集英社新書WEBコラム
文字の大きさ

深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第2回 共犯者たちの秘密基地 

 「ご注文はうさぎですか?」
 そんな文句の躍った看板には、三人の美少女のアニメ画が描かれている。
 「お兄ちゃん、キッスの準備はまだですか?」。再びロリ調の広告。でも、キッスの「ッ」という促音がどこかオヤジ臭くて笑えた。
 JRの電気街口から中央通りへと向かう。久しぶりに東京・秋葉原を訪ねた。
 街の装いこそ現在とは別物だが、四十年前にはよく通った。中学生のころ、アマチュア無線に凝っていたのだ。抵抗やらコンデンサーといった細かい部品がぎっしり並んだ店頭には、パーツを拾う小皿が置かれていた。そうしたパーツ屋や出所不明のジャンクに埋もれた一角を日がな一日、飽きもせず見て回った。
 そうした店には世間の流行などとは縁のなさそうな「プロ」の趣を醸した主人たちが必ずいて、同類らしき客たちと何やら熱心に話し込んでいた。社会の表舞台がどうなろうと知ったことではないといった空気は、歩く人びとがコスモポリタンになり、商品もアニメやゲームが主流になった現在も、この街に引き継がれているように感じる。
 中央通りを北へ二百メートルほど歩くと、ドン・キホーテ秋葉原店のビルが見えた。アイドルグループAKB48の拠点劇場が八階にあることで知られている。ここはただのドンキではない。ちょっと怪しい。入口のパチンコ屋はいいとして、上の階にはアダルトグッズ、コスプレ用品、さらには時折、老人たちも紛れ込んでいるゲーセンがある。
 ビルの入り口周辺の壁面や柱は、AKBのPR写真で埋められている。その図柄は初期の人気メンバーが次々と「卒業」しても長らく放置されていて、独特の廃れ感を醸していた。ところが今回訪れてみると、それらが現役メンバー中心に刷新されていた。一人分しか幅のないエスカレーターの壁面に並んだヒット曲ごとの集合写真も、下部の階ではここ最近の曲のものに差し替えられていた。
 「10th Anniversary(十周年記念)」。ポスターにはそう銘打たれていた。結成十周年の画期なのだから、一新されても不思議ではない。でも、そんな当たり前はときに人を寂しくもさせる。
 平日の午後。エスカレーターで五階を通過した。ふと脇を見ると、老舗のメイドカフェの前に青年たちが無言で列をつくっていた。


 そんなAKBに私も一時期、はまった。といっても、わずか二、三年前のことである。「不動のセンター」こと前田敦子はすでに「卒業」しており、ブームもピークを過ぎていた。かなりの周回遅れのヲタ(ファン)である。
 はまったきっかけは思い出せない。「推し」のメンバーがいたわけでもない。むしろ、二〇〇五年暮れの結成から約二年間、演出を担った振付師の夏まゆみに心惹かれたくらいだ。彼女の「辛いときこそ、底力君に会えるチャンス」という自己啓発まがいの台詞にいたく共感してしまった。結局、この集団のテレビには映らない物語性にある日気づいて、それを覗きたくなったのだと思う。
 そうなると、職業柄もあって、まずは現場を押さえたくなる。AKB48劇場で公演が見たくなった。最初は何も知らず、チケットを買いさえすればいいと思っていた。そのくらい素人だったのだ。劇場のキャパは立ち見を含めて二百五十人。チケットの抽選倍率は数十倍である。取材にかこつければという友人のアドバイスもあったが、そういう「反則」はしたくなかった。過酷な抽選も物語の一片に違いないからだ。
 たしか八回目の挑戦でようやく当たった。チームAの公演だった。感激すべき「初体験」の感想はというと、正直、心が凍てついてしまった。
 当日の記憶をたどってみる。ドンキのビルには開演の一時間ほど前に着いた。一階の入り口には会議用の長机が置かれ、観客相手なのだろう、一パック二百五十円の弁当が売られていた。その価格が妙に印象に残った。
 八階の窓口で整理券をもらった。窓口からホール(その一角に劇場の扉がある)までの廊下の両側には、キャバクラかホストクラブのようにメンバーの額縁写真が飾られ、その先には百回以上通った初期のファンを讃えるプレートが並べられている。チケットがなかなか入手できない現在では、ありえない快挙だ。
 ホールには一昔前は「カフェ」があったのだが、当時は閉鎖され、二百円のコインロッカーがあるだけ。配管がむき出した天井からは二台のテレビがぶら下がり、繰り返しメンバー紹介の映像が流れていた。そこにポツリポツリ、当日の客たちが集まって来た。
 ホールの奥にはわずかなベンチが置かれ、数人の顔見知りが声を交わしていたが、その他の客は互いに見ず知らず。スウェット姿のお兄さん、定年過ぎのオヤジ、制服姿の女子高生らがスマホをいじりながら無言で立っていた。
 劇場の扉の前にはスーツ姿に尖った革靴、整髪料で髪を固めたキャバレーの古典的な呼び込みのような男が立ち、周辺に目を光らせていた。私鉄沿線の盛り場とでも形容したらよいのか、そんなムードが漂っていた。
 開演三十分前になると「STAFF26」とか背番号付きのトレーナーを着た従業員たちが、ホールの床に十番区切りの整理番号を記したボードを手慣れた様子で並べ始めた。客はそこに整列し、十人のグループごとの入場順が抽選され、それに従って劇場に入る。予備軍候補なのか、小さな女の子の手を引いた若い母親たちが優先されていた。
 劇場に足を踏み入れると、舞台への視界を遮る二本の柱があった。そこが倉庫だったころの痕跡だ。それぞれの柱の前には、マスク姿の用心棒のような若い男が舞台を背に立っていた。席の隣には常連らしき二人組がいて、開演前から盛んにサイリウムを振っていたが、顔の高さから上には振ってはいけない内規があるらしい。マスク姿が早速、二人組に近寄っては何やら注意していた。
 業界人風の中年男が、同伴ホステスのような女を連れて予約席に上機嫌でなだれ込んで来るのと同時に幕が上がった。舞台に駆け込んでくるメンバーたちのヒールの音が響く。
 目がいったのはそのヒール靴だった。アメ横なら千円ほどで売っていそうなショッキングピンクの靴。そして、ヒラヒラの化繊であろう衣装。その安っぽさが心に染みた。メンバー同士のMCは「○×チャンかわいい」という内輪褒めばかり。言葉につかえるたび、客席から「いいよー、いいよー」と薄気味悪い尻上がりのコールがかかる。斜め向かいの眼鏡のスウェット男子は、サイリウムを手に口を半開きにしていた。
 なんだか居たたまれなくなって、下を向いてしまった。公演の途中だったが席を立ちたくなった。ところが顔を上げると、舞台の上の名も知らないメンバーと視線が合った。その目力の強さに圧倒され、席を立つことを諦めた。
 ようやくアンコールも終わった。だが、帰り際のメンバーとの握手が残っていた。ホールに会議机が運び込まれ、その後ろにメンバーたちが整列する。長蛇の列の向こうに渡辺麻友の姿が見えた。見回すと、誰一人並んでいない子がいる。菊地あやか(すでに「卒業」)だった。行かざるをえないと思うが、そのころは彼女の名前すら知らない。差し出された手に「頑張って下さい」と言うのが精一杯だった。
 ビルを出て中央通りをそそくさと渡り、路地にある風俗案内所のような無人の喫煙所に飛び込んだ。一服しながら、四方に貼られたメイドカフェのポスターをぼんやり眺めてみる。ついさっきまで見ていた舞台と重なる。駅へ向かうと、街宣帰りの選挙カーが目の前を通り過ぎていった。ちょうど、東京都知事選の最中だった。選挙戦がどこか遠い世界のことのように思えた。季節は真冬。どこまでも寒い体験だった。


 散々な劇場体験だったが、公演の最中に何回か既視感に襲われた。大音響の中でそれがどこだったのかと自問し、最後に思い当たったのは遠い昔、自分が立っていた新宿二丁目の店のショータイムだった。
 その二つの世界はどこまでも近いように感じた。違いがあるとすれば、そうした店は酔客相手だが、AKB48劇場では素面の客が相手であるという点だけだ。二丁目と芸能界の境界は、薄いベニヤ板一枚で仕切られている。二丁目に芸能人の客が多いという意味ではない。実際、あの街に出入りしていた当時、どこかの「ウリ専」の従業員がいつの間にか芸能界デビューしていたなんて話はそう珍しくはなかった。本質的に芸能界はそうした社会の日陰と紙一重の位置にある。そのことは当時、すでに日本レコード大賞を二回受賞しているトップアイドルも例外ではない。
 もうひとつ、既視感を抱かせたのは華やかな喧騒に隠れたリアルと純情の匂いを感じたことだ。二丁目では、私が出入りしていたころはセックスもクスリもいとも簡単に手に入った。溺れて破滅する光景は日常だった。ただ、そんな地雷原のような街でも、一歩裏に回れば、先が見えない者同士の優しさや友情もひっそりと息づいていた。
 人は誰もが不完全だから、意図せずダークサイドを引きずってしまう。だが、そんな一面がときに光彩を放つ。社会が皴一つ見えない人工的な明るさに照らされれば照らされるほど、人は生身の不完全さとリアルな純情を本能的に求めてしまうのではないか。
 AKBの場合、少なくとも初期にはそうしたダークサイドを隠そうともしなかった。グループが世間に認知される以前の曲には、いくつかの「怨歌」がある。二〇〇七年四月に出されたメジャー三作目のシングル『軽蔑していた愛情』という曲が好例だ。

 〈テレビのニュースが伝える/匿名で守られた悲劇も/携帯のメールを打ちながら/絵文字のような日常/大人は訳知り顔して/動機を探しているけど/ピント外れたその分析は/笑えないギャグみたい/偏差値次第の階級で/未来が決められてる/もう頑張っても/どうしようもないこと/ずいぶん前に/気づいてただけ/私たち〉

 テーマは明らかに十代の自殺だ。メンバーたちが歌詞の意味をどれだけ咀嚼していたのかは分からない。それでも、この曲を歌う前田敦子の無表情は妙にリアルだった。前田に限らない。この時期、少なからず初期メンバーたちの表情には陰が宿っていた。実際、多くのメンバーたちは恵まれていなかった。「布団もなく段ボールで寝ていた」「楽屋で余った弁当を集めては、家族のために持ち帰っていた」「学校に友だちがいない『ぼっち軍団』たち」……。あまたある家庭環境の複雑さはファンの間で口伝えされた。
 AKBの黎明期を知る関係者から、こんな話を聞いたことがある。
「初期のころ劇場を訪ねると、楽屋の奥で三、四人の少女たちが寝泊まりしているようだった。当時は三回公演の日もあった。体力的には限界を超え、先も見えない。正直、よく辞めないものだと半ばあきれていた。世間からは『女衒商売』と後ろ指も差されていた。それでも他に行く場所もない子たちは懸命に劇場にしがみついていた」
 やたらと涙を流す集団だった。その理由を少女という季節にのみ求めることはできない気がする。集団の中では、スマホでは体験できない葛藤も純情もあったに違いない。華やかさと裏腹のリアル。劇場で感じた寒さは、彼女たちのそんな物語とどこかで通底していたのかもしれない。


 他のアイドルグループとAKBを峻別するのはヲタたちの存在だ。ヲタたちもまた、現象としてのAKBの重要な一翼を担っていた。
 「ああ、横山チームAの客誕ですね」
 公演を初めて見た数日後、ほぼ同世代の職場の知人にその体験談を紹介するや、即座にそう返答されて目を丸くした。ちなみに「客誕」というのは「客の生誕祭」の略だ。公演のある月に誕生日を迎える客だけが、チケットの抽選に申し込めるというシステムである。
 ちっとも知らなかったが、彼は古手のヲタだった。とはいっても、当人は「自分がはまったのは黄金期の前夜。黎明期からの『古参(ヲタ)』にはとても及ばない新参者」とあくまで謙虚だった。それでも彼には二期の初期メンバーに「推し」がいて、彼女が地方グループに所属が変わってしまった後も、ときに深夜バスで応援にはせ参じていた。出費は「総選挙」の応援を含めて、年によっては七十万円ほど使ってきたという。
 どうしてAKBがあそこまで売れたのかと素朴に問うと、彼は「あくまで私見ですが」と断ったうえで、こんな風に切り出した。
 「やはり原点は劇場でしょう。自分もかつては(AKB48劇場のある)あのビルに一歩足を踏み入れた時点で『共犯者』になった思いがした。自分のいかがわしさを隠せないというか。でも、犯罪者ってパワーあるでしょ。そのパワーがAKBを押し上げたんじゃないかな」
 かつてテレビ番組の制作会社にいたこともある彼によれば、女性アイドルのファン層は基本、中高生男子。ところが、AKBの黎明期はそうではなかったという。実際、平日に中高生たちが足繁く劇場に通えるはずがない。
 「彼女らの人気が爆発するまでのファンは圧倒的に三十代、四十代だった。それもフリーター系の若年オッサンたち。少年時代のアイドル好きを捨てきれない、いい歳をこいた大人たちが少女たちを追いかける。自分も含めてですけど、世間からはイカれた犯罪者たちと見られたって抗弁できませんよ」
 その証拠に、と彼は二期生による「チームK」の公演曲『転がる石になれ』でのファンのミックス(合いの手)を例に挙げた。
 「あそこで『気合いだ』とか『そりゃ、そりゃ、そりゃ、そりゃ』って盛り上がるでしょ。あの原型は一世風靡セピアですよ」
 哀川翔や柳葉敏郎らが所属した男性路上パフォーマンス集団「一世風靡セピア」が活躍したのは一九八〇年代後半。それから二十年の後、AKBは船出している。セピアを目の当たりにしていた中高生の少年が、ちょうど三十代半ばになっていた計算だ。
 ただ、この手の大人たちはアイドル擦れしている分、異様に目が肥えていた。その厳しい目が少女たちを磨き上げたのだという。
 「AKBというと、握手会商法とかばかりが注目される。でも、原点は劇場というあの穴蔵です。イカれた連中だって、自分たちが世間からそう見られているということぐらいは分かっている。負い目がある。そして、目の前にはやはり世間からはワケあり扱いされる不安定な少女たちがいた。両者の関係はエロとかロリなんて超越していた。ダメな大人男子とダメな少女たちの共犯関係の共同体みたいな……」
 そこまで言って、彼は懐かしそうに宙を見つめた。そうした初期の逸話に「ライダー伝説」がある。バイク好きだった指圧師のヲタ(通称・ライダーさん)が日々の応援の過労からか、ある日の公演直前、劇場のフロアで倒れて亡くなった。エリート進学校をドロップアウトし、キャバクラ経営を経て劇場支配人になった幹部スタッフは、その一介のヲタの通夜のために彼の「推し」だった二人のメンバーを連れ出している。当時、秋元康もこのファンのために追悼曲(曲名は『ライダー』)を書いた。
 世間から見れば「バカバカしい話」なのかもしれない。しかし、そうした世間常識に背を向けた共犯者たちの純情が、不埒と指弾された『女衒商売』の裏側には流れていた。


 まだ、AKBがマイナーだった二〇〇七年ごろの撮影だろうか。楽屋で仲間からインタビューを受ける前田敦子の映像が残っている。後輩メンバーの一人に「AKB48は前田さんにとって何ですか」と尋ねられた当時十五、六歳だった前田はこう答えている。
 「自分にとって何だろうなあ……。うーん居場所? 自分の居場所」
 家庭にはなく、学校にもない居場所。そうした思いは当時の楽曲とも同調していた。
 前出の『軽蔑していた愛情』はこのインタビューとほぼ同時期の作品だが、そのカップリング曲に『涙売りの少女』がある。いまのAKBでは聴けない類いの曲だ。

 〈この夜の片隅で/誰にも忘れられて/雑誌で見た/街を一人/泳いでる回遊魚/学校はつまらない/友達はメールだけ/海の底で/暮らすような/苛立つ息苦しさ(中略)もしも何か夢があれば/全力で走れるのに/今いる場所もその未来の/地図もない〉

 あえて共犯者という言葉にこだわれば、前田の語った居場所は「アジト」とか「秘密基地」と言い換えてもよいだろう。それは物理的にも秋葉原の元倉庫に担保されていた。
 思えば、一昔前は世間からわが身をかわせる隠れ家がもっと街にはたくさんあった。それらは「たまり場」なんて呼ばれていた。
 個人的に思い出すのは「SAV」だ。一九七〇年代の後半、渋谷の青山トンネルの脇にあった。いつもプログレとかジャズがかかっている喫茶店というか、飲み屋だった。半地下の店で、六本木通りに面した入り口の壁面にはゴシック体で「GENESIS」などバンド名が書き連ねられていた。高校生だった私は授業をさぼっては入り浸っていた。
 テーブルの上には「サントリーホワイト」とハイライト。手元には「月刊セブンティーン」と「mimi(月刊の少女漫画誌で、現在は休刊)」。似たような学生や高校生たちがいつも所在なげに集まっていた。渋谷だけでも、そんな店は何軒もあった。
 やがて街は浄化され、そうした隠れ家は一つずつ消えていった。いまのネット空間との違いは身体性だ。世間から隠れた生身の関係性だけが持つスリル。それが秘密基地の魅力であり、その醸成には物理的な空間が不可欠である。
 AKBがなぜ面白かったのか。その答えのヒントは、劇場という空間(秘密基地)をまず用意したという特異な戦略にあったと思う。それはヲタの隠れ家への飢餓感を確実に捉えた。ショービジネスに疎い運営集団の発想だったことは、劇場のセリの数が偶数(通常は中央が目立つように奇数)だったことからも明らかだ。だが、そんな素人の直感が結果的に百戦錬磨のプロたちの常識を凌駕した。
 実はこうした戦略はAKBに限らない。二〇一一年にメジャーデビューするや、三カ月後には武道館を満杯にした「SEKAI NO OWARI」(セカオワ)の歩みもよく似ている。京浜急行に空港線という旧貨物線がある。メジャーデビューの五年前、彼らはその沿線にあった旧印刷工場の地下に「まず仲間が集まれる場所を」と手造りのライブハウス(club EARTH)を築いている。


 共犯者たちがいた。彼らは日々、都会の極北にある秘密基地で宴を繰り返した。そこは世間に背を向けた窮民たちが唯一、人としての自己を回復できる空間でもあった。私が劇場で感じた寒さは、窮民にも共犯者にもなれなかった己の半端さにも起因している。
 唐突に剣呑ではあるが、アルカーイダにもAKBとの同時代性を感じる。彼らはアフガニスタンという地球の果てに、欧米が支配する世界の常識に背を向けた物理的な空間を拓いた。世界の欺瞞に憤る一部の若者たちはそこに吸い寄せられていった。ちなみに「カーイダ」はアラビア語で「基地」を意味する。
 でも同時に、AKBとアルカーイダには大きな違いがある。組織としてのAKBの目的はあくまで商業活動だ。全国の若年ファンという巨大マーケットにグループが進出し、テレビへの露出が活動の柱になればなるほど、劇場という原点は枯れていかざるをえない。売れれば売れるほど、その魅力が削ぎ落とされるループにはまる。セカオワもまた似たような道をたどっているように見える。
 「ようやく『卒ヲタ』できます」。職場の知人が少し寂しげにそう苦笑した。十周年の直前、立て続けに初期からのメンバーが「卒業」していった。彼の「推し」もその一人である。「推し」との切れ目は彼の好きだったAKBの物語との別れでもあるのだろう。
 人気メンバーが「神7」と呼ばれていた時代があった。人間が物神化の対象になるという倒錯した時代をいま私たちは生きている。
 生身が行き交う居場所は永遠には続かない宿命にある。いま、前田敦子の言っていたひとつの居場所が消えていこうとしている。「十周年」を迎えた劇場ビルを訪れた際に感じた寂しさはそこにあった。
 しかし、人はいつも居場所を求め続けてしまう。次の居場所はどこに出現するのか。もはや異空間にしか宿れない生身の人間に触れようと、私たちは日々漂流している。

(第2回 了)
(2016年04月01日掲載)

JASRAC許諾第9009285059Y38029号

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

ページトップへ