集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第十章 反自然主義文学の旗手として

創刊号から明確に打ち出された反自然主義志向

 前章で詳しく見たように、「三田文学」は、表紙や目次、本文ページのデザインや構成、さらに雑誌全体のレイアウトまで、モダニズムの装いを凝らして発刊されたわけだが、掲載された小説、詩、戯曲、エッセイ、翻訳と五つのジャンルにわたる九つの作品を読んでみると、反自然主義という志向性においては共通するものの、モダニズムという視点から読むと、森鷗外の短編小説『桟橋』や野口米次郎の英詩「The morning glory」、木下杢太郎の戯曲『印度王と太子』、三木露風の詩「快楽と太陽」、馬場孤蝶のモーパッサンの小説『ブウル・ド・シュイフ=脂肪の塊』の翻訳など、前半に並べられた五つの作品と、7番目の永井荷風によるフランス象徴派の詩人アンリ・ド・レニエの詩「正午」の翻訳は、モダニズムを志向する作品といえた。

 しかし後半に並べられた四つの作品のうち、荷風の慶應義塾文学科教授招聘と「三田文学」創刊に至る経緯を記し、最後に置かれた「紅茶の後」は別として、黒田湖水の『立てた箸』は、モダニズムの象徴としての東京での都会生活を続けるべきか、反モダニズムの象徴としての田舎に残してきた母親の「早く故郷に帰ってきてほしい」という懇望を聞き入れ、家郷に帰るべきかで悩む青年の心的葛藤をユーモラスな筆致で描き、明治末期の東京でモダニズムを貫くことの困難さを文学的に形象化したという意味で、反モダニズムに傾いた作品であると言えるだろう。

 さらにまた山崎紫紅の『着物』というタイトルで書かれたモノローグ劇と深川夜烏という、いかにも隅田川の下流、江戸の下町の情緒と風俗をイメージさせるペンネームで書かれた「『火吹竹』と「溝」の三作、特に、荷風が東京師範学校附属中学校の学生であったころのクラスメートで、荷風が生涯を通して、心を許して付き合った親友、井上唖々が「三田文学」創刊号のために書き下ろした「火吹竹」と「溝」の短編2作は、明らかに「三田文学」のモダニズムの装いの下に、意図的に持ち込んだ反近代文学を志向する「仕掛け」であった。ならばなぜ、荷風と井上唖々は、反モダニズムの仕掛けを施したのか。その点については、この後の章で詳しく見ていくこととして、ここでは、「三田文学」創刊号から明らかに表出されてくる反自然主義文学志向という側面について、冒頭におかれた森鷗外の短編『桟橋』から順次、それぞれの作品の反自然主義的特性を見ていくことにしたい。

「写生小品」と題して冒頭に掲載された『桟橋』は、「知」の分野における日本の西洋化と近代化の最高シンボルといえる東京帝国大学文科大学を卒業し、結婚後官命を帯びてロンドンに旅立つ夫(伯爵)を、夫の二番目の子を宿している妻が、横浜港の桟橋から見送ったときのことを、書き手の鷗外が妻になり替わる形で写生文風に、簡潔・平明な文体で記した作品であり、男性である鷗外が、夫を桟橋に見送る妻(おそらくそのモデルは、その当時「スバル」に小説を発表していた鷗外の二度目の妻志げ)になり替わって書くということ自体が、小説の主人公イコール小説の書き手であるという自然主義文学の常道と一線を画するものであった。

 二番目に「戯曲習作」として掲げられた、木下杢太郎の『印度王と太子』は、冒頭のト書きに、「恆河に近き印度の王国。釈迦出山の後程なき頃」とあるように、ドラマが進む場所がガンジス河に近い古代インドの一王国とされ、時間が今から2,500年近い昔、釈迦が6年に及ぶ山の林の中での苦行ののち、過度の苦行に励むことの無意味さを知り、悟りを得るために山を出てから「程なき頃」とされていること、さらにまたギリシャ古典劇を頭において書かれたと思われる、一種の弁論劇、あるいは思想劇としての戯曲の構造や登場人物のキャラクターの描かれ方から見ても、この未完に終わった実験劇は、島村抱月や小山内薫らの自然主義文学運動と連動して、人間の生や社会のリアリティ性を表出することを近代演劇の最も基本的、かつ重要な根本命題とする近代演劇革命が志向するものとは明らかに一線を画し、真逆の方向で近代演劇の可能性を模索する意図をもって書かれたものであった。

 さらにまた、野口米次郎の英語で書かれた、旅の僧侶と「モーニング・グロリー(朝顔)」の精霊が語り合うという能楽風のスタイルで書かれた劇詩「The morning glory」と、三木露風の象徴詩「快楽と太陽」もまた、自然主義とは無縁のところで詠まれた詩である。

 そうしたなかで、馬場孤蝶翻訳のモーパッサンの『ブウル・ド・スイウ』、日本語訳では『脂肪の塊』は、九つの作品のうち、ただ一つ自然主義作品であり、モーパッサンの自然主義小説家としての評価と名声を決定づけた出世作とされた小説であった。それにもかかわらず、反自然主義文学を標榜する「三田文学」の創刊号に、なぜこの作品の翻訳が選ばれたのか、いささか理解に苦しむところである。ただしかし、それも、書き手自身の日常生活上の事実や実態、感情や意識の働きをありのまま、徹底して克明に記述するという姿勢において、結局は「私小説」に収斂していくことになる明治末期の日本の自然主義文学が、ゾラやモーパッサンなどの、社会的広がりとバックグランドをもった人間の生の現実やそうした人間によって構成される社会が生み出す矛盾や悪や悲劇を抉り出そうとして書かれた本場ヨーロッパの自然主義文学とは本質的に違うものであることを、「早稲田文学」派の自然主義文学者たちに教え示してやろうという意図で、この作品の翻訳が選ばれたというふうに考えると、反日本的自然主義文学の文脈の中でこの作品の価値が評価され、「三田文学」の創刊号に掲載された狙いというか、編集者永井荷風の意図が見えてくるような気がする。

『プウル・ド・スイウ』に次いで、6番目に掲載された山崎紫紅の『着物』は、雪野はま子という未亡人が、座敷と次の間の柱に張り渡した細引きに吊るされた四つの着物、すなわち「21歳の折の結婚の晴着」と、「24歳のときの京都行の小袖」、「26歳のとき、熱海に温泉療養の切、調整せし小袖」、「27歳のとき、別れし夫利行の葬式の翌日、墓参のために作りし衣装」を見ながら、それぞれの衣装にまつわる男との心的交流、交情のいきさつを思い出して語るという、新派劇の舞台などで上演されることを意識して書かれた独白劇で、そのタイトルや独白をとおして過去の恋の思い出が語られるという趣向そのものが、自然主義文学とは縁の遠いものである。

 さらに7番目に置かれた黒田湖山の短編小説『立てた箸』は、東京に出てきたものの、「幸運」を見付けることができず、うだつの上がらない生活を送る「僕」が、郷里の母親から早く帰って来いという手紙を受け取る。しかし、「今郷国(国)に帰つてしまうのは運の光に背いて、日陰へ去(い)つてしまうやうに思はれる」という理由で、優柔不断、帰るか留まるべきかで悩みぬく。そして、ようやく得た結論は、東京市街を歩き回り、何か「幸運」をもたらしそうな落とし物を探すことで、郷里に帰るか帰らないかを決めようというもの。「僕」は終日地面に落ちているものを探し回るものの、はかばかしい結果は得られず、最後は箸立てが倒れた方向によってきめようという内容の小説である。

 創刊号に収められた九つの作品の中では、唯一滑稽な味わいを持つ小説ではあるが、田舎から大望を抱いて東京に出てきたものの、一向にうだつが上がらず、最後は箸立ての倒れた方向で、自分の進む道を決めようというところまで追い詰められた明治末期の青年の、笑うに笑えず、泣くに泣けない生の実態を描いたという意味で、自然主義文学に近い感じがするが、幸運を求めて地面を見つめながら東京市街を歩き回るという筋立てや、箸立ての倒れた方向で自分の運命を決しようとするフィナーレの描き方は、明らかにフィクションとして書かれていて、自然主義とは違った方向で書かれた小説といえる。

 最後にもう一つ、深川夜烏といういかにも反自然主義文学的なペンネームで、荷風の親友井上唖々が書いた二つの小品「火吹竹」と「溝」は、前者が相思相愛の女と深川界隈の通りに散歩に出た男が、表通りに軒をつらねる商店の店頭に置かれた商品に女が目を奪われているのを見て、買ってやりたいと思いながら、買ってやれない自分を無念に思う。女は、男のそんな心中を察し、所帯もったときに必要となる「火吹竹」を買ってくれという。男は、これならと買ってやるものの、こんなものしか買ってやれない自分のふがいなさを恥じ、照れ隠しに歌舞伎の『白波五人男』の所作をまねて、火吹竹を腰に挟み反身になって見栄を切る。それに合わせて女も「ぺ、ぺ、ペン、ペン」と口三味線で音頭を取るというだけの小説である。
 だがしかし、歌舞伎の所作の物まねで体を反らせて見栄を切る男と口三味線でそれに合わせる女の反近代的パフォーマンスによって、現実には結ばれない男と女が、せめて心のレベルだけででもという思いを共有して結ばれるという結末は、明らかにフィクションとして書かれていて、自然主義とは無縁の小説といえる。
 
 さらにまた、「溝」は溝を隔てて向かい合い、双方から手を握ろうと手を伸ばすものの、指先がかすかに触れるだけで、握り合うことのできない男と女の関係性を描こうとしたものだが、文明開化や富国強兵の掛け声の下、急速に押しすすめられてきた明治の近代化による伝統的な文化や風俗、人情、道徳、自然景観の破壊がもたらした醜悪皮相、、無秩序な現実を痛烈に批判したうえで、「……正気の沙汰で、女の蒲団の臭いを嗅いだり、姦通(まおとこ)を遣り損なつて急に厭世観を起したり、早稲田の新開地の淫売宿に流連(いつ)けをした放蕩惰弱の不始末を耽溺などと大袈裟な表題で小説を書いたり(中略)反獣主義だとか、自然主義だとか、主義といふ字の使い方さへ知らぬ癖に、吠え散らかし、唸り散らかす様な輩は、先ず小人の部に入れて了まつも、孔子さまから格別御叱言は頂戴せまいと思ふ」と、痛烈に自然主義を批判したことで、「三田文学」創刊号に掲載された作品の中では、最も先鋭、ストレートに反自然主義的姿勢を打ち出した作品といえた。

挫折した反自然主義文学季刊雑誌発刊の計画

 すでに何度か指摘した通り、「三田文学」は、反自然主義文学の旗印を掲げて、明治43年の5月に創刊されたわけだが、「自然主義にあらざれば文学にあらず」といった風潮に反発し、反自然主義文学を志向する言説は、それより2~3年前から、森鷗外やロマン派系の短歌雑誌「明星」の主宰者、与謝野鉄幹らによって展開されていた。

 例えば、森鷗外は、田山花袋の『蒲団』を読んで、これが新時代の文学といわれるのなら、自分でも書けるという気持ちに駆られて、性的自伝小説『ヰタ・セクスアリス』を書いたわけだが、そのとき鷗外の心中に自然主義文学を「こんなもの?」と、軽んずる気持ちが働いていたことは疑いないだろう。

 また、与謝野鉄幹は、「明星」の明治40年12月号で、「『明星』 を刷新するに就て」という一文を載せ、「文壇何なれば爾か-閑人の多きぞ'又何なれば爾かく 惰気瀦漫する。見よ'無益なる自然主義の論義に日を消 する諸君'そこにも'彼処にも。又見よ'性欲の挑発 と'安価なる涙とを以て流俗に姫ぶる'謂ゆる自然派の悪文小説は市に満つ。想ふに'彼等'人として統一的自覚な-、文人として天成乏しく'甚だ空想と情熱と詞藻とを欠き'古代文芸の修養浅-'はた'社会競争の苦闘より未だ心上の鍛錬を嘗めざる平凡の徒が'偶ま意に平凡なる安堵の地を見出でて'姑しく落居せむとするものか。詩歌の浄域も亦漸-彼等が跳舞の場たらんとす。 あゝ我等、不敏と維'此際に努力せざるぺけむや。『明星』は来る新年号以下'社外先覚の熱烈なる助成と'社中同人一層の刻苦精励とを以て、一大刷新を加へ'文芸 の大道に一個の標石を建てむことを期す」(文中の下線、筆者)という内容の、激越なる反自然主義宣言を行っている。

 この鉄幹の反自然主義宣言は、そのあと、「スバル」や「三田文学」など反自然主義文学系の文芸雑誌が刊行され、「早稲田文学」を中心とする自然主義文学と対抗しあう形で、明治末期から大正初めにかけて、日本の近代文学の展開をより多義的にし、多彩で実り多いものしたという意味で、画期的な意味を持つものであった。しかし、自然主義文学が全盛を誇る時代の潮流にあっては、鉄幹の主張は多くの理解を得られず、吉井勇や北原白秋、木下杢太郎ら「明星」の発行母体となっていた東京新詩社の有力会員が次々と脱会し、それが「明星」の廃刊へとつながっていくことになる。

 だがしかし、「明星」が廃刊されたことを受けて、森鷗外や与謝野鉄幹・晶子らが中心となって、反自然主義文学を志向する月刊総合文芸雑誌「スバル」が、明治42年1月に創刊され、さらに翌年の明治43年4月には、森鷗外の肝いりで永井荷風が慶應義塾大学部文学科の教授に就任、合わせて「三田文学」を創刊させるに及んで、「早稲田文学」に対抗する形で、反自然主義文学を標榜する二つの雑誌による双頭体制が整う。さらに加えて、「三田文学」の創刊より一か月早く、43年4月には武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎、里見弴など、学習院卒業の若手の文学者たちによって「白樺」が創刊され、さらに同年9月には谷崎潤一郎や和辻哲郎ら、東京帝国大学文科大学系の若手の文学者によって「新思潮」が創刊されるに至って、反自然主義文学系の雑誌四誌による、「早稲田文学」、あるいは自然主義文学包囲網とでも呼ぶべき体制が確立することになる。

「明星」の誌面で自然主義文学を痛烈に批判した与謝野鉄幹とその妻与謝野晶子
学習院出身の志賀直哉や武者小路実篤らによって創刊された「白樺」の創刊号


 ただしかし、これら四つの反自然主義文学雑誌は、「スバル」と「三田文学」が森鴎外と永井荷風との関係で、一種の同盟関係にあったものの、相互の関係性というものは存在せず、ロマン派とか耽美派、頽唐派、象徴派、人道派など、それぞれの雑誌の個性や表現志向に即した名称で呼ばれているだけで、「早稲田文学」に対抗するために、反自然主義文学共同戦線という形で、相互が連携、協力、援助しあうという関係性、あるいは運動体組織といったものは構築されていなかった。

 そうした状況にあって、これら四つの雑誌を統合する形で、季刊の反自然主義文学雑誌を出そうという機運が「スバル」の森鷗外や平出修、「三田文学」の永井荷風らの間で高まった結果、明44(1911)年1月18日、大逆事件の判決が下され、26人のいわゆる「逆徒」の死罪が確定した日の夜、上野の精養軒で、それぞれの雑誌の主だった執筆者の参加のもと、反自然主義文学季刊雑誌の発行を議する初会合が開かれたのである。会合には、「スバル」からは森鷗外と大逆事件の被告団の弁護士を務めるかたわら、小説や評論を書き、短歌を「スバル」に発表、「スバル」の編集人をも兼ねていた平出修らが、「三田文学」からは永井荷風と同誌の発売元籾山書店の店主籾山庭後(任三郎)、「新思潮」からは和辻哲郎、「白樺」からは武者小路実篤、志賀直哉、正親町公和、里見弴らが出席、夕食会のあと、各紙の代表が別席に集まり、新雑誌創刊の話し合いが行われた。

 この話し合いについて、最初は昭和30年5月発行の「文芸」に掲載され、のちに高見順の『対談現代文学史』(筑摩書房昭和51年6月)に収められた、志賀直哉と高見順の対談「白樺派とその時代」において、志賀は、司会という立場で会議を取り仕切ったのは平出修だったことを明らかにしたうえで、そのときの会議の様子を、以下のように語っている。かなり長い引用になるが、もし実現していれば日本の近代文学の流れを変えたかもしれないという意味で、歴史的な意味を持つ会議だったので、全文引用しておきたい。(ちなみに、引用文中の「―」線は、高見順のこと)。

志賀 ぼくら、あの事件(大逆事件のこと、筆者註)はよく知ってるけれどね、ちょうどその時に、鷗外が盟主になって……。
  大将ですか。
志賀 そう。盟主になって、自然主義に反対して「スバル」と「三田文学」と「新思潮」「白樺」これだけが一緒になって雑誌を出そう、つまりその月はみんな休んで、それだけの原稿を集めて大きな雑誌を出そうというんだね。
 一つにかたまって?
志賀 そう。デモンストレーションだね。そいつをやろうという。誰が考えたか、鷗外自身が考えたかどうか知らないけども、鷗外を担いで、鷗外を親方にしてやろうというんだね。その計画のために上野の精養軒に集まったことがあるんだよ。だけどね、「白樺」は自然主義は嫌いだったけど、その連中と一緒になるという気は全然ないんだよ。(中略)だけど、言われるし、知っている人もいたからね、その会に出たには出たんだ。

 上野の精養軒で開かれた会合では、最初に食事が出て、それがすむと各雑誌から一人ずつ代表が出て、反自然主義の旗印を立てた雑誌を季刊で発行する話合いが、「スバル」を代表して出席した平出修の司会で進められたという。ところが、その雑誌をどういう形で発行するかという話になって、発行元を引き受けた籾山書店の店主籾山庭後が、売り上げを伸ばしたいとう理由で、新雑誌が発行される月には、それぞれの雑誌は休刊にしてほしいという要求を出してきた。それに対して、少し離れた席で話を聞いていた武者小路実篤が、「そんな事、出来るもんか」と大きな声で言ってしまったために、計画は白紙になってしまったという。その辺の経緯を志賀は、以下のように語っている。

志賀 ……そうしたら、その雑誌は籾山書店でやることになってたからね、籾山の希望で、その月はそれぞれの雑誌は休刊してくれ、と言ったんだね。つまりその雑誌をうらなきゃならないからね。僕は耳が悪いけども、武者はバカに耳の早いやつでね。こっちのほうでそれを聞いて「そんなこと、できるもんか」って、大きい声出しちゃったんだよ。(笑)そうしたら平出修なんか、興奮して何か言ってたよ。一ぺんに話がぶちこわれちゃってね。なんだか少し気まずくなっちゃってね、ぼくら挨拶しずにどんどん帰って来ちゃったよ。(笑)しかし、それは非常によかったね。向こうはなんていうことなしに自分らの仲間と思いこんでたんだけども、こっちはそうじゃないつもりでいるからね、それがまあ、そういうことのために、非常にはっきりしたんだ。
 そういう会があったんですか。知りませんでした。
志賀 あ、そうだ、その日の鷗外さんの日記を読むと、幸徳秋水の大逆事件の号外が出たって書いてあるそうだ。

反自然主義季刊雑誌の発刊について協議するため明治44年
1月18日に上野の精養軒で四誌合同の話し合いが行われた
日より3日前の1月15日に撮影された志賀直哉(後列左)
と武者小路実篤(前列右)、里見弴(後列右))の写真


 ちなみに、志賀直哉が、最後のところで、「その日の鷗外さんの日記を読むと、幸徳秋水の大逆事件の号外が出たって書いてあるそうだ」と語っているが、これは、会議が開かれた明治44年1月18日に、平出修が被告人弁護を担当した大逆事件の判決が下り、幸徳秋水ら26名に死刑に判決が下されたことを指している。平出は、おそらく反自然主義文学者の会合に出る前に、大逆事件の最終公判に出席し、被告26人に死罪が下された判決を聞いていた。そのことは、平出が直接弁護した被告ではないものの、被告の内でただ一人の女性で、死罪を宣告された菅野須賀子にあてた手紙のなかで、「覚悟のない人が覚悟を迫られたらどんなこころもちでしたらうと、それが私の心を惹いて十八日以来何も手につきません」と、書いていることからも明らかである。

 菅野須賀子が平出にあてた手紙のなかで、「実は御弁論を承り候迄は、ほかの五六人の御方と共に御名も存ぜず、只一人目に立つは若き方のご熱心さ、同時に又いかなる御論の出ずべきやなど、ひそかに存じ居り候ひしに、力ある御論、殊に私の耳には千万言の法律論にもまして嬉しき思想論を承はり、あまりの嬉しさに、仮監に帰りて直ちに没交渉の看守に御噂致し候ほどにて候、(中略)、御高論を承張り候て、全く日頃の胸の蟠り一時に晴れたる心地致し申し候、改めて厚くへ御礼申上げ度候」と、衷心感謝の意を伝えたように、平出は量刑を少しでも軽くするために最善を尽くした。そしてまた、事件の真相が国家権力による「フレームアップ(でっちあげ)」であることを膨大な裁判資料を読んで見抜いていた。平出修は、国家が個人より絶対的に優越するという明治の、ひいてはその後、日本が太平洋戦争で敗北し、無条件降伏するまで日本人の心身を徹底的に縛ることとなる国家原則が、個人の内心の自由、すなわち思想・信条を言語によって表現することすら禁圧してくることを、まさに個人が国家によってねつ造された事件によって裁かれた裁判に弁護士として直接かかわることで、正確に見抜いたおそらくは最初の弁護士であり、文学者であった。

天皇暗殺計画というでっち上げの容疑で検挙され、非公開の裁判で死刑を宣告された幸徳秋水と菅野須賀子
大逆事件の被告人弁護を引き受けるかたわら、反自然主義文学季刊雑誌の発刊を「白樺」や「新思潮」同人に呼び掛けた平出修。『底本平出修集〈続〉』より


 さて、その前日まで、被告の弁護に当たっていた平出修が、「スバル」を代表してこの会議に出席し、司会兼進行役として会議をリードし、「スバル」、「三田文学」、「新思潮」、「白樺」を統合して、反自然主義の機関雑誌を発行する計画をまとめようとしたのは、国家が個人の内心の自由(思想・信条・思念表現の自由)の領域にまで土足で踏込み、個人の内心の自由を奪い取り、天皇を頂点とする絶対主義的支配体制を確立しようとしてきたことに対して強い危機感を抱いたからであった。そして、その危機感は森鷗外や永井荷風らも共有するところとなり、四誌合同の反自然主義雑誌の発刊を、「白樺」や「新思潮」の若い小説家に呼び掛けることとなったのである。

 さてそれなら、国家の専横と対峙するはずの新雑誌は、なぜ「反自然主義文学」を標榜しなければならなかったのか。鷗外や荷風、平出修らが考えたのは、書き手である自然主義文学者たちが、個人の私的現実の描写に執着するあまり、文学的表現が社会的広がりを失いつつあった当時の日本の近代文学の現状、すなわち自然主義文学が全盛を誇る状況を憂い、「天皇暗殺計画」という事件をでっち上げまでして、個人の思想信条の表現の自由を圧殺してかかろうとする明治日本の国家権力に対して、「書く」側から抵抗するためには社会的広がりを持ち、国家の悪と批判的に対峙しうる人間像を、文学表現の場を通して創出し、そのことによって国家と対峙し、内心の表現の自由の権利を守る戦いの足場を構築していく必要があると考えたからであった。

 であればこそ、平出は、四誌の代表が集まって行われた協議の場で、反自然主義的季刊雑誌の発刊の必要性を説いた。ところが、志賀直哉が語ったように、武者小路実篤が、「そんな事、出来ないね」と大声を発し、話をぶち壊しにしてしまった。この点ついて、武者小路実篤は、大正12(1924)年1月刊行の『或る男』の「百四十二」と、昭和30(1955)年7月18日付けの読売新聞に掲載された「自分の歩いた道」のなかで、志賀直哉以上に詳しく、具体的に回想、記述しているので、その内容を見ておきたい。

武者小路実篤の「そんな事、出来るもんか」の一言で計画は頓挫

 武者小路実篤の回想記の記述にそって、反自然主義文学雑誌発刊の話し合いがおじゃんになるまでの経緯は、要点のみを抜き書きすると以下のとおりである。

  1. スバル、三田文学、新思潮、白樺が合同して、自然主義に反対しようとする会合には、いつもそういう会合には出たく思わない「白樺」派のメンバーも、わざと大勢でかけることにした。何人で出かけたかは知らないが、志賀直哉や武者小路実篤、正親町公和、木下利治、里見弴、柳宗悦、郡虎彦と僕が出かけたことは記憶している。
  2. 「白樺」派から会合に参加したもので、反自然主義文学雑誌の発刊に賛成だったのは半数ぐらいだった。
  3. 「白樺」派以外では、「スバル」から森鷗外と平出修、北原白秋らが参加。「三田文学」 から永井荷風と発売元の籾山書店店主、籾山庭後が、「新思潮」からは和辻哲郎が参加した。
  4. 酒と食事のもてなしがあった後、季刊雑誌発行の協議が別席で行われ、「白樺」からは正親町公和と里見弴が参加した。
  5. 武者小路は、雑誌発行の協議をする代表たちの席から少し離れた窓の下の席で、協議の内容を聞くともなしに聞いていた。
  6. 協議は平出修が取り仕切る形で、永井荷風と籾山庭後が主立って発言し、新雑誌発刊の話はスムーズに進み、春の四月に合同雑誌の創刊号を出そうということになった。
  7. ところが、籾山が、売れ行きを伸ばすために、合同雑誌が出る月は、各誌とも休刊してもらいたいと提言、それに対して武者小路実篤が、「そんな事は、出来ないね」と大声を発し、それを聞いて、平出修がかなり激高して武者小路に反論しようとしたが、「白樺」派からの参加者が、相手にせず、ゾロゾロと席を立って退席してしまったため、話はおじゃんになってしまった。
  8. 合同季刊雑誌発刊の話が、ぶち壊しになったことを、武者小路らは「痛快に思った」。

 武者小路実篤の二つの回想記から見えてくるのは、「スバル」顧問の森鷗外と編集人の平出修、「三田文学」編集主幹の永井荷風らが中心となって、反自然主義系の四つの雑誌が合同して季刊雑誌を発刊する計画を立て、ある程度話を煮詰めたうえで、反自然主義系で若手の文学者も巻き込もうということになって、「白樺」と「新思潮」の同人に話を持ち掛けた。しかし、「白樺」派の中核メンバーだった志賀直哉や武者小路実篤らは、自然主義に対する反対感情はある程度持っていたが、鷗外や荷風、さらには平出のようには強く反発する気持ちはなかったし、鷗外や荷風のように反自然主義文学が統合して新雑誌を出すことで、強権的な政治権力と対峙し、戦うことの戦術的意味について深い考えを持っていなかった。

 くわえて、年齢的にも若く、学習院出身の良家のお坊ちゃんというイメージが付きまとう「白樺」派のメンバーに対して、海千山千の鷗外や荷風、さらには気鋭の弁護士であり、文学者でもある平出修らから無意識のレベルで出てくる上から目線の態度やものの言いようが、「お前らは黙ってついてくればいい」といった印象を与え、「白樺」からの参加者に、「面白くない」という気持ちを募らせてしまった。そこに、四誌合同の雑誌が発行される月には、各紙休刊にしてほしいという要求が出されてきたことで、武者小路実篤がかっとなって、思わず「そんな事、出来ないね」と大声を挙げたため、一気に座が白け、しかも「白樺」派の参加者が次々と座を立って、帰ってしまったため、計画は水泡に帰すことになったということなのであろう。

 こうして、もし実現していたなら、自然主義文学と反自然主義文学がせめぎあう形で、明治の終わりから大正の初めにかけて展開された日本近代文学の発展の歴史に、相当のインパクトと影響を与えたと思われる反自然主義の旗印を掲げた季刊雑誌の発刊の話は立ち消えになり、わずかに伊藤整が『日本文壇史(14』(反自然主義の人たち)のなかで、出典を明らかにしないまま、志賀直哉の回想談を中心に事の経緯を簡単に紹介したのみにとどまったため、その歴史的意味についての検証が行われないまま、歴史の闇に葬り去られてしまったのである。

 このことに関して、残念に思われるのは、新雑誌発刊の話に中心的にかかわった鷗外や荷風、平出修らが何も語り、書き残していないことで、鷗外は精養軒で会合が開かれた当時の日記に「大逆事件」の判決について号外が出たことを記すだけにとどまり、荷風もまた、大逆事件より9年後の大正8(1919)年7月発行の「改造」に寄せた「花火」と題するエッセイで、慶應義塾文学科教授だったころ、大逆事件の被告が囚人馬車に乗せられ護送されていく現場を目撃し、「自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じ、(中略)以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した」と書き残しているだけで、反自然主義文学雑誌発刊の計画については何も書き残していない。

 さらにまた、平出修も『底本平出修集』全4巻(春秋社)を読む限り、第三巻の28ページに、「反自然主義大同団結問題メモ」と題しノートに走り書きされたものが残されているだけで、四誌合同会議でどういうやりとりがあって計画がとん挫したのか、また平出自身と鷗外と荷風が、そのことにつてどう思ったかなどについては一切記述が残されていない。

 なお、このノートによると、会合には、「発起人」として、吉井勇、正親町公和、木村荘太、小山内薫、平出勇らの名が記され、「スバル」からは吉井、高村、与謝野、万造寺、江南、太田、山崎、長田幹彦、北原の名が、新思潮からは木村、小山内、谷崎、和辻、後藤、大貫の名が、「白樺」からは正親町、さらに雑誌の表記はないもの「三田文学」からは永井と籾山の二人の名が記され、「日」として十八日、正午午後四時とあり、「会費」とあるものの金額は書かれていない。

 このノートに記された走り書きは、明治44年1月18日上野精養軒で開かれた四誌合同の会合に参加が見込まれている文学者の名を記したものと思われるが、一つ奇異に思うのは、「白樺」からの参加予定者の名が、正親町公和以外一人も書かれていないことである。このことは、四誌合同会合の開催が間近に迫った時点で、「白樺」同人も巻き込もうということになり、急遽志賀直哉や武者小路実篤、里見弴らに声をかけたものと思われる。さてそれなら、なぜ鷗外、荷風、平出らは「白樺」同人に声をかけたのか。

 ここからは筆者の推測であるが、反自然主義の偽装を凝らした反政府的文芸雑誌が発刊されれば、政府権力から当然のこととして監視され、発売禁止といった手段で妨害され、鷗外や荷風の立場が危うくなる可能性が十分予測されたということである。その危険性をできる限り回避するために、乃木大将が学長を務める学習院の卒業生で、親に貴族や有力政治家、実業家を持つ「白樺」派の若手の文学者を巻き込んでおけば、政府・官憲からの不当な干渉、妨害を防ぐことができるのではないかという判断が働いたのではないかということである。

里見弴の回想―反自然主義文学雑誌がもし発刊されていれば

 ともあれ、こうして、四雑誌合同の機関雑誌発行の計画は水泡に帰してしまった。そして、大同、団結に向けた話し合いに関して、具体的内容についての記述や回想記、回顧談の類は全く残されないまま、なかったものとして歴史の闇の彼方に消えてしまった。ただ、そうしたなかで、一つ注目されるのは、「白樺」を代表して、新雑誌発刊の協議に参加した里見弴が、昭和11(1936)年10月発行の「中央公論」に寄せた「青春の回顧」という回想記のなかで、「四十四年の晩春か初夏の頃と憶えてゐる。たしか「昴」の平出修氏あたり発企だつたらう。「昴」と「三田文学」「新思潮」それに「白樺」へも勧誘があつて、この四誌が合同して年四回雑誌」(ペリオデイカル)を出さうという相談会を、上野の精養軒で催したことがある。森鷗外、与謝野鉄幹、永井荷風といふやうな大家を首として四十人あまりも集まつたらうか」と書き起こして、合同会議について以下のように記していることである。

「白樺」でも、珍しく武者や志賀まで出席し、卓についてから、一人々々順番に立つて、「私は昴の何某です」「僕は三田文学の何某」といふ風に自己紹介をしたが、大部分は初対面の、而も今と違つて明朗派の少ない当時の文壇人のことゆゑ、司会者じみた立場の平出修氏が、議題といふほどでもないまでに、座談的にいろ/\と、各誌の意響を引き出すやうに努めたにも拘らず、相談らしい相談にならなかつた。他誌の人々にはどう響いたか知らないが、我々「白樺」同人には、提案者の調子に、反自然主義を標榜する運動としての大同団結、といふ感じが強すぎて、それゆゑ乗り気になれなかったのではないか、といふ風に思はれる

 里見弴はこのように記したあと、反自然主義を唱道する雑誌としてではなく、「ただ四誌の同人中から、だれでも傑作を書いた場合、或は普通の雑誌では載せきれない長編で、而も出来もい々といふやうな場合、今回の年四回雑誌でもあつたら大へん好都合ではないか、といふ風な話の持ち出し方だったら、この会合も或は実を結んだかも知れない」と、平出の話の持ち出し方が反自然主義に傾きすぎたことを惜しむ口調で、回顧している。

 確かに、里見弴が記したように、平出の方が反自然主義を前面に押し出さなければ、あるいはまた籾山庭後が、新雑誌発行の月は、各誌休刊にしてほしいという要求を持ちさなければ、新雑誌は発刊に漕ぎつけ、明治末期の文学界に新風を巻き起こし、文学が国家に屈服するという日本近代文学の不幸は、多少なりとも回避できたかもしれない。いやそれだけでなく、永井荷風の文学的生の軌跡も多分に異なったものになっていたかもしれない。ただしかし、鷗外、荷風、平出修らの期待は水泡に帰し、四誌合同雑誌発刊をめぐる動きは、自然主義文学と反自然主義文学がせめぎあう形で、明治の終わりから大正の初めにかけて展開された日本近代文学の発展の歴史から消えたままになってしまった。

 このことに関して最後にもう一つ指摘しておきたいことがある。それは、慶應義塾大学部文学科の教授永井荷風が、4誌合同協議の首謀者の一人として会議に参加し、反自然主義雑誌発刊の意義と必要性を説いたということが、これまでの荷風論や評伝ではほとんど取り上げられず、筆者の知るところでは、わずかに秋庭太郎が、『考証永井荷風』(岩波新書、昭和41年)のなかの「その二十七」(明治43年)で、「一月某日、鷗外の肝煎りで上の精養軒に於いて『昴』『三田文学』『新思潮』『白樺』の同人が会合して、自然主義に対抗する合同雑誌刊行の相談があつた際、荷風も出席した。此時白樺の志賀直哉も出席してゐたといふ」と記したのと、前述したように、伊藤整が『日本文壇史』(14)「反自然主義の人々」のなかで事実関係を紹介しただけだということ。そして、そのことが持つ文学的意味が、大逆事件の被告が囚人馬車に乗せられて護送されていくのを見て、大正8(1919)年12月、雑誌「改造」に寄せた「花火」のなかで、「わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してはならない。小説家ゾラはドレフユー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた 。わたしは何となく両親の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事に甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸作者のなしたていどにまで引下げるに如くはない」(『花火』、傍線筆者)という思いにとらわれ、個人の思想表現の自由が国家権力によって奪わてしまっている日本の現状にあって、それでも文学者として生きていくには、自らの文学を「江戸戯作者」のレベルに貶めるにしくはないと思案した」と書くことで、荷風が「戯作者宣言」を行ったこととの関連で、検証されることがなかったということである。

 つまり、大逆事件で26人の被告に死罪が言い渡され、裁判が結審してから8年後に『花火』が書かれ、荷風が戯作者宣言を行ったのは、荷風一流の擬装であり、事実は、反自然主義季刊雑誌の発刊をめぐって、荷風は、大逆事件の公判で被告弁護に当たっていた平出修やその後ろ盾であった森鷗外と接触する中で、大逆事件の真相をかなりの程度知ることができる立場にあった。しかも荷風は、文学表現を通して、国家権力の専横に立ち向かうべく、荷風なりに考える所があって、四誌合同の反自然主義季刊雑誌の発刊にコミットしたのではないかということである。

 しかし、「白樺」派の反対で、計画は水泡に帰し、荷風は荷風で慶應義塾の文学科教授という立場上、「三田文学」を通してあからさまに政府批判を行うことは憚られ、森鷗外も『ヰタ・セクスアリス』が発禁処分を受け自分が書くものに対して常に国家が監視の目を光らせていることを思いしらされたことで、「スバル」を舞台にこれ以上公に反国家的小説や論評を発表することは許されることではなかった。さらにまた、平出修も、4誌合同会議が開かれた明治44年1月8日から4年後の大正3(1914)年3月17日、悪性の骨腫瘍が原因で死去してしまったことで、反自然主義文学雑誌を創刊させることで国家に一矢を報いようとする文学者の側からの努力はほぼ完全に挫折し、それ以降、文学は国家の権力に一方的に屈従する道を辿ることになったのである。

(2017年12月26日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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