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深夜、目覚めた場所

資本が無軌道に人びとを苛む一方で、国家が国境の壁をせり上げている。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。私たちの居場所はいま、どこにあるのか――。開高健ノンフィクション賞受賞作家が、未曾有の規模で崩落する21世紀の「人間」を描出する。

第1回 流浪に浮かぶ祖国 

 人の背を少し超えるほどの街路樹が、夜の帳[とばり]にぼんやりと並んで浮かんでいる。一本残らず、金銀の電飾が施されていた。
「すっごくありきたりだろ」
 隣でハンドルを握っている中年男が前を向いたまま、苛立ち混じりにつぶやく。
「こんな街を美しいとかって言う奴、信じられないな。退屈な、本当に退屈な街だ」
 金ピカの街。たった一つ、光のない高層ビルが穴を開けていた。六十三階にあるバーが売りというホテル。中層の壁面が焦げていた。三日前の火災で、十数人が負傷した。
「あそこから火が噴き出していたときも、すぐ隣で大みそかの花火大会を続けていたんだ。この国の連中はいかれているよ」。近くには高さ世界一を誇る百六十階建て、八百二十八メートルの「ブルジュ(タワー)・ハリーファ」がそびえていた。
 アラブ首長国連邦(UAE)の商都、ドバイ。私の一年はここ数年、中東詣でで幕を開ける。今年はここに来た。隣にいる旧友のシリア人、ムハンナッドの「慰問」のためだ。
 ドバイにはかれこれ十五年ぶりだ。昔から南アジアの働き手が多い街だったが、アラブ臭さは一段と失せていた。投宿したホテルの前の通りを、フィリピンやバングラデシュからの出稼ぎ労働者たちが闊歩していた。
 宗教的な戒律は決して緩くない街だが、アザーン(イスラームの礼拝呼び掛け)はほとんど聞こえない。通りを歩くフィリピン人女性たちは長い髪をなびかせ、生足を短パンからさらけ出す。堂々とした掟破り。昼間の通りは、さながら国際窮民都市に見えた。
 そんなアジア人たちに感化されたのか、ムハンナッドはホテルにくたびれたポロシャツに短パン姿で現れた。五十六歳。元はスタイリッシュな男だったが、いまは無精ひげにやもめ暮らしの寂しさが漂っている。
「ドバイにはいま、たぶん五十万人ほどのシリア人がいる。昔からの住人もいるが、ほとんどが内戦から逃れてきた人たちだ」
 そう言う彼もその一人だ。ドバイにはサウジアラビアが支援する反アサド政権の衛星テレビ「オリエント」の拠点があるが、彼自身は特定の反政府組織に属してはいない。とはいえ、祖国のアサド政権には辛辣だ。
「だが、いまはここでも簡単に入国ビザや滞在許可が下りない。カネがあってもだ。オレの場合も、家族にはビザが下りなかった」
 ムハンナッドはかつてUAEの首都、アブダビの衛星テレビ「アブダビテレビ」のディレクターをしていた。そのときのコネで当人はなんとか入国ビザを取得したものの、妻と長女、それに長男にはビザは下りなかった。
 彼はいま、UAEのテレビ各局に求職している。だが、色よい返事はない。そんな愚痴をカフェで聞いていると、彼は突然「ここを出よう」とささやいた。後ろの席にワイシャツ姿の男が座ってすぐだった。
 言われるままに席を立ち、通りを歩き始めるや「後ろに来た男はシリアのムハーバラート(秘密警察)だ」と声を潜めて言った。
 でも、ここはドバイだろうと顔をのぞき込むと、彼は「連中はどこにでもいる。きっとオマエの写真も撮られたな」とおどけた。


 ムハンナッドとの出会いは二十五年前にさかのぼる。イラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が起きた。停戦直後の一九九一年四月、ジェイムズ・ベーカー米国務長官(当時)がシリアの首都ダマスカスで、同国のハーフィズ・アサド大統領(現大統領の父で故人)と会談することになった。湾岸戦争、ソ連崩壊と激震が続く中、「世界の火薬庫」を左右する対面になると世界中のメディアが色めき立った。  当時、湾岸戦争の応援取材で出張していた私も、隣国ヨルダンから陸路、ダマスカスに向かった。会談後の記者会見場は、ダマスカスのシェラトンホテルだったと思う。
 会場には三百人ほどの記者が詰め掛けていた。予定時間はとうに過ぎていたが、誰もがかしこまって待っていた。ところが、私の席のすぐ後ろで笑い声を漏らしている一群がいた。シリア国営テレビのクルーだった。
 耳をそばだてると「あのAFP(フランス通信社)の女はいい」「向こうのニューズウィークはどうだ」と盛り上がっている。振り返ると、リーダー格の男が「あんたは日本人か? あっちのBBC(英国放送協会)の若い女はいくつだと思う?」と屈託なく話しかけてきた。それがムハンナッドだった。
 会見は結局、流れてしまった。理由は忘れた。帰り際、ムハンナッドに長身のダマスカス大学の教授を紹介された。その夜、ホテルで何げなく眺めていたテレビに、その教授が解説委員として映っていて面食らった。
 きっと気が合ったのだろう。それからダマスカスを訪ねるたび、ムハンナッドの職場に立ち寄り、いつしか自宅にも招かれるようになった。
 彼は生粋のダマスカスっ子だが、祖父はシリアがまだオスマン帝国下だった時代にトルコ南部から移民した人で、ダマスカスで小さな織物工場を営んでいたという。他界した父親は軍のエンジニアだったが、家業も手伝う典型的な中産階級だった。
 ムハンナッドもテレビ局に勤める前は軍にいた。シリアが内戦に介入、実効支配していた隣国レバノンで情報関連の任務に就いていたという。「あのころは嫌なものをたくさん見た」。知り合ってから随分経った後、酒場でそう一言だけ漏らしたことがあった。その反動だったのかもしれない。テレビ局では後年、芸能や伝統文化ばかりを担当していた。


 彼と前回、ダマスカスで会ったのは二〇一一年の暮れだった。民主化デモが本格的な内戦に移る過渡期だったといえる。政治状況はどうあれ、彼は一言でいえば、成り上がっていた。スタッフを十人ほど抱える自前の番組制作会社を設立し、高台の新興住宅地に部屋数が六つか七つもある邸宅を新築した。
 当時二十一歳だった長女マリアムはダマスカス大学法学部、十九歳だった長男ソーマルは私立ダマスカス国際大学の歯学部に通っていた。二人とも快活で、アラビア語一本やりの父親と違って流暢に英語が話せた。ムハンナッドの五歳下の妻、サマルもいつもの笑顔で迎えてくれ、料理に腕をふるってくれた。
 こうした生活をムハンナッドの十三年間に及ぶ「出稼ぎ」によって手に入れた。一九九七年にシリア国営テレビからヘッドハントされる形で、アブダビテレビへ。そこで敏腕ディレクターという評価を得て、八年後にはサウジアラビアのMBC(中東放送センター)グループに移籍。芸能関係のプロデューサーとして活躍し、前年の二〇一〇年にダマスカスに戻ってきた。
 絵に描いたようなサクセスストーリー。新居で自慢の花壇を案内しながら、彼は「息子や娘は湾岸諸国での生活が長かった。だからダマスカスをほとんど知らない。そろそろ、祖国の伝統の偉大さを学ばせたかった」と話した。ただ、一拍おいて「でも、結局はオレも年をとり、故郷が恋しくなっただけかもしれない」と少し照れたように付け加えた。
 その夜、彼の自宅に集まった会社の部下たちはムハンナッドと同じイスラームのスンナ派の人も、政権を牛耳るとされるアラウィ派も、キリスト教徒もいた。その誰もがユーモアたっぷりに独裁政権をこき下ろしていた。
 それから四年。いわば「出稼ぎ」中の十三年間ですら一緒だった家族と離れ、彼はいまドバイの空港近くのワンルームマンションで暮らしている。狭い部屋だが、家賃は月に千七百ドル。ドバイの物価は東京から来た日本人をも驚かす。当然、自炊暮らしだ。彼は「仮に家族にビザが出たとしても、あの部屋で四人は暮らせない」と自嘲した。


 彼がシリアからの出国を決めたのは、昨年(二〇一五年)の八月だった。ある日、娘のマリアムが通う学部の建物にミサイルが落ちた。彼女は無事だったが、その週で二回目だった。「限界だ」とムハンナッドは断じた。
 その夜、妻と長女と話し合った。出国すれば、数カ月、いや最低でも数年は戻れそうにない。ムハンナッドと妻にとっては「生きているうちに帰れない」可能性も十分にあった。
「それはうちに限った話ではない。あの国を出た数百万人が同じように思っている。現体制が続く限り、ダマスカス空港に戻れば、その場で捕まる。例は腐るほどある。理由? 祖国の難局から逃亡した『裏切り者』だからだ」
 アサド体制は揺らいだものの、倒れる気配はなかった。むしろ、立て直しに向かっていた。それでも家族会議の結論は早かった。
「どうあっても殺し合いには加わらない」
「生活レベルより生命[いのち]を優先する」
 この簡潔な二点を満たすには出国という解答しかなかった。誰にも異論はなかった。
 家族会議の場に、息子ソーマルの姿はなかった。彼は一足早く二〇一二年の夏にシリアを離れ、エジプト・カイロの大学に転入していた。その直前、ダマスカスで秘密警察に拘束され、二日後に釈放されたものの、これが出国の契機になった。
「あの出来事はきっかけにすぎない。いま、ダマスカスにいるのは老人と女、子どもばかりだ。若い男はうんと少ない。というのも、アトランダムに徴兵されるからだ」
 ムハンナッドは状況を先読みし、ソーマルを出国させた。ドバイで縫製工場を営む別のシリア人にも会ったが、彼も息子二人を呼び寄せていた。理由はやはり徴兵逃れだった。数年前まで三十数万人いたシリア軍も、現在は十万人程度。兵員不足は甚だしい。
 ダマスカスに現在もとどまるパレスチナ人の友人は電話で、「最近は秘密警察が住宅を一軒一軒訪ね回り、息子はいないかと尋ね歩いている。息子が一人の場合、従来は兵役免除の規定があったが、いまは通用しない。かつて兵役は十八歳以上だったが、いまは高校生ぐらいでも徴兵されている」と話した。
 ムハンナッドの妻サマルと娘のマリアムは現在、ベルリンで離ればなれに暮らす。マリアムはシリア人の友人とルームシェアし、街の東端にある大学の修士課程で国際法や人権を学んでいる。内戦の体験を生かしたいという。サマルは西端のシリア人難民センターでボランティアをしつつ、難民プログラムでドイツ語習得と職業訓練に励んでいる。
 一家は離散した。ダマスカスにあった瀟洒[しょうしゃ]な邸宅は手放した。足元を見られてか、売値は買値の三分の一だったという。ムハンナッドは「それでも自分たちは難民になった平均的なシリア人の百倍は恵まれている」と語る。とはいえ、手持ちのカネは次第に減っていく。働かねばならない。しかし、肝心の職はなかなか見つからない。


「夕方、大学から出た。すると突然、後ろからついてきた車から革ジャン姿の男たちが下りてきた。名乗らなかったが、『秘密警察だ』とピンと来た。聞きたいことがあると、車に連れ込まれた。着いたのは看板のないビルの一室。荷物を取られ、尋問が始まった」
 カイロ西方三十キロにあるシッタ・オクトーバー(十月六日)市。その一角にある巨大ショッピングモールの屋外カフェで、二十三歳になったソーマルと再会した。そり残したヒゲが、随分と大人びた印象を与える。ただ、細い体つきは四年前と変わっていなかった。彼はいま、ここにある私立の現代科学・芸術大学の歯学部に在籍している。
 彼が拘束された当時のダマスカスは、血の海に沈む寸前だった。ソーマルは政治活動とは慎重に距離を置いていたが、友人の数人は民主化デモに参加していた。
「秘密警察の係官はそうした友人たちの名を一人一人挙げ、知り合いかと聞いてきた。もちろん知っていたが、知らないと答えた。すると間髪を容れず、殴られた。おそらく連中は自分を狙ったというより、周囲の学生たちなら誰でもよかったんだと思う」
 秘密警察が名を挙げた友人のうち、少なくとも五人が行方不明だという。「尋問はたいしたことはなかった」と話しながらも、彼はおもむろに右手のシャツをまくり上げた。二の腕に長さ五センチほどの傷痕があった。ナイフで切られた拷問の痕だった。
 ソーマルが拘束された日、なかなか帰宅しない息子にムハンナッドは嫌な予感がしていた。病院や警察に電話したが、手掛かりはない。やがて拘束の場面を目撃していた息子の友人から連絡があった。すぐに軍の時代に知り合った秘密警察の幹部に連絡し、居所を確認した。コネが効いたとはいえ、釈放は二日後だった。
 ソーマルは「自分はダマスカスに残りたいと言った。あんなことでビビったって周りに思われたくなかった。けれど、父は心配性だから。結局、親が勝手にアレコレ手配して、一週間後にはレバノンのベイルートに陸路で出国し、そのままカイロの大学に入学を申請した」と、その後の経緯を説明した。
 十月六日市にはシリア人難民が集住し、現在では日本の中華街のようなコミュニティーを形成している。アラブ世界でシリア料理やその食材の評価は高い。それが居ながらにして楽しめると、彼らが開いた飲食店にはエジプト人のファンも多い。
 二〇一三年夏に倒されたエジプトのムルシー前政権はシリアの反政府勢力と結び、ビザがないシリア人たちも熱心に受け入れた。だが、その後のスィースィー現政権は対照的な姿勢で、シリア難民への門戸を閉ざした。すでに滞在している難民が出国すれば、エジプトへの再入国はほぼ無理だ。そのため、エジプトでの生活に見切りをつけ、欧州へ渡るシリア人も少なくない。
 ただ、ソーマルには現在、留学生という合法的な地位がある。大学を卒業し、一年間の訓練期間を経れば、ほぼアラブ全域で通用する歯科医師の免許が取れる。エジプトの病院に勤務すれば、そのまま滞在を延長できる。
「最短で免許を取りたい。そうすれば、家族を助けられる。いまはひたすら勉強だ」
 一人暮らしの息子を案じるムハンナッドに頼まれ、ソーマルに友人のエジプト人記者を紹介した。「エジプトの役所とトラブルになったら、必ず彼に相談するように」と言い添えた。ソーマルは「いまは大丈夫。でも、もしドラッグで捕まったら、その時は警察に掛け合ってほしい」と冗談めかして笑った。
 彼と別れた後、一緒に来てくれたエジプト人記者に謝意を伝えた。彼は少し首をかしげて、ソーマルの目を見たかと言った。「赤かったな。ドラッグをしている若い連中によく見かける。ただの寝不足ならいいが、この国でも革命後、ドラッグ禍が深刻なんだ」


 ダマスカスでムハンナッドが立ち上げた番組制作会社は、ネット上にホームページが放置されているだけで、十人ほどの部下の大半はすでに出国した。兵役に就いた元ドライバーだけがシリアに残っているという。
 右腕だったカメラマンのスレイマーンはアサド一族と同じアラウィ派だったが、二〇一四年に逮捕された。三カ月の拘束後、精神的に不安定になり入院したが、その後、カタールに出国。現在は日雇い仕事で糊口をしのいでいるという。
 逮捕の理由はフェイスブックへの「自由を人民に」という匿名での書き込みだった。ムハンナッドは「アラウィ派の半分は親政権、半分は反政権だ。政権はアラウィ派に特別な忠誠を求める分、従わないアラウィ派の人物に対する弾圧はひときわ酷い」と同情した。
 女性ディレクターのザイナブは反政府運動にかかわった息子を失った。詳しい事情はムハンナッドも言葉を濁したが、彼女もカタールのドーハでウエートレスをしている。
 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、二〇一五年末現在、シリア内戦の犠牲者は二十二万人。人口の約半分の千二百万人が国内外で難民となり、隣国トルコの二百二十九万人を筆頭に四百三十万人が出国した。トルコあるいは地中海ルートでさらに欧州に密航しようとした人びとのうち、千二百人が海で死亡した。ただ、密航業者にカネを払うことができた分、彼らは経済的には恵まれた人たちだといえる。
 一方、反政府勢力の後ろ盾であるサウジアラビアなど湾岸諸国は、反政府組織の幹部らこそ優遇してきたが、避難を望む市民たちには一貫して冷淡だ。仮に入国を認めても、生活の安定を保障するような施策はない。
「湾岸の支配層にとり、アサドは敵だが、そのアサドを批判するシリア人の知識層も危険分子だ。彼らが掲げる民主化が自国の不満勢力と結び付けば、厄介なことになりかねない。だから歓迎するはずがない」。友人のエジプト人記者はそう語った。
 目の前で、アブダビテレビの幹部に電話をしていたムハンナッドはこう嘆息した。「来週には色よい返事ができるはずだと。同じ台詞[せりふ]はもう何カ月も聞いている。こういう口先だけの連中と同じアラブ人であることにほとほと嫌気がさしてきた。二月初めまで待つ。それでダメなら、オレも欧州に渡ろうと考えている」


 国際政治の場では、シリア内戦の焦点は当初のアサド政権の去就から、ダーイシュ(イスラーム国)の解体へと変わった。国内に足場を持たない反政府勢力に政権を取らせるなどという気運はとうにしぼんでしまった。
「ダーイシュは樽爆弾(円筒容器に爆薬や石油、金属片を詰めた精度の悪い爆弾)を住宅地に落とすアサドを殺せ、と青年らを集める。アサドは残虐なテロリストのダーイシュを取るか、自分を取るかと国民に迫る。要するに、両者とも持ちつ持たれつの間柄だ」
 ムハンナッドは退屈そうに続けた。「誰が権力を取ろうが、あの国がまともに戻るにはあと半世紀はかかる。息子の世代はシリア人同士の殺し合いを体験した。そのうらみは消えない。だから孫の世代が大人になり、どうするかだ。しかし、それらの大前提になる停戦すら、いまだ道筋が見えない」
 歴史は不確実なプロセスだ。国家が破綻することだって珍しくない。「そうだ。オレはそこを疑わず、勝手に成功したと思い込んでしまった。レバノンやイラクという例を間近に見ていながら、すっかりぼけていたんだ」。ムハンナッドは苦笑した。
 シリアという国家は壊れた。流浪の身となった君にとって、いま「祖国」とはいったい何を意味するのかと尋ねた。
「好むと好まざるとにかかわらず、自分がシリア人だということはこの厳しい状況が毎日、オレに告げてくる。じゃあ、別の国籍を取ったら楽になるかと考えても、自分がシリア人であることには変わりはないんだ。それが祖国ってもんだ。でも、その祖国っていうのは政権じゃない。土地かというとそれも違う。そこが地理的にシリアだとしても、シリア人がいない土地はオレにとっては祖国ではない」
 ムハンナッドはそこまで言って、たばこに火をつけた。「そこでだ、シリア人って誰だと考える。オレはシリア人が好きだ。シリア人って優しいんだ。だから、殺し合いをしているシリア人は、オレの信じるシリア人とは別人だと言っていい。オレにとってのシリア人が集まっている場所、その人間関係がオレの居場所であり、祖国だと思う。紙に書かれた国籍や旅券なんて二の次だ。だから、アサドもダーイシュもオレの祖国にはいらない」
 彼はスマホから一つの動画を見せた。ベルリンの難民施設を撮影したものだ。赤ん坊を背中にひもで括り付け、飲み物を手渡すドイツ人の女性ボランティアの姿があった。
「こういう人は国籍とか、宗教とかとは無関係に尊敬する。彼女と自分は祖国が違う。でも、どこの国の人間かということと人間性への尊敬は矛盾しない。だから戦争なんて一番バカらしいと思う。最近、自分がこうなって、そんな単純なことに気がついた」
 出国を決断した夜、家族で一つだけ誓い合ったという。それは一人一人がどこで何をして生きていくにせよ、「シリア人としての誇りを持って、同胞を守っていくことだけは忘れない」ということだった。ベルリンで暮らす妻と娘はその約束を守ろうとしている。
 そんなエピソードを話していたとき、彼のスマホからメールの着信音が響いた。短文で「マイナス九度」。メールに、雪を背にほほ笑むサマルの写真が添えてあった。

(第1回 了)
(2016年02月17日掲載)

田原牧

「1962年生まれ。87年、中日新聞社入社。名古屋社会部、カイロ支局勤務などを経て、現在、東京本社(東京新聞)特別報道部デスク。2014年、『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』で第12回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書に『イスラーム最前線』『ネオコンとは何か』『ほっとけよ。』『中東民衆革命の真実』などがある。

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