集英社新書WEB連載
文字の大きさ
タイトルイメージ

慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第七章 三田山上に捲き起こった荷風旋風

品川湾を見晴らす三田山上の教室で荷風初講義

 前章で詳しく記述したように、新帰朝文学者として明治41(1908)年7月、日本に帰国し、反自然主義的作品を立て続けに発表、日露戦後の日本近代文学の新展開を担う気鋭の文学者としてカムバックした永井荷風が、慶應義塾大学部文学科の教授として、品川湾を見晴らす三田山上のキャンパスで初めて講義を行ったのは、明治43(1910)年4月18日のことであった。

 この日のことは、理財科の2年生でありながら、この日、荷風の初講義を聞きに来ていた学生の一人であり、のちに「三田文学」に小説「山の手の子」を発表して小説家としてデビュー、理財家卒業後は、父親が創立した明治生命に勤務しながら、サラリーマンとしての生活体験に基づいた小説や評論を「三田文学」に発表し、久保田万太郎と並んで「三田文学」を代表する小説家として重きをなした水上瀧太郎が、14年後の大正13(1924)年、雑誌「随筆」の8月号に寄せたエッセイ「永井荷風先生招待会」の冒頭で次のように回想している。

 永井荷風先生が三田の文科の教授になられたのは明治43年の4月で、「三田文学」の創刊号は其の5月に出た。自分は其の時慶應義塾の理財科の二年になつたばかりだつた。(中略)忘れもしない43年4月18日の始業日に、始めて目のあたり永井先生を見た。(中略)数人の見知らぬ文科の学生の後に、自分は畏怖と喜悦と羞恥にかたくなつて居た。次の時間からアルフォンス・ドオデヱの小説を教科書に使ふと云ふ事だつた。

 その当時、日本の大学は(とは言っても、慶應義塾はまだ正規には大学ではなく、「慶應義塾大学部」と「大学」の名称を使うことは許されていたが、教育行政上は専門学校であった)は、欧米の学制に習って9月始業であり、それは大学だけに止まらず、全国の小学校から中等学校、高等学校や、東京高等商業学校や東京外国語学校などの専門学校、さらには東京帝国大学や京都帝国大学などの国立大学まで、すべて学校は9月に入学式が行われ各学年の授業がスタートすることになっていた。当然、新任教授の就任も9月が一般的であったが、例えば、明治28(1895)年に松山中学校の英語教師に赴任し、一年後の29年に熊本の第五高等学校の講師に転任した夏目漱石の着任が4月であったように、4月着任というケースもないことはなかった。

 荷風が三田キャンパスで初講義を行った月の翌5月に荷風の責任編集で発刊された「三田文学」創刊号に、荷風自身が寄せた「三田文学の発刊」の冒頭に書かれてあるように、永井荷風が、「黒い洋服を着て濃い髯のある厳めしい顔立ちの紳士の訪問を受け」、森鷗外と上田敏両先生の推輓で、永井先生を慶應義塾の文学部の教授に招聘したいという申し出を受けたのが、明治43年2月のことであり、実際に講義が始まったのが2カ月後の4月であったことからも、いかに電光石火の素早さで大学教授永井荷風が誕生したかが分かる。

 「三田文学の発刊」によると、この2か月の間に、荷風は、「銀座の裏通りにある立つてゐる英吉利風の倶楽部で幾度か現代の紳士(おそらく慶應義塾大学部の関係者のこと)」と晩餐を共にし、「マロツク皮の大きな椅子に腰をかけ石炭の焔が低い響きを立てる暖炉を前にして、大勢の人と葉巻を喫(ふか)しながら文学部の刷新や「三田文学」創刊の話をし、「非常に風の吹く」日に、森鷗外の居宅観潮楼を訪れ、慶應義塾文学部の教授に推輓してくれたことの礼を述べ、上京してきた上田敏と銀座を歩きながら、慶應での講義や「三田文学」の編集をどう進めたらよいか相談し、四月開講の準備を進めるために「殆ど毎日自分は芝の山内を過ぎて三田まで通つた」という。折しも時節は春の気配が日ごとに濃くなっていく3月から4月の初め、荷風は、「三田文学の発刊」のなかで、そのころのことを回想して以下のように記述している。

 ほとんどん毎日自分は芝の山内を過ぎて三田まで通つた。通う一日(ひとひ)毎(ごと)に自分は都の春色の次第に濃(こまやか)になつて行くのを認めた。燕の来るのを待つて、水鳥の群れはまだ北へ帰らずにゐるお濠の土手には、いつか柳の芽が嫰緑(わかみどり)の珠を綴つた。霊廟(おたまや)の崩れた土塀のかげには紅梅が咲いた。東京見物に出て来る田舎の人の姿が諸処(しょしょ)に見られる。桜が咲いた。

 このように柳の枝が色づき、紅梅の花が咲き、桜が咲き、地方から人々が東京見物に浮かれ出て来るなか、新任教授永井荷風の講義は始まり、荷風は、毎日、品川の海を見晴らす三田の山の上のキャンパスまで足を運び、フランス語とフランス文学、そして文学評論の講義を行うようになる。荷風は、品川の海を見晴らす小高い丘の上にある三田のキャンパスから見晴らす風景について、次のように記述している。

 自分はまた誠に適度な高さから曇つたり晴れたりする品川の海を眺望する機会を得た。房州の山脈は春になるに従つて次第に鮮に見えて来た。品川湾はいくら狭くても矢張り海である。満潮の夕暮、広く連なる水のはづれに浮ぶ白い雲の列は、自分をして突然遠い処へ行つて仕舞ひたいなと思はせる事があつた。Chateaubrianda(シャトーブリアン)が小説Rene(ルネ)の篇中に「去ると云ふ堪へがたき羨望を抱く事なくして行く船を眺る能(あた)はず」と云つた一句を思い出す。

三田山上のキャンパスから品川湾を見晴らす。荷風は「品川の海を眺望する」教室で講義を行った。(昭和5年、慶應義塾大学理財科卒業生アルバムより)


 新帰朝して以来、気鋭の新進作家として名は挙がったものの、故国日本の自然的、社会的、文化的環境に適応できず、かつまたそうした現実のなかにあって、自身の文学的立脚点と進むべき道筋を探し求めて苦悩し、さらには孤立の境地に陥ろうとしていた永井荷風ではあったが、慶應義塾大学部部文学科教授という社会的に認知された地位と記号をようやく手に入れ、自身を「安全圏」のなかに置くことが出来たことによる安心感とある種の高揚感、そして新たに始まる大学教授という社会的使命を担うことへの緊張感と不安、さらにそこから逃げ出し、自由な世界にもう一度、自身を解放したいという気持ちがストレートに伝わってくる文章である。

慶應義塾文学科―学生数15名に満たない小さな学科

 さてここで、荷風が主任教授に招かれたころの、慶應義塾大學部文学科というものが、どのような学科であったのか、少し振り返っておきたい。

 まず最初に注意しておきたいのは、正規の名称が「慶應義塾大学』ではなく、「慶應義塾大学部」と「部」が最後に付けられていること。つまり、大正9(1920)年の大学令によって旧制大学に昇格し、慶應義塾大学の名称が正式に認められるまでは、準大学という扱いで、教育行政上は「慶應義塾大学部」が正規の名称であったということである。永井荷風が慶應義塾の文学科の教授に招聘された明治43年の時点で、「大学」という名称が正規に冠せられていたのは東京帝国大学と京都帝国大学、東北帝国大学だけであった。そして、現在では、文学部のしたに英文学科やフランス文学科、ドイツ文学部、国文学部と学科が分かれているが、当時は大学部のしたに文学科、理財科、法律科と三つの学科が置かれていた。

 ちなみに、早稲田大学の前身である東京専門学校が「早稲田大学」と名称を変えたのは明治35(1902)年のことで、その翌年、専門学校令が発令されるのに先立って、特例として「早稲田大学」という名称の使用が許されたということであり、教育行政上は慶應義塾大学部と同じように専門学校であった。

東京帝国大学赤門(筆者所蔵の絵葉書コレクションより)
京都帝国大学文学部校舎(筆者所蔵の絵葉書コレクションより)


創建当初の東京専門学校。慶應の三田キャンパスが品川湾を見晴らす丘の上にあったのに対して、早稲田のキャンパスは都の西北の稲田のなかにあった。
(「早稲田と文学の一世紀」より)

東京専門学校時代の講師と学生。右端が坪内逍遥。
(「新潮日本文学アルバム」より)


 慶應義塾は江戸末期に福沢諭吉が創立した蘭学塾に源を発する英学校であり、その教育の基礎は英語教育にあった。いわば語学校的性格の強かった慶応義塾が、「大學」という名を冠し、最高等教育機関としての体裁を確立するのは、明治23(1890)年に、名称を「慶應義塾大学部」と変え、文学科と理財科、法律科と、現在の文学部と経済学部、法学部に相当する三つの学科が設置されてからのことである。

 ただしかし、学生数の数は理財科が全学年通して70~80人であったのに対し、文学科と法律科は全学年を通して、高々15人程度と極端に少なく、大学としての慶応義塾の教育主体は、福沢諭吉の唱導した「実学」の教育機関としての理財科にあった。事実、慶應義塾の理財科に籍を置いたもの、あるいは卒業したものの大半は、得意の語学力を生かして、日本郵船や横浜正金銀行、三井物産、三菱商事など、海外との交易を積極的に進めることで、ビジネス・ネットワークを広げ、業績を拡大・成長させてきた企業に勤務し、才腕を揮うものが多かった。慶應義塾が東京帝国大学に次ぐ最高の高等教育機関として社会的評価と名声を勝ち得たのも、ひとへに理財科卒業生の努力と実績によるものであった。

 このように理財科の存在と影響力が圧倒的に優越する慶應にあって、それにもかかわらず、創設以来20年、文学科が存続し、学科の名称が列記されるときには、常にその名が理財科や法律科に先立って置かれてきたのは、一つには、幼稚舎から大学部まで慶応それ自体の教育機関、あるいは施設で教える教師の人材が必要とされ、その需要を満たすための教員養成機関として文学部の存在が必要とされていたことと、さらにもう一つ、明治5(1882)年月に福沢諭吉の手によって創刊された日刊新聞「時事新報」が、「東京日々新聞や「報知新聞」、「国民新聞」、「東京朝日新聞」と並んで「五大新聞」と呼ばれるほど発行部数を延ばしていたこともあって、新聞記者を養成する必要があったことなどが考えられる。

 だが、文学部の存在が必要とされ、存続しつづけたのは、教員と新聞記者養成という現実的理由だけではなかった。どういうことかというと、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」(古代中国の魏の初代皇帝文帝の「論文」のなかの言葉)という、中国伝来の「文」を貴しとする思想と、ペン二本を組み合わせた校章に表象される「ペンは剣より強し」という思想が、慶應義塾の建学理念として、同義塾が英学塾から近代的な高等教育機関へと大きく変貌・発展し、「大学」という名称を冠するようになってからも生き続け、それが文学部を存続させたということである。

 ただしかし、慶應義塾の存在と影響力が、東京帝国大学と京都帝国大学に次ぎ、早稲田大学と並ぶ近代日本の最高教育・学術研究機関として規模を大きくし、内実を充実させ、社会的評価が高まるにつけて、文学部の存在はいかにもとってつけた様で、貧弱に見えた。いや、外から見てそう見えただけでなく、慶應の文学部を卒業して、名を高めた小説家や詩人、評論家がほとんどいないというのが現実であった。それは、すでに何度か指摘したように、慶應にとっては最大のライバルである早稲田の文学部が、その前身である東京専門学校に、明治23(1890)年に坪内逍遥らが中心となって文学部が創設される以前から、北村透谷や国木田独歩、木下尚江らの文学者を生み、文学部創設以降は、金子筑水や水谷不倒、後藤宙外、島村抱月、正宗白鳥、相馬御風らの文学者を生みだし、さらにその機関誌「早稲田文学」が、日露戦争勝利後の日本近代文学の台頭期にあって、大旋風を巻き起こしていた自然主義文学の旗振り役、あるいは牙城として縦横に存在感と影響力を発揮して来たのに対して、慶應の文学科はあまりにさえない状況に甘んじていた。

 この辺の状況については、慶應義塾文学科の学生でありながら、「三田文学」が創刊された年の翌年、すなわち明治44(1911)年に、小説『朝顔』を「三田文学」に発表し、それが東京朝日新聞の「時評」欄で、慶應義塾文学科の講師としてドイツ語とドイツ文学を講じていた小宮豊隆から絶賛され、一躍新人作家として認知され、その後も滅び行く江戸の風俗や人情を描いた小説や戯曲、俳句などで独自の文学世界を築き、「三田文学」を支えるバックボーンとして重きをなした久保田万太郎が、昭和31年10月に河出書房の「文藝・臨時増刊」として発行された『永井荷風読本』に寄稿した「三田時代の荷風先生」のなかで、以下のように回想している。

 わたくしは、明治42年、21の年に、慶應義塾の普通部から大学部の予科に入った。だが、そのとき、文科を志望して、普通部の仲間から、大へんわらわれた。文学をやるなら、何も、慶應義塾に残ることはないではないか、いゝえ、早稲田に行つたつていゝではないか、といつてである。……それほど、当時の慶應義塾の文科といつたら、学校の内部からでさへ爾(しか)く相手にされない位の、だらしのない、恰好のつかない存在で、従つて学生にしても、予科と本科を合せて、それこそ15人ゐるかゐないかだつたのである。しかも、文科とは名ばかりの、実は教員養成機関にしかすぎず、いかに文学と縁が遠かつたかは、わたくしの名前を知つてゐる先生といつたら馬場孤蝶先生だけだつたことでも知れよう。……だから、何か、よく  の理由でもない限り、自分からそれを通りぬけのできない袋小路にまよひこむ馬鹿はなかつたので、これは、わらはれるのがあたりまえだつた。

1911年に開かれた「三田文学大会』記念写真。前列中央、肩をすぼめ畏まった感じで坐っているのが永井荷風。後列右から2番目が久保田万太郎4人目が佐藤春夫、その隣が堀口大学、左端が三木露風
理財科の学生であるにもかかわらず荷風の講義を聞きに来ていたころの水上瀧太郎


 さらに水上瀧太郎もまた、「三田文学」の大正8(1919)年1月号に掲載された『先生の忠告』のなかで、水上を「先生」と呼び、水上の下宿にやってきては、文学の話を聞きたがり、将来小説家として立ちたい、それには東京に出て学校に入って文学の修業をしたいという抱負を熱く語る「少年」に、「先生」が「軽々に文学者に等なろうと思ってはいけない」と諭す内容の、ユーモラスな小説『先生の忠告』のなかで、久保田万太郎と同じように、慶應義塾文学科が当時置かれていた惨めな状況について、「少年」の口を通して多分に自虐的、かつユーモラスな筆致で紹介している。

 彼は度々繰り返して愚痴を云つてゐた会社勤めの単調無趣味にたえられなくなつて、如何にしても学校に入る決心をしたが、それにはどこの学校がいいだらうと云ふのである。
「お母さんも同意したのですか。」
「私がそれ程熱心なら為方がないから大阪の家を畳んで、私の卒業する迄東京に住むと云うてなはります。」
我儘者は凱歌を奏する態度で答えた。
 かれは文学書生の常例に漏れず、早稲田大学の文科に入学し度いと希望してゐるのであるが、彼処(あそこ)は風儀が悪いからいけないと身内の者に反対されたさうだ。何故彼が早稲田大学を選んだかといふと、どんな雑誌を見ても執筆者の大多数は其の学校の出身者で、数に於いて到底他の学校出身の文士と比較にならない程有力であるから、将来っ自分が世に出るにも最も有利だらうと考へたのださうである。まことに恐るべき頭数の勢力である。
「それでは慶應義塾がいいでせう」
と先生は曽てその学校で落第した事などを思い出しながら云つた。
「あそこは金ばかりつかうてる怠け者の学校だからいかんと云うてます。」
「成程ね」
 先生は一言も無く参つてしまつて、感服する外に致し方がなかつた。
「それにあの学校からは余り偉い文学者は出てゐませんだつしやろ。」
 少年の舌は滑らかに動いた。

 「それにあの学校からは余り偉い文学者は出てゐませんだつしやろ。」という少年の断言ほど、当時、慶應義塾の文学科の屈辱的劣等性を物語る言葉はなかった。くわえて、その当時、文学者、特に小説家の社会的地位は低く、筆一本で人々をたぶらかし、生きて行こうとする不逞の輩と見なされ、文士と新聞記者は社会のごみのように蔑まれ、娘とか妹を嫁にやってはいけない人種とされていた。それほど評価の低い小説家であったのにもかかわらず、慶應義塾は名のある小説家を一人も出していなかったのである。

 ちなみに、その当時、名のある文学者を出していた大学及び専門学校は、森鷗外や坪内逍遥、夏目漱石などを出した東京帝国大学と、北村透谷や国木田独歩、正宗白鳥、島村抱月などを出した早稲田大学、それに中江兆民や二葉亭四迷、嵯峨の屋おむろ、村井弦斎、永井荷風などを出した東京外国語学校くらいしかなかった。

 そうしたなかで、不名誉な事態を改善、挽回し、早稲田大学文学部に対抗して、三田山上にも文学部ありと、旗を掲げるべく考え出された起死回生の戦略が、早稲田の文学部のシンボルと言ってもいい坪内逍遥に匹敵しうる文学者を主任教授に迎え、文学部を一新させる一方、機関文芸雑誌を創刊しその責任編集で上昇気流に乗る日本の近代文学に新風を送り込もうという意図で、慶應義塾が最初に事を諮ったのが森鷗外であり、その鷗外の推薦で招聘を打診したのが夏目漱石であり、上田敏であった。そして、漱石も敏からも断られ、最終的に主任教授として白羽の矢を立てたのが永井荷風であった。荷風は、まさに瀕死の状態にあった慶應文学科を立て直す救世主として選ばれたわけである。

三田山上に荷風旋風

 以上、見てきたように、明治43年4月18日、永井荷風は初めて慶應義塾の教壇に立ち、文学科教授として5年間、フランス語とフランス文学、文学評論の講義を来ない、「三田文学」の主幹として、編集の責任を負い、「早稲田文学」に対抗しうる文芸雑誌に育て上げ、学生たちに発表の場を与えることで、文学創造の芽を育て上げ、そこから久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学といった小説家や詩人が育って行った。彼らは、明治の末期から大正にかけて、反自然主義文学的方向性という共同性を共有しつつ、独自の文学的表現空間を切り開き、自然主義文学にあらざれば文学に非ずといった、日露戦後の文学空間に新風を吹き込み、それまでの慶應文学科の劣勢を一気に回復したのであった。

 確かに、その時点で文学部は、学生総数15人前後と規模は小さかった。にもかかわらず、小さな共同体であったが故に、永井荷風という真正モダニストが持ち込んだ文学爆弾の威力は強烈で、モダニズムという触媒によって誘発された爆発から生み出された文学的創造のエネルギーは強力であった。荷風の教え子の中から、才能ある小説家や詩人が、短期間に少なからず出てきたのは、真正モダニズムを標榜する荷風の存在とそこから発せられるオーラ、文学だけにとどまらず音楽や絵画にわたる浩瀚な知識と教養、そして型にはまらない自由で、常に学生たちの文学的創造力を引き出そうとする教え方などが、それだけ学生たちにとって魅力的であり、刺激的であり、創作意欲を掻き立てるものであったからに他ならない。そうした意味において、永井荷風が慶應で教えた5年間、荷風は、三田山上だけでなく、日本の近代文学空間においてもセンセーションであった。

 日本の近代文学の歴史において、このように一人の文学者が大学の教室で教えることを通して、これほど多くの小説家や詩人を生み出した例はないといっていい。確かに、夏目漱石の門下からは寺田寅彦や小宮豊隆、森田草平、芥川龍之介、内田百閒など少なからぬ文学者が出ているが、東京帝国大学文科大学講師としての漱石の謦咳に直接触れ、そこから文学の道に進む契機を掴み、文学者として大成した例は、熊本の第五高等学校時代に、漱石から英語や俳諧の教えを受け、その影響で小説やエッセイを書き出した寺田寅彦以外はいないといっていい。常に反社会的、反時代的反逆の姿勢を貫き、性険介、個癖の強い、変人文学者として見られ、語られることの多かった永井荷風は、その文学人生のある時期、極めて優れた教師であり、夏目漱石や森鴎外とも違った形で、多大の社会的功績を残した希有の文学者であると考える理由がそこにあるといっていい。

 重要なことは、久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫など、荷風門から出た文学者のほとんどが、荷風が慶應に招かれ、その教えをうけたことで、それぞれがそれぞれの人生を文学者として生きる方向に切り替えたということ。つまり、三田山上での文学部教授永井荷風との出会いがなければ、それぞれは文学者の道を選ばなかったし、歩まなかっただろうということである。そうした意味で、彼らにとって永井荷風は救世主であり、荷風との出会いは運命的であった。

 例えば、久保田万太郎は、浅草の袋物製造業者の4男として生まれている。本来であれば、家業を継ぐ必要はなかったが、家庭内の事情で万太郎が継ぐことになっていた。だが、子供の頃から文学書を読むことを何より楽しみとしていた万太郎は、家業を継ぐのを嫌がり、もう少し学業を続けさせてほしいと父親に頼み込み、慶應義塾の中等部に進む。そして、中等部を卒業するものの、その時点で徴兵猶予期間が残っていたため、猶予期間が終わるまで、「気楽に好きな本を一冊でも余計に読んだ方がいい」と思い、父親を説得して慶應の文学科に進み、ドイツ文学を学んでいる。ところが、予科の2年のときに、永井荷風が教授に招かれるという大事件が起こり、万太郎の人生は大きく文学の方へと流されていくことになる。その時のことを、万太郎は、昭和31(1956)年10月5日発行の「文藝」の臨時増刊「永井荷風読本」に収められた「三田時代の荷風先生」のなかで、以下のように回想している。

 ところがである、明治43年、わたくしが予科の二年になつた時、突然、文科の機構が改革されたのである。森鷗外、上田敏博士が顧問になり、永井荷風先生が教授として来られることになつたと同時に、“三田文学“といふ季刊雑誌さへ出来、それも永井先生が主宰されることになつたのである……

 わたくしの人生に対する考へは、この突然の出来事によつて、たちまち一変した。わたくしは救はれた。……といふものが、当時、永井先生といつたら、わたくしにとつてこの世での、この上もなく有難い人だつたのである。明治41年、フランスから帰られ、直ちに、ソレからそれ、矢継早に発表された“狐”だの“深川の唄”だの、“歓楽”だの、 牡丹の客 だの、 すみだ川 だの、さうした先生の新鮮にして、ゆたかな、美しさのかぎりをつくした文章に接することによつて、わたくしは、おもはぬ生き甲斐を得たのである。東京に生まれ、東京に育った身の幸福がしみじみわたくしにわかつたのである。……その人が、現在、自分の学校に来る、自分のまへに来て立つ。……こんなたいへんなうそのやうな、目のくらむやうなことがあっていいのだらうか……

 わたくしは本気で、文学に立向うふ決心をした。それには、徴兵検査の結果の、第一乙で徴集を免除されるとわかつたことが、一層、その決心に拍車を受けた。
 -にとられたと思つて、学校を続けさせてくれ……
 わたくしは父にかういつて迫つた。

 久保田万太郎は、さらに続けて「(当時、永井先生に対する憧憬だけで文学に志すにいたつたもの、ひとりわたくしに止まらなかつたことは、水上瀧太郎の 貝殻追放 を読めばわかる。もし永井先生が学校に来なかつたなら、そしてもし“三田文学”が創刊されなかつたら、自分は小説作家にならなかつたらう、と、かれはいつている(以下略))と書いている。その水上瀧太郎は、前出の「随筆」掲載の「永井荷風招待会」冒頭で、荷風との出会いによって、文学者の道を選ぶことになった経緯について、以下のように記述している。

 子供の時分から文学美術に対して異常な憧憬の念を抱いては居たが、自分が作家にならうとは思はなかつた。否、馴れようとは考経られなかつたのである。若し其の時永井先生が学校に御出でにならなかつたら、若し「三田文学」が創刊されなかつたら、自分は結局小説作家に葉鳴らなかつたで洗う。或は「三田文学」の発刊以前に学校を卒業してゐたら、矢張り創作の筆を試る機会は無くて終つたらう。人の一生を支配するさまざまの機縁の不可思議を、自分は度々おもふのである。

 それ迄、慶應義塾には、作家にならうと志す生徒などは殆ど一人も居なかつた。夥しい数の生徒の大部分が、月給取になって、後々重役になる事を夢見て居た。四囲の空気が、芸術を娯楽として享楽する紳士を育てるには差支へになかつたらうが、芸術家をはぐゝむものでは無かつたのである。従而(したがつて)手近に先達を持たないっ自分の如きは、軽々しく文学の政策に従ふ事を只管もつたいない事のやうに思ふばかりで、手の出しやうも無いかつたのである。其処に突然永井先生がお出でになり、続いて「三田文学」が生まれたのあるから、全く新しい世界が開かれた喜びであつた。

慶應からの教授招聘によって救われた永井荷風

 永井荷風が慶應義塾大学部文学科の教授に就任したことと、「三田文学」が荷風の責任編集で創刊されたことは、文学の道を選び、本人の資質や才能、思想、願望、理念を追求し、その道を極めつくして後世に残る小説や詩を書き残すことが、その人間が人間として生きるうえで最善の選択であったという意味で、久保田万太郎を救い、水上瀧太郎や佐藤春夫、堀口大学を救った。その意味で、三田山上の慶應キャンパスに、文学科教授として来臨した永井荷風は、慶應義塾文学部だけでなく、久保田万太郎や水上瀧太郎、佐藤春夫、堀口大学らにとっても救世主であった。

 しかし救われたのは学生たちだけではなかった。永井荷風もまた、思いがけない展開で慶應に招聘され、「三田文学」の編集を任されたことで救われた。すでに何度か指摘してきたように、荷風は、慶應から招聘を受けるまでの時点で、最初は、日本の自然的、社会的外部環境世界との不協和な関係性に苦しんでいた。そして国家の力によって性急に推し進められてきた西洋化と近代化とがもたらした上っ面だけの文明・文化のありようを痛烈に批判する新帰朝文学者として、そして近代化の波から取り残されて、東京の下町、隅田川の下流域に生活する人々の間にかろうじて残る旧時代(江戸時代)の風俗や人情、風景に人が人として生きていくうえで欠かすことのできない調和の美と幸福を探し求めていった抒情的、ロマン主義的小説家として、永井荷風は、日露戦勝後の文学空間にあって、島崎藤村や田山花袋、国木田独歩、正宗白鳥らの自然主義文学とは趣を異にする、多分にロマン的で、耽美主義的で、頽廃趣味的な文学世界を切り開いて見せたことで、反自然主義の新風を吹き込む気鋭の文学者として高い評価を勝ち得ていた。

 だが、そうした文明批判的新帰朝者小説も、江戸下町の人情や風俗、景観への回帰と沈潜を抒情的に詠った小説も、書くべきことを書き終えると、その先に書くことが見えてこなくなる。何より荷風にとって痛手となったのは、『すみだ川』を書き終えた時点で、書く対象としてのミューズ(ロマンスの対称であり、小説的想像力を膨らませるヒロインとしての女性)を見失ってしまったということ。つまり浅草や深川、本所といった隅田川下流域の下町に生きる女性、それも荷風のロマンスの対称となり得るミューズがいなくなってしまった。その結果、荷風は、慶應で教え、「三田文学」の編集に関わった5年間、ほとんど小説が書けない状態に陥ってしまったのである。荷風は、出口の見えない孤立の危機に立たされ、そのまま孤立の蟻地獄に落ちて行き、小説が書けない状態が続けば、小説家永井荷風は消えて行ったかもしれないという、深刻な危機に立たされていたことになる。

 くわえてまた、5年に及ぶ海外生活を終えて、何ら社会的に通用する記号的成果を挙げられないまま、日本に帰国してきた荷風に対して、父親の久一郎は、前述したように新聞記者のような職業について、家名を汚すようなことをされるよりは、家にいて静かに引込んでくれている方がいいと思ったのだろう、「家には空間も食物も部屋もあるから」と、家に居て、小説を書くことを許してくれていた。しかし、長男であり、すでに30歳を越えているものの、未だに独身で、収入は、原稿を書いて、安い原稿料を貰うしか方途はない。早く安定した職に就き、結婚し、世継ぎの子供をもうけてほしいという両親の本音は、痛いほどわかっていた。父親に対しては、常に反逆児として通してきた荷風であったが、そろそろこの辺で……という思いが兆しつつあったとしても、不思議ではない。

 であればこそ、荷風は帰国当初、『監獄署の裏』に「語学の教師にならうか。いや。私は到底心を安んじて、教鞭を把る事は出来ない。フランス語ならば、私よりも、フランス人の方が更に能くフランス語を知つて居る」と強気なことを書き、フランス語の教師になる気持ちがないことを表明したものの、帰国してから一年経ち、二年経つなかで、そうもいっていられないという思いが強くなってきたのだろう。京都の三高がフランス語の教師を求めているという話を聞いて、上田敏に斡旋を依頼する手紙を書いたのも、そうした止むにやまれない状況に荷風が追い込まれていたからであった。文学者として自身の立つべき地点を見定め、この先も小説家として生きていくうえで体勢を立て直すためにも、荷風には社会的に認知された優越記号を身に付け、その記号によって保証される「安全圏」に身を置き、「一時的猶予」の期間を持つことが不可欠であった。そして、それを可能にしてくれたのが、慶應義塾からの招聘であった。そうした意味でも、荷風が慶應から教授に招聘されたことは、学生たちを救っただけでなく、永井荷風自身もまた救われたと言っていい。

 そう見て来ると、荷風が慶應の文学科教授に招聘されたことは、2年に及ぶ孤独で悲惨で、不本意なロンドン留学を終えて、明治36(1903)年1月に日本に帰国、2年後の38年1月に『我輩は猫である』を「ホトトギス」に発表して、一気に人気作家にブレークした夏目漱石が、明治40年4月に朝日新聞に入社し、社会生活上の「安全圏」を確保したうえで、『虞美人草』に始まる長編小説を次々と書いて行ったことと、同じ事情であったということができるだろう。

 つまり、『猫』でブレークして以降、『坊っちやん』、『草枕』と人気小説を立て続けに発表し、国民作家に成り上がっていた漱石ではあったものの、その時点での本職は、東京帝国大学文学部英文学科の講師でしかなかった。つまり、漱石は大学講師と小説家と2足のわらじを履いていたわけだが、その時点で、5人の子供を抱え、朝日入社2カ月後の6月には長男の純一も生まれている。くわえて、妻の鏡子との不協和な関係にも、漱石は苦しめられていた。そのまま、英文学科講師を続けて行けば、教授に昇格する可能性は高かったものの、漱石は大学で英文学を講じることに辟易していたし、小説を書くという、漱石本来の資質に合った、正に天が与えてくれたといっていい仕事(ヴォケーション)を放棄する気にはなれなかった。しかし、小説家として生きていくことを選んでも、それで一家7人(妻と6人の子供)を養っていけるという保証も自信もなかった。

 どちらを取るかで悩み、苦しんでいたときに、もたらされたのが朝日新聞に入社したうえで、小説を書き続けないかという申し出であり、漱石は、それを受け入れたことで、生活上の「安全圏」を手に入れることができた。そして、そのうえで漱石は常に自己の精神を「デンジャラス・ゾーン=非安全圏」に追い込み、悪戦苦闘することで、『それから』にはじまり、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』、『道草』、『明暗』と連なる、荒正人いうところの「暗い小説」の大山脈を書き抜くことが可能となったのである。

 夏目漱石は、小説を書いて生計を立てるために朝日新聞の社員になり、一方、永井荷風は、小説を書かないで生計を立て、長男としての社会的責任(荷風は、慶應義塾文学科教授に就任してから1年半後の大正元年9月、本郷湯島の材木商斎藤政吉の次女ヨネと結婚している)を果たしつつ、もう一度小説家として再起するための一時的避難、あるいは猶予として慶應文学科の教授になった。共にそれは、天が与えた小説家という仕事を成し遂げるために、避けて通るこの出来ない方便であり、関門であった。

(2017年10月16日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

ページトップへ