集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第六章 大学教授永井荷風誕生〔2〕

自分を殺して永井荷風を推した上田敏の厚情

 前回詳しく記したように、いくつもの偶然の幸運が重なりパリで上田敏と出会い、昼間はカフェでコーヒーを飲みながら、フランスの文学や演劇、音楽について語り合ったり、連れだってセーヌ河畔や公園を散策したり、古本屋を漁ったりし、夜は夜でコンセール・ルージュやムーラン・ルージュでフランスの現代音楽を聞いたり、レビューを楽しみ、さらにはオペラ・コミックでオペラを鑑賞……と親交を深めた荷風は、明治41(1908)年5月28日、パリを立ち、ロンドンから日本郵船の伊予丸に搭乗し、帰国の途に就き、同年7月15日神戸に帰着、日本に帰国してくる。

日本に帰国した頃の永井荷風。文字通りハイカラーを付け、髪は七・三に分け、耳のあたりで断髪、モダンな風貌と文学を引っさげ日露戦後の文学界に復帰してきた
東京帝国大学文学部講師時代の上田敏【前列右端】と夏目漱石(前列左から二人目)。明治39{1906}年6月、英文学科卒業記念写真より


 一方、上田敏は、荷風より4か月ほど遅れて同41年9月に帰国したものの、ただちに京都帝国大学文学部講師に就任、翌42年には教授に昇格し、京都に定住するようになったため、荷風とは日常的に交わりを温めることは出来なくなっていた。しかし、折に触れて手紙のやりとりを交わし、敏が東京に出てきた折には、荷風の元を訪ねてきて、「書かでもの記」に以下のように記されているように、パリでの思い出話に耽ったという。

 翌年(明治42年)春も猶寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父の家に在りき。上田先生一日鉄無地羽二重の羽織博多の帯着流しにて突然音づれ来給へり。この時のわがよろこびは始めてパリにて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くは諺にいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すれば其の儘に打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる通一遍のものにいてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれ等は互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く昨日となりし巴里のこと語出でゝ黯然(あんぜん)たりき。

 明治42{1909}年春、パリから日本に帰国してから8カ月余り、永井荷風はすでに前年の夏8月には『あめりか物語』を博文館から刊行して高い評価を獲得、さらに年を越して42年1月には、荷風短編小説の白眉と言ってもいい『狐』を「中学世界」に発表、江戸下町の風俗や情緒、人情がまだ残る隅田川下流域の深川への憧憬とシンパシーを謳った『深川の唄』を「趣味」に、3月には新帰朝してきた母国日本の自然や都市環境、社会環境、さらには生活風俗、文明・文化に対する根源的違和感を深く見据え、絶望的心情を托して書かれた『監獄署の裏』を「早稲田文学」に発表。同じく3月に刊行される予定であったにもかかわらず、発禁処分を受けた『ふらんす物語』に収められた、リヨンとパリ滞在中に書いた短編も、巻頭の『放蕩』と戯曲『異邦の恋』以外の作品は、日本の雑誌に掲載されており、永井荷風の名は、自然主義とはまったく趣を異にする新帰朝文学者として、読者の間に知られ、まさに正宗白鳥が『文壇五十年』の中の「人気作家荷風の出現」で、「荷風帰国(明治41・8)のころは、無風流殺風景な自然主義小説が読者に飽果てられていたので、荷風のつやのある文章、色気のある話が、干天の慈雨のように持てはやされていたのであつた」と記したように、荷風は、日本帰国後一年足らずで、華々しく注目される新進小説家として名声を獲得するに至っていた。

 しかし、前々章「孤立する新帰朝文学者」で詳しく記述したように、荷風は、それまで慣れ親しんできたアメリカやフランスの外的自然環境と日本のそれとのあまりの格差と異質性、さらには文明開化の掛け声の下、上からの命令で強制的に押し進められてきた近代化と西洋化に起因する、余りに皮相的な模倣文明や文化がもたらした混乱や無秩序、さらには美観の欠如に対する違和、あるいは齟齬の感覚に苦しみ、絶望と孤立の深淵(ブリス)に墜ち込もうとしていた。そして、そうしたとき、荷風を励まし、救い上げたのが上田敏からの温かさに溢れた手紙であり、敏が上京した折に交わした心温まる語らいのひとときであった。

「この時のわがよろこびは始めてパリにて相見し時に優るとも劣らざりけり」という記述に、孤立無援の思いを深くしていた荷風にとって、いかに上田敏の存在と親密な交わり、さらには荷風が文学者として立つうえで敏の示したひとかたならぬ厚情と便宜とが、心の支えになっていたかが窺える。おそらくこのとき、荷風は、孤立の淵に沈みつつある自身の不安や苦悩を上田敏に語り、上田の方も、なんとかこの前途有為な青年のために力になってあげようという思いを強くして、京都に帰って行ったはずである。

 そんな折に、荷風は、京都の第三高等学校が新任のフランス語教師を求めているという話を聞きつけ、早速、もしそれが事実であるなら、自分には京都に行く意志があるので、事実関係を確かめたうえで、可能性があるなら、なんとか取り計らってもらえないかという内容の手紙を書き送っている。それに対して上田敏は、2月5日付で以下のように懇切丁寧な返信を認めている。

 昨年御手紙にて当地の高等学校仏蘭西語学教書の件御話し有之候(これありさふらう)が早速其向を探り申(まをし)候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選等の事は校長にも深く考へ居らず従つて御尊父様の御ある親交松井博士の紹介あらば自然御就任の事なるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方反つてよろしからむと控居候然然し小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の御入洛(ごじゅらく)を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共に只今帝都にて新芸術の華々しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れ而も京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学の為にも不得策にあらざるかと稍心進まざる向も有之(これあり)種々塾考仕候(つかまつりさうらう)其内段々時日を経て其後の経行(なりいき)を観察仕候処一二の候補者も出来たれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にて重に当地或は東京の仏蘭西法科に入学する者の為の如く随て狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候方々取集めて考へればあまり面白き事業とは思へず又たとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかゝ刺戟の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますへ強く相成り候それ故御返事は今日まで怠り居申(おりまをし」候此段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついへ今日まで相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信有之(これあり)珍しき事を聞込(ききこみ)候。(下線部筆者)

 上田敏は、以上のように、東京と比べて新時代の芸術・文化を生み出す創造的エネルギーと覇気に乏しく、「刺戟少き田舎」、すなわち京都の高等学校の語学教師として、「帝都にて新芸術の華々しき活動を試み」ている荷風を「置く事はどうしても口惜しい事」だという理由で、三高のフランス語教師の職は荷風に向いてない旨説明し、そのうえでそれとは別に一つ、荷風に打ってつけの話が来ているとして、慶應義塾からの招聘の話を以下のように書き連ねている。少し長いが、荷風が慶應の文学科教授に招聘された経緯を知るうえで重要な資料なので、全文紹介しておきたい。

 此事は非常に秘密に致居候やうに承居候が実は今度東京の慶應義塾にて其文学部を大刷新しこれより漸々文壇に於て大活動を為さむとする計画有之それにつき文学部の中心人物を定むる必要を感じ候趣に候、そこで三田側の諸先輩一同交交詢社にて大会議を開き森鷗外先生にも内相談ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて諸(もろへ)の画策をする文学家を選び候処夏目漱石氏か小生をという事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係断つ事難(かた)くして交渉纏らず又森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木を訪問したる時、森先生のいはるゝには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには、小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答えへて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生へ頼む時いつそ事情を打明けて小生の身上動き難き場合には直ちに小生より貴兄へ此事件交渉して貰ひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するに只今京都を去る事は出来かね候趣返事いたし、又貴兄を推薦されし森先生の眼光に服し居る旨申送り候、右様の次第万事打明け候が貴兄は此交渉に御応じの御心如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の偏に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存居候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉は可有之(これあるべく)候。(下線筆者)

 ここに引用した上田敏の荷風宛て書簡の下線部分からも明らかなとおり、慶應義塾は、大学部の文学科をして「文壇に於て大活動を為さ」しめるため、大刷新を諮るべく、新たに主任教授を迎えるにあたって、誰が適任か森鷗外に諮ってみたところ、鷗外は第一に夏目漱石を推し、ついで上田敏を推した。ところが、漱石は朝日新聞に入社し、専属小説家として連載小説を書くことになっているため断られた。というより、熊本の第五高等学校の教授をしていた頃から、学校教師を続けることにほとほと嫌気がさし、ロンドン留学中も教師にだけはなりたくないと友人たちに公言していた漱石だけに、さらにまた日本帰国後は、生活のために不本意ながら東京帝国大学文学部英文学科の講師を務めていた関係で、朝日新聞入社がなくても、まだ大学にも昇格していない慶應義塾からの招聘は断られていたはずであった。

 というような訳で、漱石招聘をあきらめて、慶応は、第二の候補として上田敏の意向を聞いてほしい旨、鷗外に頼み込んだわけだが、鷗外は、上田敏も京都帝国大学の教授に就任したばかりだから、断られる可能性が高いと、懸念を表明。そこで、慶應側がもし上田に断られたら、他に誰が適任かと聞くと、鷗外は、永井荷風の名を挙げ、上田敏がパリで荷風と知り合い、日本帰国後も親交を深めており、その上田から聞いた話、あるいは書簡を通して知った話として、荷風はアメリカ、特にニューヨークとフランスのリヨンとパリでの生活体験が長く、フランスの文学やアメリカやフランスの近代音楽について造詣が深く、非常にモダンで柔軟、かつ繊細な感性に恵まれた文学者であること、さらに反自然主義文学の旗手として、日露戦後の文壇において目下急速に注目を集めている、将来性の極めて高い新進気鋭の文学者であることなどを挙げて、荷風を強く推した。

 それを受けて、慶應側は、鷗外が上田敏の意向を打診するときに、もし引き受けてもらえないなら、上田敏の方から永井荷風に話をしてもらえないかと頼み、鷗外は、事の次第を手紙に認めて上田敏に送り、荷風に打診するように依頼。かくして荷風招聘の話は、上田敏を通して進められることとなった。こうして荷風招聘に向けて交渉の段取りと役割の分担が自ずから定まり、鷗外は慶應側との交渉を進め、上田敏は、鷗外から知らされた慶應側の意向を荷風に伝え、慶應からの招聘を受けるように話を進めた結果、慶應義塾大学部文学科教授永井荷風が誕生したというわけである。

明治25(1892年9月、慶應義塾大学部文学科で審美学を講じ始めた頃の森鷗外【前列右端】。中央和服を着たのが福沢諭吉
朝日新聞に入社し『虞美人草』を連載していた頃の夏目漱石


 ところで、2月5日付の荷風宛ての上田敏の書簡でもう一つ注目されるのは、慶應義塾が文学部の大刷新計画と合わせて、荷風の慶應義塾招聘より一年後の明治44(1911)年3月に創立されることとなる帝国劇場と慶応義塾の強いコネクション(恐らくは、同劇場創立にかかわった発起人や創立以降の経営陣の多くが慶應の卒業生であったことによる)を活用して、演劇芸術の面でも大いに新風を巻き起こそうと意欲を燃やしていることに興味を示し、「小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛んにするだけの事では無くもつと大なる運動の序幕かと存居候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやうに見受けられ余は言はずとも種々面白き事がありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いて直ちにモリエルやグリツクやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にて此愉快な事業に助力したく自分でも大いに心を動かし候」(下線筆者)と記していることである。

 おそらく、京都帝国大学教授に就いて、京都に移り住んだものの、文化・芸術面では東京に遥かに劣る、ローカル都市に過ぎなかった京都に身を縛られることになったことで、上田敏は、「こんなはずではなかった」という失望感と後悔、あるいはある種の孤立感を感じていた。それだけに、慶應義塾からの話は出来れば自分が飛びつきたかった。しかし、京都に来てから二年も経ってない時点で、京都を捨てて東京に帰る、それもまだ大学になってない慶応の大学部の教授になることは、到底かなうことでなく、それならばと気心が知れ、文学的趣味と志向性が共通し、将来性を高く買っている荷風を新任教授に推し、自分は鷗外と並んで「顧問」について、荷風を通して影響力を行使し、帝国劇場を足場に演劇芸術刷新の計画に自身も参画したいというのが、上田の本心であったはずである。

なぜ森鷗外は荷風を推したのか

 すでに見てきたように、永井荷風が、慶應義塾大学部文学科の教授に招聘される上で、パリ滞在中に図らずも上田敏と出会い、知遇を得たことなど、様々な偶然と幸運が荷風に有利に働いたわけだが、さらに荷風に幸いしたのは、森鷗外が第一に推挙した夏目漱石が東京帝国大学文学部講師の職を辞し、朝日新聞に入社したこと、次いで鷗外が第二の候補として挙げた上田敏も京都帝国大学文学部の教授に就き、東京を去っていたこと、さらに最後の幸運として大きく働いたのは、森鷗外が、フランスの近代文学をベースにして、自身のアメリカやフランスでの生活体験に基づいた耽美主義的、ロマン主義的、かつデカダン的作品を立て続けに発表し、反自然主義の旗を掲げて、日露戦争に勝利したあと、上昇気流に乗ろうとしていた近代文学空間に復帰、あるいは再起してきた永井荷風の文学を、自身の文学的バックグランドと志向性と重なり合う、新しい時代の文学をリードする文学として高く評価してくれていたことであった。

 さてそれではなぜ森鷗外は、このとき31歳で、アメリカとフランスで5年有余の遊学体験を有するとはいえ、大学を卒業したわけでもなく、学歴は東京外国語大学清語科中退しかなく、専門分野で特に際立った学術的実績を挙げたわけでもない永井荷風を慶應義塾大学部文学科の教授に推したのか。

 背景的要因として考えられるのは、鷗外が陸軍軍医として、軍事衛生学にも関心を抱き、平時、及び戦争時における陸軍兵士の衛生環境の改善に努めていた関係で、内務官僚として都市の、特に東京の衛生環境の近代化と改善に務め、明治17(1884)年、ロンドンで開かれた万国衛生博覧会に日本政府代表として出席するかたわら、ヨーロッパ近代諸国における都市衛生事情を視察し、帰国後はその時の見聞に基づいて、帰国報告講演会を開き、また著述をも刊行していた荷風の父親の永井久一郎のことを知っていた。さらにまた、第5章「永井荷風と慶応義塾」で詳しく記したように、永井久一郎は官僚であると同時に、妻である恆の父親で、江戸末期から明治期にかけて大沼枕山や森春濤と並んで代表的な漢詩人としても名の知られた鷲津毅堂に師事して漢詩や漢学を学んだ「文」の人であり、明治中・後期の漢詩の世界においても名の知られた人であった。当然、鷗外は久一郎の名を知っていて、荷風が永井久一郎の長男であることを知ったときも、鷗外は「ああ、あの永井久一郎さんの……」と頷き、荷風のことを好意的に受け止めたはずだということである。

 次に、森鷗外が永井荷風を慶應に推輓(すいばん)するうえで、文学者森鷗外に直接かかわる要因として考えられるのは、鷗外が、新帰朝してきた荷風が文学者として立つに至った経歴と文学的趣味や志向性、小説の根底に流れる主題性や思想性において、いくつもの共通性、あるいは共同性があることを見抜き、親近感を抱いていたということである。

 すなわち、鷗外は、荷風が日本を出る前に刊行した、ゾラの自然主義を念頭に置いて書かれた『女優ナナ』とか『夢の女』といった小説、あるいはアメリカやフランス滞在中に書き、日本の雑誌に発表した少なからぬ短編小説、さらにはそれらの小説を集めて日本帰国後に刊行した『あめりか物語』や『ふらんす物語』、日本帰国後に書かれた『狐』とか『深川の唄』、『監獄署の裏』、『帰朝者の日記』、『すみだ川』などの小説を読んでいて、永井荷風という小説家が、非常に斬新で、新時代の文学表現の先端を走る文学者であることを認知していた。それゆえに、鷗外は、夏目漱石と上田敏に代わる候補として、
これ以上恰好の人材はいないと思い極め、荷風を強く薦めた。そして、その結果、荷風のもとに「黒い洋服を着て濃い髯のある厳しい顔立の紳士」が訪ねてくることになったわけである。

 さてそれなら、生涯を軍医官僚として国家に仕える形で貫き通した森鷗外と、国家とか軍部に対立・逆立する形で「個我」の自由を主張することで文学的生涯を全うした永井荷風との間の共通性、あるいは共同性とは何か。それを要約列記すると以下のようになる。

1.前章で詳しく記したように、反時代的文学的生を貫いた永井荷風が、その本質においてモダニストであったように、軍医官僚でありながら、近代文学者として生涯を貫いた森鷗外もまた、生粋のモダニストであった。

2.二人はモダニストであり、一方はドイツ文学を、もう一方はフランス文学をベースにしながら、同時に鷗外の場合は、漢詩や漢文学にはじまり、紀記万葉以来の日本の古典文学にも深い造詣を有していたように、荷風もまた、中国の漢詩、特に明清の古典詩や小説文学、さらには江戸の戯作文学や漢詩、歌舞伎、浮世絵などにも造詣が深く、共に伝統主義者でもあった。

3.森鷗外の場合は、官費による国費留学生として地球を西回りでドイツに留学したのに対し、永井荷風の場合は私費で、東回りで太平洋を横断してアメリカに渡り、留学生として正規に大学に籍を置くこともなく、アメリカ大陸を横断し、ニューヨークで横浜正金銀行の現地職員として2年近く生活したのちに、フランスに渡り、リヨンとパリにおよそ10か月、一介の異邦人として生活したうえで日本に帰国と、新帰朝文学者として立つに至るまでの経緯に違いはあるものの、共に母国共同体としての日本国家や言語共同体の日本語から遠く離れた異国での、低く、孤独な生活体験を通して身に付けたものをベースに、文学者として立つ位置と思想性、そして書く方向性を見定めていること。

4.森鷗外がドイツ留学体験とベルリンの陋巷で知り合った舞姫エリスとの恋愛体験、さらにはドイツ文学への深い知識と素養に基づいて処女小説『舞姫』を書いて、小説家としてブレークしたように、永井荷風もまた、アメリカとフランスでの生活体験とワシントンのダウンタウンの酒場で知り合った娼婦イデスとの「性的」対関係体験、さらにはフランスの近代文学に対する深い理解とシンパシーをベースにして『あめりか物語』や『ふらんす物語』に収められた短編小説を書いてブレークしたことで、二人は共通する所があった。

5.鷗外の場合は、「性愛」の対象がドイツの女性で、荷風の場合は、アメリカの女性ではあるものの、鷗外の恋人であったエリスは踊子(その多くは娼婦でもあった)であり、荷風のイデスは街娼婦と、いづれも社会の底辺で歌や踊りや売春を生業とする女性であった。

6.そしてそれゆえにというべきか、鷗外も荷風も共に、民族や国家、言語、宗教、社会的地位や名声などの壁を越えて、異国の最底辺に生きる女性と結婚するかどうかのギリギリの地点まで関係性を深めながら、二人ともほとんど一方的に切り捨てるようにして、関係性を断ち帰国している。

7.すなわち、二人は、「性愛」の可能性と限界を見据え、深い絶望と罪責感を抱いたうえで日本に帰国、新帰朝者文学者として小説を発表することで、文学者として立つ契機を掴みとり、そのうえでそれぞれの文学的世界を構築していることでお互いの文学に共通するものを感じ取っていた。

8.日露戦争に勝利したあと、自然主義文学が全盛期を迎え、自然主義文学以外の文学は文学に非ずといった風潮が蔓延するなか、明治42(1909)年7月、雑誌「スバル」に発表した、初めての性的自伝小説、「ヰタ・セクスアリス」の冒頭部分で、「自然派の小説を読む度(たび)に、その作中の人物が、行住坐臥造次顛沛、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうか」と思ったと、自然主義文学に疑念と「技癢(ぎよう)」を感じていた森鷗外にとって、反自然主義文学の旗を掲げて日本に新帰朝してきた永井荷風は、自然主義文学とは違った方向で、共に新しい文学を共に切り開いていくに足る文学上の「同志」、あるいは「後進」に見えていたということ。

9.さらにまた、「ヰタ・セクスアリス」が発禁処分を受けたことで、鷗外は、『ふらんす物語』と『歓楽』で発禁処分を受けた荷風に同情と親近感を抱いていた。

 

 概略、以上のような共同性を踏まえて、森鷗外は永井荷風を慶應の文学科教授に推輓したわけだが、最後にもう一つ見ておかなければならないのは、荷風を文学科主任教授と「三田文学」を編集主幹に就かせ、自身も「顧問」に就くことで、鷗外自身が日本近代文学の新しい気運、あるいは潮流に主体的に関わり、新しい小説文学を創造して行こうという、文学者森鷗外の「野心」のようなものが働いていたということである。

 すなわち、日露戦争に日本が勝利したあとの新しい時代の潮流に呼応するようにして、一方では島崎藤村や田山花袋らの自然主義文学が台頭し、もう一方では、夏目漱石が『我輩は猫である』や『倫敦塔』、『坊っちゃん』、『草枕』など、自然主義文学とは一線を画した理知的で、高踏的、かつ美文的文体を駆使してユーモアの味わいのある小説を立て続けに発表し、国民作家としてブレークしていくなかにあって、鷗外はドイツ留学から帰国した直後に『舞姫』や『うたかたの記』、『文づかひ』など新帰朝小説を発表したものの、それ以降は明治25(1892)年にアンデルセン原作の『即興詩人』を翻訳発表する以外、もっぱら「しがらみ草紙」や「めさまし草」などの雑誌に批評やエッセイを書くに止まり、小説の筆を断ってきたその鷗外が、『ヰタ・セクスアリス』のなかで、自然主義小説に対して「人生は果してそんなものであろうか」(『ヰタ・セクスアリス』)と疑念を感じ、さらに続けて、「そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた」と記したように、藤村や花袋らの自然主義小説や漱石の小説を読んで「技癢」を感じ、それくらいの小説なら「俺でも書ける」という思いに駆られて、『半日』とか『ヰタ・セクスアリス』といった小説を書くことで、小説家として復帰し大きな話題となっていた。

 そうしたなかで、森鷗外の内部で、荷風を慶應の文学科の主任教授に据え、「三田文学」の編集を委ね、「早稲田文学」に拮抗、あるいは凌駕していく雑誌を発行させていくことで、自然主義文学や漱石の文学と対抗する形で、新しい文学表現の世界を切り開いていかせる、そしてそこに自分も小説家として、主体的に関与していきたいという思惑が働いていた。そうした意味で、永井荷風を慶應の文学科主任教授、および「三田文学」編集主幹に推輓する一方で、自身もまた「文学科顧問」と「三田文学編集委員」に就いたことは、鷗外が、その文学的生の晩年において、歴史小説家、さらには史伝作家として豊穣の時を迎えるうえで、打っておかなければならない周到、かつ巧妙な一手であったということができるだろう。

(2017年08月09日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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