集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第八章 三田山上に現出した「文学的自由空間」

文学科の機構改革

 前章で記したように、永井荷風が慶應義塾文学科の教授に招聘されたのは、明治23(1890)に開設されたとはいうものの、早稲田(当時は東京専門学校)の文学部に対して一向に振るわない文学科を機構改革し、面目を一新したいという義塾側の狙いに端を発したものであった。

 慶應義塾の創立者福沢諭吉は、文明開化と近代化という時代意識の共同的志向に応えるべく、蘭学塾から英学塾へと成長発展してきた義塾の施設や学科体制、教員、教育内容をより一層近代化、拡充化することで、出来るかぎり早く東京帝国大学や東京専門学校に匹敵する近代的、かつ総合的な最高等教育機関、すなわち大学へと昇格させることを念願としていた。その念願が最初にかなえられたのは、明治23年、大学部の創設が認められたことで、前年に塾長に選任された小泉信吉と教頭の門野幾之進らが中心となって、アメリカの大学をモデルに学科や教科課程を編成した結果、文学科と理財科、法律科の三つの学科(のちの学部に相当する)が設置された。

 文学科は、アメリカ北東部の名門大学で、アイビーリーグの一つブラウン大学で修辞学と近代言語を教えていたウィリアム・リスカムを主任教授に迎え、英文学やラテン語、歴史、心理学、倫理学、論理学、フランス語、漢文学、日本文学、審美学などリベラル・アーツを教科に据え、主として慶應義塾で教壇に立つ教員や、地方の中学校、師範学校の教師、さらにはジャーナリストの養成を目的に、教科が編成され、講義が行われた。

明治23年創設当時の慶應義塾文学部校舎
明治期の東京専門学校文学部校舎


 当時の記録を調べて分かることは、理財科と比べて、文学科の規模は極めて小さく、文学科が開設された明治23年の文学科への入学生は20名に止まり、それ以降も24年には31名に増え、25年は40名、26年が38名、27年が42名、28年は32名と、30名から40名前後の学生数に止まっている。しかも、29年には16名、30年には10名と激減、さらに34年には分科制が廃止されたことにともない文学科は消滅し、在籍者者はいなくなってしまった。

 くわえて、文学科は翌年の35年には復活したものの、入学者はなく、その状態は37年まで続き、開店休業の状態に追い込まれてしまっていた。それでも、37年には入学者が現れ、講義は復活したが、入学者の数は低調に終始し、荷風が教授に招聘された明治43年の時点ですら、佐藤春夫が『小説永井荷風伝』(新潮社、1960年)のなかで、「……当年の三田の学塾では、せつかくの改革を決行しながら、その初年の入学者はわずかに一人しかいなかつたのである。(中略)文学部の学生は各クラスを通じて十何人であつたらうか記憶がおぼつかないが、二十に達していなかつたことだけは確実であつた」と回想したように、文学部の在籍者数は20名に達していなかった。

 しかも、文学科、特に文学専攻の学生は、佐藤春夫がそうであったように、気に入った教師の講義には出席するものの、それ以外は欠席を重ねたり、あるいは不登校をきめこんだりして落第を繰り返し、中退するものが多く、そのため卒業生は、荷風が慶應に招かれるまでは、毎年2~4名程度という状態が恒常化していた。それが、荷風の教授就任以降は、明治44(1911)年が7名、45年が4名、大正2年が3名、大正3年が8名と多少増えているものの、大正4年は3名、5年は2名と再び減少傾向に向かっている。

 このように卒業生の数の少なさは、理財科の卒業生の数と比較すると一層明らかで、文学科がスタートした明治23年から荷風が慶應義塾を去る大正5年の2月まで26年の間に、文学科卒業生の総数が79名だったのに対して、理財科は2040人と圧倒的に数の上で優越している。しかも、卒業生から出た人材の数でも、理財科が日本を代表する一流企業の社長や重役や、社会的著名人の名がずらりと並ぶのに対して、文学科はせいぜいが、慶應義塾中退後、明治25(1892)年に日刊新聞「萬朝報」を創刊、みずから『鉄仮面』や『巌窟王』、『噫無情』などを翻案掲載し、のちに単行本として出版して名を挙げた黒岩涙香とこれも中退の身で、アメリカに渡り、苦学の末、オークランドの詩人ウォーキン・ミラーの知遇を得て、英語による詩作を開始し、『Seen And Unseen』や『From The Eastern Sea』などを出版、欧米の詩壇に名を挙げたのち、日本に帰国し、母校で英文学の講師(のちに教授)に招かれた野口米次郎の二人ぐらいのもので、文学科の劣等性は際立っていた。

明治27年当時の文学科在籍の学生たち。
中央は主任教授のアーサー・ロイド

明治26年第一回卒業生記念写真。中央が主任教授のリスカム


 このように明治43年の文学科の機構改革は入学者数と在籍者数、それと卒業者数の増加という点では、ほとんど効果を上げていないことが分かる。しかし、教育内容の拡充という点では、早稲田の文学科に対抗する形で、前年度の教員数が19名だったのに対して、機構改革が行われた43年度は31人と、12名もの教授、あるいは講師が新たに迎えられている。そこに、機構改革による文学部刷新は、まず教育内容の拡充から、具体的には有能な教師の確保からという経営当局の思いの強さが窺われる。

 ちなみに、『慶應義塾百年史』の「中巻(前)」の第3節「義塾学芸の開花」に掲載されている、明治43年度の文学科の教員と講義題目のリストを紹介すると、以下の通りとなる。

明治43年度慶應義塾大学部文学科教員及び講義題目

(註)*印の付いたものは新任教師

 主任
   川合貞一
  教員
   稲垣末松
   今福忍
  *岩村透
   板倉卓造
   畑功
   馬場勝弥(孤蝶)
  *堀切善兵衛
  *戸川明三
   忽滑谷快天
   大村西崖
  *小山内薫
   川合貞一
   河辺治六
   吉田静致
   田中一貞
  *田中萃一郎
   滝精一
  *永井壮吉
   向軍治
   内田周平
  *宇野哲人
   野口米次郎
   山崎達之輔
  *山路弥吉(愛山)
  *ヱー・D・プレーフェーアー
   神戸弥作
  *小宮豊隆
  *幸田成友
  *清水澄
  *広瀬哲士

 
美学、独文学、心理学

教育史、教授法
認識論、哲学史
芸術史
政治学
英文学、英語
英文学
経済原論
英文学
英文学
美術史
英文学
美学、独文学、心理学
哲学
倫理学
社会学
史学研究法、西洋史
美学
文学評論、仏語、仏文学
独文学、独語
漢文
支那文学史
英文学
教育行政
国史
英文学
国文学、国文学史
独文学
歴史
憲法
仏語


 リストを見て分かる通り、教員総数で前年の42年度より11名増え、そのうち新任教師は13人に達している。さらに細かく見ていくと、文学専攻科の教員は、前年度より5名増えて13名と全体の半分近くを占め、そのうち7名が新任教師である。注目されるのは、英文学関係の講座の拡充に意を注ぎ、文学雑誌「文学界」の編集に携わったのち、東京帝国大英文科選科に入学、卒業後は東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)や早稲田の文学部で教え、のちに平田禿木と共訳で『エマーソン全集』を翻訳出版した戸川秋骨を講師として招くかたわら、東京帝国大学英文学科を卒業し、明治40(1907)年に文芸雑誌「新思潮」を創刊、同42年には歌舞伎役者の市川左団次と「自由劇場」を結成、脚本と演出を重視するリアリズム演劇を唱導し、演劇の近代化に取り組み、演劇革命のリーダーとして名を挙げてきた、脚本家で演出家であり、また小説も書くという小山内薫をも講師に招くなど、都合7名の教授と講師を配し拡充を図っている。

 さらに一層注目されるのは、それまで東京帝国大学や早稲田大学など、文学部、あるいは文学科を持つ大学では、英文学とドイツ文学が中心に教師陣の選定やカリキュラムが組まれてきて、森鷗外や坪内逍遥、夏目漱石、上田敏など著名な文学者のほとんどが英文学かドイツ文学を専攻し、そこで学んだものをベースにして文学者として立つに至っていたわけであったが、慶應義塾は、そうした潮流に反逆する形で、日本の近代文学史において、初めてフランス文学を学ぶことで文学者として立つ契機を掴んだ、永井荷風という小説家を主任教授に選んだことである。

 明治43年度の文学科教授及び講師のリストを見て、もう一つ注目されるのは、漱石門下生の一人で、気鋭の文芸評論家として売り出し中の小宮豊隆をドイツ文学の講師に、さらに東京帝国大学文科大学支那哲学科を卒業して清国とドイツに留学、留学を終えて日本に帰国してきた中国哲学者の宇野哲人が、支那文学史の講師に招かれていることである。宇野は、夏目漱石が熊本の第五高等で英語と英文学を教えていたときの教え子であり、漱石門下生の一人で、『我輩は猫である』の「寒月」、『三四郎』の「野々宮君」のモデルとされる寺田寅彦とは、五高で同級でもあった。

 このことに関連して一つ指摘しておきたいのは、永井荷風が、慶應から教授招聘を受ける前の年、すなわち明治42(1909)年の12月13日から翌43年の2月28日にかけて、ということは、慶應が荷風を教授に招聘しようという話が進んでいるときに、朝日新聞に入社した夏目漱石の計らいで、「東京朝日新聞」に小説『冷笑』を連載したこと。そして、それによって荷風の作家としての地位が定まったことに対して、荷風が恩義を感じていて、漱石の門下生である小宮豊隆と五高時代の教え子である宇野哲人を新任講師に招いたのではないかということである。もしそれが事実であるとすれば、荷風のこの計らいによって、慶應義塾は、森鷗外と上田敏を顧問に迎えたうえで、さらに漱石と縁の深い小宮豊隆と宇野哲人を講師に迎え、漱石との縁をも繋ぎ止めておくことで、早稲田の文学部に対抗し、凌駕していくための戦いをすすめていくうえで、万全の態勢を敷くことができたことになる。

早稲田の文学部の学生からも羨望された荷風の教授就任

 以上見てきたように、慶應義塾は、明治43年に文学部の機構改革を断行し、文学専攻課程の主任教授に永井荷風を招き、「三田文学」を荷風の責任編集で発刊させることによって、慶應義塾の文学科、あるいは文学部の歴史に新しいページを書き加えることになった。

 前章で詳しく見たように、永井荷風が慶應義塾の文学科の教授に招聘され、「三田文学」を責任編集で発行させたことは、慶應内部にセンセーションを巻き起こした。しかし同時にそれは、外の世界でも大きなセンセーションを巻き起こしていた。たとえば、荷風が慶應の文学科教授に就任した年に、早稲田大学の英文科に入学し、のちに『蔵の中』や『苦の世界』、『子を貸し家』などの作品で、私小説作家として知られることとなる宇野浩二は、『文学の三十年』(中央公論社、昭和17年)のなかで、慶應義塾文学科教授永井荷風の存在と荷風の責任編集になる「三田文学」が、いかに早稲田の学生にとってフレッシュに輝く、あこがれの存在であったかについて、「その頃は、或る種の二十歳の文学書生には、「三田文学」と永井荷風は、今の言葉でいふと、神様のやうなものであつた。神様のやうなものであつて、もつと親しみのあるものであつた。そのため、白銀町の都築(つづき)に集まつた学生たちは、殊に今井白楊などは、早稲田を止めて、三田へ転向しようか、と云つた程である」と回想したほどである。

 宇野は、さらに『三田派の人々』のなかでも、早稲田の学生たちの荷風と「三田文学」に対する熱狂的羨望ぶりを以下のように記している。

 或る日、自由詩社の同人の今井白楊(鹿児島県出身の詩人。早稲田の文学部英文学科を卒業。「自由詩社」に参加。1917年犬吠崎で遊泳中に溺死・筆者註)が、何処で聞いて来たのか、「慶應の文科では、教師の永井荷風や、小山内薫が、喫茶店の二階で講義をするさうだ、冬はストオヴを囲んで講義を聞くんださうだよ」と云つた。(中略)その今井の話は、三日とたたないうちに早稲田の文科の文学書生たちに、大抵ひろまつてしまつた。と、又、今井が、今度は、「どうだ、今のうちに慶應の文科に転向しやうぢやないか」と云ひ出した。「しよう、しよう」と、その場にゐた者たちは言下に応じた。

 永井荷風の慶應義塾文学科教授就任と自由でモダンな空気の中で行われた講義、さらに「三田文学」の発刊は、慶應側がライバルとみなしていた、いやライバルとみなすことも出来ないほど優越していた早稲田の文学部の学生をそれほど引き付け、あこがれの対象となっていた。にもかかわらず、早稲田の文学部から慶應に移った学生はなく、また三田山上で文学を志す学生の数も増えなかった。

 だがしかし、そうであればこそ、荷風を中心とした少人数のまとまりのなかで、密度の濃い荷風の授業が行なわれ、教師と学生の間の人間的交流が深まり、学生たちは荷風から書くことへの励ましや、啓示を受け、小説や詩を書き、「三田文学」に掲載してもらえることで、文学者として生きる決意を固め、それぞれ独自の表現世界を構築し、文学者として立つに至った。そして、それが、後に「三田派の文学」と呼ばれる系譜の基礎をかためていくことになったのである。

三田山上に現出したモダンな「文学的自由空間」

 さて、こうして慶應義塾大学部文学科文学専攻科の主任教授として招かれた永井荷風の最初の講義は、水上瀧太郎が、「永井荷風先生招待会」のなかで記したように、明治43(1910)年4月18日、三田キャンパスの西側、品川湾を見晴らす崖の上にあったヴィッカーズ・ホールで行われた。

『慶應義塾百年史』の「中巻」第二節「大学部の開設」のなかの「注」の記述によると、ヴィッカーズ・ホールは、福沢諭吉が明治20年頃、外人教師の居住用に建てた木造二階建ての建物で、明治31(1898)年に来日し、慶應の理財科の主任教授に就任し、荷風が文学科教授に招聘された年の明治43(1910)年まで12年間、経済学論や経済学史、財政学を教えたアメリカ人経済学者ヴィッカーズ・E・ハワードが居住した建物であったが、ヴィッカーズの帰国に伴い、一階が教職員クラブに、二階が文学科の教室として使われるようになっていた。

 昭和35(1960)年5月発行の『小説永井荷風伝』(新潮社)の「第三章 三田の学塾にて」のなかで、文学科予科の学生として、ほとんど毎日この教室に出入りし、荷風の講義を傍聴するかたわら、学生たちが「たまり場」と呼んでいた予科の一年生用の部屋で「とぐろを巻いて居た」佐藤春夫が、自身の記憶に基づいて、当時のヴィッカーズ・ホールについて、以下のように記述している。

 文学部の学生は各クラスを通じて十何人であつたらうか記憶はおぼつかないが、二十人に達してゐなかつただけは確実であつた。それが構内の最も奥まつた一隅にあつた例のヴィッカーズホールといふのを教室として占據して荷風を頭にとぐろを巻いてゐたものであつた。
 この建物は凌霄花のからまつた玄関があり、その隣りの食堂のヴェランダが薔薇やあぢさいや木犀などのある庭に面して、どこやら偏奇館の造りと一脈相通じるものがあつた。偏奇館は多分このホールなどを参考にしこの時代の洋館を模倣して、設計士建造されたものであらう。
 ヴィッカーズの住んで以後空き家になって荒廃に委ねられてゐたこの建物を、文学部の教室にしようといふことも、もしかすると主任教授荷風の持ち出した案であつたかも知れない。とさう思われるほどヴィッカーズホールは荷風好みであつた。

 ここの記述で、佐藤春夫は、ヴィッカーズ・ホールが、「ヴィッカーズが住んで以降空家になつて荒廃に委ねられてゐたこの建物」と書いているが、前出の『慶應義塾百年史』「中巻」(前)の記述では、「明治三十四年から同四十三年までは、ヴィッカーズの居宅として使用された」とあるから、佐藤のこの記述は明らかに間違いである。ただしかし、佐藤が、この建物を「偏奇館の造りと一脈相通じるものがあつた」として、偏奇館がこの建物を模して建てられたのではないかとしたうえで、荷風自身が、自分が講義する教室を、品川湾を見晴らし、玄関に凌霄花(ノウゼンカズラ)がからまるこの洋館にしようと言い出したのは荷風ではないかと推測しているのは、興味深い。

 つまり、文学科の機構一新に伴い、文学専攻科の主任教授に就任することが決まった荷風は、実際に講義を行う教室をどこにしたものか、塾関係者と共にキャンパス内を視察し、そのうえで、「構内の最も奥まつた一隅」にあったこのホールを選んだ可能性が高いということである。荷風としては、熊本第五高等学校の教授夏目漱石が、英語や英文学を教えたときのような、広い教室に机と椅子が並び、それと対面する形で一段高い教台のうえに教壇と黒板が置かれ、その上から見下ろす視線で学生たちに講義するのは、自分の趣味に合わないと感じ、あえてキャンパスの一番奥の目立たない崖のうえに立ち、海を見晴らす洋館をえらんだのではないだろうか。この辺のところに、中学生のころから学校という厳格な規律性を求めてくる社会的組織に対して、一貫して反抗的姿勢を貫き、そこから逸脱することを繰り返してきた永井荷風の生得的違和感と嫌悪感と、あるいはある種の気おくれのようなものが読み取れる気がする。それはまた、大学教授という優越的記号と単位認定権者という管理者的記号を笠に着て、上から目線で学生たちを支配しようとする大方の大学教授の姿勢と戦術をしりぞけ、できる限り自由でモダン、且つ文学的な雰囲気の中で学生たちに接し、フランス文学や文学評論の講義をしたいという荷風の本音がうかがえるような気がする。

(左)ヴィッカーズ・ホールの概観
(右)ヴィッカーズ・ホール内の教室。
二階にあったこの部屋で荷風は講義を行った(「新潮日本文学アルバム」より)


 さて、上の二つの写真で左側に写っている木造2階建ての建物の2階、四室あったうちの多分一番大きな部屋が、荷風の講義用の教室として使われたものと思われる。右側の「新潮日本文学アルバム」の『永井荷風』に掲載されている写真を見ると、洋館造りだけにかなり天井の高い部屋の壁に、多分洋画と思われる額入りの絵画が架けられ、右の隅にストーブが置かれ、さらに中央に置かれた縦長の木製のテーブルの周囲に、3人学生が坐り、立っている荷風の隣にも学生が二人立って写っている。教壇とか机に椅子といった、如何にも教室を思わせるものは一つもなく、今の大学の研究室のような感じで、大学院のゼミナールといった雰囲気のなかで、ほとんど個人教授に近い形で講義が行われたことが窺える。

 学生と荷風教授たちの「溜り」場

 ちなみに、2階には、講義用の教室のほかに、予科と本科の学生用の部屋が3室用意され、その中で一番小さい部屋が、佐藤春夫や堀口大学らの一年生用に宛がわれていたが、その部屋は「溜り」と呼ばれ、荷風教授や予科、本科の学生たちのたまり場にもなっていたという。久保田万太郎は、雑誌「文藝」の(臨時増刊)『永井荷風讀本』に寄せた「三田時代の荷風先生」のなかで、この「溜り」について、「最も奥の教室には、真ん中に、大きなテーブルが一つ置いてあるばかりだった。われわれはそこを、〝溜り″と名づけて、講義のないときの時間を自由に消す場所にした。小山内先生、馬場先生の時間は、とくに、指定された教室をそこにふり替えた。-めつたに教員室に顔を出されなかつた永井先生は、毎日、間づ、そこへ来て、講義をしまふと、そこからまた帰つて行かれた」と記している。

 佐藤春夫もまた、後年、この「溜り」について、『小説永井荷風伝』のなかで、以下のように回想している。

 玄関から踏み込むと階段のある不正形の広いホールの右手には三メートルとよんめーとるばかりの長方形の食堂と右手には四メートルほどの応接間があり、玄関正面の奥には厨房や物置場厠などがあり、階上は総二階で大小四室の外は階段のおどり場や廊下などゆつたりととつてゐた。階段の手すりなども十九世紀風にこつたものであつた。

 主としてこの二階が教室に使われたのであるが、そのうちの最小のもので精々三メールとかそこらの多分寝室であつらうと思はれるものが吾々三人(一人は一学期からの同級の先輩直木勝三と堀口にわたくし)の文学部予科一年の教室に充てられてゐた。人数は三人だし、最低の学年だけにこの小部屋が与えられたのであらうが、これが偶々全文学部生のためのたまりのやうに使われてゐた。小じんまりとしてゐたうへに最も奥まつて周囲に煩はされないといふ理由のほかに、当年のこの学塾の制度として文学部も予科二年間は、一往理財科と法科など他の一般予科生とともに彼らの教室で学び、文学部特有の授業に限つて文学部の教室に来て学ぶといふわけで、我々予科一年の教室はいつも空いてゐる時間が多かつたので文学部の本科生たちが我々の留守の間ここに集合し占據したため、ここが自然文学部学生のたまりのやうなことになつたのであつた。

 佐藤春夫が書いたように、予科の一年生用にあてがわれた二階の一番奥の小さな部屋は、佐藤ら一年生が予科の学生であるため、今でいう一般教養として他の学科の講義を聴講するために別の教室に出か掛けていって、空室になっていることが多かったため、上級生が勝手に入り込んで雑談したり、議論したりすることが多く、次第に久保田万太郎いうところの「溜り」場になっていったものらしい。部屋には学生だけでなく、教師の荷風も暇があると顔を出し、学生たちと談笑をかわし、「三田文学」の編集の打ち合わせなども、この部屋で行われたという。いや、荷風は、文学談義を学生たちに聞かせるだけでなく、「君たちも小説や詩を書きなさい。それで書き上げたら、僕に読ませてください。出来が良ければ「三田文学」に載せてあげますよ!」と励ましもした。その結果、学生間に創作意欲が俄に燃え上がり、その熱気のなかから久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学といった小説家や詩人が生まれ出てきたわけである。

 そうした意味で、ヴィッカーズ・ホールの2階は、荷風だけでなく、学生たちにとっても、「文学的に自由な創造空間」を意味していた。そして、三田山上に現出したこの「文学的に自由な創造空間」こそが、宇野浩二はじめ早稲田の文学部の学生を羨ましがらせ、後々、日本の近代文学の展開において独自の地歩を占める「三田文学派」と呼ばれる文学の系譜を生み出す母胎となったのである。

極めて厳正であった荷風教授の講義

 さてそれでは、新任教授永井荷風の講義はどのように行われていたのか、大いに興味が持たれることであるが、肝心のこの点に関しては、記録が残ってないせいで、残念ながら正確なところは分かっていない。久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学といった自他ともに認める。荷風の門下生が、文学科教授永井荷風について、少なからぬ回想記の類を残しているもの、それらのほとんどは、売れっ子作家であった永井荷風が、文学科の教授に就任し、フランス文学や文学評論の講義をするようになったことでが、いかにセンセーションで、「事件」であったか、そして荷風の謦咳に接し、励ましを受けたことで自分が小説家や詩人の道を選ぶに至ったか、その経緯を記したものが多く、またその講義ぶりも、「きわめて厳正で、時間通りに講義をはじめ、時間通りに終了」とか講義の内容についても、「きわめて周到に準備されたもの」といった記述が断片的に残されているだけで、実際にいかなる教科を、いかなる教材に使って、いかに講義をしたかについては具体的な記述がほとんど残されておらず、従って、文学科教授永井荷風の講義の実態を正確に知ることができない。

 そんななか、荷風が慶應の文学科の教授を続けていると思い込み、荷風の教えを受けたいという一念で、大正9年に慶應の文学科に入学し、のちに中国文学者として、そして洒脱な文章で味わいの深いエッセイをいくつも書き残し、慶應の名物教授の一人となった奥野信太郎が、校史関係の資料を調べ、昭和34(1959)年6月1日発行の「三田文学」3月号の「永井荷風追悼号」に、「永井壮吉教授」という一文を寄せ、荷風が受け持った教科と授業時間、さらには「厳正」な教えぶりについて、以下のように推測している。

 永井教授の担当科目については、「文学評論・仏語・仏文学 永井壮吉」という一項が学報第92条に出ている。大正2年七月以前の学科課程の詳細記録が現在塾に欠けているので、はっきりとその時間数その他を知ることが出来ないのは残念であるが、現行の教授責任時間八時間の制度はかなり古くから行われていたから、かりにその当時もまたほぼ同じであったとするならば、特殊研究にあたる文学評論二時間、概説にあたる仏文学二時間、演習に当る仏語四時間、計八時間で、当時の単位の数え方でいうと四単位であったのではなからうか。
 永井教授の授業が厳正であったことは、塾においても語り草となっているところである。
 振鈴から振鈴までの授業を、かならずおろそかにしなかったということだけでも、これは並大抵のことではないと思う。長年教師をやっているだけにこの話にはまったく頭が下がる思いがする。

 奥野信太郎はまた、荷風自身が慶應で教えていたころ、すなわち大正2(1912)年7月から大正3年6月まで、身辺の出来事を手紙のかたちで書き綴った「大窪だより」などの記述を基に、荷風の出勤ルートについて、「義塾へ出勤するに際しては、四谷塩町乗換えで、青山一丁目から霞町経由で古川三之橋へ出たほうが飯倉経由の路線より多かったらしい。というのは出入に塾の裏門を利用した記述がしばしばあるからである」と記し、三田キャンパスに出勤し、あるいは講義を終えて退勤する荷風の姿を、次のように美しく再現している。

 たとえば出勤の秋の日の朝、裏門の坂道を蔽う大木のなかでも、榎の落葉のいちはやいことに感傷を催したり、またその帰途には表門から三田通りに出て、牛屋の今福の横丁の古本屋を漁ったりしている。帰途はきわめて自由に白金辺の古寺から目黒の不動尊あたりまで歩いたり、二本榎の歌川豊国の墓に詣でたり、日和下駄さながらの散策を試みた。

 荷風教授の授業が「振鈴から振鈴までの授業」を時間通り、「厳正」に行なわれたことについては、久保田万太郎が、「三田時代の荷風先生」のなかで、「フランス語のはうは、揃つてみんな文学の、同時に、そろつて、また、教員志望だつた。従つて、生一本の勉強家ばかりだつたが、永井先生は、その学生に輪をかけて勤勉だつた」としたうえで、その勤勉ぶりを以下のように回想している。

 たとへば、どんな雨の日でも、風の日でも、そして教室に入られたが最後、一時間なら一時間、二時間なら二時間、先生は三分が五分でも無駄にされなかつた。ぎりへもう、鐘の鳴るまで、正しく講義をつゞけられた。
 ー小説家だと思つて馬鹿にしたが、どうして、永井さんはなかへ出来らア……
 と、そのなかの一人の山形県人(不思議にそのときのフラン語の学生は地方人ばかりだつた)は、一度、わたくしに、つくベかう述懐した。
 とまれ、先生は、そのころから、゛懶惰″と〝放漫″とを、何にもまして、憎まれ、嫌はれた。

 さて、最後に、荷風先生の講義の内容に関してであるが、この点に関しては、予科の学生でありながら本科の授業である荷風の講義の行われる教室に忍び込み、フランス近代文学史の講義を聞いていたという佐藤春夫が『小説永井荷風伝』のなかで、「わたくしが興味を持つて聞いた科目は何といふ題目であつたやら、わたくしはそれさへよくは知らなかつた」と断ったうえで、「その内容は近代フランス文学史論とでもいふに相当するものであつたと覚えて居る」として、フランスの近代小説家のなかでも、イギリスのオスカー・ワイルドと並ぶ特異なデカダン派の小説家として知られるジョリス=カルル・ユイスマンの初期の短編小説を取り上げ、ユイスマンの文学の今日的新しさについて講義したときの講義ぶりについて、記述を残してくれている。かなり長くなるが、文学科教授としての永井荷風の講義の実体を伝える貴重な証言でもあるので、全文紹介しておきたい。

 おそらく先生が曾て読んで感銘の深かつた作品を文学史的な順序に照らし合せて評論したものと思ふ。まづその作者の小伝を伝へ、さてその作品の筋や描写の細部にわたつて面白さを説き紹介したうへで、その作品の史的意義だのその作家の一般作風などに及ぶもので、その講義ぶりは必ずしも学者のや鵜ではなかつたが、用意周到に抗議の形態をそなへて、亦、権威ある者のやうにわたくしには聞き做された。わたくしはいつも興味深い学ぶべき多くのものを与えられたやうに思いひながらも、なまけ学生の常として、他の学生たちのやうにノートをとつて置くでもなく、必要なものは必ず牢記してゐる、ノートをとつて置かなければ忘れてしまふよやふな事項は身にとつて第二義的な不用なものだといふのが生意気なそのころのわたくしの考へであつた。さうしてこの若気の誤りのためにわたくしは先生の講義の多くを今になつてはおほかた忘れてしまつてゐる。

 佐藤春夫は、このようにノートを取らなかったせいで、荷風の講義の内容は大方忘れてしまったとしたうえで、わずかにJ・K・ユイスマンの初期の作品を講義したときのことを、以下のように蘇えらせている。

 ユイスマンは先生と同じくエミール・ゾラの門弟であつたから、先生はその作品を、人の多く注意しない初期のものまで精読したもののやうである。晩年になつてもユイスマンを読んだといふ日記の記述があるのは深く共鳴するところがあつたもの見える。さうしてこの時の講義がわたくしの記憶に深く刻まれてゐるのも、平素より一段と熱心であつたためかも知れない。
 それは何といふ題の短篇であつたやら、題はきつと黒板に書かれたのを、わたくしは十分に読めなかつたため忘れてしまつたものらしい。
 主人公は作者の分身らしいパリの貧しい小役人でその生活を丹念に描いただけのものであつた。彼は無味乾燥な役所の事務にも黙黙と堪へ、退けると近い場末の食堂で靴の底のやうなうすつぺらで固いビフテキを間日ひとりで満足げに食べてゐる。家にはこの貧しく世事に疎い良人にあいそをつかしてゐる妻が姦通夫を引き入れてふざけ散らしてゐるかも知れない。彼はこれをもうすうす気づかないでもないが、それを考へ想像してみても別に苦にもならない。何も彼自身が使用中、彼を押し退けて使這うとするのではない。留守に使ふ分には一向差し支へもない話であると、彼は徹底したニヒリストで、またストイックな生活者なのである。

 佐藤春夫は、このようにユイスマンの初期の短篇小説のストーリーを概略紹介したうえで、この小説が持つ文学的意味の今日性について、荷風が読み取ったものを以下のように紹介している

 かういふ世俗的に醜悪な世界を虚無的に取扱ふところに新しい散文の詩趣といふやうなものを求め卑俗な日常生活から新しい文学を企てたもので、そのためには神経の細かな文字で溌剌たる情景をこまごまと描写する文章の妙技を極めてゐる、とここで黒板に五十文字ばかりの文例が書かれたが、生憎とわたくしにはよめない、しかし訳によると何やら良風美俗に反する文句であつたやうである。
 かういふふうに良風美俗などは雑草のやうに踏みにじつて、美醜を問はぬ虚無的態度は今までの芸術至上主義ともまた別個の、世俗的な美よりは、むしろ醜悪なものでも、これが真であるために新しい詩美であるとするやうな主張がにじみ出てゐる。かういふ芸術的ポーズはボードレールなどとも一脈通ずるもので、ゾラの出現などで生まれたこの一時代の芸術思想ともみるべきものであらうか、などと、文学者の反俗いや超俗の精神と独自の詩美にもとづく芸術至上主義が説かれ、卑俗な日常生活が官能美や詩魂と結びつくがために文学となる秘義が力説された。
 その詩美の赴くところユイスマンは後年官能の頽廃から精神を求めてカソリックの信仰に生き、「逆に」(『さかしま』のことか、筆者註)のやうな神秘で象徴めいた作風に推移して霊的自然主義者とも呼ばれるやうになつた。これら初期の作品と晩年のものとでは見かけは大変違ふやうでも、常に斬新な詩美と作者自身の気質とを表現したといふ点では終始一貫したものが見られる。
 といふやうな講義は多分二時間つづきであたうたらうか、それとも一時間で終つたらうか。何しろ既に五十年前から久しく埋没してゐた記憶の廃墟を発掘して、当年わたくしがおぼつかなくも理解してそれから受取つたわが印象の破片を復原してみると、まづざつとこんなことであつたらうか。先生の講義はひとり合点ではなく、せつかく話す以上はみんなによくわからせたいといふ親切のよくあらわれたものであつた。

 佐藤春夫は、以上のように、永井荷風の講義の内容を、ユイスマンの初期の短篇小説についての講義を聞いたときの記憶を蘇えらせ再現させたうえで、それでも、荷風教授の講義での話しぶりは、講義が終わったあと、例の「溜り」」で学生たちと雑談を交わすさいの自在さと面白さには及ばなかったとしている。

 ともあれ、ユイスマンの初期の作品を例にして、「今までの芸術至上主義ともまた別個の、世俗的な美よりは、むしろ醜悪なものでも、これが真であるために新しい詩美であるとするやうな」ユイスマンの「主張」を、具体的にテキストを読むことを通して、学生たちに精緻に解読してみせたところに、荷風の講義の今日的新しさがあったと言えるだろう。

(2017年11月10日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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