集英社新書WEBコラム
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ポスト戦後思想研究会

ポスト・ポスト階級の時代へ?

―――階級・世代(年齢)・性別・民族(国籍)のintersectionality

報告者:上野千鶴子
討議:上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・千田有紀・開沼博・古市憲寿・徐玄九・鄭鎬碩
(司会:集英社新書編集部 落合勝人、2011年12月16日)※WEB掲載日は2014年06月09日

はじめに

 「戦後思想」の賞味期限は切れたのか?冷戦秩序と55年体制の終焉を迎え、私たちは従来の概念や理論の通用しない、未曾有の変化を経験している。私たちの生きる「いま」を記述し、分析することばは可能なのか?
 私たちはそれを「ポスト戦後思想」と名づけたいと思う。「ポスト戦後・思想」でもあり、「ポスト・戦後思想」でもあるこの新しい思想の実験を試みるために、「ポスト戦後思想研究会」は2010年にスタートした。1950年代には久野収・鶴見俊輔・藤田省三らが『現代日本の思想』を語り尽くした。それから半世紀後の2000年代に、私たちもまた「現代日本の思想」を語り合いたいと思う。本サイトはその研究会の討議記録を、同じ関心を有する読者と共有するために創設したものである。

「ポスト戦後思想研究会」編集委員
上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・北田暁大

上野 今回はタイムスパンを少し長めにとって、ポスト戦後思想とは何か、いつからポスト戦後と言いうるのかということについて、歴史的な回顧をしてみたいと思います。こういう話を聞いていただける場があろうとは夢にも思わず、ありがたいと思って報告を用意しました。
「ポスト・ポスト階級の時代へ?」と題したのは、ポスト階級の時代だといったんは言われたが、ほんとうか?という問いからです。
 この手の話は七〇年代から説き起こすのが定石になっているので、その前後から今日までおよそ半世紀近い時間をフォローしてみたいと思います。

第1部:(無階級)大衆社会の夢

1-1、 予言者としてのDaniel Bell (1919-2011)

 ダニエル・ベルが最近亡くなりました。今さらのように、ベルは偉かったと思いました。ダニエル・ベルが預言者として果たした役割から話そうかと思います。1960年に彼は、『イデオロギーの終焉』The End of Ideology(岡田直之訳、東京創元新社、1969)という著作をすでに書いています。冷戦のただ中に、イデオロギー対立はもう終わったと言ったのです。
 さらに73年には、今から思えば極めて予見的な本を出しています。それがThe Coming of Post-Industrial Societyです。『脱工業社会の到来』(内田忠夫他訳、ダイヤモンド社、1975)と日本語で訳されておりまして、今回調べてみてよくわかったんですが、a Venture of Social Forecasting 社会予測という冒険」というサブタイトルがついています。社会予測とは、たしかに冒険つまり足場の定まらない投企には違いなく、当たるか当たらないかは何十年かすれば必ず歴史的に決着がつくあぶない賭けです。そういうことをこのときにやっています。すでに73年の時点で、産業社会は終わったと言っているんです。しかも、「豊かな社会」が到来して、その落とし子たちchildren of the affluent societyという新しい世代が登場していると。
 近代化とは何だったかというと産業化であり、産業化のゴールは何だったかというと豊かさでした。60年の『イデオロギーの終焉』まで戻ると、豊かさとその配分という点では、イデオロギー対立に見えた東西冷戦構造というのは、豊かさとその配分に至る手法の差にすぎなかったことになります。一方には自由主義市場経済があり、もう一方には社会主義計画経済という名の統制経済があり、それが60年の時点で、ほぼその勝敗の決着がついていたということです。
 50年代から60年代にかけて、アメリカは黄金期でした。アメリカ的なライフスタイルが、世界がうらやむ模倣すべきものになりました。この当時、冷戦構造の中で技術革新競争、宇宙開発や核開発等の競争がありましたが、あとからふり返れば、軍事技術に膨大な予算を投入していたソ連などの国策がどのくらい国民生活を犠牲にしたものであったかということがわかり、最終的には91年のソ連邦の崩壊で東西冷戦に決着がつきました。その決着が何だったかと言うと、豊かさによる決着でした。
 ゴールとしての豊かさとその配分については、西側諸国が勝った。そこで生み出された分厚い中産階級が、政治的な保守性の基盤となって、戦後政治の安定性を各国で支えてきました。日本もその例外ではなかったというわけです。
 ここで成立したのが大衆社会です。もともと大衆社会論には二つの系譜がありました。貴族主義的大衆社会論と民主主義的大衆社会論です。オルテガなどの貴族主義的な大衆社会論はヨーロッパ生まれですが、本来の意味の大衆社会論は、アメリカ生まれの民主主義的大衆社会論で、それが日本に輸入され、結果として大衆社会論はアメリカと日本で最も隆盛しました。なぜなら、ヨーロッパでは、階級社会は最後まで揺らがなかったからです。1970年代から80年代においても、ブルデューのディスタンクシオン(卓越化)という、いわば階級の再生産論が経験的に妥当するような階級構造が、ヨーロッパでは残っていたからです。
 mass societyという言葉は「大衆社会」と訳されていて、ほとんどの人が忘れているけれども、実はclassless「無階級」の、という接頭辞がついています。無階級大衆社会(classless mass society)が登場し、こうした大衆社会論に最もよく該当するのが、アメリカと日本であったということになります。
 大衆社会論の中で、豊かさが近代化のゴールだったとされたときに、近代化論の見直しが行われていきます。近代化というのはそれまで以下の三つのセットだと思われてきました。政治的民主主義、経済的自由主義に加えて、エートスとしての心理的個人主義、この三点セットです。このうち経済的自由主義を経済的産業化のオプションのひとつと考えれば、産業化の複数のバージョンの一つが自由主義経済であり、もう一つが計画経済であったという、そういう意味の比較経済体制論が成り立ちます。後になって比較経済体制論は、自由主義経済と計画経済とは、実は同じ産業化の異なる二つのバージョンにすぎなかった、という収斂理論が優位になっていきます。
 政治的民主主義、経済的自由主義、心理的個人主義の三点セットを達成した社会だけが真の近代社会であり、この近代化モデルに合致するのはヨーロッパ型近代化しかないと思われていました。しかし、この三点セットをみんなばらしてみれば、最終的に産業化というゴールに到達した社会であれば、そこに至る経路は複数あってもかまわない。計画経済も、場合によっては開発独裁すら、近代化の一バージョンである。最終的には豊かさと、その配分がゴールであるということになると、いずれも同じゴールに収れんしていくということになります。そうやって、みんな大衆社会になったというところで、これでフランシス・フクヤマ(『歴史の終わり』渡部昇一訳、三笠書房、1992年)のいうように歴史の終わりになればよかったんですが、実際はそうなりませんでした。

1-2、新しい格差の誕生? The new ruling class?

 驚くべきことに、ベルは73年の『脱工業社会の到来』で、すでにthe new ruling classの登場を予言しています。73年ですからものすごく早い時期です。そこで言っていることは、いわゆる知識経済Knowledge economyとか、情報資本主義information capitalismというものがこれから登場してくるという予測です。
 これまでのマルクス主義的な定義では、階級とは生産手段の有無によって資本家階級と労働者階級が定義されてきました。したがってこの定義は客観的な定義で、階級意識の有無を問いませんでした。ところが、そのような客観的な階級の定義が終焉を迎えます。
 それから、格差が始まるわけですが、これを何と呼んだらよいでしょうか。かつてと同じ階級という用語を使っていいかどうか、階級の再定義をする必要があると思います。新しい身分制社会と呼ぶ人もいます。
 ところで、情報格差、知識格差が生み出す富、その富が交換され流通する最大の市場とは、金融市場であり、物財よりも情報が優位に立つのが金融資本主義です。考えてみれば、貨幣とは究極の情報商品ですから、貨幣に信用力を与えるという人々の合意がなくなれば、貨幣はただの数値であり、紙っぺらに過ぎません。電子マネーとかは、もはや、経験的リファラントとしての紙幣すらない、ヴァーチュアル空間上の数字だけですね。
 そのようなもともと見えない無形のものであった信用力を増殖させていくための一つのツールが、情報格差であるということになっていく。そこで、新しい支配階級が登場してきて、これが経済資本から情報資本(これを文化資本と呼ぶべきではないでしょう)へと展開していくというふうなことを、ベルはこの時点ですでに言っています。

1-3、日本の場合

 この時代に日本はどうだったでしょうか。
 日本は60年代にアメリカ型モデルを目指して高度成長を経験し、家族の戦後体制をつくりました。今さら言うまでもないサラリーマン・専業主婦体制のことです。回顧的に裏から見れば、社畜とDV妻カップルといってもかまいません。この日本型近代家族を容れるハコをつくったのが、住宅私有本位制資本主義でした。命名したのは建築家の隈研吾さんです(『建築的欲望の終焉』新曜社、1994年)。隈さんが最近書いたエッセイ、「僕が影響を受けた五冊」の中に、私の『家父長制と資本制』(岩波書店、1990年)が入っていましたので、私が隈さんを引用して言うのは本末転倒なんですが。彼は私から借用したアイディアを、住宅に援用したわけです。戦後、フローをストックに変えていくという、持家志向が起きました。これで新中間層、すなわち守るべきストックを持ったサラリーマンと専業主婦のカップルが、戦後保守政治の非常に安定的な基盤になっていきました。
 戦後政治は一体何をやったかというと、このようなフローの分配と、ストックの形成への政策的誘導をやりました。分配の政治を考える際、フローだけを考えるのでは不十分です。戦後政治がストック形成にいかなる誘導をしたか。それが、住宅を一つの焦点にしていたことは、非常に重要だと思います。
 それと同時に、戦後政治は人口の質と量の管理もしました。その過程で産児制限、いわゆる家族計画が行われていきます。日本は1960年代に、合計出生率が5ポイント台から2ポイント台に半減するという人口転換を、わずか十年間という短期間で、いかなる政策的強制も誘導もなしに、つまりインドや中国のような強制や誘導なしに、自発的な国民の意思決定だけでなし遂げた、世界の人口統制優等生国になったのです。出生率抑制政策は、その後思惑をはずれて行き過ぎたことになるわけですけれども、少なくともその時点では、標準世帯と言われる夫婦と子供二人からなるいわゆる標準世帯が大衆的に成立しました。それも当事者たちの意思決定によって自発的にでき上がったという点で、人口統制が非常にうまくいった社会でした。
 それと同時に、労働の統制と管理がおこなわれます。この時期に、いわゆる日本型雇用を産んだ日本型経営の三点セットが大企業を中心に急速に普及していきます。日本型経営の特徴と言われる終身雇用制、年功序列給与体系、それから企業内組合の三点セットの起源は、その実日本ではなく1920年代のアメリカであるということは、すでに指摘されていいます(平成10年版厚生白書「少子社会を考える-子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を-」)。それが戦後、日本に導入されて、大企業を中心に60年代に急速に定着しました。それが、政治的な保守主義とがっちりと結びついて、戦後保守政治の安定をつくり出しました。
 戦後保守の基盤には、三つの層がありました。一つが自作農です。今日まで、自民党はこの自作農からなる農協政治にがっちりと足場を置いてこれを守ってきましたし、現在、小沢政治もまたここに足をかけています。二つめが、都市の商工自営業、これも戦後保守政治の基盤になりました。町工場の経営者や商店主など、いわゆる旧中間層です。それに加えて、三つめがサラリーマン、すなわち新中間層です。
 高度成長期はサラリーマンの時代と言われましたけれども、雇用者比率が自営業者とその家族従業者の比率を上回ったのは1960年代の半ばです。ここに、会社員と専業主婦の時代、が生まれました。安月給取りの妻が、「奥さん」という身分不相応な名で呼ばれるようになりました。ブルーカラーの工場労働者も、自分の職業欄に「会社員」と書く時代が来ました。この時代、ホワイトカラーとブルーカラーの賃金格差が相対的に縮小していきます。学歴間賃金格差も同時に縮小していきます。高卒で働いて四年目の賃金と、大卒初任給がほとんど変わらないぐらいになりました。その後の賃金カーブが違うので、生涯賃金では格差があるんですけれども。
 この背景に、60年代急速に高等教育の大衆化が起きたことがあげられます。世代としての高学歴化、つまり親世代よりも子世代、いわゆる団塊世代が、集団として親世代よりも高学歴化したのです。それと同じ世代としての高学歴化がその後の団塊ジュニアについても起きています。考えてみれば、この高学歴化は時代と世代の効果であって、その世代に属する人々の能力が高かったわけでは一切なかったということがわかります。

1-4、日本の大衆社会論

 この時代に、いかなる大衆社会論がはやったかというと、これも回顧的に見ると非常によくわかることがあります。
 比較体制論は、冷戦体制下では経済学の主要な課題でした。村上泰亮などのリベラルエコノミクス系の経済学者は、比較経済体制論から出発しています。何を比較していたかというと、自由主義経済と計画経済の比較をしたのです。
 この比較は歴史的に勝負がついてしまいました。優秀な経済官僚による統制経済より、自由な市場における自由なプレイヤーの意思決定の集積のほうがはるかに経済合理性が高い、ということが証明され、自由主義経済が勝利したのです。計画経済は資本主義経済に対して優位性を持たないことが明らかになってしまったために、経済学の主題は比較経済体制論から比較資本主義論に移行しました。その後90年代に躍り出てくるエスピン=アンデルセン(Espin-Andersen)の出自は比較経済体制論です。彼は比較福祉レジーム論者ということになっていますが、彼を世界的に有名にした『福祉資本主義の三つの世界――比較福祉国家の理論と動態』(岡沢憲芙・宮本太郎監訳、ミネルヴァ書房、2001年)は比較資本主義論をやっていることになります。ここでは資本主義かそれとも社会主義かではなくて、資本主義の多様な形態ということが問われるようになっていきます。
 日本の場合、そのちょうど転換点になったのが、70年代の大衆社会論争というものでした。その大衆社会論争の一方の旗手が村上泰亮さんです。彼は新中間層論(『新中間大衆の時代――戦後日本の解剖学』[中央公論社、1984年])を唱えて、日本では階級社会は終わったと主張します。これに対抗したのが、マル経派の岸本重陳さんです。いいや、そんなことはない、日本では階級はまだまだなくなってはいないと主張して論争が生まれました(『「中流」の幻想』[講談社、1978年])。一般の心理では階級はあったと思います。なぜかというと60年代、学歴格差はまだ牢固として残っておりましたので、それがその後の就職先の企業間格差、生涯賃金格差にも影響しました。ですが、学歴間賃金格差は相対的に縮小し、電化製品やマイカー等のマイホームのスタンダード・パッケージは平準化しましたから、高卒労働者が大卒労働者をうらやまなくてもすむ程度の生活水準が達成されました。どちらかといえば、企業間賃金格差のほうが大きかったくらいです。これが70年代に急速に変わっていきます。
 70年代から80年代にかけて、大衆社会論は大隆盛を見ます。80年代の前半になると、マーケッターの周辺から、小衆論/分衆論とが出てきます。小衆論/分衆論は、大衆社会論を否定したものではなく、大衆社会論のサブバージョンに過ぎません。無階級大衆社会を前提にして、差異がバーティカルからホリゾンタルになった、あるいはバーチャルになった、つまり実体的なものから単なる記号的なものになった。したがって、差異に実体的な根拠がないので、全く差異が読めなくなった。記号論的な「差異の戯れ」のような議論が、この当時もてはやされたわけです。
 このときすでに、徐々にですが、確実な変化が起きていました。象徴的な出来事として、85年に小衆論/分衆論に水をかけるような本が出ます。小沢雅子さん――長銀の調査室にいた女性で竹内宏さんの弟子です――が、85年に『新「階層消費」の時代――消費市場をとらえるニューコンセプト』(日本経済新聞社)という本を出します。この本は、小衆論/分衆論なんていうけれども、実のところは金持ちは高いものを買い、貧乏人は安いものを買っているだけだということを、データにもとづいて赤裸々に示しました。
 単行本が出てから四年後に朝日文庫になりました。私は実は、ご本人に頼まれて、文庫版の解説を書いているんですが、四年のあいだに変化が起きました。85年の単行本のタイトルには「階層消費」のところに括弧がついているのが、89年の文庫版では括弧が消えて『新・階層消費の時代』となっています。この時までに、階層格差は明らかに見えるようになったのでしょう。副題も「所得格差の拡大とその影響」に変わっています。これも回顧的に見れば、85年のSSM調査で、戦後初めて世代間社会移動率の低下が指摘されています。ですから、90年代後半から2000年代の階層論者の間の格差論争は、私には既視感が強く、格差論に萌芽があったとしたら、日本では85年だと思います。
 このときに職業世襲率が上昇していることを、SSM調査の関係者がすでに指摘しています。このあたりから、いわゆるブルデュー的なディスタンクシオン、つまり階級の再生産が、生産手段の有無といった実体的な定義によってではなく、学歴階層という文化資本を媒介変数として再生産されるようになったといえます。つまり、ブルデューが日本で受け入れられる素地が登場したのです。
 ここで見ておかなければいけないのは、そこで起きた格差は何の格差だったかということです。少なくとも70年代まで、日本社会は所得格差すなわちフローの格差を縮小する方向に動いてきました。ホワイトカラーとブルーカラーの賃金格差や学歴間格差の相対的な縮小、それとよく言われることですが、企業のトップとボトムの賃金格差の相対的な小ささが指摘されています。つまり日本では企業経営者の報酬が諸外国にくらべて相対的に低く、その分社員との賃金格差が小さかったのです。日本は70年代、階層間の所得格差がスエーデンに次いで世界で二番目に低いと言われていた社会です。いわゆる一億総中流社会を短期間でも達成したのです。ですから、中流社会は幻想だったという人もいますが、一定の根拠はあったわけです。
 フローの平等化を目指して、富の分配をずっと促進してきた社会で、80年代に初めて格差が生まれます。というのは、ストックの不平等化が起きたからです。戦後、持ち家をストック形成として追求してきた、その政策誘導の結果、バブル期に地価の上昇が起きました。庶民がストック・ゲインを労せずして手に入れるという時代がやってきます。
 日本におけるストック・ゲインは、土地という不動産資産の上昇によって得られるもので、金融資産の上昇ではありません。バブル経済のときに、日本人は何であんなに浮かれ回ったかというと、庶民がストック・ゲインの利得にあずかったからです。自分たちもまた、バブルに踊った共犯者であり、利得の分け前にあずかった人たちなので、犠牲者面はできないのです。
 フローを営々とストック化してきた戦後世代は、そのストックを60年代、70年代、80年代のいつの時点で形成したかで、初期費用に対してストック・ゲインの割合が著しく違うことになります。実際に大きなストック・ゲインの利得にあずかって、そこで勝ち逃げした人たちもたくさんいます。私の知っている人でも、世田谷区内40坪の土地を手放して、地方に行って巨大なビルを建てた人とか、そういうわらしべ長者みたいな人が実際にいました。あのとき、日本の土地の総額でアメリカ全土が買えると言われました。そういう時代が一瞬ありました。
 ストックの不平等化が起きると、フローに相対的な平等があっても、可処分所得に不平等が起きます。だから、首都圏にストックがあるかないか、つまり持ち家があるかないか、その家をいつ建てたかということで変わってきます。この可処分所得の不平等化が、消費の不平等化につながります。ここで、首都圏ジュニア、しかも親と同居のパラサイトシングルが、独身貴族として脚光を浴びてくるようになります。晩婚化が進むのもこの時期からです。女性にしてみれば夫のインフラより親のインフラに依存するほうがずっと容易でかつ安定性が高いでしょう。
 ストックの不平等化がこの辺で出てきたというのは、戦後一たん焼け跡ですべてがチャラになった後、順調に地価が上昇していった結果でした。日本では上がった地価は絶対に下がらないという「土地神話」がありましたが、これがバブルの崩壊で崩れます。それまでは、ストックをいつ形成したかで、明らかに格差がありました。それまではフローに関しては相対的な平等感を、学歴、職種にかかわらず人々が享受していました。だから、そのフローの相対的な平等性が大衆社会論の受け皿だったのが、思ったよりも賞味期限が短かったのです。70年代から80年代前半にかけてのおよそ十年間しかつづかなかったと、今から思えばいうことができます。回顧的に歴史を裁断するというのはこんなにラクなものかというほど、後から振り返ってみればよく見えますね。
 今日その世代が高齢者になって、問いが二つ浮上しています。一つは、いったん形成したストックの再フロー化はありうるか。これは、ありえます。超高齢社会ですから自分の老後資金にこれまで形成してきたストックを再フロー化する可能性はあります。第二に、ストックを形成した親世代にパラサイトしてきた子世代はこれからどうなるか。ストックがすでに所与として与えられているために、親もストック形成を誘導せず、本人たちもストック形成意欲をメンタリティとして持たないで育ってしまった世代が団塊ジュニアです。こういう子世代を育てたつけが、親世代にも当然回ってくるので、この次の時代はどうなるかわかりません。
「中産階級」のマルクス主義的な定義は、身もふたもないものです。中産階級とは「運用可能な資産の保有者」というものです。つまり、不動産にせよ金融資産にせよ、市場に投入可能な資産を持たない者を、マルクス主義的には中産階級とは言いません。ですから、「中流」という言葉はたんなるレトリックで、自分が住むための持ち家を持っているだけの資産形成をした日本の庶民は、実は「中産階級」とは呼べない人々です。駅前にパーキングロットを持っているとか、貸しビル一丁持っているとかという人しか、中産階級と呼んではいかんのです(笑)。

2、ジェンダーの主題化

 ここで初めてジェンダーが登場します。1960年代から70年代にかけて、大衆社会論がもっとも隆盛したその時期に、ジェンダーが主題化します。これも回顧的に考えれば、階級というものが後景化して初めてジェンダーが前景化するということです。逆に言えば、ジェンダーとはthe last social valuable that countsですね。つまり、それぐらい社会的な差異としては主題化されない、最も自然化された、最も本質化された最後の差異だということです。
 これを見事な日本語で表現した人が、女性学の研究者の駒尺喜美(1925 - 2007)さんでした。「(自分の目の黒いうちに)区別が差別に昇格した」と。区別というのは本質的な区別のことですから、豚と人間を比較するバカはいないでしょう。けれども、差別というのは、不当な区別のことですから、そこで初めて「同じ人間なのに」という差異が主題化されます。そのぐらいジェンダーというものは、社会的な差異として主題化されることが最も後回しになる差異なのです。だから、他のすべての差異が後景に退くまで、主題化されることがなかったといえます。
 考えてみれば、アメリカにおけるリブの母と言われるベティ・フリーダンの著作 Feminine Mystique――『新しい女性の創造』(三浦富美子訳、大和書房、1965年)と日本語に訳されていますが、素直に訳せば「女らしさの謎」でしょう――が出たのが63年。彼女は郊外中産階級の高学歴の専業主婦でした。日本でリブが誕生したのが1970年。日本では、リブはアメリカの輸入品であるという誤解が流通していますが、それはたまたまウーマン・リブという片仮名言葉を採用したことのツケが来ているだけで、その背景にはフリーダンが問題化した大衆社会的な女性の状況がその頃までには一般化していたといえます。ウィメンズ・リベレーションwomen's liberationという用語は、アメリカ産の用語です。ヨーロッパ語圏でより広く使われている用語は、ウィメンズ・エマンシぺーションwomen's emancipationです。アメリカとヨーロッパとでは、用語も、背景も違います。
 日本のリブはアメリカの輸入品だと言われましたが、それ以前にニューレフト・アクティビズムが、global simultaneityつまり世界同時多発的に起きていました。ニューレフト・ムーブメントと、ウィメンズ・リベレーション、ウィメンズ・エマンシぺーションとのあいだには非常に強い関係があります。ニューレフトの中から初期のウーマン・リブが生まれたといってもかまいません。初期のウーマン・リブのアクティビストたちは、ニューレフト・アクティビストたち、もっと言うと、同志に失望した女闘士たちであったというのは、日本でもヨーロッパでも共通の傾向です。
 一方で、ニューレフト・アクティビズムを世界同時多発性と呼んでおきながら、ウーマン・リブをそう呼ばない理由はありません。日本におけるリブはアメリカの輸入品だという見方の中には、大きな誤解と偏見、一つはすべて邪悪なものはアメリカから来るという保守派の偏見と、女はすぐ西洋にかぶれるという女性差別があって、両者のミックスだと考えられます。
 女性解放運動にも、地域差がありまして、アメリカ、ヨーロッパ、日本ではそれぞれに経路依存性があります。アメリカでは、ウィメンズ・リベレーションwomen's liberationはcivil rights activism【公民権運動】と連動しています。公民権法には男女平等条項があります。人種差別のレトリックを性差別に適用して、「人種による差別を受けない」という法律のなかに「性による差別」を加えたいきさつには、政治のアイロニーがありました。
 これもよく知られた逸話ですが、公民権法案を通す直前に、それに反対しようとした南部出身の保守派の議員が修正案を出して、その修正案ごと公民権法案を葬ろうとしました。その修正案とは、「性による差別を受けない」という条項でした。その修正案を提案した保守派の議員にとって、それはちょうど豚と人間と同じように扱えと要求するような提案のつもりであったのに、それがほとんど審議もされずに通ってしまう番狂わせが起きました。
 その後、アメリカの女性運動はこれに勢いを得て、公民権法案に男女平等条項を入れたのだから、アメリカの憲法にも入れようというERA(Equal Rights Amendment Movement)運動が起きます。アメリカの憲法である連邦基本法の中には、男女平等条項がないのです。アメリカの押しつけ憲法と言われる日本の憲法には男女平等条項があります。これは押しつけだからできたと言われています。当時アメリカにすら成立していなかった男女平等条項が日本の憲法にあるのは、ニューディール政治家たちが母国で挫折した夢を、占領国で実現しようとした理想主義のたまものであったと、そして当時占領軍にいたベアテ・シロタ・ゴードンさんのエピソードなどが語り継がれています。
 1989年、このERA運動は、最終的に敗北します。というのは、連邦議会でいったん可決された後、アメリカは諸国の連合ですから、各国政府つまり各州議会が批准をしなければならないのですが、期限内に四分の三の州に達せず、あまつさえ折からのバックラッシュの過程で批准した州すらそれを取り消す動きがあって、男女平等条項は成立しませんでした。したがって、今日に至るまで、アメリカの連邦基本法には、男女平等条項がありません。アメリカのウーマン・リブは公民権の中から起きました。その代表的な主流派フェミニズムが、全米女性機構NOWです。
 これに対してヨーロッパでは、ニューレフト・ムーブメントと、ウィメンズ・エマンシベーションが非常に強く結びついています。この背後に、60年代のマルクス・ルネッサンスがあったことは記憶すべきことです。60年代当時、ハンガリー動乱(1956)とプラハの春(1968)によって、ソ連への信頼は、ヨーロッパ・マルクス主義者の間で失墜していました。60年代以降、ヨーロッパでマルクス・ルネッサンスが起こり、マルクス再解釈の試みが生まれます。ヨーロッパでは、ソ連があるからマルクス主義者であるのではなくて、ソ連があるにもかかわらずマルクス主義者であるということが重要なのだと言われるぐらい、ヨーロッパ・マルクス主義はソ連の対抗思想になっていきました。このいわゆるニューレフト・ソーシャリストの中から、失望した女性社会主義者disappointed women socialistが生まれます。彼女たちがその後ウーマン・ソーシャリストからソーシャリスト・フェミニストになっていったという経緯があります。
 日本では田中美津さんによる「リブは十月十日、新左翼の胎から月満ちて生まれた鬼子だ」という名文句があります(『いのちの女たち』田畑書店、1972年)。リブは、たしかに鬼子でした。初期のリブの担い手たちには、新左翼の女性活動家たちが多かったようです。ここで思想的に注意すべきなのは、新左翼が最も激しく対立した旧左翼との断絶が女性のあいだにもあったことです。旧左翼の支配下にあったいわゆる社会主義婦人解放論とリブとのあいだには、人的・思想的に断絶がありました。それだけでなく戦後の女性運動、主婦連とか母親大会のような伝統的婦人運動とも、人的・思想的な断絶が起きています。
 日本のリブの中で問題化されたのが、婚姻と主婦の問題でした。その背景には、60年代から70年代までのあいだに、サラリーマン・専業主婦体制のもとに主婦の大衆化が起きていたということがあります。人口誌学的なデータを見ると、団塊世代の主婦化率が最も高かったといわれています。
 そこで、婦人問題論から女性学へのパラダイム転換が起きます。女性学が輸入学問として登場したときに、婦人問題論を専門にしていた年配の女性研究者たちは不快感を示しました。日本にはすでに婦人問題論という研究分野があるのに、何を今さら女性学などということ新しい研究分野をつくらなければならぬのか、流行と舶来思想に弱いはねっ返りの若い女たち、というふうな目で見られたと思います。
 これも回顧的に思えば、婦人問題論は社会問題論、すなわち社会病理学の一下位分野でした。私はいつも「婦人問題」をひっくり返して「問題婦人」と言っていますが、「婦人問題」とは社会問題としての「問題婦人」の研究でした。具体的な研究対象には、例えば工場労働者の分娩異常とか、売春婦の更生問題とかがあります。ほんとうに問題婦人たち、つまり正常と考えられた女性の規格から逸脱した女性たちの問題が、社会問題として論じられてきたのです。
 女性学が登場した当時、主婦研究のススメがありました。原ひろ子さんなどが主婦研究のススメを説かれたわけですが、なぜかというと、主婦であることが女の規格品であり、上がりだったために、正常なライフコースを歩んでいる女性には問題がない。したがって社会問題の対象にならないと考えられていたからです。そこに膨大に存在するにもかかわらず、研究対象として手つかずである状況を、わたしは「暗黒大陸としての主婦」と呼びました。主婦研究は戦後の婦人問題論の盲点でした。主婦論争というものはありましたが、研究対象として主婦が浮上したことは少なかったのです。女性学が成立して初めて主婦とはどういう存在であり、主婦がやっている労動とは一体何であって、そもそもそれは労動なのかどうなのか、労動だとしたらいかなる労動なのかというふうな問題が成立し、家事労働研究から不払い労動論へと発展していきました。
 後からこの当時成立した第二派フェミニズムを、主婦フェミニズムと呼ぶ人もいます。小熊さんからも中産階級フェミニズムであったと言われておりますが、わたしはそれで何が悪いと思っています。この時期のフェミニズムが中産階級フェミニズムであったことには、歴史的な必然がありました。このときに、「問題としての女性」から「問題としての社会」へと、女性をめぐる問題構制が図から地へと転換しました。つまり、女性が問題なのではなくて、女性の正常とされたライフコースそれ自体が問題含みであり、それを構造的に生み出すような社会構造それ自体が問題なのだと、問いの図と地の転換が起きたのです。女性学によってこのようなパラダイム転換が起きました。それを起こしたのが、主婦という中産階級的存在が大衆化したという歴史的事実であり、それを問題化したのが当事者である中産階級の女性たち自身であったということですから、この時代のフェミニズムが中産階級フェミニズムだったことには歴史的必然性があったと言ってよいでしょう。
 それまで女性史は何をやっていたのでしょうか。女性史はありました。ありましたが、いわゆる唯物史観にもとづく女性解放史でした。ちょうど1970年に女性史論争が起きますが、女性史論争は、唯物史観と生活史、それにフェミニズムの三つどもえの論争でした。唯物史観派の代表は井上清です。女性は階級に従属するものだから女性史というものは成り立たない、階級の解放とともに女性の解放は自動的に成立するという考え方です。井上さんはベストセラーになった井上女性史(『日本女性史』[三一書房、1949年])の中で、女性史は唯物史観の応用問題であると書いています。階級闘争の歴史が描ければ女性史は自動的にそれに付随してくると。
 それに対して、いや、そんなことはないと言ったのが生活史です。これを唱えた人は村上信彦さん(『明治女性史』理論社、1969-72年)です。のちに「おしん史観」とか「けなげ史観」とか揶揄されましたが、実証史学の立場から、唯物史観のようなイデオロギー的な図式による歴史ではなく、実証性を伴った生活史、民衆史をやるべきだと主張しました。実証的な女性史は、それまでもなかったわけではありませんが、どちらかといえば逸脱的な女性を対象とする底辺女性史でした。女工や娼婦などの歴史で、その時代のマジョリティを占めるような女性たちを対象にはしてきませんでした。
 これらに対して、もう一つ新しく勃興してきたフェミニズム史学があります。代表的な論者は水田珠枝さんです。彼女は物質の生産と生命の生産の二つの領域をそれぞれ視野におさめて、女性固有の歴史としての女性史が成り立ちうると主張しました。

3、若者論の運命

 ジェンダーという変数は、階級というそれまで最強だった変数が後景化したときに初めて浮上すると考えると、世代という変数も同じ運命をたどると考えることができます。今から思えば、ジェンダー(性別)とジェネレーション(世代)という変数は、それまで社会的変数と考えられてきませんでした。なぜなら性別と世代は属性変数だからです。世代は時代と年齢の複合ですから、世代には社会的属性が含まれますが、年齢となると性別と同じく自然的な属性と見なされてきました。パーソニアンによると、属性変数から業績変数へと社会構造の指標が変わることをもって近代化と呼んできたので、今さらのように属性が社会的な効果を持つということは、前近代的な残渣である、もしくは、自然的な所与であるから、社会学の対象にもならないと思われてきました。
 70年代から80年代にかけて、世界各地の社会学会で「ジェンダー&ジェネレーション」という部会が生まれていきます。94年に東京大学に私が赴任したときの私の担当科目のポストの名称が、「ジェンダー&ジェネレーション」でした。そこでは新しい社会学の学問分野の組みかえが起きました。家族社会学とそれまで呼ばれてきた分野の看板をつけかえて、「ジェンダー&ジェネレーション」と冠したポストに上野が就任したことになります。私には家族社会学者としてのアイデンティティはありません。本来ならば、家族社会学会という業界の重要なポジションであった東京大学社会学研究室の一ポストを、アウトサイダーであるジェンダー研究者が横からゲットしたということになりますので、不興を買うこともあったと思います。そういう学問の世界における改組というかパラダイム・チェンジが前提になければ、上野の人事そのものが起きなかったことでしょう。
 もう一度世代に戻りますと、世代、時代、年齢という三つの変数は区別してその組み合わせを考えなければなりません。若者というのは世代変数・時代変数・年齢変数の複合です。みんな同じ中流社会だからこそ、前景化する差異として集団としての「若者」とか「青年」というものが登場します。世代的には、集団としての高学歴化が起きたせいで、社会化期間が非常に長期化します。いわゆる生理的成熟と社会的成熟との間のずれ、つまりモラトリアム期間が延長します。ここで、青年期が成立し、主題としての「若者」が登場します。ただしここでもジェンダー・ブランドネスがあったことは指摘しておかなければなりません。青年とは男子青年であることが自明視されており、女子青年には別の名称、「少女」が与えられました。その「少女」には、「(生理的成熟に達したにもかかわらず)使用禁止の身体の持ち主」(大塚英志『少女民俗学』光文社、1989年)という定義が与えられるようになります。
 年齢変数のほかに、世代変数が出てくるのは、戦後という時代が、日本ではきわめて社会変動の激しい時代だったからです。若さが優位に立つのは、変動の早い社会の特徴です。アメリカ型の若さの優位という価値が、日本に入ってきます。ですから、「古い」という形容詞が、価値判断の最下位に置かれるという、そういう状況が出てきます。

4、「戦後」の終わり

 ポスト近代の遅延または「戦後(体制)」の延命:1973-1991
 ここまでは、おおむね70年代までの話ですが、その後日本が、90年代まで世界的に見て特異な時期を過ごしてきた、その経路依存性のツケを現在払っているということを指摘しておきたいと思います。それは、73年から91年までの約二十年近くの間に、起こるべきであった変容を回避して、近代を延命させたこと、いいかえれば、ポスト近代の遅延または戦後体制の延命のツケが、日本限定的に起きていることです。これを私は、日本特殊性論で論じるつもりはありません。歴史的な経路依存性として説明したいと思います。

4-1、ネオリベラリズム改革の始動 Tatcher, Reagan Reform

 73年、これは先ほどのダニエル・ベルの『脱工業社会の到来』の出版年ですが、このときに全世界をオイル・ショックが襲います。このオイル・ショックは、産油国の政治が世界経済を揺るがすという点で、グローバル・エコノミーが連動していることの非常に大きな象徴でした。ここからいわゆる産業社会と言われてきた社会が、どこもリストラと産業構造の転換をせざるをえない状況になっていきます。市場の再編成に技術革新がかかわって、ここでネオリベラリズム改革が始動していきます。いわゆるサッチャー・リフォーム、レーガン・リフォームなどの保守革命です。ここから、保守が改革者になっていきます。改革の旗を上げるのが保守派となり、保革のねじれ構造が起きます。保守派が改革派となり、革新派と言われた人たちが「守れ」と言うしかなくなっていく。小泉構造改革が登場したとき、小泉が掲げた規制緩和などのさまざまな政策は新味のあるものではありませんでした。むしろ「二十年おくれの保守革命」と言われたものです。
 OECD諸国と比べての日本の特殊性を言うとするなら、産業構造全体をスクラップ・アンド・ビルドするべきリストラクチャリングの過程を、日本の企業は社内リストラだけで乗り切ったことがあげられます。社内リストラで乗り切ったというのは、社内の配置転換等で強引なリストラをやったが、結果としては雇用を維持して、それ以前から続いてきた企業社会主義を延命させた効果です。ここで、既得権益層としての大企業正規雇用者が利益集団として、企業との間でがっちりと連携を組んでいきます。85年に総評が解散し、連合が結成されますが、この連合が今日に至る民主党の基盤になっておりますので、彼らの保守性は明らかです。私は総評が解散したときに、日本の戦後労動組合運動はこの年に死んだとつくづく思いました。
 1987年に国鉄民営化が起きます。このころからネオリベ改革は始まっています。日本における民営化の二つの大きな政策的なメルクマールは、国鉄民営化と郵政民営化だと思います。国鉄民営化の影響は大変に大きいので、85年に法案が通った後に準備期間を置いて、87年は株式会社としてJRが発足した年ですから、時間がかかっています。80年代前半、総評がガタガタになっていく過程で、中曽根政権は国鉄民営化を強力に推し進めました。時の総評、とりわけ国労の労働者たちによる、実力行使による抵抗を排しながら民営化を進めました。
 戦後日本の反体制運動は流血沙汰や死者を出さなかったと言われますが、私には全くそうは思えません。もちろん学生運動でも死者は出していますが、それのみならず、この当時、国鉄民営化にあたって、全国で三けた台の自殺者を出しています。これを流血と呼ばずして何と呼ぶか。野田正彰さんが、その百数十何人の自殺者の全遺族を訪問して、「国鉄マンよ、もう死ぬな」(『生きがいシェアリング』中公新書、1988年)という感動的なルポルタージュを書いていますが、これはそういう政策転換期の労使対決の犠牲者だったと言うべきでしょう。
 この中でいわゆる日本型経営、つまり企業を守ることによって雇用を守るという労使の合意による労使協調路線、高度成長期に確立していた企業内組合による企業社会主義が延命します。これが、79年にエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(広中和歌子・木本彰子訳、TBSブリタニカ)という称賛につながりました。この当時、日本型経営はイケイケで、これが繁栄の源であるから、全世界に輸出すべきだとすら言う人がいました。その背後には、日本型家族の安定性への自負がありました。日本型経営と日本型家族とはクルマの両輪だったのです。
 このネオリベラリズム改革の始動した1970年代の前半というのは、近代家族の解体期に当たる、ポスト家族の始動の時期でもありました。
 ポスト家族の指標、すなわち近代家族終焉の指標は、離婚率の上昇と婚外子出生率の上昇です。80年代まで日本は離婚率も婚外子出生率も上昇しません。その後も、徐々にしか上昇していませんが、この当時、日本型家族の安定性を誇る日本文化論者が山のようにいました。日本型経営と日本型家族制度がセットになって、日本の牢固たる安定と繁栄を築いているというのが、当時の保守的な日本文化論者のお決まりの輸出品だったわけです。それをヴォーゲルのような人が後押ししました。
 今から思えば、86年に年金改革が起きています。ここで、三号被保険者制度が初めて創設されました。これは、年金制度の原則を揺るがす変革でした。と言いますのは、年金というものは、払わない人は絶対に受け取れないという共済保険制度です。保険ならあたりまえのルールですが、86年までは、学生も無職の妻も、年金支払いの遅延や免除はできても、支払いをしない限り将来年金を受け取ることはできないことになっていました。これが三号被保険者は支払いをしなくても、個人年金がもらえるとした。一号は自営業、二号が雇用者、三号が雇用者の無業の妻です。無業の妻にこういう特別な権利が与えられたわけです。これをなくそうと言えば、既得権集団となった主婦層が抵抗勢力となりますが、わずか二十年ぐらい前にできた特権なので、こんな不公平な特権はなくなってあたりまえなんです。学生や失業者は無収入でも年金支払いを免除されるわけではありませんからね。これが、高齢社会を目前にした、「家族は福祉の含み資産」という考えにもとづく日本型福祉社会の陰謀と言うべきだったことが、今ではわかっております。
 日大の人口問題研究所の研究者がつくった「日本全国介護資源地図」を見て、唖然としたことがあります。都道府県別に人口に占める四十代既婚無業女性の比率を色分けしたものです。四十代で既婚の無業の妻であれば、無条件に介護資源とカウントされる。その人たちに介護のご褒美をあげようというのが、三号被保険者でした。何で三号というか。正妻なのに二号と言うわけにいくまい、というギャグがありまして(笑)、いやあ、ほんとうに、歴史って笑うべきことの連続ですね。回顧的に見ると、おおそうだったのかと、今さらのように思うことが多く、今回はなかなか準備がおもしろかったです。

4-2、最後のマルクス主義者、Imanuel Wallerstein (1930- )

 こういう中で歴史はどう動いていたかというと、ここでもう一人、外国の予言者というか、最後のマルクス主義者ともいうべきイマニュエル・ウォーラーステインに登場していただきます。彼が、世界システム論(『近代世界システム』川北稔訳、岩波書店、1981年)の最初の巻を出したのが、74年です。やはり70年代の初めというのは世界史的な転換期で、それを先取りする論者たちはその当時にすでにこういうことをちゃんと言っていたのですね。この本のなかで、彼は既にマルクスの絶対窮乏化仮説(労働者が資本家によって搾取され窮乏化が進んでいずれ立ち上がるという説)を否定しています。それから、賃労働者化仮説も、歴史によって反証されたとはっきり言っています。マルクスは、すべての旧中間層がやがて賃労働者化していく、零細な小商品生産者たちが資本家と労働者とに分化していく、大半は賃労働者化していくというふうに予見したんですが、そうはなりませんでした。
 ウォーラーステインは次のように言いました。世界システムの中核部門における正規雇用は、社会的に稀少財化する。この希少財は、これ以上絶対に増えない。その少なくなった雇用という希少財をめぐって、パイの奪い合いが起きる。雇用者比率はこれ以上伸びない。事実、データを見ますと、どこの社会でも不況のたびに自営業者比率が上昇するという増減がありますし、雇用者比率は100%近くにはなりません。
 ここにグローバリゼーションがかかわってきます。ウォーラーステインは、早い時期からグローバリゼーションを射程に入れて世界システム論を構築した人です。世界システムのもとで中核・半周辺・周辺を分類すると、資本移転は労働力移転よりも早く起きるので、中核部門で雇用の空洞化が起きる。したがって、中核部門で雇用が増えない。それは、先進国における慢性的な高失業率状態を生み出す。その慢性的な高失業率は、とりわけ先任者優先seniority原理を持った労働組合の強いヨーロッパのような社会では、若年層を直撃する。したがって、若年慢性高失業率、それも二けた台およそ20%ぐらいの高失業率がこれ以降ずっと、今日に至るまで持続しているわけです。ですから、日本がやっとその状態に追いついたともいえます。仮にそこで景気回復はあっても、雇用回復はないということは既に予見されていました。

4-3、近代家族の終焉

 このような社会的な変化にともなって、それまでの近代家族が維持できるかどうかということも問題になります。私は94年に『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)という本を書きました。書いたときには、日本では近代家族はいまだに成立すらしていないのに、早くも終焉を言うのは気が早過ぎると言われましたが、94年時点ですでに、終焉の予兆は至るところにあらわれていました。
 近代的家族と近代家族は似て非なるもので、近代的家族は規範概念だが、近代家族は記述概念です。近代的家族というような規範的な家族は、実は世界史上いかなる地域にも一度も成立したことがなかったということを、ヨーロッパの論者が自分たちで言い出したのが近代家族パラダイムでした。
 1970年代のヨーロッパを中心に、近代家族パラダイムが成立し、それが日本に持ち込まれました。これも後になって、学問の世界におけるパラダイム転換が一体いかにして起きるかというと、学問が変化を予見することはめったになく、現実の変化の兆候が学問のパラダイム転換を引き起こすことのほうが、はるかに蓋然性が高いと思えます。
 70年代までは、ヨーロッパもアメリカも日本も、極めて保守的な家族主義の社会でした。それが70年代から怒涛のごとき性革命を経験しました。これも後になってみれば、性革命とは、近代家族の崩壊の兆候だったといえます。
 ある社会が性革命を通過したかどうかを判定するための二つの人口学的指標があります。一つは離婚率上昇です。もう一つは、婚外子出生率の上昇です。そのふたつが、近代家族を支えている性規範が揺らぐことの人口学的な指標です。
 ところが日本では、少なくとも80年代までは、このいずれの人口学的変化も起きませんでした。当時、アメリカやヨーロッパで怒涛のごとく起きていた人口学的な変化が、日本では遅延しました。この二つの指標から見た場合に、日本は性革命を経験しなかったかというと、そうは言えません。この二つの指標と、機能的に等価だと考えられる他の二つの人口学的な指標があります。一つは非婚率上昇です。これは、婚前離婚と言ってもよい。結婚しないと離婚できないけれども、結婚する前に離婚していたら非婚になります。
 全世界で法律婚率は下がっておりますから、非婚率はあらゆる社会で上がっています。ですが、OECD諸国では、法律婚率は下がっているが、事実婚率も事実婚年齢も長期にわたって横ばいで変化がないことがわかっています。法律婚の晩婚化が事実婚の晩婚化と一致しているのは、先進諸国の中で日本だけです。日本では法律婚の開始と同居の開始が一致していて、事実婚がいっこうに増えません。つまり、同棲率も上がっていない。
ですから法律婚の不在は、そのまま非婚だという極めて不思議なことが起きております。
 それと同時に、出生率が著しく低下しています。にもかかわらず、婚外子出生率が上がりません。かわって、十代の中絶率が上昇しています。婚外子出生率とは、婚外性交における避妊の失敗確率の関数です。だから婚外子出生率は、結婚と性の結びつきが揺らいだという性規範の解体の指標になります。婚外子が出生しないでやみに葬られているのが中絶率の上昇であると想定できるので、その結果低出生率が生じます。したがって、婚外子出生率が上昇しなくても出生率が低下することで、日本も性革命を経験したと言える。ただし、諸外国(ここで諸外国というのはOECD諸国に限定します)のようなドラスティックな形ではないので、これを「なし崩し性解放」と呼んだのが落合恵美子さんです。彼女が名づけた「家族の五五年体制」(『21世紀家族へ』有斐閣、1994年)、別名サラリーマン・専業主婦体制が、性革命の過程で崩れていきます。
 ポスト近代家族へのシフトが、性革命を経験したすべての先進工業諸国で起きているにもかかわらず、80年代には日本だけが例外でした。他の社会では、このシフトが起きるべくして起きました。具体的にいうと、旧体制がサラリーマン・専業主婦体制、いわゆる男性稼ぎ主モデル、これがヨーロッパでもアメリカでも70年代までは一般的だったんですが、これが急速に変化していわゆる共稼ぎモデルに転換してきます。それにあわせて労働市場もジェンダーを再編成してきています。それにあわせて、社会保障と税制のような再分配制度もともに再調整するという改革を、ヨーロッパ諸国は経験しています。それに比べると、日本はこの時期を旧秩序を延命させたまま、変化を拒んで過ごしてきたことのツケを支払わされているといえます。
 OECD諸国では、経済のリストラと労働のジェンダー再編が連動して、家族モデルを変えてきました。そこでは、いわゆるフレックス労働やジョブシェアリング、子育て支援や高齢者福祉が相まって、女性の高い労働力率をもたらしました。その結果、相対的に高い出生率を維持しました。非定型労働は、それ自体が悪いのではなく、日本では非正規雇用に相対的な不利益(つまり賃金格差と雇用保障の不安)が強く結びついていることが問題です。一般に非定型労働と出生率は相関しているというデータがありますので、非定型労働が経済的不利益と結びつかなければ、高い出生率に結びつくと言えるわけです。
 雇用と出生率に関しては日本に非常におもしろいデータがあります。仕分け寸前だった政府の外郭団体、家計経済研究所が、90年代半ばから2000年代半ばにかけての十年間、同じ調査対象を追いかけたパネル調査をもとに『女性たちの平成不況』(樋口美雄・太田清・家計経済研究所編、日本経済新聞社、2004年)という本を出しています。その調査結果の発見が、極めて明快で、かつ驚くべきものでした。それは、十年後を比べると、正規雇用を維持していた女性のほうが非正規雇用の女性に比べて、より結婚確率が高くより出産確率が高いという、わかりやすい結果でした。この結果の政策インプリケーションは、大変にわかりやすいものです。すなわち、女性に過剰労働にならないような安定雇用を保証せよ、そうすれば結婚も出産もしてくれるということになるんですが、残念ながらそうはなっていません。

4-4、遅れてきたネオリベ改革

 日本では、このような政策転換が約二十年近く先延ばしされ、「遅れてきたネオリベ改革」が始まりました。2005年の小泉改革は突然起きたわけではなく、80年代から既にネオリベ改革の胎動がありました。その最大の陣痛が国鉄民営化であろうと思います。
 振り返ってみれば、85年からずっと一貫していわゆる労働ビッグバンが起きています。85年は雇用機会均等法で知られていますが、同じ年に労動者派遣法が成立したことは、あまり知られていません。戦後長きにわたって、いわゆる周旋業、口入れ屋は労働者にとって極めて搾取的であるから、公益性の高い事業として自治体がやるべきだとして民間には制限されていました。そのため、各地に公共職業安定所があって、それが後にハローワークになったんです。それを民営化、つまり営利企業がやってもよいと解禁したわけです。それからは、規制緩和に次ぐ規制緩和で、すべて経営側の要求にこたえてきました。その結果、今日のような労働崩壊が起きたわけです。
 労働の規制緩和の大きな引き金になったのが、95年に出された経団連の『新時代の「日本的経営」』というレポートです。91年にバブルがはじけてから四年たったこの当時は就職超氷河期の時代でした。このレポートでは、これからの日本型経営では労働力を以下の三つのタイプに分けて活用するとしています。一番目が長期蓄積能力活用型、これは従来型です。二番目が高度専門能力活用型、これがスタッフ型です。それから三つ目が雇用柔軟型。この雇用柔軟型は、グローバリゼーションのもとでの国際競争に勝ちぬくために、雇用の調整弁として使い捨ての労働力を低賃金で使ってよろしい、ということです。これを労働者派遣法で可能にしていきました。最終的には、日雇い派遣まで可能なところまで規制緩和していきました。わかりやすく言うと、女と若者を使い捨てて構わないと言ったわけです。これを政・財・官が合意して政策形成し、それに加えて労働側が合意を与えたのが連合です。
 それが、55年体制を護持するための延命策でした。より厳しい国際競争のもとで苦しんでいた企業の短期利益を重視して、リストラで人件費を削っていきました。不況の間に日本の企業の労働分配率が長期的に低下していきます。ですから、企業内組合と企業との共存共栄、つまり企業が利益を上げることが労働者への配分の余得を生むんだという考え方が次第に当てはまらなくなっていきます。企業は内部利益を蓄積し、好況になっても雇用は拡大せず、労働分配率も上がらないという傾向がだんだんと出てきます。
 このあたりから、雇用の柔軟化の功罪ということが言われるようになります。私が辻元清美さんと共著で書いた『世代間連帯』(岩波新書、2009年)の中で、二人とも合意したのは、フレックス労働というのは、70年以降の全世界の趨勢だということ。フレックス労働それ自体を悪役にする理由はありません。定型的労働とは何か。週四十八時間労働が定型か、四十時間労働が定型か、三十五時間が定型か、九時‐五時が定型か、あるいは八時‐四時が定型かというふうなことは、労使の間の合意で歴史的に定まるものです。定型労働であれば正規雇用が維持され、非定型労働だと極端な差別的処遇を受ける根拠は一切ありません。
 出生率の研究によりますと、定型労働と育児が両立することは不可能であるということが、はっきりわかっています。フレックス労働を導入したところはどこも出生率が上がっています。フレックス労働それ自体は決して悪いことではないのに、極めて不当な賃金格差が付随するのが日本の特殊性です。この賃金格差を許容できる範囲に抑えること、つまり格差の平準化をヨーロッパ諸国はやってきたのに、日本はやってこなかった。それが長い間、ヨーロッパ型の短時間労働と日本のパート労働者の違いとして考えられてきました。日本では、パート労働が低賃金であることを説明するための合理的な根拠が、経済的変数では全く成りたたず、パート労働者の賃金格差を説明する変数は「身分」というべき非経済変数だけであると喝破したのが大沢真理さんです。
 この結果として、格差が拡大しました。もともとジェンダー格差であったものが、さらに女女格差にも拡大します。その中で婚姻願望が高いにもかかわらず非婚率は上昇し、かつ出生率が想定以上に低下するという事態が起きました。

5、グローバリゼーションのもとのポスト戦後体制

 先ほど言った二十年間にわたる戦後体制の延命が91年に破綻してから、二十年ぐらいたって、今日を迎えているわけです。このあたりからようやくポスト戦後ということが言われるようになりました。ポスト近代と言いかえてもかまいません。現代思想では80年代にポストモダンが流行りましたが、現実の社会は近代の延命でした。二〇年たってようやく日本の近代、つまり55年体制の有効性が疑われるようになってきたわけですが、そこで何が新たに登場しているでしょうか。
 どうしてもカウントしなければいけないのは、現在、ポスト近代を迎えている状況の経路依存性ということです。一つは、今申し上げましたポスト近代の人為的な遅延です。つまり全世界で日本だけが近代の延命策に成功してしまったことのツケが来ているということです。
 もう一つは、その間に労働鎖国状態を維持してきたために、グローバリゼーションの中で最後にくる人の移動による労働市場の再編がされなかったことです。グローバリゼーションというのは、情報・カネ・モノ・ヒトの国際移動の増大と、それに伴う国内外システムの再編過程と定義しますが、グローバリゼーションのもとでの移動の速度は、情報>カネ>モノ>ヒトの順番に遅くなります。ヒトの移動が最も遅い。そのヒトの移動が世界規模で起きたのが九〇年代で、特に先進工業諸国のどこでも起こりました。日本は、同じ時期に先進工業諸国の中で例外的に労働鎖国状態を持ちこたえた。それを持ちこたえたことが、日本における近代家族、すなわちサラリーマン・専業主婦体制の延命につながったと思います。なぜかというと、外国人ケアワーカーというオプションを、他の先進諸国の女性のように、日本の女性が持てなかったからです。
 この労働鎖国状態をいつまで維持するか、維持できるかということが、政策的に大きく問われています。実際には、徐々に骨抜きになってきているんですが。今でも人口移動の膨大な水圧をせきとめているのが国境というもので、ここで新たに労働市場に国籍・民族・人種という変数が入ってくると、状況はもっと複雑になるでしょう。
 そこに、再び登場してきた新しい階級概念、それに加えてジェンダー、それに世代や年齢が変数として浮上してくるでしょう。特に年齢というファクターは属性変数であったはずですが、若者という年齢カテゴリーと高齢者という年齢カテゴリーが、もう一度重要な社会的変数として浮上してくるでしょう。ですから、それらのインターセクショナリティー(交差性)が問われるようになります。もちろん若者論は終焉したと言ってもいい、あるいはジェンダー論も歴史的使命を終えたと言ってもかまいません。しかし、それは変数として意味を失ったのではなく、変数の一つとして無視できなくなった、カウントせざるを得なくなったということです。
 こういう形でざっくり諸外国と比べてみながら半世紀ぐらいを見通してみると、日本とは労働市場において、性と年齢とが人種の機能的等価物の役割を果たしてきたというほかない社会です。ここに人種、民族、国籍という変数が入ってくると、日本において性と年齢が再びいかなる再編を遂げるのかということは、まだ未知数です。
 この労働鎖国状態がいつまで維持できるのか。ほんとうにこれからも続けるのか、続けようとしてそうできるのか。このところ承認の共同体なぞという言葉がはやっておりますが、承認の政治なんていうぬるいことを言っていられるのは、分配の政治が問われない間だけです。階級というのは、何よりも分配の政治にかかわる変数ですから、分配の政治と承認の政治は、両面でより先鋭化するはずです。承認の政治だけではもう行き詰って、分配の政治へと足を踏み入れて、問題化せざるをえない状況が出てきています。
 特におもしろいのは、例えば年金をめぐる分配の政治、それから雇用をめぐる分配の政治が、アメリカとかあるいはヨーロッパ諸国では、街頭闘争の獲得目標になってきています。街頭闘争の獲得目標が、政治目標ではなくて経済闘争になってきているのです。
 そうなると、近代の最初のスタートにあった自由か平等か、というディレンマが再び登場するでしょう。自由も平等も、というわけにいくのか、いかないのか。その問いにもう一度立ち帰る必要があるでしょう。また市場原理万能であったような経済システムの中に、市場外的な変数が関与して、組み込まれていくでしょう。しかもそこに、国家というアクターが非常に強力に作用してきますので、マルクス主義とともに死に絶えたかと思われた「ポリティカルエコノミー」という概念が、再浮上してくると思います。
 大変長時間話しましたが、この辺で。今日のテーマはポスト戦後思想なんですが、どちらかといえばポスト戦後体制の現実についてお話しました。この中から次にいかなる思想が生まれるかを、私は予想することができません。

第二部はこちら

(了)

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