集英社新書WEBコラム
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ポスト戦後思想研究会

「68年」と「89年」、そして「戦後」

報告者:小熊英二
討議:上野千鶴子・小熊英二・北田暁大・杉田敦
(司会:集英社新書編集部 落合勝人、2010年11月9日)※WEB掲載日は2013年12月06日

はじめに

 「戦後思想」の賞味期限は切れたのか?冷戦秩序と55年体制の終焉を迎え、私たちは従来の概念や理論の通用しない、未曾有の変化を経験している。私たちの生きる「いま」を記述し、分析することばは可能なのか?
 私たちはそれを「ポスト戦後思想」と名づけたいと思う。「ポスト戦後・思想」でもあり、「ポスト・戦後思想」でもあるこの新しい思想の実験を試みるために、「ポスト戦後思想研究会」は2010年にスタートした。1950年代には久野収・鶴見俊輔・藤田省三らが『現代日本の思想』を語り尽くした。それから半世紀後の2000年代に、私たちもまた「現代日本の思想」を語り合いたいと思う。本サイトはその研究会の討議記録を、同じ関心を有する読者と共有するために創設したものである。

「ポスト戦後思想研究会」編集委員
上野千鶴子・小熊英二・姜尚中・杉田敦・北田暁大

第1部:報告

1、 二つの要因から「68年」の世界同時発生を考える

 『kotoba』(集英社)という雑誌でインタビューを受けて、最近の思想というかものの論じ方のパラダイムが変化しつつあるのではないかみたいなことを語ったわけです(「日本思想の「最前線」で起きていること」)。それはお読みいただいた方もいらっしゃるでしょうから、その話を二度繰り返してもしかたないので、別の側面から、最近の日本の思想状況の基盤になるようなものを考え直していきたいと思っています。
 今日は非常に雑駁に大きな仮説という形で述べさせていただきます。かなり穴だらけだと思いますけれども、仮説であることを前提にお聞きいただければ幸いです。
 『1968』(新曜社 2009年)という本を去年出しまして、「六八年」の問題を、日本を超えて世界の問題もちょっと考えました。それからもう一つ「八九年」という問題を考えています。それは、冷戦の終結ということもありますが、ほぼ同時に、九〇年代に先進諸国を覆ったポスト工業化とグローバル化の波というものも含めてどう考えていったらいいのかということです。そこで日本が経済の停滞に陥って、最近では格差の問題を含めて論じ方が変わってきた。消費社会から格差社会へというような言い方もありますけれども、それの変化というものも踏まえて、その境目ということを考えております。  それからもう一つは、戦後というものが終わったのか、それとも終わっていないのか、終わったとすればどう終わったのかということも考えていきたいということで、「「68年」と「89年」、そして「戦後」」というテーマを設けさせていただきました。
 二つの要因から、「六八年」の世界同時発生ということを考えてみたいということを思っております。一つは、資本主義の高度化といいますか、あるいは後期近代到来といいますか、後期資本主義といってもいいですけれども、そういったものがやってきたことが要因になったのではないかということが一つ。これはたびたび言及されるところではあります。
 もう一つは、世代交代であります。特に世代交代の場合に私が念頭に置いているのは、戦争の記憶を持たない世代が成人したところで、一つの境目がやってきたのではないかと考えております。
 その二つの側面から「六八年」の同時発生ということを考えてみたいということと、それから「八九年」という問題、それから「戦後の終わり」という問題を考えてみたいということであります。

2、資本主義の高度化

 資本主義の高度化のほうから先にお話しいたします。この資本主義の高度化という問題をどう名づけるかは、「第二の近代」とか、後期資本主義とか、いろいろな名づけ方があると思いますけれども、それはあまり厳密に問わないでおきます。
 まず消費文化の浸透、それからカウンターカルチャーの発生があります。カウンターカルチャーというものは、消費文化が若者を中心にして一部の層に受け入れられて、時代にカウンターなシンボルになり得たものだと思います。
 例えばジーンズみたいなものでありましても、大量生産物資以外の何物でもないわけですが、それが若者に受け入れられている間には、年長者に対するカウンターな価値を持った。それが全体に浸透するに従って、カウンターではなくなるわけであって、現代の社会ではもうほとんどカウンターカルチャーとかサブカルチャーということに意味がなくなり、メーンカルチャーが何かわからなくなった。ただ、それが浸透していった時期に、時代のカウンターたり得た時期があったということです。
 また六八年ごろに顕著になってきたものとしては、資本主義の高度化とともに伝統的権威の低下、教養主義の没落が起こった。これは「六八年」の、あの学生反乱の台頭の背景としてよく言及されるところであります。
 ここに民主化要求というものが絡んでまいります。資本主義の進展に見合った政治制度が要求されるということは、マルクス主義の枠組みからも言われます。資本主義の初期には議会制民主主義が要求され、さらにその高度化に伴って直接民主主義が要求されるという側面もあったのではないかということを考えております。
 さらに、近代家族の再編成と性に対する意識の変化ということもあります。これはヨーロッパ、アメリカのケースと日本のケースで若干違いがあるようにも思えます。日本では近代家族の形成の最盛期は七〇年代になってからであって、ピルの普及などもドイツなどでは六一年ぐらいから先行していました。そういう事情はありますけれども、資本主義の高度化が起これば、経済構造の変化が家族のあり方の再編成をもたらすことは、当然伴ってきます。
 そして進学率の上昇があります。これは、学生反乱が起きた背景としては、共通して当時から指摘されていたことでありまして、高等教育進学率が一五%を超えるとマス段階に入って、エリートという意識がなくなるということはしばしば指摘されます。それまでの少数のエリートという意識で、使命感とエトスを持って運動に取り組んでいたという段階から、マス段階に変わるということですね。
 日本では一九六三年に高等教育進学率が一五%を超えます。そこで大学の大衆化ということが生じたことは、『1968』に書いたことであります。それに伴って、それまで大学に進学すればかなり希少な高い収入が期待でき、ステータスの高い職につくことができたのが、大学進学率が上昇すると同時に、平凡な職種にしか大学を卒業しても就職することができなくなったということが意識された。それが未来への閉塞感につながり、大学に対する過剰な期待が裏切られるという形で、学生反乱をもたらしたということはあったようであります。
 また、大学の施設がこの進学率の急上昇に追いつかず、学生一人当たりの土地が三十平方センチしかなくなるとか、そういう状況を生み出してしまって、それが学生に不満をもたらしたという側面もあったということがよく指摘されるところです。
 それから、疎外感の高まりとアイデンティティークライシス。これも資本主義の高度化とともに起きてきた。疎外論がはやったとか、不条理演劇やマルクーゼがはやったとかそういうこともありました。また『1968』で書いたように、リストカットの元祖に当たるようなものとか、あるいは不登校の始まりだとか、そういったものが六〇年代の後半から注目を集め始めていた。一種の自己確立のために学生運動に身を投じるという側面があったことも、強調したところであります。
 それから、消費社会では、高度資本主義の浸透に対するアレルギーが存在した。特に日本の場合は、高度経済成長で急激に高度資本主義に直面したということがあったので、それが強かったようでありますけれども、アメリカや何かでこういうことがあったのかということについては、ちょっと私は疑問符のつくところであります。日本の場合には特に、学生反乱に参加した世代が、一九五〇年代までは、それこそくみ取り式のトイレから七輪、まきの風呂、カツオ君頭にワカメちゃん頭という形で生活していたのが、いきなりジーンズになってしまうという形の中で、非常な居心地の悪さを覚えた。
 『1968』にも引用いたしましたけれども、田舎から東京に出てきまして、東京オリンピックの都市開発で建てられた首都高速のコンクリートの柱を見て、ものすごく違和感を覚え、サルトルの『嘔吐』に出てくる「実存の不安」という言葉を思い出したということを、批評家の小阪修平氏が書いているわけです。実存主義がはやったというのは、そういう高度成長に対するものすごい違和感というものが背景にあったのではないか、と小阪氏は述べております。
 それに伴ってアンチ近代主義というものが台頭し、日本ですと柳田國男の再評価でありますとか、国際的にはヒッピーブームにおけるダウン・トゥ・アースの動きでありますとか、そういったものが台頭したということはよく知られているところであります。これらが「六八年」の国際的な同時発生というなかで、ある程度共通していたということは、あったのではないかと思います。
 とくに、一九五〇年代の末から六〇年代にかけてある程度の高成長を遂げることができたのは、学生反乱を体験した先進諸国にほぼ共通した現象でありました。ですから、こういった資本主義の高度化の訪れが各先進諸国を覆っていたということが、「六八年」の同時発生ということをもたらした一つの要因ではないかなと考えているところであります。

3、世代交代

 もう一つ、世代交代という問題があります。私は『〈民主〉と〈愛国〉』以来、戦争の記憶という問題にある程度着目してものを考えてきました。「六八年」というのは、戦争と建国の記憶を持たない戦後生まれが成人した時期であります。戦争と建国の記憶を持たないとはどういうことかと申しますと、戦争の記憶を持たないことはもちろんのことなのですが、日本国の建国の記憶を持たないということであります。
 日本国という国は、ずっと昔から続いてきたようにイメージされますけれども、明らかに一九四五年の敗戦の後、日本国憲法の布告とともに、大日本帝国憲法からある程度縁を切った形で建国された、新しい国であります。新憲法体制は、やはり戦争の記憶をもとにしてつくられた部分がかなり大きく存在しておりました。特に第九条を中心とした憲法の理念というものが、戦争の記憶というものに非常に大きく依拠して、その正当性を置いていたことは、ほぼ異論のないことであろうと思います。
 この要因は、私は無視できないものだと思っております。つまり「六八年」に日本国の国家正当性ないし国民統合原理が問われ直すということが起きたのではないか、と考えております。そのあらわれが、いわゆる「戦後民主主義」というものに対する疑い、戦後民主主義批判という形で台頭したのではないかと考えております。つまり、戦後民主主義に対する違和感の表明、あるいはそれに対する批判というものは、日本国憲法に基づく日本国の建国の理念というものに対する疑いであり、日本国の正当性原理に対する疑いであり、日本国の国民統合原理に対する違和感の表明であります。
 戦争の記憶をもとにして建国された日本国、憲法九条を中心とした日本国というものの国民統合原理、正当性原理というものにたいして、戦争の記憶を持たない世代が成人したとき、建国の記憶を共有できていないゆえに、保守派とは違う戦後民主主義批判が生まれた。戦後民主主義批判は、もとをたどれば六〇年代からいわゆる保守派の側にずっとあったわけです。それとは明らかに質の違う戦後民主主義批判が台頭したことは、これは世代交代によってもたらされた部分があったのではないかと考えております。
 この考え方を国際的に適用することができるかといえば、ある程度できる部分があるのではないかと考えております。それは、例えばフランスですと、レジスタンスの神話に対する正当性原理に対しての疑い、レジスタンス神話に対して共鳴のできない世代が台頭するということであります。フランスの場合には、レジスタンス神話に立つ以上は、「ドゴールか共産党か」という選択肢が戦後に有力だったわけであります。
 それはやはり戦争の記憶、あるいはナチスに占領されていた時代の記憶に基盤を置いた形で、戦後の政治地図というものが動いていたわけであります。けれども、ドゴールにも共産党にも共鳴しない、そのどちらにも違和感を突きつける動きが台頭するという形になります。それは、戦後のいわゆる左右の政治地図とはまた別の地図を持った人々が台頭してきたということでありまして、戦後フランスの国家正当性原理に対する根本的な違和感の表明が起きたのではないかと考えています。それは日本でもそうですが、共産党の権威を認めない独立左翼運動の台頭という形をとりました。
 もちろん、同じことはドイツにも言えるわけでありまして、ドイツ連邦共和国というのは、だれでもわかるとおり、一九四五年の後に新しく建国された国であります。もちろんフランス第五共和制も新しく建国された国であります。そういった国において、国民統合原理なり国家の正当性が問われるということが同時発生的に起きてきたのではないかと考えております。
 ここで、さらに話を大きくして、あくまでも仮説として述べるわけですけれども、現在我々が知っている国というものは、第二次世界大戦後の国際変動でできた国というのが大変多いということが言えます。それは、西ドイツ、東ドイツはもちろんそうでありましたし、東ヨーロッパの国々はもちろん、ヨーロッパ諸国は大なり小なり、戦争の国際変動の結果できた国々であります。
 それだけではなくて、何よりもアジア、アフリカ諸国はほとんどそうであるわけです。つまり、第二次世界大戦後の脱植民地化の動きの中で、旧宗主国が第一次世界大戦、第二次世界大戦で弱体化してしまった結果、植民地を手放さざるを得なくなってしまった中で独立した諸国が、大変多いわけですね。インドが一九四七年に独立、中国では一九四九年に革命が起きましたが、これらはもちろんアジア太平洋戦争の余波の中でできた国であるわけです。そのような第二次世界大戦後の国際変動の結果できた国家群というのは、実は大変多いと考えることができます。もちろん台湾もそうでありますし、韓国もそうであります。
『1968』という本に引用したんですが、一九六六年の時点で見田宗介氏が「紅衛兵をどう見るか」というエッセーを書いております。紅衛兵というものが文化大革命の中で出てきたということは何を意味するかを、見田宗介氏なりに考えたエッセーなんですが、そこで彼が述べているのは、紅衛兵というものが要するに革命戦争の記憶を持たない世代であるということです。つまり、革命戦争の記憶を持たない世代が新しく台頭してきているという事態に対して、中国共産党が危機感を覚え、革命精神の引き継ぎ、及び引き締め直しを図って、国民運動を図っているというのが、紅衛兵運動であり、文化大革命ではないかという解釈を見田宗介氏が下しております。
 もちろんこれは、今となってみれば、妥当性があったのかどうかということに関してはかなり疑問符がつくわけですけれども、見田宗介氏は、『思想の科学』の同人として、五〇年代から、戦争の記憶の引き継ぎということに対してかなり強く意を砕いてきて、新しい世代が戦争の記憶を持たない、日本国の正当性原理を継承していないということに対してどう対応するかという問題を、その研究会を通じて共有していたわけです。その人が紅衛兵運動をそのように見たというのは、一種の投影だったのかもしれませんけれども、当時の日本の状況を反映したものとして、私は大変興味深いなと思いました。
 あとで話しますが、ユーゴスラビアでも、パルチザンの、解放戦争の記憶を持たない世代に対して、その戦争の記憶をどのように受け継ぐかということが課題になっていたということがあります。
 そういう建国の記憶を共有していない世代が台頭したところで、それまでの国家の正当性原理に対して、右も左も問い直す動きが起きたということが、「六八年」の同時発生ということになったのではないか。文化大革命の場合には今の資本主義の高度化みたいなものと必ずしも連動していないわけですが、そのようなものとして「六八年」があったのではないかと考えているわけです。
 それが、戦争責任の追及という形で日本の場合にはあらわれるということもありました。ドイツの場合にも、同様のことが、親世代の戦争責任の追及という形であらわれるということも起きたということが言えるのではないかと思います。
 それは戦争の記憶、被害の記憶を共有していないから加害責任を問いやすかったということでもあることは、私の本でも繰り返し強調した点であります。被害の記憶を持っていないから、被害体験に基づく戦争体験というものに対して共鳴することができない。それゆえ、戦争責任の追及はあくまでも加害責任の追及という形をとった。そのよしあしは改めて問えることはあるんですけれども。
 それが親世代に対する反抗という形にもなり、資本主義の高度化に対してカウンターカルチャーを身につけている、あるいは性の意識や伝統的権威の低下に対する感覚を身につけている年少世代と、相変わらず伝統的権威の感覚に寄っている親世代に対する反抗という、そういうジェネレーションギャップともつながっていったわけです。そこで、戦争責任の追及ということが、親世代に対する反抗の武器にもなり得たという事情をもたらしたということがあったのではないかと考えております。ドイツの場合にも同じことがあったということは、よく知られているとおりであります。
 そのようなことがいわゆる六八年の国際変動に対して、先進諸国にも、それから中国の文化大革命とかインドのナクサライト運動とか、そういったものも含めて共通して見える部分があるのではないかということを、仮説として考えてみてもよいのではないかと思っております。これはご批判いただければ幸いです。
 そこで、この問題が現在の問題までどう響いてくるかというところでポスト戦後の問題を考えていきたいのですが、その前段階のところで、やはり日本の戦後ということを考える上では、日本の「六八年」のその後という問題を考えておかなければなりません。

4、日本の「68年」のその後

奈良県の山奥にあるループ橋。この規模のものは全国の田舎風景の一つになっている

 日本の「六八年」というものがアメリカやヨーロッパに比べて何も残さなかったことは、よく批判されるところであります。緑の党のような遺産を残さなかった、クリントンやブレアを用意することもなかったともよく言われるところであります。
 それはどうしてなのかということを、私なりに考えてみたことは、『1968』にも若干は書きました。けれどももう一つ、その後に考えたこととしては、日本の場合には、七〇年代から八〇年代の経済の高コストパフォーマンスを維持できたということが実は大きいのではないかということです。つまり七三年と七九年の二度の石油ショックを乗り切って、その後の八〇年代にかけて、高度経済成長期に比べればもちろん経済成長率は落ちたにせよ、平均すれば四〜五%の経済成長率を維持でき、失業率を極めて低い状態にとどめることができた。
 これが何をもたらしたか。いわゆる「団塊の世代」を批判するに当たって、高度成長期に暴れるだけ暴れて(もちろん暴れたと呼ばれる人たちはその世代の中の五%前後だろうということはあの本にも書いてあるんですけれど)、その後無事に就職して、バブルを享受して、その後年金を食い逃げしているという言い方があります。しかしそれが可能だったのは、髪を切って無事に就職ができて、バブルまで雇用が安定していたという前提があったからでした。
 最近、ドイツの緑の党と六八年運動のかかわりを研究している人と会ってお話をする機会がありました。ドイツの場合、緑の党が六八年世代を中心にして台頭してきた背景には、幾つか要因があるのだけれども、一つの要因は、ドイツの場合は七三年の石油ショックはまだ乗り切ることができたが、七九年の第二次石油ショックは乗り切ることがうまくいかなくて、若年失業率が急上昇してしまい、その結果、若年層に非常に不満がたまってしまった。その結果、既存秩序への疑問をもたらし、緑の党に対して票が集まったという側面は、かなり無視できない要因であるということをその人は述べておりました。
 そうでなくても、一定の若年層がいわゆる大企業の正社員になって既存秩序への統合が進んでしまうという現象が、七〇年代から八〇年代の日本の場合には成し得たわけですけれども、他の諸国の場合にはそれは成し得たのだろうか。そのことが、「六八年」のその後ということを分ける要因になったのではないかと考えております。ヨーロッパ社会のほうはキリスト教文化圏で、政治参加の土壌があったんだとかという理由を立てることも可能ですけれども、そういった文化的要因に還元してしまわずに説明する要因としては、かなり大きなこととして言えるのではないかということを考えております。
 もちろん緑の党が台頭できた要因というのは、日本のような中選挙区制と違って比例代表制であったから、五%政党でも選出することができたとか、八二年の中距離核配備の問題も非常に大きかったとか、そういう要因も大きく絡んでいるわけです。しかし日本の場合はほかの先進諸国と比べて、七〇〜八〇年代に経済成長をある程度維持できたために、政治体制が自民党一党支配に安定することができた。やはり既存秩序の安定度というものが非常に高かったということが言えるのではないかと考えております。
 ほかの先進諸国の場合、軒並み秩序の不安定ということを被り、政権交代を経験し、場合によっては緑の党のような新勢力の進出をもたらし、八〇年代にまた新自由主義に切りかえていくような動きも、イギリスやアメリカの場合にはありました。フランスの場合には同時期に社会党政権に切りかわったりということがあったわけです。ところがその間に、日本の場合には、五〇年代、六〇年代から続いて自民党の一党支配を継続することができた。経済的繁栄がその安定性の高さをもたらしていたということは、ほかの先進諸国との大きな違いであると考えることができます。
 日本でも、ほかの先進諸国を覆った環境問題の危機とか、福祉の問題とか、そういった問題がある程度問題化することは起きた。けれども、その動揺は都市部の革新自治体の誕生というところまででとまってしまいました。一つには選挙制度の問題もあって、都市部の革新自治体の場合には直接選挙制ですから、政権交代が比較的起こりやすいのに対して、国政レベルでは中選挙区制なので極めて起こりにくかったという要因も絡みます。
 逆に言うと、中選挙区制というのは、一〇%か二〇%の得票率で社会党が生き延びるには、極めて適した制度ではあった。それによって日本の場合には、五五年体制の形でとまってしまったということが言えるのではないかと思います。
 いわゆる市民社会の側の運動も、革新自治体を中心としたそれを支える運動、生活クラブ生協やあるいはベ平連を土台にした各地の市民運動という形にとまってしまう。それらに対して、若年層の人材が流入してこない。これはやはり若年の高等教育を受けた層が安定して就職することができるという条件が、七〇〜八〇年代にずっと保たれていたという前提条件を抜きにしては、なかなか成立しなかったのではないかとも言えるのではないかと考えております。
 ここがやはり日本の「六八年」ということを一つ特徴づけたかなとも思いますし、後で述べますが、日本の「八九年」ということも一つ特徴づけていると思います。

5、「89年」とは

 そこで、「八九年」とは何だったのかということを改めて考えてみます。
「八九年」というと、我々は東欧とソ連の崩壊、ヨーロッパにおける共産圏の消滅ということを考えがちであります。ところが私がアジア研究者と話をしていておもしろいなと思った点は、「アジアの八九年」という考え方がありまして、実はアジアのほうが先行していたのだという考え方があるわけです。
 どういうことかというと、八七年に韓国の軍事独裁政権が倒れて、民主化が成し遂げられた。ほぼ同時に台湾の戒厳令が解除され、国民党の一党独裁体制からの移行が始まったこと。それから、八六年にフィリピンのマルコス政権が倒れたこと。そういった形によって、むしろ八六年から八八年にかけて、アジア諸国において開発独裁体制、権威主義体制の崩壊が先行して起こっていたという見方ができるということです。
 ところが、「アジアの八九年」は、八八年のミャンマー(*当時ビルマ)の軍事クーデターと、八九年六月の天安門事件でとまってしまいました。その後、八九年秋から冬の東欧のほうに波及する。そういう見方ができるのではないかと考えるわけです。そのように考えるならば、「八九年」というのはヨーロッパに限った現象ではなかったのではないかという仮説を立てることが、可能なのではないかと考えます。
 さらに敷衍して言うならば、共産圏の消滅ということと大きく絡みますけれども、発展途上国地域で準社会主義体制をとっていたり、あるいはほんとうに社会主義体制をとっていた諸国で、ソ連のバックアップがなくなったところで切りかえざるを得なくなったり、自立経済がもたなくなってグローバル経済に適応せざるを得なくなってしまって、準社会主義体制を切りかえざるを得なくなった国というのは、この時期に数多く存在するわけであります。例えば九一年に改革開放経済に転じたインドを、まずその例として挙げることができます。よくご存じのとおり、国産奨励政策の中で準社会主義政策をしいておりましたから。
 その要因として、私が先ほど挙げた二つの要因をやっぱり考えてみたいということがあります。つまり高度資本主義と、消費文化の一層の進展という問題であります。これが東欧の「八九年」を用意したということに関しては、だれしも異論のないところであります。それは、ロックミュージックをはじめとした消費文化へのあこがれが東欧の崩壊をもたらしたということ一事をとっても、よく言われるところであります。
 ある意味では、当時の東欧というのは、ロックミュージックをはじめ、西ヨーロッパではとっくにカウンターカルチャーではなくなっていたものが、カウンターカルチャーたり得る場になっていたわけであります。そういう高度資本主義の一層の浸透というものをグローバリゼーションと呼んだりもするわけです。
 グローバリゼーションというものが九〇年代に呼ばれるようになってきた大きな要因というのは、それまで西側先進諸国を中心とした国際経済秩序に組み込まれていなかったソ連、東欧圏が、新たにその秩序の中にビルトインされたこと、あるいはインドのような国が改革開放経済に転じたことも含めて、そういう国際経済秩序に入ってくる国が一気に増加したということが、グローバリゼーションの一つの指標であるわけです。
 そういった高度資本主義の一層の浸透が、権威主義体制の崩壊をもたらしたということならば、それは東欧にもインドにも共通して言えることであろうし、台湾や韓国にも言えるのではないかと思うわけです。つまり、「六八年」よりもワンステージ上がった形で、それが一層及んできたということであります。
 世代交代という問題をさらにもう一つつけ加えて考えるならば、戦争と建国の記憶を持たない世代が社会の中堅層にまで進出する時期に到達した、という時期でもあります。一九八九年というのは、戦後生まれの人たちが四十代に到達した時期であります。
 それがどういう条件をもたらしたか。じつは東ドイツの「八九年」の民主化運動を担った世代というのは、実は「六八年」当時に若者だった四十代である、ということドイツ研究者から聞きまして、大変興味深いことだと思いました。
 その研究者によれば、六八年に「プラハの春」を担った若者たち、あるいは「プラハの春」に共鳴して東ドイツで運動を起こした世代というものが、八九年までずっとほそぼそと運動を続けてきて、それが八九年の変動のときにリーダー層になってこの変革をもたらしたと述べておりました。つまり、戦争と建国の記憶を持たない世代が、成人したばかりの若者であれば学生反乱でとまってしまったものが、社会の中堅層まで行ってしまうと、国家体制そのものが転覆するまで行ってしまった。そういうふうに考えることもできなくはないのではないか。
 それは、私がインドに行って痛感した点であります。私は二〇〇〇年にインドに客員教授として行きましたが、そこで古い世代の知識人は、ガンディーの精神でありますとか、インドの独立運動の記憶でありますとか、その中におけるイスラム教徒とヒンドゥー教徒の和解の問題といったことを説くわけですけれども、それは一定以下の年代には全く共有されていない。それは、国家の正当性原理が引き継がれていないということであります。
 独立運動と独立闘争の記憶を持たない世代には通用しない。日本でいえば、ほんとうにあれは「戦後民主主義」のお説教のようなものだ、ということを聞いたわけでありますけれども、そのようなありさまを見ていまして、やはりこの問題というのは、ある程度共通しているのかもしれないということも思いました。
 その問題の一つの例として、私がユーゴスラビアの研究者から聞いた話があります。ユーゴスラビアという国は、まさに戦争と建国の記憶をもとに、民族統合を成し遂げていた国でありました。あの国は、ほぼばらばらだった歴史のほうがずっと長いわけなんですけれども、一つの国に束ねることができたのは、パルチザン闘争においてともに闘った記憶が非常に大きな基盤になっていました。しかも、自主管理社会主義というものは、パルチザンの解放区でやっていた制度をそのまま当てはめたものだったわけです。
 でありますから、七〇年代から八〇年代に、戦争と建国の記憶を持たない世代がだんだん育ってくるに従って、パルチザン経験の継承ということを非常に努力しておりまして、職場単位でピクニックというか遠足に出かけまして、パルチザン戦争を戦った山に行ってそこでテントを張るとか、そこでパルチザン時代の経験を聞くとか、そういうことをやっていたそうであります。結局、そういう努力をしても、記憶の薄れということをやはり消すことができなくて、とうとう国家そのものの崩壊にまで九〇年代に至ってしまうわけなんです。これは第二次世界大戦後の国際変動でできた国に、大なり小なり襲った現象なのではないかと考えているわけです。
 そこで同時発生的に各国で起きてきたのが、戦争の記憶の問い直しという現象でありました。九〇年代というものは、戦争の記憶の問い直しということが、非常に行われた時代です。ドイツでも日本でも盛んに行われたことであります。同時に発展途上国地域では、それがポストコロニアル論という形になったり、独立戦争や植民地協力の問題を問い直すという動きにもなったわけです。
 日本の場合、九〇年代は、ポストコロニアル論が戦争の記憶の問い直しになるという、アメリカとは文脈の違うことになりました。日本の場合には、戦争で進出した地域が日本の植民地地域と重なっているという特殊事情があり、戦争の記憶の問い直しがポストコロニアルと連動しました。アメリカの場合は、戦争の記憶と、ポストコロニアルの問題は重なりません。
 日本における国民国家論の台頭でありますとか、ポストコロニアル論の台頭でありますとか、そういったものも軌を一にして、九一年にはキム・ハクスン(金学順)さんのカムアウトということを発端にした従軍慰安婦問題の台頭ということもおこりました。これは、戦争を直接経験した世代が、死ぬ直前になってきて、あるいは現役を引退する年代になった七十代に到達したところで、人生の最後の思い残すこととして、この問題を問うておきたいというその叫びから出てきた。しかしそれが共鳴を呼んだのは、日本でも戦後史の見直しということで盛んに行われ、国家の正当性原理の見直し、国民統合原理の見直しの気運が高まったことがあったのではないかと考えております。それをもたらしたのは、高度資本主義の浸透と世代交代であったわけです。
 この問題を、「八九年」の一連の政変は何を意味したのかということから考えてみますと、戦時動員体制型社会と開発独裁型権威主義体制の崩壊、ということが言えるのではないかと考えております。
 ソ連型社会主義というものが戦時動員体制型の社会からの延長線上にできたことは、よく知られているところであります。革命戦争から第一次大戦、第二次大戦の経験から、食料の配給制でありますとかそういったものが強化されるという形ででき上がってきた制度でありますし、そのもとでの「五カ年計画」であります。
 もちろん中国にしても先ほどのユーゴスラビアにしても、戦争の状態から戦時動員体制を延長して、その体制を築いてきた国々が多いわけです。そういう戦時動員体制型社会が、戦争が終わって約四十何年たったところで寿命を終える、要するに人間の世代交代と記憶の消滅ということとほぼ軌を一にして寿命を終えるということが、起きてきたということもあります。
 もう一つは、高度資本主義の浸透とポスト工業化の浸透に対して、戦時動員体制型の社会が対応できなくなったということも、よく指摘されます。情報化とグローバル化に、開発独裁型の権威主義体制が対応できなくなったことが、政変を後押ししました。
 以上、「六八年」と「八九年」という現象が世界的に見て、高度資本主義の浸透と、戦争の記憶の衰退、世代交代という要因から起きてきたのではないかという仮説をお話ししました。次に、「戦後の終わり」というところに入っていくわけですが、日本に「八九年」はあったのかという問題があります。

6、日本に「89年」はあったか

 日本では、「八九年」にソ連、東欧、韓国で見られたようなドラスティックな政治体制の崩壊は起きなかったわけであります。けれども、グローバル経済の浸透が起きて、それの対応を迫られたということはよく知られるところであります。日米構造協議から始まって農業の自由化がおこり、あるいは「日本型経営」がポスト工業化とグローバル化に対応できなくなっていくということが起きて、それの対応を図らなければならなくなってきた。またそれに対応し切れなかったところが、九〇年代、二〇〇〇年代の停滞をもたらしたということはよく指摘されるところであります。
 日本に「八九年」に対応するものがあるとすれば、まずバブルの崩壊です。これは、日本の国内的要因から読み解くことももちろんできるわけですけれども、やはり私は、冷戦の終わりとともにほぼ軌を一にしてバブルが崩壊したということは偶然だろうかと考えてもいいことであろうと思います。
冷戦の崩壊とバブルの崩壊が軌を一にしたということは、日本が冷戦体制の中で非常にニッチを得てきた国だからだろうと考えております。フィンランドやスウェーデンもニッチを得てきた国であるわけですけれども、東西冷戦のはざまにあって中立国でありましたから、東側陣営にも先進技術物資を売ることができて、それによって経済の繁栄を築くことができたわけであります。だから、冷戦が終わったら、苦しくなってしまったわけであります。
 日本もやはり、東アジア圏唯一の西側工業国として、非常に優遇された位置を獲得できたということに関しては異論のないところであります。冷戦体制下の国際的位置に極めて見合った形で適合していた国家が、冷戦が終わったところで国際秩序変化に適合できなくなったということです。それが具体的には、グローバル経済に対応できなくなった形で、バブルの崩壊ということをもたらしたのではないかと考えております。
 バブルの崩壊は、八〇年代後半からの一時的な景気の停滞と見られがちであります。けれども、これは最近ではよく指摘されるようになってきましたが、日本経済というものは五五年から七三年まで平均年成長率約一〇%ぐらいで成長し、七四年から九一年までは年四%ぐらいで成長し、九二年以降はほとんど〇%です。九一年で段階が変わったというふうに考えるならば、単にバブルが崩壊したというだけでなく、日本経済がここから一気に停滞期に入ったと考えることができるのではないかと思います。
 先ほどの戦時動員体制型社会の崩壊ということで考えるならば、日本の八〇年代までの体制を「一九四〇年体制」と名づけるということが一時期ありました。その妥当性がどこまで言えるかは疑問ですが、そういったものがポスト工業化やグローバル化と非適合を起こしたということを、『「最後の社会主義国」日本の苦闘』なんていうタイトルの本が指摘しています。そういう現象も若干あるのではないかなとも考えてはおります。
 その意味においては冷戦の終結、東西を問わず権威主義体制の崩壊ということと、日本に経済停滞が訪れるということがパラレルであったということは、そんなに不思議なことではないのかもしれないということであります。
 もう一つは、九三年の自民党の一時的な下野であります。ここで政治の流動化ということが起こりました。これで「五五年体制の終わり」が起きまして、社会党が消滅してしまうという現象が起きました。要するに、それまでの政治体制の形というものの安定性が失われてしまったわけであります。
 ただ、自民党の支配体制というものは、その後二〇〇九年まで続くことになります。もちろん連立によって九〇年代から維持していたわけですから、一党体制ではなくなっていたわけですが、それができていた。ソ連や韓国との、この違いをもたらしたのは何かというと、私はやっぱり七〇年代から八〇年代の繁栄と安定の、「おつり」だったのではないかと考えております。
 日本の場合には、七〇年代から八〇年代に、ほかの先進諸国と違って自民党の一党支配体制の中から、公共投資を通じた再配分システムを築き上げることができました。もちろんあの再配分のシステムは高度経済成長期からありましたけれども、七〇〜八〇年代に強められたことはよく知られているとおりであります。その再配分システムが、財政赤字を積み上げてどん詰まりになるまで、九〇年代から二〇〇〇年代前半ぐらいまでは、ある程度維持することはできた。それが自民党体制が命脈を保たせる要因になり得たのではないか。そのための貯金が、七〇〜八〇年代に積み上げられていたから可能だったのではないかと考えております。
 ですから、それが起きるまでの、九〇年から〇九年まで約二十年間、私はこれを一種の「長い八九年」と考えることができるのではないかと考えております。つまり、ほかの諸国が政治体制の変動に見舞われる形になり、韓国でもインドネシアでも軒並み政権交代が起き、インドでも盤石の体制を築いていた国民会議派が下野するという現象が起きて、新政党に座を奪われるという現象が九〇年代の末に起きたわけであります。インドの国民会議派というのは、インドの自民党みたいなもので、統制経済のもとではその配給元まで全部握っていた強力な地盤政党であったわけですが、それが崩壊するということは、再配分システムまで含めた全部の崩壊ということと結びついていたわけです。それがやはり日本の場合には、約二十年間かかったと考えることができるのではないかと、雑駁に考えております。
 これは非常に雑駁な仮説でありますから、ご批判をいただければ幸いに存じます。もちろんそれは、グローバル経済の浸透とともに日本経済が対応することができなくなり、追い詰められていって財政赤字を積み上げていった二十年間でもあったわけです。ですから、日本の場合には、この「長い八九年」ということを考えた場合には、政治の世界の世代交代ということも、イギリスやアメリカやドイツに比べて十数年おくれて、シュレーダーやクリントンやブレアに遅れること十数年で鳩山由紀夫氏や菅直人氏等の世代が首相に就くということが起きた、ということも考えられるわけです。
 ただ、それより一歩早く、生物学的な死によるリーダー層の世代交代が進んでおりました。毛沢東が死んだりチトーが死んだりという形のことが続々と起きて、昭和天皇が八九年に死にます。いみじくも八九年でありますけれども、そういう形でその世代交代は起きていたわけです。

7、「戦後」の終わり

 さて、そこで次に考えるのが、この研究会の主題である、戦後の終わり、ポスト戦後の問題にかかわってくるわけであります。
 まず、ドイツの戦後というものは、東西統一とともに終わったと考えてよろしいのではないかと思います。これは極めてわかりやすいメルクマールでありまして、政治体制そのものが戦争の遺産というものを清算する形で終わってしまったわけであります。
 それに対して日本の戦後というものは一体いつ終わるのかということに関しては、極めてわかりにくいものであります。日本の場合には多分、これは私の持論でありますけれども、戦後何年という言い方は、たぶん日本国憲法体制が続く限りは続くと思います。これは日本国建国何年という意味でありますから、戦後八十年たとうが九十年経とうが、日本国憲法体制が続いている限り多分続くであろうと思います。少なくとも、日米安保体制が終わらないと、外交面における「戦後」が終わりません。
 しかし、実質的な意味での戦後というものはどういう形になりつつあるかといいますと、私は戦後三代目、つまり戦後生まれの「団塊世代」の子どもに当たる「ロストジェネレーション」が三十代になったというところで、一つのメルクマールがつけられるのではないかと考えております。七五年生まれが三十歳になるのが二〇〇五年でありますけれども、このころからほぼ日本の論壇の思想状況というものが変化しつつあるのではないかと考えております。
 これもグローバル経済の問題と戦争の記憶の問題から考えてみたいわけですが、まず世代交代とともに戦争の記憶の最終的風化の問題がございます。
 戦争が問われることが九〇年代に比べて少なくなり、あるいはポストコロニアル論とか国民国家論とかいう形の歴史の見直しが、だんだん流行から廃れていったということは、単に流行の問題だけなのかということを抜きにして考えてみるならば、戦争の記憶の衰退と結びついていた部分が大変大きかったと思います。
 私が思うには、二代目までは結構記憶というものは受け継がれるものだと思います。親がしょっちゅう戦争の話を家庭でしていたとか、中学や高校の教師がしょっちゅう戦争の話をしていたとか、そういう話がある年代まではある。しかしさすがに戦後三代目になると、親が二代目ですから、もう戦争の記憶は受け継がれるということはないわけであります。そこのところで大きな途切れ目になるであろうということが言えるわけです。
 そこで、政治地図という問題を考えてみたい。日本の戦後政治というものは、戦争の記憶を区分軸としていたと私は考えております。それは、日本国の統合原理をめぐる争いだったとも考えております。戦後ある時期まで、日本の政治、あるいは論壇を分ける区分軸というものは、安保であり自衛隊であり憲法九条であり戦争責任であり靖国でありといったものでありまして、これらは軒並み戦争の記憶に結びついたテーマです。
 安保や自衛隊を論じる場合であっても、決して安全保障政策として論じていたのではなくて、戦争をするかしないかという戦争の記憶と結びついた形で議論をしていたわけです。安保の問題を、外交問題として論じていたわけでは全然なかった。外交問題に知識のある人たちが安保の問題を論じていたのか、あるいは六〇年安保のときにみんなが外交問題としてあれほど盛り上がったのかというと、そういう問題ではなくて、戦争をするということの是非、戦争の惨禍をもう一回繰り返すのか繰り返さないのかということをめぐって争点になったのであって、安全保障政策が争点ではなかった。やはりこれは戦争の記憶をめぐる争いであり、自衛隊を海外に出す国なのか出さない国なのかという問題をめぐる争いであり、つまりは日本国とはどういう国なのか、というナショナルアイデンティティーや、国家の正統性をめぐる問題だったと考えることができるのではないかと思います。
 反面、経済はどうかというと、戦後ある時期までの区分軸を成していなかったという事情があります。六七年の時点で有権者調査をしてみたところ、いわゆる革新政党支持者と自民党支持者の間に、経済問題に対しての見解に差が見られなかったということであります。つまり、外交安全保障問題と区分される安保や自衛隊の問題をめぐって政党を選んでいたのであって、経済政策に関しては、経済成長を持続することで一致している。再配分をどうするかというところに関しては若干議論が分かれるにせよ、ほぼ合意が形成されていた。少なくとも有権者レベルにおいては、それは政党を選ぶ区分軸になっていなかったということが、六七年時点では指摘されているところです。
 それが一体いつまで続いたのかに関してはわかりませんけれども、そう考えるならば、戦後の日本の政治や論壇というものの区分軸になっていた「保守革新」という軸は、左と右だったのかということに疑問がわきます。自民党が右政党なのかということに関しては、いろいろと議論のあるところであって、ハト派の人たちもいれば、経済の面でもある程度経済自由主義に反する人たちがたくさんいたわけであります。もちろん明確な保守派右派という者もいたわけでありますけれども、相当な包括政党になっていたことは間違いございません。
 いわゆるヨーロッパや何かの基準でいうところの右左という区分軸と、保守革新という区分軸は違うのではないかと考えるとするならば、保守革新という区分軸では経済は争点になっていなかったということを含めて考えていいと思います。つまりこれは、戦争の記憶をめぐる区分軸だったのであって、政治の左右をめぐる区分軸ではなかったのではないかと考えることができるのではないかと思います。
 そうならば、先ほども述べましたけれども、安保や自衛隊を外交安全保障問題として論じるようになったのはつい最近のことであって、かつてはナショナルアイデンティティーをめぐって議論していたというふうに考えることができるわけです。日本の自画像をめぐって争っていた。端的にいえば、日本は戦争をする国だという自画像に耐えられない人たちが社会党に投票していたということです。
 だからこそ、もう話題にもならなくなったPKOという形で自衛隊を海外に出すかどうかがあれほど争点になった。あれは外交や安全保障をめぐる議論ではなかったのではないか。むしろ外交や安全保障の問題にすることを拒んでいた。一時期までの安保問題をめぐる議論が、安全保障問題を政策として考えることは相手の土俵に乗ることであるから、自衛隊の問題は憲法違反として原理的に全廃するということを前提にして考えるべきであるというような、今となってみては理解に苦しむ議論をやっていた。つまり、外交安全保障問題にすることをむしろ拒んでいたわけです。
 それでまず、戦争の記憶の後退とともに、こういう論壇地図、政治地図の配置というものがほとんど意味を成さなくなっていくということがあります。これは論壇でも問題になってきていることでありますし、政治地図はもうとっくにそうなっていまして、民主党という政党は保守でもなければ革新でもない。従来の保守革新という区分軸では全くないものとして台頭してきて、それが政権をとるまでに至ってしまった時期であるわけです。
 それが、戦争の記憶の問題からの「戦後の終わり」なのか終わりでないのかと思います。当然この問題を考えるならば、思想の問題も考えざるを得なくなります。
 日本という国が冷戦期に一番適合して経済的な繁栄を多くできた国だとするならば、九一年をもってその時期は終わり、その後は停滞の時期に入っていくということで、これはもう、もはや今後持ち直すことはないであろうということは、ほぼ一致した見解になりつつあります。この状態が続くという前提のもとに、経済の問題が政治や論壇の争点に大きく浮上しつつあるというのが、この十年間ぐらいの問題であります。
 経済、社会保障、再分配の問題、年金の問題であるとか、ワーキングプアの問題であるとか、公共事業の配分をどうするかという問題であるとか、そういった問題のほうが、ずっと争点になるようになってきた。むしろ政治地図はそれをめぐって争うようになってきたということであります。
 特に、二〇〇六年ごろから格差の問題が急速に論壇に浮上するようになってきた。全くほんとうに突然浮上したということはほぼ跡づけることができまして、ここで転換が起きたのだなという印象があります。二〇〇六年七月のNHKのワーキングプアの特集の放送が起こったところで、これは湯浅誠さんが述べていることですが、それまで「貧困」という言葉が新聞の見出し語で使われたことは、過去二十年ぐらいたどってもほんとうに数えるほどの回数しかない。それが二〇〇六年ぐらいから急速に貧困とか格差の問題が語られるようになり、彼の活動が注目されるようになったそうです。
 雨宮処凛氏の『生きさせろ!』(太田出版)が出版されたのも二〇〇七年の三月です。雨宮処凛氏の軌跡を見てると大変おもしろいんですけれども、彼女は九〇年代の後半からいろいろ文章を書いてるわけですが、二〇〇〇年代前半の著作はみんな生きづらさ系でありまして、自殺の問題であるとか、いじめの問題であるとか、右翼に入っていった経緯の問題であるとか、リストカットの問題であるとか、そういった問題をずっと語っていたわけです。
 彼女は二〇〇二年に『自殺のコスト』(太田出版)という本を出しました。どうやったら薬物やリストカットで自殺することができるのか、失敗したらどのぐらい金がかかってしまうのかという本なんです。そこで彼女は、自殺の要因として実は経済的要因が多いんだということに対してはほとんど注目をしていない。九八年ぐらいから自殺者が三万人台に乗りまして、それは金融危機の影響からだということはほぼ共通して指摘されるところです。けれども、雨宮氏はそういうことには当時は無関心で、生きづらさの問題からの自殺問題に特化していた。その彼女が二〇〇六年ぐらいから急速にワーキングプア、経済の問題に注目するようになっていったわけです。赤木智弘さんの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」が掲載されたのは『論座』二〇〇七年一月号です。
 なぜ二〇〇六年ぐらいからなのか。一つの要因は、小泉改革というものが二〇〇〇年代の前半にあり、それによって公共事業が削られ、再配分機能が衰え、二〇〇三年の製造業に対する派遣労働の規制緩和が起き、それが響いてきたのが二〇〇六年ぐらいからだということがあるわけです。  もう一つは、二〇〇五年ぐらいまでは小泉改革で盛り上がっていた。また小泉が靖国に参拝したりしていたということもあって、旧来の保守革新の区分軸がまだ生きていた。小泉が退場するあたりから、急速に格差の問題が浮上してくることになりました。
 もう一つ背景として指摘できるのは、先ほど言ったロストジェネレーションが三十代になったのがちょうどこの時期だということです。雨宮処凛氏は七五年生まれですから、まさに彼女が三十になったときからこの問題に注目し始めたわけであります。赤木智弘氏の論考は「31歳フリーター。希望は、戦争。」というサブタイトルでした。赤木氏も七五年生まれですが、彼が三十一になったときにあのエッセーを書いたわけです。三十代になってはたと、自分の境遇が追い詰められていることに気がついたという現象が起きてきたのが、この区分線を引いたのではないかと考えております。
 九〇年代の半ばぐらいの漫画とかをいろいろ読んでみますと、フリーターが主人公の漫画というのは結構多いんですが、みんな結構気楽であります。二十代の前半から中盤ぐらいであれば、実家に住んでいて、親に三万円ぐらい食費を入れれば、それで結構生活できていて、月収十二万でも可処分所得があるという形で生活できていたわけです。また正社員になった同年輩の人と比べても、若いときはそれほどの差はない、むしろ自由度があるだけありがたいという形で認識されていた。
ところが、正社員になった同僚はどんどん給料が上がっていく。親も衰える。自分は三十歳になった。このままでは結婚できないという現実に直面して、はたと気がつくのが三十歳になったときというふうに考えると、これは非常にわかりやすいことであります。
 ここのところで、やはり一つの転換が起きています。いわゆる団塊世代が、六〇代になってきたことです。
論壇で活躍している方々を見てみると、だいたい三つの年代がある。四八年生まれ世代の人たちが一群いて、それから五八年世代が一群いる。前者が団塊世代、後者は大澤真幸、香山リカから、杉田敦、山口二郎、その他たくさんいらっしゃるわけです。私も六二年ですからその辺まで含めてもいいわけです。
 それに対して、七五年世代というのが最近台頭しつつある。中島岳志、雨宮処凛、赤木智弘あたりでありますけれども、この年代が、ロスジェネ世代の代弁者として世代意識が非常に強い。
 四八年世代が直面していた問題というのは、いきなり高度経済成長の時代なり、豊かになってしまった時代に対して、その違和感を抱え込みながら、豊かな社会に対するアンチテーゼというか、分析を加え批判を加えていくというアプローチが目立っていた。それに対して五八年世代というのは、もう豊かな社会というのは前提ですから、その中でどのように自己の位置を確立するかという問題、あるいはその中で政治的公共心をどのように調達するかといった問題が中心テーマとしてあったと思います。けれども、七五年世代になりますと、豊かな社会という前提そのものがなくなっていく。前提が共有できないということになっていくわけです。
 また論壇をある程度支配していた戦争の記憶をめぐる区分軸には、「七〇年パラダイム」と私が名づけたものが関係していました。豊かな管理社会である日本に対して、マイノリティーが抑圧されているという図式です。そのマイノリティーの中には、豊かな管理社会からはみ出してしまった不登校児であるとか、在日外国人であるとか、女性もマイノリティーに含めてもいいわけですが、その問題に注目していくという形の論じられ方が多かったわけです。今から考えれば、ポストコロニアル論もその延長線上を走っていたという部分があったのではないかと思います。
それが九〇年代まで続いてきたわけですけれども、「豊かな社会」という前提が崩れてしまうという事態に直面した、今どき管理社会批判なんかやっても意味がなくなってしまった。マイノリティーでなくマジョリティーのほうが崩壊しつつある、あるいはどこがマジョリティーだかわからなくなってきた。そうなると、戦争の記憶の衰退もあいまって、論じ方が変わってこざるをえないということです。
 「戦争の記憶から経済へ」という形で、政治地図においても、ものの論じ方の地図においても、変わってくるであろうということです。戦争の記憶の衰退とともに保守と革新という軸はほとんど意味をなくしてしまいまして、戦争の記憶に依拠していた社会党が消え、ポスト工業化経済に対してどう対応するかという問題に移ってきている。旧来の争点が争点にならなくなるという問題が、政治の世界でも論壇の世界でも起きつつあるのではないかと考えているわけです。
 安保、自衛隊、憲法九条、戦争責任、靖国といった、戦争の記憶に基づく旧来の争点軸が成立しなくなる。それと並行して、在日外国人とかフェミニズムも含めてしまってもよいのかもしれませんけれども、マイノリティーの問題という形の注目のされ方が成立しなくなっていくわけです。
 新聞のインタビューなんかでも、三十歳以下は争点の見方が全然違うと主張している論者がおります。年長の年代は安保とか九条とか自衛隊とか靖国とか戦争責任とかそういうことを重視するけれども、若い年代は再配分とか、グローバル経済にどう対応するかという問題のほうによっぽど関心があるんだというのですね。戦争の記憶を間接的にすら持たない戦後三代目に、戦争の記憶を軸にした対立軸を共有しろと言っても、それは無理だろうというか、彼らにとってみると旧時代の「イデオロギー問題」にしか見えない。
『戦後日本の思想』という新書が刊行されたのは五〇年代の後半で、高度経済成長に突入しつつあった。戦後すぐの戦争の記憶が強烈に生きていた時代のものの論じ方の枠組みが、高度成長に伴って通用しなくなりつつある時期、第一の戦後と第二の戦後と私が述べているところの境目の時期には出版されたものであります。それに相当するほどの思想軸の変化というものが、現在おきつつあるのではないかと思います。
 つまるところ日本は、戦争の記憶に基づく対立軸が政界まで支配した独特な国ではなく、経済が争点になる普通の国という形に転換しつつあるのではないかと考えております。
 ほかの国を見ていると、経済が争点になっているのがごく普通というか、むしろそっちのほうが普通であるわけです。問い直すべきは、戦争の記憶というものが政治地図を分けてしまって、経済が争点にならなかったという、戦後日本の特殊性のほうです。
ドイツの研究者に聞いてみても、戦争の記憶というのは、もちろん大きな問題であったけれども、政治地図を分けるほどのものにはならなかった。ドイツでは社会民主党とキリスト教保守政党の対立軸は、やはり基本的には経済をめぐる問題であり、もう一つは共産圏にどう対応するかという外交の問題だったわけです。
 今後の日本政治及び日本の論壇という狭い範囲に限らず、日本国に生きていてものを考えていく上では、どういうふうに考えていったらいいのかが問題になります。もちろん出版、言論にかかわる人間というのはそれを考えざるを得ないわけです。そのための一つの共通認識として考えておくべきこととして、話をさせていただきました。

第二部はこちら

(了)

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