚を通じて、不正義を知る。次第にそれが学校教育や社会全般に通じていることを学ぶ。公団職員も学校の教員も同じ「飼い慣らされた大人」に見えてくる。自由とは闘い取るものであり、弾圧も付きものだ。Kさんは明日の自分にすぎない。そんな風に考えていた。
四学年歳下にあたる尾崎豊の曲は甘ったるくてむしが走ったが、そうした反抗の気分は尾崎がブームだったころまでは、まだ若者たちに共有されていたように思う。
 当時は初めてデモに参加する、あるいは三里塚を訪れる前には「救対(救援対策)ノート」という紙に、住所や家族構成、家族関係、ガサ(住所録やビラ、運動関係の文書)の保管場所などを書き込んで、担当者に預けた。
 逮捕されれば、完全黙秘が鉄則だが、いずれにせよ、仲間は家宅捜索に備えてガサを回収し、親が警察に泣きつかないように説得しなくてはならない。そのための準備である。どこのグループであれ、そうした作業はデモに行く高校生たちにとっては日常風景であり、通過儀礼のようなものだった。
 三里塚に行けば、過激派(アウトロー)とみなされる。小さな「覚悟」という儀礼を経た高校生たちは、たとえグループが違ってもその時点でどこか仲間意識があった。大学生や労働者に比べ、高校生は親兄弟や学校との摩擦が小さくない。それも高校生活動家たちを互いに近づけていた一因だったように思う。
 こんなことがあった。複数のグループの共闘会議を新宿の喫茶店で開いていた。一人の髪の長い男子が「遅れてごめん。親に精神科病院へ無理やり連れて行かれて、いま逃げてきたところだ」と駆け込んできた。そこから会議は親問題に脱線した。ある女子は「うちの母親はスリッパで殴る。痛い割には跡が残らないかららしい」と言い、別の誰かは「自分は父親に木刀で追い回された」と、親対策で盛り上がった。
 家庭環境や階層に伴う生活観は、学校や地域によって差がある。中学、高校に入る時点で輪切りされがちな同世代の他の集団を学ぶ機会も、三里塚という共通項によって与えられていた。
 だが、そんな友情や連帯感とは真逆の現実もあった。自信家で勇猛果敢ぶった男子がある映画好きの女子を連れてきた。間もなく、その女子は闘争で逮捕され、起訴された。面会や差し入れ、裁判の準備と忙しくなる。しかし、最も責任ある立場のその男子は電話にも一切出なくなった。その後、運動関係で彼を見かけることはなかった。人はときに裏切るということも、そうした機会に覚えていく。
 学校生活の日常とは遠い実社会との出会いもあった。仲間が捕まれば、弁護士費用をはじめとしてカネがかかる。そうした際は学校をさぼって、JR高田馬場駅近くの公園に早朝から出かけた。建築現場での日雇いのバイトだ。最も簡単な工事現場の片付けで、七千円ほどの日当だった。そこで初めて日雇い労働者のオヤジさんたちと話をした。
 千葉拘置所(刑務所と併設)にも面会に通った。待合室の一角に「ネエさん」らしき女性が座り、後ろに子分らしき男たちが立っていた。その一人が「アンタよく見かけるけど、暴走族かい」と聞いてきた。「いや、暴走族というよりは空港の方で……」と答えたが、どうも相手は要領を得ない。すると、ネエさんが何かを告げた。子分はうなずいて「ああ、過激チャンかい。そりゃあ感心だ。ただ、人生いろいろある。もし行き詰まったら、千葉は栄町のK会を訪ねておいで」と妙な激励を受けた。

 そうした一つ一つの体験から社会を学んだ。それは学校とは別の「学舎」だった。

 「若気の至り」を決して悪いこととは思わない。危うくとも、若気抜きにはできないこともある。一介のヘタレ活動家であった自分のような者でも、三里塚では決意で飛び越えねばならないことがあったし、それを他人に迫ったこともあった。いま平穏で人並みの生活を営んでいられるのは、単に運が良かっただけだろう。
 人の集団(組織)という魔物も学んだ。それにまつわるあれやこれやの不条理にうんざりし、いいかげん疲れてもいたのだろう、二十代前半のときに運動の現場を離れた。最後に三里塚の集会に行ったのは、反対同盟が分裂した一九八三年三月八日だった。その後、私の周りには一部の全共闘経験者たちのような「同窓会」はない。
 ただ、数年前、偶然、再会した他校の仲間だったKから、Kと同窓だったFが死んだことを聞かされた。ギャンブルで借金を重ねて行方不明になっていたが、送られてきた高校の同窓会名簿で死んでいたことを初めて知ったという。死因は分からない。
 そのKもとっくの昔に運動から離れ、サラリーマンをしているが、どこか精神的に不安定なようだった。いまでもおよそ年に一回、レンタカーで三里塚周辺を回り、闘争の跡地を訪ねているという。「どうして」と理由を尋ねたが、口ごもったきり黙り込んでしまった。
 ハッピーエンドな話ではない。それでもいま「学校」や「学舎」を切望してしまう。随分久しぶりに三里塚の集会をのぞきに行ったのも、そうした気分からだ。
 沖縄を除けば、いま国家権力に大規模な集団で異議申し立てをしているような地域は、全国的にも乏しい。東日本大震災の後の「絆」に象徴的な同調圧力が社会を覆い、それは福島ではいま新たな「安心神話」に化けている。電脳空間をのぞけば、異論を唱える他者に、多数派が集団で匿名のバッシングを加えている。そうした所作はすでに電脳空間からはみ出し、現実世界にまであふれ出ている。その傍ら、権力の情報操作には容易に踊らされる。どこか病んでいるのだ。
 どこに病巣があるのか。なぜ、自分がしんどいのか。それを知るには眼前の社会、日常を相対化することが手っ取り早い。もう一つの社会に身を移し、それまで苦しめられてきた社会を対象化するのだ。息苦しい社会を異様と体感できる空間は、精神の健康のためにも不可欠だ。
 そうした体験を可能にする解放区がかつて首都中枢から電車で一時間ちょっとの距離にあった。人びとの実力によって、国家権力の介入を許さない自由な空間があった。電脳空間の想像力では届かない、もう一つのリアルな風景があった。それが三里塚だった。
 仕事で最近、二〇一一年度に自衛隊制服組官僚たちがつくった「国家改造計画」ともいうべき部内研究を読んだ。彼らの視線は現政権とシンクロしている。内容は軍事のみならず、教育にも言及しており、そこに「成田闘争の正当化等国策妨害を教育するのではなく……」という記述があった。ちなみに一九九五年、村山富市首相(当時)は歴代政府の強硬姿勢について三里塚の住民たちに謝罪している。彼らはそうした史実もカーキ色に塗りつぶしたがっている。よほど、人びとが正気に戻れるような空間が邪魔に見えるのだろう。
 「学校」であり「学舎」だった三里塚。一つ一つの闘いには始まりもあれば、終わりもある。それでも「第二、第三の三里塚を」というスローガンに終わりはない。だから、この「学舎」にはいまだ卒業生がいない。どっぷりと回顧に浸れるほど、背負った荷物は軽くなかった。

(第3回 了)
(2016年05月17日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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