集英社新書WEB連載
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「酒場から酒場へ」

南條竹則

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

 

第7話 雪国

 人との出会いと同様、居酒屋とのつきあいもひょんなきっかけから始まることが多い。

 渋谷の道玄坂小路にあった「雪国」の場合もそうだった。

 道玄坂から東急本店の方へ抜けてゆくこの横丁には、「 かすみ 」という喫茶店や台湾料理の「麗郷」という店があった。わたしは大学時代、この「麗郷」を愛用し、ある時、父を連れて行ったことがある。

 その帰りに道玄坂の方へ向かって歩き出すなり、父がふと上を見上げて、言った。

新政 あらまさ がある。あすこでちょっと飲んで行くか」

 父は「麗郷」と反対側の、とある雑居ビルを見て、そう言ったのだ。

 このあたりには、当時まだほんのかすかに戦後のマーケットの 名残 なごり のような雰囲気が残っていた。露店の古着屋があり、その隣にバラックみたいな平屋の小さなパン屋があり、それを見下ろす三階建てのビルの二階に、「新政 雪国」と書いた看板が出ている。父が見つけたのは、それだった。

 殺風景な階段を上がってゆくと、二階の道路側の隅に 縄暖簾 なわのれん の入口がある。障子戸を開けると、中は典型的な田舎料理の店で、奥の方に形ばかりの小さな囲炉裏が切ってあり、壁には みの やカンジキがかかっている。

 向かって左側に調理場とカウンター席。右側が小上がりで、テーブルが三つ並んでいる。小上がりの壁の窓からは、例のパン屋と、その裏にある草ぼうぼうの空地が見える。

 その時、ほかに客はいなくて、年輩のおばさん二人がわたしたちを迎えた。

 おばさんの一人はおすがさんといって、料理をする。もう一人はイオさんといって、お運びをする。おすがさんは顔が長く、ややオデコで、眼が細かった。イオさんは丸顔で、派手な顔立ちだ。太っているが、若い頃はかなりの美人だったらしい。

 わたしたちはカウンター席に坐って、とんぶりやバイ貝をつまみに かん さけ を飲みはじめた。(ちなみに、とんぶりというのはほうき草の実で、見た目がキャビアに似ている。わたしはここで初めてこれを食べたのだと思う。)
 やがておばさんたちとおしゃべりが始まり、父は看板にある「新政」を飲みたくて、ここへ入ったのだ、と言った。

 それには、ちょっとした 理由 わけ があったのである。

 秋田県にA氏という大地主の旦那がいた。

 この人は藤田 嗣治 つぐはる のコレクターだった。

 藤田嗣治は一九六八年に亡くなり、フランスのランスの大聖堂で葬儀が営まれたが、大コレクターにして後援者を自任しているA氏としては、ぜひ出席しなければいけない。

 そこで、フランスへやって来た。

 その時、パリに住んでいるわたしの父親は人を通じてA氏の世話を頼まれ、ポンコツ車で一緒にパリからランスまで行ったのである。

 A氏は父に深く感謝し、のちに父が日本へ来た時、秋田へ んで、あたかも秋田中の芸者を総揚げといった感じで、盛大に御馳走してくれた。そして、土産に御当地の名酒「新政」を三本持たせてくれた。

 父はそれをパリへ持って帰ったが、途中、仕事でクウェートからアブダビへまわった。

 クウェートの税関を通る時、役人が「新政」の壜を手に取り、

「これは何だ?」

 と訊く。

 酒が 御法度 ごはっと のイスラム教国であるから、父は「薬だ」といって誤魔化した。

 ところが、税関吏はその壜を落として、割ってしまった。たちまち、あたりには薬とも思われぬ 馥郁 ふくいく たる香りが立ちこめたのだそうだ。

 残りの二本はパリへ持ち帰って、飲んだり、 他人 ひと に飲まれたりしたそうだから、薬だという言い分は通ったのだろう。それは当たり前だ――なにしろ百薬の長なのだから。


 父と「雪国」へ行ったのはこの最初の時だけだったが、わたしはそのあとも時々通い、いつのまにか渋谷へ行くと毎度のように立ち寄る店になってしまった。

 ここは年輩の客が多くて静かだったし、おばさんたちは話上手で、人をそらさない。口先の巧さというのではなく、人生の年輪を重ねて見識があり、さばけた人たちであるから、それこそフラレタ話でも何でもできるのだった。

「雪国」のつまみは、とくに変わったものはなかったが、美味しかった。

 思い出すのは、夏になると出て来た梅の蜜煮だ。青梅を蜂蜜だけでじっくり柔かく煮て、冷蔵庫で冷やしておく。枝豆と焼茄子の冷製とこれをつまみに、麦焼酎の水割りをよく飲んだものだ。

 冬にはハタハタ鮨や黒豆、それに鍋物が良かった。

 わたしは「雪国」で三種類の鍋を食べたのを記憶している。

 その一つは「鯨鍋」だ。これは秋口に出て来たのかもしれない。塩鯨、すなわち鯨の皮の塩漬と皮を剝いた茄子などを、味噌仕立てで煮るのである。鯨の皮はこんなに旨く食べられるのだと知った。

 二つ目は「きりたんぽ鍋」。これは今でも恋しくてならない。

 いつも看板時が近くなると、イオさんがきりたんぽをつくりはじめる。

 炊いた御飯を粒々が程良く残る程度につぶし(半殺しというやつである)、それでもって丸い木の棒を、ちょうどアイスキャンデーのような形にくるむ。それを網火で茶色い焦げ目がつくくらいに焼く。それから棒を抜いて、紐からブラ下げ、蔭干しにしておく。

 鍋にする時は、この手づくりのきりたんぽを切って、醤油味の汁で煮込む。具は ほか にささがし 牛蒡 ごぼう と、上等な鶏肉と せり だ。

 鶏肉は歯ごたえがあって美味い。芹は香ばしい。牛蒡や鶏のだしがしみたきりたんぽが、口の中でほどけてゆくあの旨さ――これは手づくりでないと、お話にならない。


「しょっつる」も店の看板だったが、これについては、こんな話がある。

 おすがさんは昔、渋谷の駅前、三千里薬局の隣にあった「みや古」という秋田料理屋で働いていた。この店は明治通り沿いに喫茶部があり、「らんぶる」のあった横丁の方に割烹の入口があったそうだ。

 ある時、この店にB氏というお客が来た。

 この人はさるやんごとないところの厨房係で、新しい献立をいつも考えており、参考のためにあちこちを食べ歩いていたのだった。

 B氏は「みや古」のしょっつる鍋が気に入り、

「出前ができるか?」

 とたずねた。

「どちらです?」

 とおすがさんが訊いた。

「場所は言えない」

「じゃ、どうやって持ってゆくんです?」

「こちらから取りに来る」

 日時を指定され、店ではしょっつる鍋を用意して待っていた。すると、立派な黒塗りの自動車がやって来た。

 B氏が出て来て、製法を書いた紙と一緒に鍋を受け取る。今晩、大切なお客様がいらっしゃるので、「しょっつる」を出すのだそうだ。といっても、「みや古」のしょっつるそのものを出すのではなく、これをサンプルにして、自分たちがつくるのである。

 B氏はさっさと車に乗った。

 そのまま走り出そうとする車に、おすがさんは あわ てて駆け寄った。

「お代は?」

「あとで払う」

 果たして、後日料理代が支払われ、B氏の勤め先がどこかも明らかになった。

 これは今の天皇陛下が美智子様と御成婚なさる少し前のことだったという。


「みや古」時代のおすがさんは、もちろんまだ若かった。

 きっと愛嬌のある娘さんだったのだろう。お客さんに可愛がられて御馳走してもらうこともあったが、ある時、こんな珍体験をした。

 新宿 十二社 じゅうにそう というところは、江戸から明治の頃賑わった行楽地で、熊野神社を中心に、滝があり、池があり、温泉が湧いた。ここには戦後も小さな花柳界が残っていた。

 ここのさる料理屋へ、 御贔屓 ごひいき のお客Cさんが、昼間おすがさんを連れて行った。店の女将さんに許しをもらって食事に誘ったのだ。

 ところが、料理屋へ入ると、Cさんは自分だけさっさと奥へ行ってしまい、おすがさんは座敷に一人通された。

 ぽつねんと坐っていると、お姐さんが次々に御馳走を運んでくる。

 おすがさんはそれを食べ、お腹が一杯になると、お土産を持たされて一人で店へ戻った。

 じつは、Cさんには奥さんの知らない男性の恋人がおり、その人とそこで逢引をしたのだった。おすがさんはカムフラージュに使われたのである。

 「雪国」のカウンターでこの話を聞いた頃、十二社にはまだ「新宿十二社天然温泉」という公衆浴場があった。わたしはあそこのコーラ色の湯につかりながら、座敷に独りポツンと坐って料理をつっついている女の子の姿を想像したものである。

 (第7話 了)

(2017年11月10日掲載)

南條竹則(なんじょう たけのり)
作者近影

1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。

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