集英社新書WEBコラム
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ポスト戦後思想研究会

ポスト・ポスト階級の時代へ?

―――階級・世代(年齢)・性別・民族(国籍)のintersectionality

報告者:上野千鶴子
討議:上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・千田有紀・開沼博・古市憲寿・徐玄九・鄭鎬碩
(司会:集英社新書編集部 落合勝人、2011年12月16日)※WEB掲載日は2014年6月20日

はじめに

 「戦後思想」の賞味期限は切れたのか?冷戦秩序と55年体制の終焉を迎え、私たちは従来の概念や理論の通用しない、未曾有の変化を経験している。私たちの生きる「いま」を記述し、分析することばは可能なのか?
 私たちはそれを「ポスト戦後思想」と名づけたいと思う。「ポスト戦後・思想」でもあり、「ポスト・戦後思想」でもあるこの新しい思想の実験を試みるために、「ポスト戦後思想研究会」は2010年にスタートした。1950年代には久野収・鶴見俊輔・藤田省三らが『現代日本の思想』を語り尽くした。それから半世紀後の2000年代に、私たちもまた「現代日本の思想」を語り合いたいと思う。本サイトはその研究会の討議記録を、同じ関心を有する読者と共有するために創設したものである。

「ポスト戦後思想研究会」編集委員
上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・北田暁大

第一部はこちら

第2部:討議

 上野さんに整理していただいて、ほんとうに頭がすっきりしました。
 僕の個人的な印象でも、ここで言われている状況に対して、政治経済学的にはフランスのレギュラシオン派とか、あるいは山之内【靖】ゼミでは戦後体制論みたいなので、あるいはフォーディズムからポストフォーディズムとか、いろいろ議論したみたいなんです。だから、そういう資本の蓄積体制、それから大衆社会、それから近代的な家族、そこにおけるある種の国家のヘゲモニーの状況というのが、いくつかのラグを伴いながら、進行していたんではないかなと思います。今日のこの上野さんの発表でよくわかりました。
 僕も、ダニエル・ベルにちょっと興味があって、よく読んだのは七六年のあの『資本主義の文化的矛盾』(講談社学術文庫、1976-77年)でした。要するに、近代的なエートスが全部終わって、ポスト資本主義精神みたいなものがアメリカで跋扈するという、おそらくポスト産業社会を目指したアメリカについてのある種の警鐘だったと思うんですよね。これも、僕もなるほどと思いました。
 それから僕自身は、これは住宅本位制資本主義とも言いかえられるし、やっぱり地価本位で、地価資本主義じゃなかったのかなと思う。猪瀬直樹の『ミカドの肖像』(小学館、1986年)で、堤財閥の西武王国を、鉄道と土地とデパートで描いていて、おそらくPARCO文化というのもそこから出てきた。それもほんとうによくわかりました。
 それで、幾つか質問があるんですが。やっぱり七〇年代が一番重要だったんじゃないかということは、僕もなるほどと思って聞いていました。特に決定的だったのは、ドルと金の兌換停止。七〇年にニクソンショックがあって、七三年に変動相場制に移るでしょう。ちょうどローマクラブの「成長の限界」が出たのが七三年。このときに、ベルも出ていると思うんだけれども。ちなみに言うと、あの金大中拉致事件も七三年だった。あれから、やっぱり資本の国境を越えたフローが可能になったと思う。それが、やがて八〇年代以降のここで言っているレーガノミックスとして、やがて金融IT化へと向かう地盤だったと思うんですよね。
 僕は七〇年代の末にヨーロッパにいて、スタグフレーションがひどいのを見てきた。あのときに、ヨーロッパは変わろうとしていたと思うんですよね。日本はもうすごい景気がよかった。で、やっぱりヴォーゲルの七九年の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出てくる。
 そこは、まるっきり同じ認識なんですけれども、中曽根よりもその前の大平内閣のブレーン・トラストが七九年に出した田園都市構想があるでしょう。あれが結構大きかったんじゃないかなと思う。
小熊 日本型福祉と、家族による協同をうたっていますね。
 そうそう。そのとき言われたのが、近代の超克論だね。日本型田園都市国家論、それから家族も公にあまり依存しないで、家族の中で福祉をやっていきましょうみたいな、そういう感じだったと思う。あれを僕は、ものすごく重要視して、そこを一つ上野さんが知っていらっしゃれば、何か少し説明が欲しいな。
 それから二番目は、このレジュメの一番最後のところなんですけれども、僕もトヨタ財団の仕事をしていたときに、ある方から、「これからはジョロウガイです」と言われた。ええ? と思って、何ですか? って言ったら、要するに女、老人、外国人で「女老外」だと、これをうまく使わなきゃいけませんと言われた。
 そこに、今度は若者を入れて、女老外プラス若者ということになるのかもしれないけれども。
上野 全部、属性変数なんですよね、女も、外国人も、年よりも、若者も。性別だけでなく年齢も、属性変数です。ほんとうは近代社会では、社会的変数としてはあってはならない変数なんです。属性変数に左右されない、というのが近代のタテマエですから。
 でも、ある意味で考えると、この女老外も若者も、結局、今の現状を見ると、意外と日本はうまくいっていなかったんじゃないか。それをどうお考えになるか。
 それから三つ目なんですけれども、七〇年代のああいう時代のときに、玉野井【芳郎】さんたちが言っていた環境経済学ってあったでしょう。僕もまるっきり同じで、ポリティカルエコノミーに移っていかなきゃいけないと思うんだけれども、その中で環境の問題というのはどういうふうに我々が考えていったらいいのか。70年代のいろんな可能性がいっぱいあったんだけれども、結局あれは今から考えると生かされなかった部分がある。僕は間違いなく再びポリティカルエコノミーの時代が来るんではないかと予測できるんですけれども、そのときに環境の問題をポリティカルエコノミーの中にどういうふうに組み込めるか。これを上野さんが考えていることがあったらお聞きしたい。
上野  大変おもしろい質問をありがとうございます。
 一番最初の日本型福祉社会については、私の同僚だった東京大学の武川正吾さんという研究者が、福祉オリエンタリズム批判という非常にブリリアントな説を唱えておられます。日本型福祉社会は、家族といういわば旧体制の残存物を利用した保守的なレジームではないと言っているんですね。そうではなくて、グローバリゼーションのいかなる時点で福祉国家化をスタートしたかによって規定される福祉レジームの一つの経路依存性だと言っているんです。
 というのは、福祉国家を早い時期に成立させたところは、再分配のシステムをつくり上げた後で、グローバリゼーションに突入していったためにその再調整ができるが、日本では73年にオイルショックで大きな波を浴びた後で、グローバリゼーションの波のさなかで福祉国家化を遅れてスタートさせた。そうすると、直ちに分配の原資の限界につまずいて、スタートとほぼ同時に福祉国家化の挫折を経験せざるをえなかった。そこで、訴えた資源が家族という資源で、この資源は旧資源ではなくて新資源である。そこで出てきた日本型福祉社会というのは、決して保守的なレジームではなくて、家族の戦後体制に乗っかった新しい家族主義、そのような新しいシステムなので、たんなる保守的なレジームとは言えない、という主張です。
 それがどうして福祉オリエンタリズム批判になるかというと、エスピン=アンデルセンを中心とするヨーロッパ系の比較福祉レジーム論者が、福祉レジームの三類型では日本が解けない、という。日本を論じるときに、日本が例外であり特殊であるという、ある種のオリエンタリスト的な視線を向けるのに対して、そうではなくて、もうちょっとグローバリゼーションと福祉国家の成立のからみで解いていったときに、もっとわかりやすく解けるということです。
小熊  エスピン=アンデルセンは、日本は南欧に近いという位置づけじゃないんですか。
上野  必ずしもそうではないですね。大きく考えれば保守主義レジームに入るかもしれませんが、日本は自分の分類の中に入らないということを言っています。
小熊 ドイツの福祉制度とアメリカの生活保護制度を導入したから、保守主義レジームと自由主義レジームの混合だ、といったことを書いていますね。とはいえいわゆる「日本型」とよばれるものは、やはり保守主義レジームに入るのではないですか。エスピン=アンデルセンのいう保守主義レジームは、ドイツやフランスも、イタリアやスペインも入りますから、かなり幅広いというかあいまいではある。けれども、その中でも南欧は家族規範が強いところで、出生率の低下も著しいし、若者の親との同居率も高いという位置づけをしていますね。
上野 ところが、日本では、南欧に比べるとコーポラティズムがすごく強いんですよ。だから、南欧型とも言えない。だから、どこに入れたらいいかわからないという反応が相当ありました。
 さっき僕は触れなかったけれども、いわゆるトライパーティズムというのか、コーポラティズム、ネオコーポラティズムの三者協議体制の、ヨーロッパは強かったじゃない。それがやっぱり崩れていくのは、どのぐらいの時代になるのか、やっぱり70年代後半? 80年代?
上野 だからコーポラティズムと家族の連盟を延命させちゃったんですよね。
 二つ目のご質問、「女老外」についてですが、これをうまく使えなかったんじゃないかとおっしゃいますが、極めて巧妙に抑圧的に使ったと思います。たとえば女性のパートタイム労働であり、定年制による高齢者差別であり、もう一つは研修生制度による外国人差別です。結果として、ジェンダーは移民国家における人種の機能的等価物の役割を果たしたと思います。
 三つ目の質問、環境は盲点でした。私の議論に出てきません。そういうふうに考えれば、生命と自然というのは、どれも経済外変数なんですよね。経済学の扱えない変数です。生命は体内環境であり、自然は体外環境であるとも言えるので、どちらも「環境」だと言えます。こういう経済変数としてコントロールできないものがカウントされざるをえないとして浮上してきたのが、70年代以降のことですから、それは主題として入れるべきでしたね。環境が出てこないのは私の限界です。ただ生命の再生産は考慮していましたから、自然環境でなく体内環境はカウントしていました。
 藤原保信先生が環境経済政治学と言っていた、環境倫理学、あの意味が、僕よくわからなかったんだよ、最初。今から思うと、先見の明があったんだな。

上野 ただ、私は環境を論じる人たちは、環境を広義にとらえて、体外環境と体内環境と両方含めて、生命の再生産過程も入れるべきだと思います。
編集  杉田さん、何かコメントがありましたら。
杉田 大変興味深い報告でした。あえてご質問すれば、介護の問題に関して、家族というものが悪い形で利用されてきた、それが今、外されていくことを評価された。ある種の日本型の企業も、かつてはある意味で保護膜的に機能していた面もあるわけですね、特定の正社員だけに対する保護ですけれども。それがなくなって結局むき出しの個人がグローバル化の中でとり残されていく。ウォーラーステインが指摘するようなグローバリゼーションの流れの中で、構造的に規定されていることは大きくは動かせないという前提に立つと、その中で、さまざまなひずみをもたらしたとはいえ、保護膜の役割を果たした家族や企業、あるいは労働組合も含めていろんなものを切っていくことのリスクをどう考えるか。個人が市場での競争の中に投げ出されるということでいいのかなと。
上野 グローバリゼーションのもとで家族が解体して個人になるというのは、あまりにシンプルな理解だと思うんですね。
杉田 いや、企業も含めてです。日本型企業が正社員に限ってですけれども、ある種の保護膜として機能してきた面は否定できない。それから、労働組合も、企業別という限界の中では。そういうものをすべて切って行っていいのか。国境についても、それを閉じて行くことに批判的でしたが、これも労働市場の国際化の中で、これまで日本国籍を持っているがゆえに優遇されてきた部分が既得権を失い、そういう、まさに属性によって不当に与えられてきた特権が剥奪されていくという過程を、いちがいに賞賛できるのかということです。そのように考えていくと結局は市場性、市場の中での話、競争力というもの以外になくなっていくのではないか。
上野 そう単純にはならないと思います。ウォーラーステインもこういう予測はしていますが、全体として世帯主労働者のシングルインカムで世帯を維持できるような賃金労働者が増えないであろうということを前提にしています。にもかかわらず、所得が低減したとしても、家族の凝集力がなくなるとは言っていないので、所得が低減したまま、例えばダブルインカム、マルチプルインカムという形で、家族の凝集力が維持されるということはありうるわけで。
小熊 そんなこと言っています?
上野 いえ、本人はそこまで言っていませんが。世帯収入が、シングルインカム構造からそうでなくなるということは言っています。
 だから、世帯主単独収入で世帯を維持できるような従来型の正規雇用のパイが減る。そこで市場の支配が全面化するかというと、もう一つ出てくるアクターが国家というアクターです。そこで行われるのが再分配の政治です。国家は市場にいろんな法的規制で介入していくわけだから、そうした再分配の政治をどうするかということが、政治的な争点になります。ただし、再分配の政治と言ったとたんに、再分配の範囲をどこに確定するかということが問題になりますから、国籍とか市民権がとても大きな変数になってきますよね。その再分配の政治と、排外主義ナショナリズムが結びつく可能性は出てくる。ヨーロッパは、そこのバランスで非常に苦慮しているわけです。
杉田 それはもちろんそうなんですけれども、例えば、先ほど外国人ケアワーカーの導入に言及されたわけで、これは落合恵美子さんとかが研究されていることだと思いますが。確かに、日本のキャリア的な女性が、ケアワーカーが入ってこないことによって思うように働けないという問題を除去するために、外国人ケアワーカーが入ったほうがいいかもしれない。しかし、そのことは同時に、グローバルな中心と周辺という構造が、外国人の主に女性の身体の上にあらわれるということにもなるわけなんですね。ですから、何を最適化するかということで、国内のジェンダー的な平等化を第一義に考えるか、それともグローバルな格差の告発に力点を置くかということによっても、解は変わってくるんですよね。
上野 はい、そのとおりだと思います。だから、そこは政治というものが介入する余地があって。
杉田 ええ。ただ問題は、現在、主権という概念がグローバル化の中で成り立たなくなりつつあっても、国民単位を前提とした民主政治以外に、政治的な決定の回路がないことにあります。経済がまさにグローバル化しているのに、政治はナショナルだという問題ですね。グローバルな、国境を越えた再配分に関して討議する機関がないので、どうしても国民国家の都合に引きずられてしまいます。
上野 そうですね。再分配について意思決定権を持つアクターは、今、国家以外にないですから。
杉田 ええ。国家というか、まあそれを支えている国民なんですけれども。
編集  小熊さん、どうでしょうか。
小熊 いろいろありますが(笑)。
 まずフェミニズムに対する評価から行きましょうか。上野さんは、60年代のフェミニズムが中産階級フェミニズムだったのは必然だったとおっしゃいましたけれど、そうだとすれば、今となってはその終焉も必然ですね。アメリカの場合には、階級は人種という形で代替的に表象されやすい。80年代末にアメリカでマイノリティから「白人中産階級フェミニズム」という突き上げがあったのは、アメリカ社会のポスト工業化のなかで、60年代に生まれた中産階級フェミニズムが終わった、ということの表現だったと思います。しかし日本では、階級は世代という形で代替表象されやすい。だから60年代生まれのフェミニズムに対する批判は、「団塊中産階級フェミニズム」という形になるでしょう。しかし実際には、フェミニズム内部からそういう批判が台頭するという形にはならないで、「フェミニズムは要するに団塊世代の流行だった」という形で忘れられようとしている、ということになっていると思います。
 上野さんは時代ごとに変遷しているように見えるけれども、実際は同世代・同階級の女性と伴走している、と思っていました。若い時は恋愛を論じ、長じて家族を論じ、やがてケアと介護を論じる。だから今後は、ずっとケアで行くのかなと思っていたら、今日ご提示になったように、ご自分自身も相対化し、同世代・同階級と伴走するだけではない形で時代に対応するような総合的構図も考えておられるようで、ある意味で安心しました。
上野 別に対応できるかどうかはわかりませんよ。今日の話は、たんなる状況認識ですから。しかも、こういうことを話す機会がないというだけで。
小熊 全体構図については、ほぼ異論はありませんが、幾つか疑問に思ったところだけ述べます。
 一つは、80年代にフローの平等がストックの不平等に転化したという問題のところなんですけれども、これは地価の上昇だけに帰するのは単純過ぎると思います。それはストックを買える、具体的には土地や持ち家を買えるというのは、正社員が圧倒的に有利です。また社内ローンとかが確立しているほうが有利ですから、給料が同じであっても、中小企業と大企業ではかなりの差があるはずです。
上野 賛成します。なぜかというと、相対的な賃金格差は縮小しましたけれども、企業規模別の生涯賃金格差は大きいですから。生涯賃金格差がストック形成と連動しますから、確かにおっしゃるとおりです。
小熊 また70年代の後半に、日本で平等が成立したように見えたのは、労働力のボリュームゾーンが若かったという効果も大きかった。60年代は若年労働者が不足して、中小企業も初任給を上げて、名目上は終身雇用をうたったところも多くなりましたが、その後は大企業との格差がどんどん開いていった。若い間は初任給ではそう大差がないし、また企業内でも大差がない。団塊世代が中年を過ぎたところで、大企業と中小企業、さらに大企業内部でも、格差が目立ってきたということがあると思います。
上野 それも言えますね。だから、初給レベルで比べれば、ほとんど差がない。
小熊 それを考えれば、その時期でさえ日本全体でフローの平等が成立していたのではなくて、二十代から三十代前半くらいまで限定のフローの平等であった、というふうに考えたほうがよくありませんか。
上野 それもありえると思います。
小熊 だから上野さんのお説は、私から見れば、上野さんの所属していた世代と階級のリアリティーを過大視している、というふうに映ります。
上野 にもかかわらず、中流感が非常に蔓延したことが言われておりまして。
小熊 気分が広がった、というのはあったでしょう。しかし実態として成立していた、というふうには、言えないと思います。そこは区別するべきではないですか。
上野 じゃなくて。例えば、中小企業の人たちも、ローンを組むことはできましたし。工場労働者が「会社員」を名乗るという慣行が広がった時代ですね。階層を問わず、妻が奥さんと呼ばれた。
小熊 マクロに統計をとっても格差が縮んだように見えたわけですが、それは人口のボリュームゾーンが平準化していたことが響いていた部分があったと思います。また二重労働市場は実はなくなったのではなく、若者と女性はその時代も使い捨て労働者であって、学生アルバイトと主婦アルバイトという形になっていただけでずっと一貫していた、という説もありますよね。だから、それは一時的に顕在化していなかった、あるいは目に入っていなかった、というふうにとらえたほうがいいんじゃないか。
上野 それを言うとしたら、日本における二重労働市場の存在を指摘しなきゃいけないんですが。にもかかわらず、村上泰亮さんのような経済学者ですら、新中間層論をひっさげて、日本はみんな平準化したって言い出したわけです。
小熊 ええ。だから、その二重労働市場は実はなくなったのではなく、それから若者と女性の使い捨てというのも、一時的になくなったように見えていたけれども、実は学生アルバイトと主婦アルバイトという形になっていただけであって、ずっと一貫していたという説もありますよね。だから、それは一時的に顕在化していなかったというふうにとらえたほうがいいんじゃないかなと、私は思いますね。
上野 かもしれません。ただ、一時的というと、それ以前からの階級構造はずっと持続して変わっていないということになるんですが、それが一時的なのか、それとも転換期だったのか。階級という変数はなくなっていないが、ここで登場してきたのは「新しい階級」という再定義を要求するような階級なのか、そこはわからないですね。
小熊 調べてみないことにはわかりませんね。でも私は、階級がなくなったというより、階級意識が希薄になった、階級という問題の立て方をしなくなった、というとらえ方をします。実態と意識は区別した方がいい。そこが一つのポイントです。
 二つめのポイントは、国際比較がちょっと単純過ぎないか。OECD諸国では、フレックス化しても不利にならない体制を進め、コーポラティズムが早く解体したというようなことをおっしゃいました。けれども、それはどこの国のことですか。何だか北欧やイギリスやアメリカのことが、かなりごっちゃになっているように思いました。
上野 比較的よく使われているデータが、OECD諸国の平均値です。北欧、南欧、西欧と中欧って、全部違いますけれども、その平均値と比べたとき日本との差が出る。それもある種のオリエンタリズム的な比較法だといえばそうなんですが、OECDの比較データに日本が入らないんですよ。OECDは平均が出るんですが、日本はそこに入らないので、OECD対日本という、そういう比較のデータが多いんです。OECDのあいだの地域差を論じろと言われたら、内部に立ち入らないといけないので、そこまでは余力がありません。
小熊 平均値といっても、社会体制としては北欧とアメリカでは随分違う対応をとっています。だから、ちょっと単純過ぎないかなというのが一つあります。
またそれは、OECD諸国の中の話ですね。日本を西欧やアメリカと比べるだけでいいのか。例えば韓国と比べた場合はどうか。あるいはNIESと呼ばれたところと比べたらどうか。最近、タイに行ってきましたけれども、タイも出生率一・四で、バンコクは〇・八ぐらいまで下がっています。そういうところと比べた場合どうか。七〇年代から八〇年代に工業化の最盛期を迎えたというのは、別に日本だけではないわけで、そういうところと比較した場合はどうかという視点はあるんですか。
上野 それは、データ帝国主義の効果でしてね。OECD諸国が比較可能なデータを最もよく整備しているからです。日本はそこに入っていないが、比較可能なデータを日本は日本で持っています。そのほかの国ではそれと比較可能な信頼できるデータがほとんど手に入らないので、比較がどうしてもそうなってしまうということです。
小熊 ただ、お話を聞いていると、OECD諸国の中で、日本だけが特異という話にどうしてもなってしまう。しかしそれは比較対象の選び方によるのではないですか。
上野 だから、そのような比較の仕方を、私が依拠している文献がやっているんです。
小熊 はい、わかりました。でも、それは意識なさってもいいのではないかなと。
上野 はい、もちろんです。だから、限定つきで言っています。他の諸国については、私は存じません。中国のデータと比べることは不可能ですし、タイのデータが信頼できるかどうかもわからないので。
小熊 わかりました。あとは細かいことですが、多分関心が一番おありになるところで言えば、日米欧の70年代のフェミニズムの比較の話です。日本とヨーロッパの共通性を強調なさって、アメリカとの違いを強調なさっていたと思うんですけれども、私はそれはどうかなと思います。これは釈迦に説法になりますけれども、私の印象で言えば、ヨーロッパは階級を忘れたことはないのではないか。階級を忘れたという意味では、日本とアメリカのほうが共通性が強い。だけど新左翼の影響を受けたという意味では、日本とヨーロッパのほうが共通性が強い。だから日本の場合には、階級意識がなくて社会主義の影響が強いという、ある意味でよくわからない形態ですが、そのなかで女性という枠を考えた。そういう形でとらえたほうが、私はいいんじゃないかなと思いました。
上野 ヨーロッパはそうかもしれませんね。
小熊 どうも上野さんは、日本のフェミニズムはアメリカから輸入されたというふうに、さんざん言われたというトラウマが大変お強いらしい。それでアメリカとの差異を強調されるのだと思いますが、だからといってヨーロッパに近いともいえないと思います。
上野 ああ、メディアがそうだったからですよ。アメリカの場合には、アメリカは階級を忘れたとおっしゃいますが、逆にアメリカは人種を忘れることがどうしてもできないんですね。
小熊 そうですね。ただそれも正確に言えば、70年代以後のアメリカは忘れない、ということですけれども。
上野 いえ、それ以前から60年代の公民権運動は、何しろ人種から起きたアクティビズムですからね。
小熊 でも、63年のベティ・フリーダンは、人種なんて要素を考えていたとは思えませんね。そこは別発生だったんじゃないですか。
上野 アメリカの女性運動は黒人の公民権運動に便乗したんですよ。
小熊 そうでしょうね。ほかはいろいろありますけれども、それはまた改めてお話しする機会があれば。
上野 小熊説だと、階級を一時期、忘れただけだと。
小熊 日本とアメリカはそうでしょう。ただ、日本では階級という形で意識されたかどうかは別です。日本の場合は、階級というよりも、中小企業と大企業とか、東京と地方とか、国立大と私立大とか、そういうもので表象しやすいのではないか。
上野 何という言葉で呼べばいいんでしょうかね、階級じゃないとしたら。
小熊 日本ですか。それは「格差」でしょう。
上野 たんなる格差?
杉田 大沢真理さんの「身分」という言い方は、非常におもしろいですね。身分は元々は生まれなんだけれども、今では生まれで決まるんじゃなくて、学校を出たときに身分が固定されちゃうみたいな、日本型の独自な理不尽さ。ある意味で、生まれで決まる以上に、理不尽さが意識されますね。
小熊 そうですね。階級というより、身分の方が意識されているのかもしれません。それでマルクス主義でいう階級という言葉がぴったりこなくて、階級は古いから階層だとか、階層でも階級でもないから格差だとかいう言い方を、次々日本語で発明してきた。
上野 階層を使うのは、別に階級が古いからという理由じゃなくて、階級概念が嫌いだからですよ。階級と階層は理論の出自が違います。



編集 若い方々にもご意見を伺ってみたいなと思うんですが。千田さん、何かありましたら。ジェンダーに焦点が当たった報告と討議でしたし、ご自身の研究を踏まえて、お気づきの点とかありましたら、教えていただきたいのですが。
千田 どうもありがとうございます。私は上野さんを結構長いこと見ていて、最近はやっぱり金融資本主義とかこういうお話に焦点を重ねていて、いつも新しい現象を追っていらして、失礼な言い方ですけれども、ご自分の立場を決めていくときに事象の新しさにあわせて、すごくうまくキャッチアップしていくなというふうに思う一方で、最近上野さんが、格差はオーケーというような発言をされているのに、興味深いなと思っています。
 もちろん、たぶん絶対的な格差というものはよくないということは前提としているんだけれども、相対的な格差というもの自体は、まあ当然の帰結というか、完全に原理的に否定することはできないんじゃないかというようなことをおっしゃっているのかなと、ちょっと思ったりもしたりしているところがあります。
 それで、73年から91年のあたりで、近代の延命というふうに言われて、日本型経営みたいなものを、どちらかというと否定的に評価されていたと思うんですけれども。やっぱり私は、日本の家族システムとかフェミニズムの問題というのは、この日本型経営の問題とは切り離すことというのはもちろんできなくて、その会社員【?】と専業主婦のシステムが、この日本型経営のところにはまた、つくられていったと思うんです。
 ただ、ここは何か昭和生まれの者として、ちょっと道義的に評価したいところがあって。もちろん、その日本型経営はすごく排除的なものですから、上野さんが利益集団と言われたのが、まさにそのとおりで、男性の正社員になれるような人たちの中での平等だったと思うんです。そういう意味では、高卒であれ大卒であれ、大企業や中小企業とか、業種であるとか、二重労働市場とか、いろんな問題はあるものの、それなりの平等、ある一定の水準というものを保証していて、そのときの結婚率みたいなものを考えると、多いときで98%ぐらいあります。女性が一人で生きていくことは許されない社会であったという意味では抑圧だけれども、ある意味結婚してその枠にはまっていったマジョリティにとっては、ある一定の経済保障をしてきたんじゃないかというところがあると思うんですね。逆に言うと、その重苦しさであるとか、その抑圧さみたいなものが近代批判、家族批判みたいなものにつながっていったと思うんですけれども、それが崩れていったポスト近代家族をどう評価するかという問題に、今度つながっていくと思うんです。
 理想の労働形態というものを考えたときに、どういうものが理想なのかなというふうにお聞きしたい。知らんと言われるかもしれませんけれども。フレックスレイバーはオーケーで、多分何かヨーロッパ型の社会保障などをつけたフレックスレイバーみたいなものを評価されるのかなと思うんですけれども。女と若者を使い捨ての労働力にというふうに書いているんですが、それはちょっと小熊さんとは意見が違うかもしれませんけれども、女と若者というものがすべて使い捨てになったというよりは、やっぱり95年以降、特に加速したネオリベのもとで、女と若者の中にも格差がすごく広がって、ある一部の女性は自立して、専門職につく、長期蓄積能力活用型とか、高度専門能力活用型になることはできたんだけれども、過半数の女性は雇用柔軟型になった。若者の一部も、やはりある種成功することが可能になったということで、やっぱり二極化なんじゃないかなと思っています。
 ネオリベみたいなものをどう評価するかということを考えたときに、一概にいい、悪いというのは、私は嫌なんですけれども、でもやっぱりある特定の層に関しては格差というような形でチャンスを与えたということは事実なんじゃないかと思って。そういうものあたりなんかを、どういうふうに評価されていくのかなということを、ちょっと漠然としているかもしれないんですけれども、お聞きしたいというのが一つと。
 その帰結として、婚姻インセンティブが高いにもかかわらず、非婚率が増加しているというような話なんですが。これ、よく今の格差の話をするときに、未婚率と賃金が確実に相関しているんだというようなグラフを使われることというのが多いじゃないですか。こんなに今、結婚したいのにできないんだというような言い方がされるんですけれども、これ同じ就業構造基本調査を使っても、年齢別に非婚率をとってみるとか、まとめるとかによって少しグラフにガタが来るところがあるんですけれども、やっぱり六百万から九百万のところでちょっと結婚率が下がるというのがおもしろいというか、興味深いなと思っています。婚姻インセンティブは確かに高いかもしれないけれども、一人で暮らしていくには豊かな層ですね、六百万から九百万というのは。例えば、親元にパラサイトしていて、年収六百万あったら結構いい暮らしができる層だと思うんですけれども、これが自立して専業主婦と子供というものを引き取る、共稼ぎでもいいですけれども、そういうことを主に想定すると、かなり生活水準が下がる層に関しては、お金の問題ではあるんだけれども、賃金が低いからとは言えず、かえって逆に、ある一定の賃金があるがゆえに、婚姻インセンティブが下がるというようなことを考えると、簡単に婚姻インセンティブというものがあるというふうに言い切るような最近の研究というものに対して、ちょっと疑問があって。
上野 今の六百万から九百万という年収は男性の話?
千田 男性ですね。男性で、それで一千万超えると、急激にやっぱり婚姻率上がるんですね。まあ一千万超えると、二人でも一人でも、そんなに変わらないというんじゃないかというふうに思うんですが。
上野 婚姻インセンティブが高いのは、女性限定で言いました。なぜかというと、婚姻インセンティブは、女性の場合は婚姻行動に結びつくが、男性の場合は結びつくとは限らないという仮説のもとに。つまり女は結婚したいと思えばできるが、男はしたいと思ってもできるとは限らないという意味です。
千田  あとは、今度は細かいことになるんですけれども、日本の場合の性革命の二つの指標のところで、非婚率の上昇というのはそのとおりだと思うんですが、出生率の低下のところで、上野さんは十代の中絶率の上昇で代表されたんですけれども、経過としては、多分平成14年ぐらいを山に、かなり下がってきていると思うんですね。私はむしろ聞きたいのは、できちゃった結婚みたいなもので代用するというのはどうなのかなとお聞きしたいんです。
 統計を見てみると、昭和の50年代あたりだとハネムーンベイビーというものが多いんですけれども、平成に入ったあたりから妊娠六カ月の山、できちゃった結婚の山と、十カ月の山というものがわりと均衡している。今は完全に六カ月の山はあるんだけれども、十カ月の山がほとんどなくなっているというような形ですね。ティーンエイジャーの結婚の八割ができちゃった結婚というところで代用したほうが、何となくリアリティーをあらわしているんじゃないかなと思っています。
 婚姻行動はあんまり変化はないんですけれども、例えば婚外子が一%よりずっと満たなかったのが、今二%を超えたとか。ここのあたりのデータはちょっと自信ないんですけれども、結婚しても子供がいない夫婦というのが五%を超えていたと思うんですけれども、今まで必ず子供をつくっていたのに、つくらない夫婦というのがやや増えてきているという。こういう変化というのは、上野さんにとって小さな変化なのか、数字的に小さいんだけれども、でも大きく考えていい変化なのかというのは、日ごろから気になっているところなので、アドバイスいただけたらありがたいなと思うんですけれども。
 あともう一つ、情報資本がイメージとしてどういうものなのか、お聞きしたい。自分が資本を持つだけじゃなくて、階層の再生産みたいなものを考えたときに、文化資本的なものじゃないんだというふうにおっしゃって、直感的に多分、文化資本って中産階級の再生産というものに結びついていたような気がするんです。それで、今そういうような形での再生産が可能になっていないということが問題で、情報資本とおっしゃったと思うんです。これなんか、例えばメリトクラシーからペアレントクラシーみたいな、親の教育戦略へみたいな話で、どういうふうに具体的にこんな現象として聞いているというイメージがあるのか。または、子供をつくる、つくらないというか、非婚者と既婚者との、まあ非婚者って子供持っていなかったら階級の再生産の勝ちも負けもないんですけれども、そういうところを含めて、階層と子供の問題というか、階層の再生産のあり方の変化の問題みたいなところで、示唆をいただけるとありがたいかなと思います。
上野 いっぱい聞かれちゃって、私が全部答えなきゃいけない理由はないですが、いろんな問いが有象無象に沸いていらっしゃることはわかりました。
 一番覚えやすいほうから。情報資本か文化資本かというと、経済資本を文化資本に転化することは可能だが、その逆は必ずしも可能ではないという命題があります。文化資本には経済資本に転化できる資本と、そうじゃない資本がある。
千田 両方があると、はい。
上野 その中で経済資本に直接連動するような文化資本だけを情報資本と呼ぶとする。例えば文化資本主義というものもあることはあるけれども、ここでは富の生産というか、利潤の生産に直結するような意味での資本の意味に限定的に使っています。経済資本に転化できない文化資本が山のようにあるわけですから、それは入れない。ですから文化資本主義と情報資本主義を区別しています。
 階層の再生産がどうなっているかについては、情報資本が学歴階層と直結する場合もあるし、そうではない場合もある。情報の中に国際移動による多国籍マルチリンガリズムという言語資本とか、あるいは異なる国籍による情報格差のような情報資本もあるわけで。必ずしも、文化資本に見るような階層の再生産と情報資本の獲得とは、一義的には結びついていないと。
千田 その場合は、ブルデューが言うように、ドメスティックな学歴みたいなものによって、ガス抜きされることによって階層が再生産されるというよりは、少しグローバル化の中でもう少し違うような階層の再生産ですかね。
上野 そうですね。むしろ金融資本主義と直結するような意味の情報資本ですね。そういう意味では、文化資本という概念を生んだ階級再生産論でいう「階級」概念のほうが、比較的クラシックな階級ですね。例えばベルのいう「新しい支配階級」のどこが「新しい」かは、まだだれにも定義されていないんじゃないですかね。その際、階級の定義に生産手段というクラシックな概念を使うとして、生産手段に情報が入るかどうか、入れていいかどうか。
 それと、階層の再生産に関していうと、文化資本が介在することによって、階層再生産における選別が行われています。例えば、経済資本をうまく学歴資本に転化できた子弟だけが再生産者、つまり遺産相続者になり、そうでない人たちは淘汰されるという、そういう教育による媒介変数も働いています。だから、すべての高経済階層の子弟が正統な遺産相続者になれるわけではありません。
 先ほどのデータのことですが、できちゃった結婚の上昇率で代替することはできないかについて言えば、私は性革命の指標に婚姻と性の分離を置いています。できちゃった結婚は婚姻と性の分離を否定するという規範ですよね。一たん分離していたものを、事後的に統合することによって、その規範の由来を忘却するという解決策なので、性革命の指標にはならないと思うんですが。データのなかでどのぐらいの数値の変化を、上昇とか下降とか考えるかですが、今のところ婚外子出生率二%程度は無視してよい程度の変化と考えます。なぜかというなら、OECD諸国では、婚外子出生率が二けた台で急速に上がっているのに、日本の数値はそこに及んでいないからです。
千田 そういう比較の中では、ほとんど無視してもいいような、蟻みたいな数字ではあると思うんですけれども。
上野 はい。相対的には日本は、デモグラフィックな変化の極めて少ない、家族規範、婚姻規範の安定した社会であると、外からは見られています。そう見られても仕方のないデータです。
千田 私は、やっぱりおもしろいなと思っているのは、例えばアメリカで婚外子出生率って、十代の妊娠の婚外出生率って80%なんです、たしか。そういうふうに考えると、日本のできちゃった結婚の比率とほぼパラレルというか、わりと似ているような気がするんですね。できちゃった結婚は、確かに結婚というような形で落とし前をつけているので、おっしゃるように違うと言えば違うのかなというふうには考えるんですけれども。
上野 ただ、何でこんなことを考えたかというと、離婚率と婚外子出生率の二つだけを指標にすると、日本の特殊性があまりに際立ってしまうからなんです。日本は家族において変化のなかった社会だと断定されてしまうので、そうではあるまいと。異なるデモグラフィックな尺度でも機能的に等価と考えられる指標を挙げるとすると、こういうものが挙げられるだろうと。
千田 90年代以降の離婚率の急増みたいなものは、あんまり関係ない感じですか。
上野 そこは非婚率と離婚率を合計すればいいと思うんですけれどもね。そうすると、かなり近くなりますよね。
 それともう一つ、すごく大事な質問は、こういうネオリベ改革が女性にもたらした変化を、ネガティブなものとだけとらえるかどうかというのは難しいところです。確かに、それが女女格差、男男格差をもたらしているので、その点では女性とか若者を、一つの均質な集団ととらえることはもはやできません。古市君が若者論は成り立たないと言ったように、その点では女性論ももはや成り立たないという宣告をする人もいるかもしれません。
 ただ、データを見ると、こういうネオリベ改革がジェンダーにもたらした効果というと、女女格差の中で、この変化がポジティブに作用した集団と、ネガティブに作用した集団をくらべると、後者のほうが数の上で圧倒的な多数派であるという事実がある。それは何といっても、現在の女性労働者のうちの三人に二人までが非正規であるという、このデータは動かせない。これは、やっぱり大変なことが起きたと思うしかないです。
小熊 しかし上野さん、そこは日本型と呼ばれた経営と、その日本の家族のあり方をどう評価するかで変わってくるのではないですか。七〇年代から八〇年代の時代に栄えたのは、女性の多数派に幸福をもたらして、高学歴のなかの少数派の女性に不幸をもたらした制度だったともいえませんか。
上野 どうですかね。社畜とDV妻の組み合わせは、低学歴の工場労働者のあいだにもありましたよ。
杉田 上野さんは、要するに同一労働、同一賃金的にすることによって、現在の正規、非正規みたいな線を、境界線をなくして、連続量にすれば、基本的にはいいというお考えなんですね。
上野 はい、いいと思います。現在よりはるかにいいと思います。
杉田 同一労働、同一賃金制の考え方?
上野 はい。同一価値労働のもとにフレックス労働の選択肢はあるほうがよい。
杉田 それで、一時デンマークとかで言っていたフレクシキュリティーみたいに、わりと解雇は容易、ただし福祉システムがあるから、解雇されても失業保険はきちんと出るとか、そういうシステムであれば、その辺は……。
上野 フレックス労働と雇用保障の組み合わせは多様なので、フレックス労働だが雇用保障があるという組み合わせもありますから。
杉田 そこの雇用保障のほうは、どうお考えですか。
上野 例えばパートタイム労働でも「期間の定め」のない労動なら、パートタイムで雇用保障のある人たちもいたわけでしょう。それが契約更新の打ちどめになって、かえって不利になりました。だから、フレックス労働で雇用保障があるというのが、労働者的には一番いいでしょう。フレクシキュリティーというのは、労働者と使用者とのいわば妥協の産物なので、解雇を容易にする代わりに、国家が手厚く保障するというやり方ですね。
杉田 そうです。それが、だけどさっきおっしゃったグローバル化の中でという圧力がある中で、そのぐらいのところは普通落としどころなんですけれども。
上野 フレクシキュリティーというのは、労働市場に政治が介入しているわけですよね。
杉田 そうです。もちろん、福祉、強力な福祉国家を目指していましたから。ただ、それも状況では維持しづらくなっているんですけれども。ただ、そういう理想としては……。
上野 解雇権を使用者側に与えるかわりに、バックアップを国家が保障していると。
杉田 そうそう、国家が代替すると、そういうことです。
上野 日本のパートタイム労働者というのは、雇用保障が比較的安定した、身分差別を伴う短時間労働だったので、その賃金格差を許容できる範囲まで縮小すべしと言ったのが、パート労働法でした。その許容できる範囲というのが、正規雇用の七〇%という賃金格差でしたが、現状はそれよりも大きい。七割でも私は少ないと思うんだけれども。
 95年以降、現場で何をやっているかというと、もうちょっとえぐいことをやっています。雇用柔軟型で景気調整の安全弁を果たす一方で、周辺労働力の基幹労働力化をやっているんですよ、使用者側は。パートとか派遣の人たちに、管理的で責任の重い仕事をどんどん振っていきながら、労動条件は上げないというね。責任と負担は重くするが、賃金は上げないというふうにやってきている。
杉田 それは、実感としてありますね。
上野 だから、その人たちにやめてもらっちゃあ、会社も困るんですよ、実は。
編集  あと、どういう家族の形態がありそうなのかということを、千田さんがおっしゃっていた質問が――。
上野 理想ったって、別に私の好みのように歴史が動くわけではないので(笑)。
編集  開沼さんはどうですか。まあ全体的な印象とかでも、個別的なことでも構わないんですが、お気づきのことがありましたら。
開沼 上野さんがネオリベ改革とおっしゃられた改革、それ以前の状況からこういった大きな変化みたいなのが80年代から現在まで続いてきて、構造が変動したという話はわかったんですけれども、その後も、ネオリベ的なと言えるものが、企業の側も、55年体制的なものを残す、護持するということが難しくなっていて、「女老外」を使えなかったという中で、どんどん厳しくなってきて、破綻するとか、あるいは別な形に、ネオリベ改革ではない方向が見えていくのか、そういった展望がこういったお話からはどういう見通しができるのかなというところを伺いたいなと思います。
上野 未来予測の冒険ですね。社会学者は普通そういうことをやらないようにしているんですが(笑)。大きなシナリオでいうと、ヨーロッパ型というか、労動鎖国状態を解禁して、低賃金労働者を大量に入れるシナリオがあります。そこは、労動開国によるソーシャルコストとベネフィットとのバランスが問題だと思います。かえってソーシャルコストがものすごく高くつくかもしれないので。仮にそういうことになった場合には、国内の高賃金構造は、一たんは緩和されるわけですが、そのかわり、膨大な高失業率と社会不安と治安の低下というリスクが生じるでしょう。
 おそらくそれをやってもうまくいかないだろうと思うのは、企業にとっては国内、つまり生活費コストがそもそもこんなに高くつく社会に低賃金労働者を入れるよりも、低賃金労働力のある国外に資本移転したほうが早い。ソーシャルコストは払わずにベネフィットが得られるので、そちらのほうを選ぶでしょうから、労働力の移動より資本移転のほうが早いでしょう。そうなれば国内では失業によって社会不安は拡大しながら、雇用は増えないという最悪のシナリオが起きる可能性があります。
 もう一つはそこで政治が介入して、再分配の政治をするというシナリオがあります。そうなると、再分配の政治といっても、税方式か保険方式かと問われる。日本は今まで保険方式でやりくりしてきたんですが、保険方式って要するに会員制クラブですから、会費を払わない人にはベネフィットは来ません。その中でおカネが回る、要するに花見酒の経済です。モノを生産しないで、サービスと賃金とを回すという形の花見酒経済をやりながら、全体として泥舟のごとく沈没していくか。どちらもあんまり明るい未来じゃありませんね(笑)。
 その泥舟に乗って、私たちよりも長期運命をともにしなければいけない世代の方が、ここでご発言なさるべきではないんですかね。
編集  そうですね。泥舟といえば古市さんとかかな(笑)。
古市 穴があいている船に乗ったことがあるので(笑)。
 題名に関してなんですけれども、「ポスト・ポスト階級の時代へ」と書いてありますけれども、これというのは副題にありますように、階級、世代、性別、民族の体系として、階級を通して体系化するという意味なのか、それとも結局は、属性変数としての世代とか性別とか民族というものが残り続けるのかということを、お聞きしたい。
 それに関連して、例えばさっき小熊さんが、日本ですとジェンダー論が無視されているみたいなことをちらっとおっしゃっていたと思うんですけれども、今の日本に関して、例えば女性のほうは、結局育児とか、出産とか働くこととか、全部引き受けなきゃならないというのもあるし、不遇な状況が残されているのに、なぜか女性論とかフェミニズムが盛り上がらないで、逆に若年雇用問題とかになると、また盛り上がるような素地がある。若者かわいそうという議論は、そこそこ盛り上がるけれども、女性かわいそうという議論は、なかなかフェミニズムの時代のようには起こらない。それがなぜかということを、お聞きしたい、これが二点目です。
 三つめが、ちょっとした確認なんですけれども、この三の若者論の運命というところに、若さ優位の時代という項目があったと思うんですけれども、それはわりと日本のことなのでしょうか。もしも日本でそういう時代があったのだとしたら、お聞きしたいんですけれども。三の若者論の運命の若さ優位の社会変動期の特徴という、若さ優位の時代というものが、これが日本にあったということなんでしょうか。あったとしたならば、例えばもしも仮に若さ優位だとしたら、例えば賃金構造にしても年功序列ではなくて、若いほうが賃金が高い。それこそ、「【聴取不可】=ペイフォー=ワーク」的なものだとしたら、若いうちのほうが労働時間がたくさん働けるんだから、若いうちのほうが、もしかしたら労動賃金が高いという構造もあり得るはずなのに、そういう時期は日本にはなかったと思うんですね。だから、その意味で、若さ優位というのは、これはどういう意味で使われたのかを、ちょっと確認したいなというのが三点目です。
上野 タイトルどおり、ポスト階級社会だと思われていた時代自体は終わったという意味です。じゃあ、その後に階級が最終審級に戻るかというと、それはありえない。階級に加えて先ほどあげたようなさまざまな変数がいやおうなしに登場してきましたから、それが互いに絡まりあう様相を考えるしかない。だから、ポスト・ポスト階級社会は、たんに階級の時代へ戻るわけではないということです。
 フェミニズムに関して言うと、その前に古市さんが「若者論に死を」と宣告したものが、新しい若者論と誤読されている。最近、古市さんがメディアに露出して、いろいろお書きになったり、インタビューにお答えになっていることを見ると、だんだんニュアンスが変わってきておりまして、この人はなかなか高い学習能力を持っていると感じています。わりあいとハードコアな返答をしておられて、最近の朝日新聞のインタビューでは、自分は若者論を否定するために本を書いたんだみたいなことをはっきりおっしゃっていて、向こうの誘導には乗らないという姿勢をとっておられるので、大変けっこうだと思います。
 それと同じように、若者論が成り立つような特定の歴史的条件がなくなったとするなら、それと同じように、ジェンダー論が成り立つ特定の歴史的条件が、なくなったとは言わないが、変容したという程度のことは言えると思います。が、それじゃなぜその格差等々について、若者はソンだと言われるが、女はソンだと言われないかというと、そこは解釈がかんたんで、だれが言っているかですよ。だれが言っているかというと、メディアと政治が言っているわけで、メディアと政治の主語はだれかっていうと、オヤジに決まっているじゃないですか。ほとんど男ですよ、大手のメディアを握っているのは。若者がソンだという言説は、男性の間にそういう問題が目に見えてきたから、初めて格差が社会問題として顕在化したので、ジェンダー格差があったときには、それは彼らの目には顕在化しなかったというだけのことです。
 本当をいうと、91年にバブル景気がはじけて以降、深刻なジェンダー格差は拡大しました。就職氷河期や就職超氷河期には就職内定率のジェンダー格差は年々拡大していたんですが、そういうことを問題だというメディアは、私の知る限りなかったですね。
 若さ優位がほんとうにあったか。この優位を経済的優位と考えるかどうかだったら、経済的優位はそれほどないでしょう。でも、若さ優位というのは、価値観において若いことがよいことと結びつくという意味でしょう。これはルース・ベネディクトの『菊と刀』(長谷川松治訳、社会思想研究会出版部、1948年)では、若いこと、新しいことがよりよいことと結びつくというのが変動期の社会の特徴だと一般的には言われています。
古市 それはあくまでも、文化的な存在としての若者というのが、優位な存在として取扱われたということですね。逆に今、高齢者のほうが優位だったりするということですか。
上野 比較老年学というのがありまして、高齢者の地位は社会変動の程度と反比例するという命題があります。
小熊 もう一つ言えば、社会が上昇移動して変動しているときは、若者の地位は上がります。社会が下降移動しているときは、若者の地位は下がります。60年代の若者が親に反抗するのは簡単で、親の決めた相手よりも私の決めた相手のほうが収入がいいし、仕事がいいし、学歴も高いしという(笑)。
上野 ジュリアン・ソレルのような上昇志向の強い若者を先物買いするんですよね。
編集  徐さん、どうですか? 今日の上野さんの発表というものが、ある意味韓国の例えば三十年、四十年の徐さんなりの社会経験と比べて通じるところが多々あるのか。若干、ちょっとこういうところが違うなというところがあるのかということを、ちょっとお伺いしてみたかったんです。
 私が韓国で生まれ育ったのでね、韓国社会の、例えば上野先生が発表されたように、正確なデータや数値なんかを知っているわけでもなくて。ただ、ほんとうに私が個人的にこういうことを感じたということだけを申し上げると、現代の韓国の経済システムといいますかね、政府のシステム、税のシステム、法のシステムということが、もちろん前からもあったんですが、基本的には朴正煕政権をどうしても基準にせざるを得ないし、朴正煕政権がつくった制度というものが、ある意味、日本の制度の悪く言っちゃえばコピーなので、この日本で見られる社会現象というのは、強度の差こそあれ、時間的なずれがあって、あらわれるような感じがするんですね。
 ナショナリズムの議論もそうだったし、大衆社会論の議論もそうだったし、ジェンダー論の議論もそうだったし。正確なことは申し上げられないんですけれども、上野先生の発表を伺いながら、この数字をプラス十にすれば、大体韓国の社会と似ているような感じがします。もちろん、専門的に研究されている方は、全く違うご意見かもしれませんけれども。
小熊 ただ、私の印象だけで言えば、80年代まではプラス十だったかもしれないけれども、90年代後半以降はマイナス十かもしれないという気もしないでもない。
 90年代後半というのは、金大中政権以後のことをおっしゃっているんですか。
小熊 IMF以降という意味くらいでしょうか。韓国は、工業化するのも遅かったけれども、おそらく国内市場規模が小さかったからだと思いますが、ポスト工業化の変動も早かったというのが大きいと思います。工業化社会的な部分は、韓国のほうが早く壊れ、日本のほうが長くもたせているという印象があります。
上野 長くもたせたツケがきているんですね。
小熊 持たせている要因の一つは、上野さんもおっしゃったように、80年代までに整備された社会保障です。一番財政赤字のもとになっているのは社会保障費で、しかもその七割は高齢者向けだというのは、よく言われることです。
上野 公共事業だって大変ですよ。
小熊 いまは公共事業は相当減って、社会保障費の負担のほうがずっと大きいですよ。(この座談会は2011年12月)
上野 今まで蓄積してきた負債は公共事業費じゃないですか。
小熊 でも、現時点では社会保障費です。
上野 現在はそうなっています、90年代後半に公共事業を縮小したから。80年代まで日本は世界で一番健全な財政を持つ国でした、アメリカは双子の赤字で。それが急速に変わったのは、あのとき不況の経済を立て直すために、公共投資をやろうと保守政権がかじを切ったからじゃないですか。
小熊 でも、公共事業は2000年代に切って、今では社会保障費のほうが、ずっと大きいじゃないですか。
杉田 やっぱり税金、税制の導入が遅れたということが大きいです。
編集  どうですか。鄭鎬碩(ホソク)さんがまだコメントしていないので。
 先ほど、ちょっと韓国社会のお話が出たと思うんですけれども、やはり韓国も、短い間にさまざまな状況が重なってしまって、日本よりもある面で言えば、もっと複雑な感じがします。日本と同じように、全世界的な同時代性といいますか、若者たちの虚脱感がものすごく広がっていて、それで、最近ベストセラーの中では『八十八万ウォン世代』という本も出たんですね。
 そこで非常に抵抗を感じることがありますが、つまりいずれにしても、親がお金を持っていれば子供は裕福だという認識が依然としてあって、その再生産の構造というのは全く変わらないという認識をみんなもっているんです。だから、その比較の単位としての個人とか世代というものをもって、社会の中で、現状が正しいとか正しくないとか、そういうふうに議論しても、その論じ方自体に対する反感があるわけです。
 日本でも、そもそも家族単位で労働のケアをして、家族単位ではじめて成り立つというシステムが揺らいでいる一方で、まだまだ韓国のように、今も家系で見れば、やっぱり階級の再生産というのが行われている部分がある状況だと思います。
 ただ、私が非常に興味を持っているのは、この中で「階級」という言葉です。例えば韓国の場合だと、「階級」という言葉は知識世界の中では、言説資源として力を失われてしまったというか、それにもとづいて作業をし続けている学者は非常に少なくなったわけです。日本の場合は、ある時期まで、「市民」という言葉を中心に作業をしていた人たちがいて、近年再び「階級」という言葉が再浮上するわけなんですけれども、デヴィッド・ハーヴェイがどこかで、状況を冷静に見て、これは階級問題だと思ったら、恥ずかしがらずに「階級」と言いなさい、と書いていて、非常に笑ったんですが。
上野 恥ずかしがらずに使っています(笑)。
 だから、アメリカにおいても、「階級」という言葉を中心に置いて議論をしていくことが、非常に難しい状況であったと。ただ、十年位前までは、多分そうだったかもしれないんですけれども、今はちょっと状況が変わっていると思うんですね。そこで気になるのが、今の日本の状況の中で、「階級」という言葉の言説的価値というか、それがどれぐらいの力を持っているかということについてご意見お聞きしたいと思います。
上野 言説のヘゲモニーを知識人というか、学問業界の人たちがどうやってつくっていくかです。階級という言葉をはやらせたいと、私たちが思うかどうか。
小熊 現状だけ言えば、日本で人気があるのは、階級より既得権です(笑)。官僚とか公務員とか、そういうね、正社員とか団塊とか、そういう言い方になりますね。
 周りで若者たちが非常に搾取されているというふうに言っているんですけれども、実際見てみると、親が会社のオーナーであったり、という場合もあるんですね。だから、日本の若者論は、現状にたいする対応としては理解できますが、それがちょっと私からすると、わからない点があります。韓国社会でいうと、まだ家系をベースにした再生産、相続による分配構造の再生産というのがものすごく強い。それなのに、階級ということを言えない、言えないというか、言っても、もういまさら古い議論か、と言われるという状況が非常に難しいなということを感じます。
杉田 さっき上野さんの話の中で、特にウォーラーステインとの関係で、雇用の希少性ということをおっしゃっていた。やっぱり今、所得の格差以上に雇用の安定性格差が非常に意識されていて、そのことを入れると、なぜ公務員が、給料が必ずしも高くないのに怨嗟の的になっているかということが、一応説明できるのかなと。だから、雇用さえ安定していれば、非常に既得権という形で認識されている。
上野 その点では橋下さんは、既得権益集団として公務員と教師に、うまく敵意を誘導しています。うまいですね、ほんとうに怖いです。
小熊 雇用の安定性だけではない。日本の場合には、雇用の安定性に社会保障もついてくる。年金も健康保険も、場合によっては社宅とか、そういうものがついてくる。単に安定性だけではないですね。
 もうひとつ、日本の場合は、閨閥による女性の社会上昇が少ない。タイとかインドとかを見ていると、企業を一族で持っているというケースが日本よりも多くて、有力財閥の女であれば社長とか首相になってしまうというケースがある。日本はそれが少ないから、統計上からいうと女性の社会進出率がそういう国より低く出る。
編集  もう十時過ぎちゃって、皆様お辛いと思いますので、とりあえず今日はこれぐらいにしますかね。
小熊 いや、上野さんはほんとうにご苦労さまでした。
上野 久しぶりにこんな話をする機会をいただいて、楽しかったです。

(了)

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