集英社新書WEBコラム
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ポスト戦後思想研究会

「68年」と「89年」、そして「戦後」

報告者:小熊英二
討議:上野千鶴子・小熊英二・北田暁大・杉田敦
(司会:集英社新書編集部 落合勝人、2010年11月9日)※WEB掲載日は2013年12月20日

はじめに

 「戦後思想」の賞味期限は切れたのか?冷戦秩序と55年体制の終焉を迎え、私たちは従来の概念や理論の通用しない、未曾有の変化を経験している。私たちの生きる「いま」を記述し、分析することばは可能なのか?
 私たちはそれを「ポスト戦後思想」と名づけたいと思う。「ポスト戦後・思想」でもあり、「ポスト・戦後思想」でもあるこの新しい思想の実験を試みるために、「ポスト戦後思想研究会」は2010年にスタートした。1950年代には久野収・鶴見俊輔・藤田省三らが『現代日本の思想』を語り尽くした。それから半世紀後の2000年代に、私たちもまた「現代日本の思想」を語り合いたいと思う。本サイトはその研究会の討議記録を、同じ関心を有する読者と共有するために創設したものである。

「ポスト戦後思想研究会」編集委員
上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・北田暁大

第一部はこちら

第2部:全体討議

 杉田 ドイツとの違いについては、やっぱりドイツが分割されたことをどう考えるかですね。
 小熊 ドイツ研究者と話をしたんですけれども、なぜ日本と違うのか、あんまり決定的な答えは出てこなかったですね。
 杉田 ドイツが分割されて、朝鮮半島が分割されて、中国も分割されたわけで、日本ももし分割されていたら違うことに……。
 小熊 まあ、それはあり得たかもしれません。ドイツ研究者が言うには、ドイツは冷戦の最前線だったから問題がシビアで、あくまで外交の問題として論じ合わざるを得なかったからというふうに言ってましたけどね。私は、もう一つは、戦争の記憶の残り方に違いがあるんではないかと考えていて、ドイツは本土決戦をやった国ですから。
 杉田 日本もやっていますよ、沖縄で。
 小熊 でも記憶の残り方が違うと思うんです。日本の場合には、戦争というのは、外に出ていったりすると起きるもの。だから、内にこもってある程度おとなしくやっている分には、多分襲ってこないだろうという、そういう前提で記憶が維持されたというのがあるんじゃないんですかね。
 杉田 戦争をする国、しない国という区別ですが、戦後日本は沖縄にいろんなものを押しつけることによって、戦争に関与してないように装うということが可能だったにすぎません。本来、そういう選択肢があったのかどうか。社会党も含めて、やはり非常に自己欺瞞というか、沖縄に押しつけることによって自分たちは手を汚してないという欺瞞なんですよね。そういうオプションが、それ自体疑似オプションじゃないかな。
 小熊 それはそうですね。だから、基地を沖縄に集中させるという形で沖縄は分断されているとはよく言いましたが、沖縄は共産圏に入ったわけじゃないです。それはちょっと違う。
 杉田 逆に、むしろアメリカになっちゃった。
 上野 気がつけば、この中で自分が最年長だったので、歴史的に証言しておきたいことがあります。こういういい方をしてはまずいと思うことがありますので。
 時代区分をめぐって、戦争の記憶が区分軸で経済は争点にならなかったというのは、まちがいだとおもう。日本型経営の中で企業内組合、つまり労使協調路線が完成したのが六〇年代。総評が連合に変わった八七年がユニオニズムの死でしたね。考えてみたら、それ以前、日本でも五〇年代までは、労使闘争は非常に暴力化しているんです。労使協調なんていうのは、少なくとも五〇年代までには存在しない。血のメーデーもあったし。
 それから、五九年には、三井三池闘争という非常に戦闘的な労働運動があって、流血沙汰もありました。だから、労使協調路線を、あたかも日本のユニオニズムの伝統のごとく言ってしまうのは歴史の改ざんというべきで、それが成立したのはようやく六〇年代になってからのことです。高度成長をもとにした分配可能なパイそのものの拡大が前提にあって、労使協調に変わりました。経済は大きな区分軸です。経済が区分軸をなしていたかいなかったかはネオリベ改革についてもいえます。ネオリベ改革の指標を、国営企業の民営化に置くと、これまでで最大の指標は国鉄民営化です。これはネオリベ改革への巨大なステップでした。このときを最後に、国労、動労を中心とした最後の戦闘的なユニオニズムは壊滅しました。
 この壊滅をもとにして、八〇年代に総評が息の根をとめられて連合になった。それから、連合が保守系の一翼になったという流れがあります。だから、日本が最初から労使協調だったみたいな言い方をしないほうがいいと思います。
 その背後にあるのが、成長経済ですね。労使協調というのは分配すべきパイを拡大し続けることによってしか維持できない。また、日本の企業の労働分配率が相対的に高く、かつ分配格差が少ないということも条件になっています。所得格差の国際比較でいうと、七〇年代まではスウェーデンが小さいほうの第一位で日本が第二位でした。ここ三十年間の間に急速に格差は拡大しましたが、今でもアメリカに比べれば、企業のトップとボトムの間の給与格差は相対的には小さい社会だといえます。ここに「最後の社会主義国家・日本」と書いてあるけれども、企業社会主義って限定的に言う必要があります。労使協調路線は、企業活動を通じての分配平等を達成したと思われていますが、その陰に何があったかといえば、どうしても念頭に置いておかなければいけないことが二つあります。
 一つは、非常に根強い、大企業と中小企業との間の二重労働市場です。つまり企業間格差が大きいので、企業社会主義もせいぜい大企業どまり。終身雇用も年功序列給も、その恩恵を受けるのは全雇用者の二〇%未満です。それを考慮しておかないと、新たな日本神話をつくることになってしまう。
 もう一つは、その背後にある、エスピン・アンデルセンのいう家族主義福祉レジームです。そのコストを女が支払っています。日本はオイルショック後の先進工業諸国の産業構造転換過程を、リストラ抜きでうまく乗り切ってしまった。ミドルクラスの男性労働者たちの雇用を維持するという約束のもとで、彼らと盟約をつくってきたんですね。先進諸国のネオリベ改革に二十年おくれたのは、あなたがおっしゃるとおり、オイルショックをうまく乗り切ったことが背景にあります。
 OECD諸国はその当時、不採算部門を切り捨てるというネオリベ改革を怒涛のごとく進めていて、失業率が上がるいっぽう、移民労働者が大量に入っています。ネオリベ改革を事後的に総括すれば、他のOECD諸国と違って日本は独自の経路をたどったと言えます。つまり国内労働市場を閉鎖した中で、一つは、男性フルタイム雇用者の雇用を維持し続けたことです。もう一つは、移民労働力を排除したなかで、ジェンダーがエスニシティの機能的代替物の役割を果たしたことです。この二つのファクターを前提として、男性労働者の間でのパイの分配平等主義が成り立った。でも、少なくともそういう企業社会主義が完成するまでの日本のユニオニズムは、最初からそうではなかったということは言っとかないと。こういう歴史は、わりとかんたんに忘れられがちですから。
 小熊 私も第一の戦後、第二の戦後、第三の戦後というふうに言って、五五年と九一年が区切れ目ということは言っていました。ですから、五五年以前は確かに、政党の配置とか労働運動とかでも、経済も争点になっています。もちろん敗戦直後は経済が一番の争点で、安全保障問題とか平和の問題をめぐって政党地図ができ上がってくるのは、むしろ朝鮮戦争より以後、五三〜四年以後ですね。それまでは、片山政権と芦田政権の時代には、むしろ重武装主義・統制経済主義ですから、それと自由主義が対立するという政党の区分地図だった。けれども、五〇年代を通じてだんだんそれが固まっていって、五〇年代の後半ぐらいには、その後の政党地図としてでき上がっていったという印象を持っています。
 ただ、労使協調の路線が築かれるのは、たしかにそれより後になると思いますから、六七年で経済が政党地図の争点になっていないというのは、やっぱりその時点だということは意識しなければいけないだろうと思います。
 確かに、終身雇用で安定した職を得ていた人間は労働力市場の二〇%程度だということはそのとおりなんです。けれども、概念としては規範像を成したというか、モデル像を出したということが大きかったんだろうなと思います。それはもちろん、ジェンダーが陰になっていたということもそのとおりです。けれども、それも組み込んだモデル像、つまり、専業主婦と働くお父さんという標準家族みたいなものが標準的なライフコースとして想定されていて、それが規範像となっていた時代というのがある程度続いたということなんだろうなと思います。

 上野 日本型雇用が成立してからと崩壊するまでが比較的短くて、六〇年代と九〇年代、その間のわずか三十年しか続かないんですね。時代区分そのものには、納得できます。同じことをマクロに人口現象から見るとこの時代区分と非常に一致する。人口現象というのは、いったい何が要因で起きるかということがよくわからない現象です。あまりに複合的な要因が働くために、決定因を規定することができないような行動です。個々人のミクロ行動の集積が社会的なマクロ現象を生み出すという、非常に興味深い現象の一つなんですが、六〇年代が第一の人口転換期です。これは、人口上昇期から人口安定期へと出生率が半減する時期ですね。出生率半減に各国でどのぐらい時間がかかっているかという統計をみると、ヨーロッパ諸国では半世紀(?)から一世紀ぐらい、アジア諸国でも大体十五年から三十年ぐらいかかっているのが、日本だけが人口転換の優等生でわずか十年です。合計特殊出生率が六〇年代の十年間に、五人台から二人台に低下しました。
 その次が90年代の第二の人口転換期です。出生率が人口置換率を割る、2.01以下になるという変化です。八九年が非常に象徴的な年で、この年に一・五七ショックが起きました。これ以降、出生率は再び上昇に転ずる気配はなく、二〇〇九年にはついに人口減少時代に突入しました。近代化論のベースには人口学があります。ロストウの近代化論にいう「離陸期」というのは、人口上昇の開始期のことです。人口の上昇カーブが飛行機のテークオフの上昇曲線と酷似していることからつけられた名前です。ふたつの人口転換期とこの時代区分とを対応させてみると、非常にうまく説明できます。
 小熊 最近、『デフレの正体』という本も出ていて、出版売り上げも車の売り上げも九六年がピークだと指摘されていて、それが労働力人口が減り始める時期なんですね。だから、人口要因もあるだろうとは思います。
 上野 ただし、そこは日本が労働鎖国していることが前提なんです。人口現象には自然増減と社会増減がありますが、日本では社会増減が政治的にコントロールされていることが前提です。日本は出生という人口現象については純粋な観察ができる特異なケースというか。
 小熊 ただ、移民を入れていたとしても、それが大きく転換するほどの数になったかというのは、わからないですけどね。
 上野 アメリカの人口なんて移民抜きには考えられないし。
 小熊 アメリカとは同列には論じられないんじゃないですか。
 確かに、戦後の日本を考える場合には、団塊世代の一番人数の多い年代が働き盛りの時期が経済の成長期で、それが引退し始める時期にほぼ停滞するという、極めてわかりやすいカーブを描いていることは確かだと思います。
 それと、私が今日立てた、戦争の記憶とグローバル経済の浸透ということに、どのぐらい連関性があるかということなんですけれども、私は、経済と世代交代には実は連関性はあると思っています。それは今日話し忘れたことなんですが、戦後六〇年代に先進諸国に共通して好景気がやってきたというのは、戦後復興を終わった後の、さらにニーズがある間の好景気だったのではないかと思うんです。
 つまり、戦争というものがあったから、先進諸国同時的に、復興需要から第二次世界大戦に主に参加した国々に好景気がやってきたのではないかと考えています。そして日本の人口バランスでいえば、確かに戦争から戻ってきた人たちがベビーブームを生んだという観点からも、戦争と経済と人口の連関性がなくはないんだろうと思います。
 編集 北田さん、何か、お気づきのこととかあったら。
 北田 頭が全然働いてないんですけれども、新しい世代の歴史が記述されるのかなと感じました。
 小熊 私は新しい世代じゃないですよ。
 北田 新しい、世代についての記述という意味で。豊かな社会の中での思想と実践のアレンジメントから、豊かな社会そのものが前提ではなくなっていく世代へ。僕自身は年代的には75年世代に近いのですが、議論の前提としてはそれ以前の世代と近いところにあったわけで、小熊さんのご指摘は実感としてとてもよく理解できる気がします。
 この点に関して質問をさせていただきたいことがあります。確かに七五年前後生まれの論客のなかには、小熊さんがおっしゃっている七〇年パラダイムに対し敵意を隠さない人が結構いますね。高原基彰さんなんかが典型だと思います。70年代パラダイムの左翼知識人たちが「他者」への責任を問うという作業を繰り返す中で、90年代以降の社会的・政治的変動のなかで困難な状況におかれた人びとが、自分たちをなおざりにする左派的な言説に反感を抱いていく、と。高原さんの議論のまとめとしては不適切かもしれませんが、「弱者産業としてのサヨクが、「マジョリティ」に括られる人びとに抑圧的となる」という対抗図式は、2000年代にはむしろ「流行」であったともいえると思うんです。そういう筋書きにはなんとなく納得できるところもあるんですが、いまひとつピンとこない点もある。すごく簡単にいえば「七十年代パラダイム」的言説なんて、一般の人は誰も知らない。言説や論調への反発という図式でどこまで説明ができるのか、疑問に感じます。
 で質問なんですが、七〇年パラダイムそのものが衰退しているというのが、私はちょっとわからないんですよ。どういうことが根拠になって衰退していると小熊さんがご判断されているのか、ぜひお聞きしたいと思っています。
 というのが、私の感覚はだいぶ違うんです。議論の枠組みとしての七〇年パラダイムの持つ重要性と存在感は、実際は相も変わらず失われていない。しかし、二〇〇〇年代に入って、この七〇年パラダイムと小熊さんが言うような「社会的少数派に照準する議論」を標的としつつ、それによって左右という対立軸を無効化しようとする言説が、左右を問わず論壇内的に「流行」化した。小林よしのりの脱正義論だって、そういう系譜の先駆けとして位置付けられるでしょう。それは社会の変化を指示しているというよりは、実に論壇内的な現象だったのではないか。「70年代パラダイムを否定することによって、左右の対立軸を越える」という思考様式自体が僕は「00年代パラダイム」なんではないか、と思う。  バックラッシュなんていうのはちょうど二〇〇六年、七年ぐらいに目につきましたけれども、そこなんかでも「弱者産業としてのサヨク」という七〇年パラダイムを偽造しているようにしか思えない。「サヨク」批判自体がある種の、二〇〇〇年代の非常に大きな政治的な言語活動だったような気がするんですよ。
 もしも、七〇年パラダイムが衰退しているということが、論壇内に限られたことではなく、社会的・経済的な状況を示すデータなど根拠から示せるなら、小熊さん的な議論が成立するんですけれども、そのあたりの根拠が弱いと、「七〇年パラダイムはだめなんだ」という〇〇年代的パラダイムに、小熊さん自体が乗っかってしまうことになってしまうことになるんではないか。
あと、経済の話題が論壇の主題としてせり出してきたというのも、相対的にそう見えるだけのような気がしています。以前から経済的な問題への経済学的な関心を表現する論壇的な言論はもちろんあった。しかし、90年代以前は、「思想」という言葉でイメージされる言論がきわめて人文的・文学的なものであったために、そうした言論が思想として認知されることが少なかった。90年代以降の現代思想バブル崩壊、出版不況のなかで、人文的・衒学的「思想」のプレゼンスが後退していくなかで、経済的な事柄が相対的に前面にせり出してきたという可能性もある。新書の大量出版を戦略化するなかで、新書は教養書としての性格を失い、一般読者、サラリーマンとかを掴む小雑誌のようなものになっていく。そうしたなかで経済的、あるいはビジネス的なテーマが前景化してきた、と。「70年代パラダイムの衰退」が社会的・経済的な知識社会学的背景を持つものなのか、それとも端的に出版不況とか、教養主義的媒体の後退とかメディア論的な構図でその遠近法的配置が理解できる――つまり70年代パラダイムが問題化した社会問題はそれほど劇的に変化していないのに、それらの問題を問題化するメディアと言論の編成が変化した――ことなのか。そのあたりが僕にはよくわからない。
とはいえ、僕が今言った話も別に「そう言う考え方もあるのではないか」というレベルの話なので何か明確な根拠があって小熊さんに「反論」しているんじゃないんです。「70年代パラダイム」衰退については、いくつか説明図式がありうるだろうから、どのように小熊さんが他の説明可能性を阻却されるのか、うかがってみたいということです。
 小熊 おっしゃるとおりのことは指摘されてしかるべきだと思います。私は、それに対して反論できるほど実証的な積み上げをこれに対してしているわけではないので、全く思いつきの次元で今日はお話をさせていただいているわけです。
 おもしろいと思ったのは、私の『1968』という本を受け入れられた方の一部に、今日お話ししたテーマの転換を歓迎する動きがあることです。朝日新聞の「ゼロ年代の五十冊」というコーナーで『1968』を取り上げてもらいましたが、それに対してコメントをしている方が二人いたんですけれども、一人が佐々木俊尚というジャーナリストの方でした。彼の論点は、七〇年代からゼロ年代まで運動から政党、論壇まで支配していた軸の背景というものが何だったのか、残酷なまでに暴露している本だ、というものでした。なるほど、そういう受けとめ方もあるかと思ったんですが、高原基彰さんもそういう考えの持ち方をしていたと思います。つまり、経済が好調だったから、マイノリティや戦争責任 が浮上していたんだ、ということですね。
 あとは、若い世代の天下国家から経済への移動というのは前からであって、特に論壇の衰退ということには作用してるのではないということについてです。それはある程度前から起きていると思います。しかしそれは、ある時期までは、どちらかというと生きづらさとかそっちのほうに撤退していた傾向があったと思います。経済にシフトしたというのはわりあい最近の現象ではないか。
 論壇の衰退とあわせて説明できるのかという点については、おっしゃるとおりではないかと思います。ただ、それは逆の言い方もできて、戦争の記憶が衰退してそういう報じられ方のニーズがなくなったから、そういう論壇は衰退した、論壇市場が衰退したんだという言い方もできるかもしれないなとは思いますね。
 上野 マジョリティが崩壊したのかどうか、七〇年代パラダイムはそれまで有効であったかどうかということに関して補足させてください。ナンシー・フレイザーが、「承認の政治」と「分配の政治」を区別しています。そういう意味でいうと、分配の政治は昔から冷戦構造の軸だったけれども、承認の政治はマイノリティーの問題をずっと扱ってきていました。承認の政治がマイノリティーに限らずすべての人たちにとって浮上してきたということでしょうか。つまり、これまでマジョリティに属しているはずだった人たちの間にも、おれたちは少数派だ、おれたちにも承認が必要だという形で、承認の政治の重要性がすべての人にとって、浮上してきた。だからマジョリティは、解体してるわけではないというとらえ方はどうでしょう。
 小熊 なるほど。そういう言い方はできると思いますけれども、ただし、承認の政治を語る場合に、マイノリティーだけ照準しているわけにはいかなくなったということはありませんか。
 上野 だから、マジョリティが解体したというのは、思想として解体したというよりも人口学的に解体したとも言える?
 小熊 人口学的に解体したといいますと?
 上野 あなたが標準世帯とか標準的なライフコースとおっしゃって示したような六〇年代型のパターンは、万人向けのものではなくなってきた。学歴も含めていわゆる多様化が、ジェンダーを問わず起きてきました。かつては学歴が、先ほどの二重労働市場を正当化する基準でした。低学歴層がワーキングプアになってもだれも問題にしなかった。二〇〇六年以降のワープアは、なぜ問題化されたかというと、ジェンダー研究者から見れば、二つの契機があったと思えます。
 一つは脱ジェンダー化の契機。貧困が女の問題ではなくなったことです。もう一つは、脱学歴化の契機。階級の問題ではなくなったこと、つまり高学歴男性もワープアになり得るリスクを持つようになったということです。六〇年代、学歴格差が公然と容認されていた時代には、その格差をワープアとはだれ一人問題化しなかったわけです。その中には、二重労働市場の最底辺に組み入れられるべく、中卒で集団就職列車でやってきて、都市の最底辺のサービス産業に参入し、三カ月や半年で離職、転職を繰り返しという流れ者みたいな人たちがいっぱいいたわけですよ。その格差をだれも問題と言わなかったでしょう。
 小熊 二つのことがそれに対して言えるかと思います。
標準のライフコースというものが決して全体を覆っていたことはなく、労働市場のそれこそ二割程度とその周辺の家族しか覆っていなかったとすれば、それは実態の問題というよりはむしろ通念の問題だったわけです。それが共有できなくなったという問題だと思います。多分それは、経済が好調だから、誰でもその標準のライフコースに昇格していける希望というものがあった間には、それが標準として作動したということでしょう。昇格できる希望が持てなくなったところで、標準像が作動しなくなったということが、現実の多様化とともに進行したのではないかと考えることができるのではないかと思います。
 もう一つは、承認の政治がマジョリティーにも広まったというふうにも言えますけれども、それはある意味では、みんながマイノリティーになったということでもあった。そうなってしまえば、やっぱりマイノリティーを一部限定して照準するという議論の仕方は、成り立たなくなるんじゃないかと思いますが、その辺はいかがでしょうね。
 上野 七〇年代パラダイムを非難する論調に、私はあまり詳しくありませんが、漏れ聞くところでは、おまえたちばかりがマイノリティではない、おれたちもマイノリティーだという主張ですか。
 北田 山のようなバックラッシュ言説を読まなければならないという苦行をしたことがあるんですが、そこで展開されているのは、とにかく大きな巨大な敵=フェミニズム・日教組・左翼によって日本社会が危機に陥っているという議論の構図ですね。「弱者の味方」を気取るサヨクが、マスコミとともに日本社会を支配していて、国を滅ぼそうとしている、と。いや、実際そんなにフェミニズムとか左翼が強大な力を持っているなら、もっといろんな施策がなされていると思うんですけどね。陰謀論の基本構図ですが、まずは敵を悪魔化・巨大視して、自らを危機に晒された者として規定し、自分こそが危機を知る者だと啓蒙的にふるまう。かなり激しいバックラッシュ言説では、そうした危機の認識→啓蒙の使命という流れがあるわけですが、それとは違うタイプの話法もある。つまり、自分たちだって「弱者産業」としてのサヨクの被害者=弱者である、弱者にやさしいのであれば、おれたちにもやさしくしろ、という感じですね。弱者を救済するとして正義をかざす振る舞い自体が暴力的で強者の論理であり、「弱者を救う」という課題と矛盾をきてしているではないか、とか。自らをマイノリティとして認識することが、他なるマイノリティへの共感や連帯につながるのではなく、「自分たちを抑圧してきた他のマイノリティとその盟友・サヨク」への批判に流れ込んでいく。「70年代パラダイム」を敵として巨大視したうえで、自らをその被害者=マイノリティとして記述する。上野さんがおっしゃったように、まさしく承認の政治のマジョリティー化ですね。
 上野 つまり承認の政治のナラティブの流用というか領有をやっているわけですね。ナラティブそれ自体に責任があるわけではない。
 小熊 本人たちは結構、どこで学んだかも知らないような。
 上野 それって、小熊さんが共著の『〈癒し〉のナショナリズム』の自称「市民」たちが市民運動から話法を学んだのと同じようなことでしょう。在特会とか同和行政に対する攻撃の話法も同じです。少数者が特権を享受していることへの非難ですね。
 小熊 つまり、その意味において、先ほど北田さんがおっしゃった七〇年パラダイムはむしろ弱まるどころか強化して広がっているというか、そういう見方もできなくはない。ただそれは多分、かつてはどちらかといえば高学歴、高所得のマジョリティーの知識人が、マイノリティーの問題があるんだという形で外在的に語っていたのに対して、おれもマイノリティーだという主張の仕方というのは内在的な語り方ですよね。それはちょっと違うかなという気がしますが。
 杉田 今の話と関係があるかわからないけれど、靖国と国家の問題、戦争責任の問題とか、これはもう争点ではなくなったとおっしゃった?
 小熊 なくなったとは言わないですけれども、なくなりつつあるのかなと。
 杉田 戦争責任については、日本だけがやったわけじゃないのに、ずっと謝り続けなきゃならないのかという類の話がすぐ出てくる。小熊さんが今日、「建国」というふうに言われたあたり、私はかなり衝撃的だったんだけれども、日本は建国したっていう、ここまで考えてる方はもちろんいるけれども、かなり少なくて、八月革命論は、論壇では成立しているけれども、果たして人々の中にどのぐらい共有されているのか。
 やっぱり、戦争被害を受けた、B29にやられた、焼夷弾でやられたっていう、あるいは原爆にやられた、広島・長崎とか、そういう被害者としての記憶、被害者性を強調するような記憶が強い。一方で、例えばレジスタンスとか、あるいは辛亥革命、あるいは中国の共産革命みたいな、神話化できるような出来事が日本にはない。だから、常に被害者意識的な形でしか記憶されないようなものであって。革命の世代の記憶がすぐに失われていって、継承できない。フランス革命でさえ、革命の記憶を定期的に記憶し直すことによって継承しようとしているわけですが、日本は状況が違いますね。日本の場合、あまり思い出したくない過去しかない。
 小熊 そうですね。ただ、それがどこまで普及していたかどうかはともかく、それこそ教科書である時期までは教えられていた。日本国という国はこういう国です、あるいは憲法を基盤にしてこういうふうにできていますということは、往々にして戦争の記憶とペアにして語られた。戦争といえばそれは、一九四一年から四五年までのあの戦争だということであって、三十年代は入ってなかったりするわけです。
あとはやはり、ただの被害意識にとどまっていたというにしては、政党地図までを数十年間にわたって左右してしまったという意味で、それなりに大きな政治的な意識たり得ていたのではないかという気もしないではないですが。
 杉田 それは確かにそのように思います。けれども、さっきも言ったように、沖縄とかに犠牲を押しつけなければなりたたないような意識で、その意味では、戦後、戦争にかかわらなかったという話にはちょっとついていけないということがあります。それからいくと、建国というのが同時にやっぱり占領でもあるんでしょう。
 小熊 それが抜け落ちていますね。
 杉田 占領であって、それは今も続いているし、普天間の問題とかでもう一回、やっぱり日本は占領されてるんじゃないかということになった。また、羽田空港がああいう形になったのは、結局、空域はいまだに占領されているわけです。首都圏の空域はほとんど米軍がいまだに押さえていますから。ということは、実は占領が本土にも及んでいることを示しています。今後、中国との関係が悪化すると、やはり戦後的な文脈というか、日米が六○年安保の時期と違わない関係になりかねない。
 ただ、占領ではあっても分割ではない。分割されていると、ある意味で問題が整理されるんですね。西ドイツは東ドイツがある限り、あるいは韓国は北朝鮮がある限り、言論の制約はある程度正当化されうる。ところが、日本の場合には、そういう形で分割されてはいないがゆえに、アメリカによる「占領」が意識化されにくいわけです。沖縄の問題さえ解決してないわけなのに。
 今後、亡霊のように昔の話法がもう一回蘇ってくるということはないですか。
 上野 実際、そのとおりのことが起きています。建国の正当性は、日本国憲法を押しつけ憲法だったとみなすか、それとも国民の総意とみなすかというねじれがずっと尾を引いていて、建国の正当性が絶えず左右両方から問われています。左の愛国主義もありますが、この話法は保守派の話法に近いです。だからこそ、戦争の記憶を全く持たない安倍晋三みたいな宰相があらわれて、建国の正当性を再確認しようとするのでしょう。
 そこに照準したのが、建国時の「汚れ」というか「ねじれ」に注目した加藤典洋さんですね。その正当性が常にゾンビのごとく立ち返るべき問題として、戦争の記憶を持たない人によってくりかえし問われ続けるということに、事実上なってしまいました。だから、この話はむしろ保守派の方が理解しやすいんじゃないですか。
 小熊 なるほどね。ただ私は、安倍さんや加藤さんの年代ともっと下は、やっぱり少し違うんではないかとも思っています。
 これはあまり実証的なことは言えないですけれども、最近、三十代半ばぐらいの政治学者が書いていたことですが、安倍さんが小泉に比べて支持を得られなかった理由として、一連の「イデオロギー的政策」が全く関心を呼んでいないという位置づけをしていた。そういう、戦争の記憶をめぐる正当性の回復にも、その処理にもほとんど関心を持たないという形に、だんだん移行しているのではないかという気がしないでもないです。
 上野 第三世代についてはそうかもしれませんが、第二世代には通用する話法ですね。第二世代も完全に戦後派ですから。それと関係して、ドイツと日本の違いということでいうと、日本は戦後、七〇年代までほぼ鎖国状態ですよね。日韓、日中のあいだに、自由な国交はありませんし、人の移動もあまりありませんでした。戦後の日本人は海外に出る機会がそれまでほとんど皆無に等しいですし。それに比べて、ヨーロッパというのは、ものすごく人の移動が大きくて、ドイツが世界にさらされ続けているということと、戦後一貫してドイツがいかにふるまうかについてヨーロッパ諸国の非常に強い監視下に置かれ続けたということがあります。だから、ドイツの反省だって自発的にやったかどうかわからない。そういう国際情勢の決定的な違いがある。もう一つ、ドイツ人が加害者意識を持っているかどうかに関しても、二つの説がある。ホロコーストの加害責任は、全く弁解の余地のない絶対悪についての加害者なのか、普通の加害、つまり戦争という、どこの国民でもやる侵略とか征服に伴う加害なのかということが、一つの争点になっています。ドイツの加害者・被害者意識ってもうちょっと入り組んでいて、私は実際住んでいたから感じましたけれども、一般のドイツ市民である自分たちはナチの被害者であったという解釈も成り立つ。だから、絶対悪の加害者はナチであって、我々ではなかったと。戦争責任に関していうと、ナチスの犯罪なのかドイツ国防軍の犯罪なのか。ドイツ国防軍は、徴兵によって選ばれたドイツの青年たち、愛国者たちですからね。どこまでが国防軍の罪かについては、非常に強い警戒心があったのは、たしかです。八〇年代以降、非常に大きく変わったのは、ゴルドハーゲン論争などが出てきて、ナチの罪ではなくてドイツ人の罪だというふうにフレームアップしていった後のことです。その頃から加害・被害論争も変わっていったと思います。
 ですから、加害・被害もそのつど文脈によって、範囲や対象が再定義されているので、戦後を通じて見ると一枚岩ではないという、ここはやっぱり押さえておく必要があると思うんです。
 杉田 最近、ドイツで戦後、外交官が実はナチスをかくまって、南米にいる残党に情報を与えたりもしていたという本が出ていました。ナチスだけでなく国防軍や外交部門まで、ナチスに協力的であったという衝撃の事実です。ナチスを罪の主体として分離することで成り立っていた戦後的なドイツの文脈が成り立たなくなった。日本の場合は、東京裁判でA級戦犯だけを罪の主体とすることになった。これは、ある意味では日本社会を免罪するやり方だったわけですよね。A級戦犯だけが悪いことにしてしまえば、日本には罪がないと。これに対して、A級戦犯を右翼が否定しようとしていることがよくわかりません。ある意味でねじれていますね。なぜなら、A級戦犯が罪の主体でないなら、他にもいろいろ罪の主体がいるという形で、責任を拡散させてしまうからです。
 上野 ねじれの原因のもう一つは、天皇ヒロヒトの戦争責任を裁けなかったということがありますね。
 杉田 ですから、この問題は今、経済危機が表面化する中で後景に退いているけど、ある解決というか、一応決着がついているわけじゃないので、何かをきっかけにそういうのが出てくるということはないか。歴史というのは繰り返さない?
 小熊 同じ形では繰り返さないんではないかと思いますね。例えば、保守といったらいいのか右翼といったらいいのか、そういう改憲派の一部として、靖国やなんかがシンボルに今でもなっているという形での、そういう形を変えた再生産は多分あると思いますけれども、同じ形で繰り返すとは思えないですね。
 今の話は、いろいろ聞いていて参考にさせていただいたんですけれども、一つ思いついたことを話せば、ドイツの場合には、ナチのせいだったという形にしてナチを排除する、あるいはナチ的なものを排除するという政治的な意識という形になったと思いますけれども、日本の場合には、軍にだまされていたというか、政府にだまされていたという意識のほうがずっと強かった。だから、政治に一切ノータッチでいれば多分大丈夫だという、そういう、政治からの逃走という形になったのかなという気がしないでもないですが。
 杉田 まさに丸山眞男などが指摘したように、軍国支配者の精神形態がおかしかっただけだけだという整理ですね。戦後の論壇もそういう感じでしたが。
 小熊 みんながマイノリティーになったというところに戻って、北田さんがいろいろな論調を調査なさったそうですが、具体的にはどんな論じ方なんですか。
 北田 いま手元にないんで詳細はいえませんけど、結局、自らを免罪化するためのマイノリティ化ですね。戦後日本が「軍に騙されていた」という形で加害性を見えにくくしていたとするなら、現代的な「脱正義論」は、「サヨクとマスコミに自分たちは一方的な加害者だと洗脳されてきた」という形で加害者性を消去しようとする。その間に位置するのが、「70年代パラダイム」。つまり、「自分たちは被害者だと思ってきたけど、実は加害者だったのだ」という認識ですね。この間に挟まった被害/加害のパースペクティヴ転換の構図が、現代的なマジョリティ化された承認の政治のかけ金となっている。自分たちは、サヨク・マスコミというマジョリティによって声を奪われたマイノリティである、と。彼らがサヨクのみならず、「マスコミ」を前面に出すのは理由があるわけです。正直マスコミが左翼だなんて笑止千万な話ですが、マスコミというのは彼らにとって「声」の存在感を示す記号として受け止められている。加害者という「レッテル」を貼られ声を奪われてきた、と。七〇年代パラダイムを形成してきた人たち、たとえばリブなどは、自らの被害者性と加害者性の複雑に絡み合った関係性に向かい合っていたわけですが、ここにはそういう葛藤はみられない。「加害者というレッテルを張られた被害者としての自分」。それを色んな形で表現するわけですが、何か、実像が透けて見えないフワフワした言葉の羅列に見える。フォーマット化されたコピペのような感じなんですね。
 それで、今、話の流れで思い出したんですけれども、「日本人は、みずからを被害者化し、軍部が悪かったとか政府が悪かったということによって、あるいは沖縄というものがないことになって、自分たちを被害者化してきたおかげで、加害者性というのは目をつぶってきた」というふうに議論されることが多いと思うんですけれども、多分、少なくとも私の世代では、小熊さんもそうなんじゃないのかなと思うけれど、逆の印象を学校教育で受けているんじゃないか。憲法学の西原博史さんとかと話をしたときも、やはり、学校の中で自分たちが被害者として免罪されることを教わってきたというふうに平和教育をとらえている。でも、僕自身は加害者としての責任を問われるという教育を受けてきたという印象を持っています。現代的「脱正義論」でも、基本的に、自分たちは常に加害者側で、被害者に糾弾される側としてあるしかない、という語りになることが多いですよね。
 これ、平和教育自体の変化なのか、それとも、単なる私の勘違いなのか、よくわからないんですが、戦後の平和教育の転換みたいなものがあったのかどうか、平和教育というものを媒介にして、加害・被害の関係把握のあり方がある世代で屈曲したのか。小熊さん、このあたりはいかがでしょうか。
 小熊 そうですね、それについて答えられるほどちゃんと調べてはいないんですけれども、平和教育に関していうならば、確かに八〇年代から九〇年代にかけて変化したという印象を持っています。加害の問題を言い始めたのは、六〇年代の後半ぐらいからぽつぽつと出てきて、七〇年代に一部の論壇というか、一部の運動界では広まってはいましたが、一般に波及したのは八〇年代から九〇年代になってからだと思います。
 北田 だとすると、たとえば論壇の中で、政治的な立場ではそんなに変わらない人が、世代間で、平和教育の評価がまるっきりひっくり返っちゃうことがあるわけですよね。たとえば私などは「平和教育が加害者性を隠ぺいしてきた」というのがいまひとつ体験的にはわからない。無知な80年代の小学・中学生であった僕とかですと、「戦争で日本は悪いことをした」というのがデフォルトの教育内容だったような気がします。
 小熊 そうですね。七〇年代から九〇年代以後は、加害を強調するようにどんどんなっていってはいました。被害の記憶を隠ぺいしていたという言い方のほうが、むしろ強くなっていくわけですから。ただそれも、どこまで広がっていたかは疑問なところで、アメリカではエスニック・マイノリティーとか外国人、移民、同性愛といったマイノリティーの人権という問題に対する、いわゆるリベラル・イシューというものが政治的な争点となっていて政党政治にも影響を及ぼしているけれども、日本ではほとんどそれが争点になったことはないですからね。
 日本の政党政治を見ての範囲において、例の戦後五十年決議を除いては、それに該当するような政治というのがほとんど行われたことがない。在日外国人に対する参政権の付与にしても、政党レベルでは一部の人たちが言っているにとどまっているし、争点としてもほとんど取り上げられることはない。ですから教育界と言論界の一部に限った現象だったのかもしれない。ところがその中で育ってきた人間にとっては、非常に大きなものとして受けとめているのかもしれないです。
 上野 その平和教育の実践者たちはどういう人たちなんですか。
 北田 私のケースはかなり特殊だと思いますが。担任は日教組系の女性教員でしたね。ちなみに自分のおばも長崎県の小学校教員だったので、わかりやすく教育されてきたと思います。
 上野 日教組が影響力を持っていて、文部省との対立構造が成り立ってたのは何年までだろう。教研集会とか成り立っているのかなあ。
 北田 八〇年代まではぎりぎり成り立ってるんじゃないですか?
 小熊 うん。そういう影響力を持っていたのは八〇年代までかもしれません。
 上野 組織率が急速に低下してきますよね。
 小熊 組織率の低下ということもありますけれども、日教組そのものがそういうイシューにあまり取り組まなくなりますからね。
 上野 教研集会はずっと続いてるようですよ、その実践報告みたいなのが出ています。歴史教育はどうなのでしょう。実際に、長崎、広島では、戦争の加害責任を示すように記念館の展示が変わっていますからね。
 北田 実際どこまで徹底したものだったのかについては記憶が曖昧なのでなんともいえませんが、僕自身が平和教育=加害者性の認識の教育というイメージを持っていたのは事実です。そこまでいうと強すぎるかな。後に「平和教育とかが被害者性を重視していて加害者性を不可視にしていた」的な論調に遭遇して、「えっ? そうだったの?」と違和を感じたわけで、「被害者性」教育の側面はその程度の強さしか持っていなかったように思える、といった感じでしょうか。なので、90年代に「作る会」とか小林よしのり氏の「自虐史観」批判に少なくない若い人たちがコミットしていると聞いた時も、その現象そのものとしてはそれほど違和感はなく、ある種の教育への反動としてそうしたメンタリティが出てきてもおかしくはないと感じていました。むろん、それに共感できるわけはありませんが、理解社会学的な意味で理解は不可能ではない、と。上の世代のひとたちが「新しいナショナリズム」に驚いているのをみて、逆に軽い驚きを感じてました。
 小熊 そのことは言えると思いますが。
 上野 今の証言は、北田さんは、あなたの世代のユニークケースではないということね。
 杉田 やっぱり地域差? 地域差が結構……。
 北田 地域差はあるでしょうね。僕は神奈川県育ちで、おばは長崎の教員なんで、かなり特殊なケースかもしれないですけど。
 小熊 ユニークケースではあるけれど、百人に一人というほどではなくて、百人に三十人ぐらいのユニークケースかもしれませんね。
 杉田 さっきの話ですけれども、戦争の記憶というときに、結局、戦争世代は、被害の記憶は言うわけですよね。でも、加害のことは、実は戦場でいろんなことをしてたことは言わないじゃないですか。だから、当然、被害がより語られやすい。むしろ、それが一段落して、記憶がまさに失われたときに、ようやく加害を言いやすい状況が出てくるということなのかもしれません。まずは被害感情をいい、それから加害感情を認識するというのは、日本だけのことなのか、ドイツなどではどうなんでしょう。
 小熊 ドイツのことはよく知りません。日本について自分の調べた範囲でいえば、加害の記憶を重視することを、例えば小田実やなんかは唱えたわけですが、小田の場合ははっきりと戦略的でした。彼が予備校の講師をしていて、六〇年代当時の若い者に、被害の記憶を話しても全然共有されない。だから加害の記憶を強調していくしかないんだと言っています。それはもう戦略的な態度です。これから加害の記憶にシフトしていかないと戦争体験は風化するばかりであると言っています。
 上野 記憶のメディアにも多様性があるでしょう。一つは、世代間のパーソナルな語り。もう一つは教育というメディア、それにマスメディア。それぞれ相互に影響しあっているので、被害の記憶は簡単になくなるというけれども、中国の反日教育はちゃんと連綿として再生産されてます、むしろ再強化される形で。過去に記憶を持たない人たちが、ものすごい被害者意識を持つわけでしょう。
 小熊 そうですけど、あの時点ではそういう形で語られていました。その妥当性はともかくとして。
 上野 もしかしたら、教育というメディアで、さっき北田さんが言ったようなシフトがあったのかもしれないし。マスメディアもかわったのかもしれない。そういう可能性はあります。
 小熊 あとは、これは『1968』で書いたことですけれども、経済成長が急激に訪れて、自分たちが豊かになってしまったので、これでいいのかなという気持ちがものすごく強くなった。そこで、我々の繁栄のためにはだれか犠牲になっているのではないか、我々は加害者なのではないか、もしかしたらベトナム戦争に加担しているのではないかと、心理的な連動が起きていたことは確かです。そのベトナム報道をやった本多勝一が、その後、『中国の旅』を書くわけですから、その連動性ははっきり見えます。実際には朝鮮特需のほうが当時の輸出の六割を占めていたわけですけれども、ずっと割合の低いベトナム戦争のときに戦争に加担することによってもうけているという意識がものすごく強調されたわけです。やはりそれは、豊かになったという意識が背景でしょう。
 上野 そういう言い方では、加害者意識というのは豊かさによってしかアフォードできないっていうことになるのでは。
 小熊 そういうことは言えるかもしれませんね。
 上野 そういえば、九一年に「慰安婦」訴訟が起きたときには、まだバブルの余韻が残っていましたね。そのときはアフォードできたが、バブルがはじけた後にはアフォードできなくなったということ?
 小熊 バブルがはじけてもしばらくの間はアフォードできたけれども、二〇〇〇年代になるとアフォードできなくなったという側面はあるんではないでしょうか。
 上野 第一次世界大戦後のドイツなんかはもう踏んだりけったりで、どん底に落ちて、そのうえ加害者意識を持たされて、それでもって賠償を背負わされたわけよね。
 小熊 だからナチスが台頭した。ちょっと思い出しましたが、二〇〇〇年代に渋谷の一番大きな交差点で信号待ちをして、カンボジアの戦災孤児か何かへの募金をしていて、募金に応じない若いのが「かわいそうなカンボジア難民に愛の手をとか言うけど、かわいそうな私に愛の手をってないかな」とか言っていました。私のほうがよっぽどかわいそうだという、そういう形になると、アフォードできないんじゃないですか。
 上野 そういう思いがマジョリティのはずの人たちに拡がってるんですね、マイノリティーは私のほうだと。
 小熊 非常に残酷に言ってしまうと、七〇年代から八〇年代にかけて論壇で戦争責任の問題を論じてきたり、マイノリティー問題を論じてきた人たちが、マイノリティー当事者ではなかったということがあると思うんですね。アメリカにおけるポストコロニアル論というのは、担い手が実際の移民系の学者だったりすることが多いわけですけれども、日本でポストコロニアル論を論じたり戦争責任を論じたりしている人たちはそういう人は少ない。
 上野 でも、沖縄の知識人とフェミニストは当事者よ。あなたの説には同意しない。
 小熊 でも、逆も言えるんじゃないですか。マイノリティーの中でも上に行けた人たちが論じていたんだと。
 上野 だけど、研究者も、草の根のアクティビズムとつながっていたからね。
 小熊 どうでしょう。
 上野 そんなことを言えば、知識人なら誰でもそういう意味では恵まれた環境にいますよ。スピヴァクだってサイードだって超恵まれてる。
 小熊 今から考えれば、活動専業主婦も恵まれた層ですからね。
 上野 もちろん、そのとおり。それなら彼女たちは当事者じゃない、とは言えない。
 小熊 当事者でしたけれど、豊かな層だった。豊かな標準家族とされている者の中で、一番割りを食っている層という形であったと思います。
 上野 それは、代弁の思想かそうじゃないかっていう争点に当たるから、そんな簡単には言えない。
 杉田 今の若い世代の論客だって、赤木智弘さんみたいに、一部には結構過激な議論があるけれども、皆がそうなのかどうか。
 小熊 どうなんでしょう。論客と呼べるほど、そんなにたくさん一枚岩で出てきてるとはあんまり思わない。けれども、たまたま今あげた中島岳志、雨宮処凛、赤木智弘、あるいは高原基彰、菅原琢とか挙げていくと、安定した職に就いているのは中島さんだけですよ(*2010年11月9日の時点)。残りの人は非常勤講師だったりフリーライターだったり、菅原さんは有期の特任教員ですよね。そういう意味では、不安定な人たちが多くなっていることは確かだと思います。
 上野 言論活動に従事している人たちって、例えば「フリーターズフリー」の栗田隆子さんにしたって、それから増山麗奈さんにしたって、親のインフラが前提にある。親のインフラなしではそもそも高学歴になれない。
 北田 以前から上野さんがおっしゃっていることですが、あと数十年したら「ロストジェネレーション」を何とか支えていた、支えていたようにみえる親というインフラがガタガタになりますよね。ポスト団塊ジュニアがいま30代。彼らが50代となる2030年ごろには5,60歳代の男性の4人に1人、東京・大阪などの大都市部では3分の1が単身世帯者となるという予測もあります(藤森克彦『単身急増社会の衝撃)』。こんなの「結婚しなかったやつの自己責任」なんていえるわけありません。
 上野 その上、その人たちが介護適齢期になって……。
 小熊 ただ、「ロスジェネが三十代になったところで、団塊が六十代になった」という書き方をしていますけれども、それは、ある意味でいうと、ロスジェネが三十代になってはたと目覚めたということと、親がそろそろ会社を退くころになったら親のインフラも危うくなってきたということは連動していると思いますけどね。
 上野 これにちょうどプラス二十年すれば、ロスジェネは五十代で団塊が八十代。
 北田 案外、人ごとじゃない。
 杉田 経済が論壇の争点になったという、最後のところの論点ですが、これも、数年前にはちょっとそういう感じだったけれど、私はまあ、そんなに経済ネタで引っ張れるのかということについても疑問があります。一定の議論をすると、大体一巡しちゃうところがあります。あと、基本的に配分の問題で、さっき北田さんもおっしゃっていたように、経済学プロパーというよりは、いわば世代間闘争みたいな領域が多いじゃないですか。あとは、福祉。最近だと、ベーシックインカム論がありますね。ベーシックインカム論も、一定程度やれば、大体話は一巡しちゃうわけですが、結局、経済について、だれも大していい答はないですよね。こうやれば絶対うまくいくというのは見つからない中で、つまり、政治そのものの限界というか、ちょっとそういう方向へ向かっていく。
 小熊 それはあり得ることだと思いますけれども、多分、旧来の保守と革新には戻らないだろうと思いますね。
 杉田 ああ、戻らないですね。何もないっていうか。言うことも何もないし。
 小熊 戻れないでしょう。
 上野 どうでしょうね、経済が争点になるときには経済政策が割れる。パイの継続的な成長をもはや望めないときに、限られた原資を何にどう優先配分するかっていう、よりシビアな配分の政治が問題になってくる。今だってネオリベ的な市場主義と、再分配の政治との間で、路線の対立がある。あれかこれかの二者択一でなくても、バランスをめぐって争点が成立するでしょう。この前のフランスの大統領選挙だって、国論を二分するような選択で、片方が僅差で辛勝するわけで、それはアメリカも同じ。
 杉田 まあ、そうなんですけどね。ただ、福祉重視か市場重視かという形で一応問題を立てることができたとしても、福祉のためには経済成長も必要という話になって、循環していくと思う。
 上野 そのつど、政治が単年度予算で配分を決めなきゃいけないわけじゃないですか。
 杉田 それはそうですね。
 上野 公共投資優先で予算配分するのか、それとも子ども手当に使うのかっていうような選択はそのつど問われますよ。
 杉田 それは政治学者に意見を聞いて(笑)。ただ、そういう意味で、政治の役割が強まるという議論があるけど、私はちょっと……。
 上野 経済政策は政治じゃないですか。
 杉田 いや、そうなんです。そうなんですが、やっぱりこの場での経済をめぐる議論、つまり景気循環を前提とした議論はあると思うんですけれども、もちろんずっと続くかどうかわからないにしても、かなり長期にわたって経済が停滞ないし劣化していくことに耐えられるような議論が続くかどうか。
 小熊 それは多分、人類史上、未曾有の出来事かもしれませんね。
 上野 拡大再生産しか前提にしてこなかったからでしょうね。
 小熊 私は日本では、福祉か市場かという対立軸は多分でき上がらないと思いますね。これまででつくられたことはないし、これからも多分できないのではないかと思います。
 上野 そう考える根拠は何ですか。
 小熊 一番は、日本では政治に対する信頼がなさ過ぎるということです。それは戦争の記憶と結びついて、より政治に対する信頼がなくなったということがあると思います。たとえば消費税二五%とって、ちゃんと分配してくれるという信頼がないんですよ。むしろ、公共事業を削れという議論のほうが盛んになる。それは政治に対する信頼のなさを示していると思うんですね。福祉国家は、やっぱり政治に対する信頼がないところには芽生えないですよ。
 上野 それはそうだ。だから、大沢真理さんや神野直彦さんたちが、社会保障基金政府という完全独立財政をつくれと言っているんだと思う。
 小熊 そんな政策的な細かいことは認識しないで、ただ自分が税金をとられる、それは何に使われるかわかったものではないという感覚が非常に強いと思います。
 上野 ほとんどの社会意識調査で、今より手厚い安心のためなら今より高負担に応じてよい、と答える人がおしなべて六割います。
 小熊 その数字のかなりの部分は高齢者ではないかと思いますが、ともあれその数字は日本でも社会民主主義の概念を正当化するためによく引かれます。けれども、そこのところに、じゃあ消費税二五%にしていいかという質問項目を設けたら、多分賛成する人は少ないと思います。
 上野 だから今の五%から二五%へじゃなくて、五%から八%か、五%から一〇%へという、そういう小さい上げ幅をめぐる政治は争点になります。
 小熊 小さいバランスの争点は、まず最初は、消費税を上げる前に無駄を削れ、官僚の首を切れという方向に行くと思います。それは政治不信のあらわれですよ。日本では、新自由主義というのが新自由主義として理解されたことはないと思います。日本の新自由主義というのは、政治不信と政界浄化という形で結びついてできたものですから。日本新党だって最初に出てきたときは政界浄化の党としてできたわけですからね。彼らの新自由主義的な主張というのが九三年の時点で理解されたわけじゃないと思います。あくまでもそういう政治不信を背景にして出てくるのが新自由主義というものであって、それは組合をたたけ、官僚をたたけ、既得権を持っている連中をたたけという議論の中で初めて力を持つものだったと思いますよ。そういう意味では、新自由主義か社会民主主義かという対立軸は定着しないと思います。
 北田 第一次安倍政権の「失敗」も、経済は実はそんなに争点になってなくて、構造改革という響きへの感度の問題であったという人もいますね。今の小熊さんの分析はかなり納得がいくもので、論壇では新自由主義という言葉が敵を名指す用語として多用されていますが、実際、世論が新自由主義を経済政策として了解していたのかどうかはきわめて曖昧で、むしろ「変革する」というポーズこそが選好の対象となっていたのではないか。それを経済的・社会的な新自由主義という「理論」で見てしまうと、かえって見誤ってしまうことも少なくないように思います。
 上野 その中で規制緩和と民営化は進んできていますよね。
 北田 うん。そうした政策的な動きがあったことは否定しません。しかし、小泉支持に象徴されるような世論の動きが、経済や労働、社会制度をめぐる「自由化」への合意に支えられていたというよりは、「既得権層を破壊する」という姿勢への共感として現れていた可能性を否定できないのでは、ということです。制度的な「自由化」と、世論調達のレトリックとしての「自由化」はむろん連動しているけれども、相対的に自律的なものとして考えたほうがよいように思う。労働や経済をめぐる問題群は…
 上野 それが、政治的な争点になったかならないかということ?
 北田 平均的な世論の水準でどこまで深く争点化されていたかは疑問です。
 上野 現実には、労働分配率の長期低下も起きているし、労働の規制緩和に伴う柔軟化も進行してる。法人税は下がってるし、全体として企業に優しい政治が、この20年進んできました。
 小熊 もちろんそうです。しかし、二〇〇〇年代の前半に若者の不安定雇用層が小泉を支持したかどうかわかりませんが、それは自分の首を絞めているんだとよく言われた。そうだとすれば、そのとおりであるわけですけれども、それは政界を浄化してくれるヒーローとして支持していたのであって。
 上野 改革者としてね。
 小熊 そして改革というのは、要するに既得権層をたたくという、そういう意味合いでしか理解されてなかったと思います。だから、それは、社会民主主義的な方向にシフトさせるというのは、非常に困難だと思います。

(了)

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