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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第六章 大学教授永井荷風誕生〔1〕

「黒い服を着た紳士」がもたらしたもの

 前章で詳しく見てきたように、新帰朝文学者として永井荷風が、文学者として立って行くうえでいくつもの困難に直面していたときに荷風を窮地から救い上げ、結果として日本の近代文学の歴史において、極めて特異な形で、「個我」と「性」の文学者として、あるいは「都市遊歩」の文学者、さらには日記による「批判」と「観察」の文学者として立つことを可能にしたのが、明治43(1910)年の2月、慶應義塾大学部文学科から、主任教授として招聘したいという申し出を受けたことであった。

 明治43(1910)年5月1日、荷風の編集で発刊された「三田文学」の第一巻第一号に掲載された『紅茶の後』の「序」のすぐ後に掲げられた「『三田文学』の発刊」と題されたエッセイの書き出しの記述によると、荷風は、「春の日光を一面に受けた書斎の障子のを閉切つて、机にもたれて、煙草を呑んで、その青い烟の渦巻くさまを眺めてゐた―単調なる、平和なる、倦怠し易い、然し忘れられぬ程味ひのある我が夢想の生活の午後過ぎに、自分は突然黒い洋服を着て濃い髯のある厳しい顔立の紳士の訪問を受けた」という。

 荷風の記述よると、その紳士は、「平素自分の書斎に遊びに来る連中とは全く階級の違つた人」であり、「臣民の義務として所得税をも収め」、「手紙を出せば必ず幾時間の中に返事をよこす人」でもあり、「ぼんやり風の音を聞いたり、雨の降るのを眺めるやうな暇のある人ではない」という。だから、荷風は「焼焦しのある羽織を着替へ」て、坐住居(ゐずまひ)を直して客を迎えたという。

 この「黒い洋服を着て濃い髯のある厳めしい顔立の紳士」が、そのとき、慶應義塾の幹部として塾長の鎌田栄吉を補佐していた石田新太郎で、荷風に慶應義塾の文学科教授招聘の申し出をもたらした「幸運」の使者であった。後に詳しく見ていくことになるが、荷風は、この時点で森鷗外と上田敏の推挙で自分が、慶應義塾大学部文学科の教授に選ばれ、いずれ慶應側からしかるべき人物が、招聘の意向を伝えるために出向いてくることは承知していた。だが、目の前に現れた「厳めしい顔立の紳士」は、いかにも慶應義塾の幹事を務める人物らしく謹厳実直な印象で、文学とは縁の遠い人物に見えた。だから、荷風は「羽織を着替へ」、居住まいを正して、客に応対したわけで、そこに荷風の、実学を旨とする慶應義塾が、早稲田と対抗するために文学の世界に乗り出そうとしてきたことに対する、ある種の違和感と警戒心、あるいは自己防衛意識の働きを読み取ることが出来る。

 このとき、石田が申し出たことは、このたび、慶應義塾では、早稲田大学の文学部とその機関誌「早稲田文学」に対抗し、凌駕するために文学科の大刷新を諮り、同時に「三田文学」を創刊することに決定した。ついては、森鷗外先生と上田敏先生を顧問に迎え、永井先生を主任教授にお迎えし、学生の指導に当ってもらうかたわら、「三田文学」の編集主任の方も引き受けてほしいというものであった。荷風としては、すでにパリで知り合い、日本帰国後も親交を深めてきた上田敏を通して、森鷗外が自分を慶應に推挙してくれたこと、さらには上田から慶應の招聘を受け入れるべきこと、教授就任にあたっての任務や待遇などなど、詳しく、具体的に手紙で知らされ、その気になっていたこともあり、話し合いはスムーズに進み、文学科教授就任が決まる。

 そしてその翌日から、荷風の生活は大きく変わり、荷風は、「英吉利風の倶楽部で幾度か現代の紳士と晩餐を共にし」ながら、文学部刷新の話をし、「マロツク皮の大きな椅子に腰をかけ石炭の焔が低い響を
立てる暖炉を前にして、大勢の人と葉巻を喫(ふか)しながら」、「三田文学」創刊の話をしたという。

 こうして、永井荷風は、慶應義塾大学部文学科の教授に就任し、同年4月から、三田のキャンパス内のヴィッカース・ホールで、予科と本科の学生を相手に、フランス語とフランス文学、文学評論の講義を行うことになる。そして同年5月には「三田文学」の創刊号が発行されたのである。

 本書では、以下に、文学科教授永井荷風の誕生が、荷風の文学人生に対して持つ意味と慶応義塾の文学科、さらには日本近代文学の展開に対して持つ意味について、少しく立ち入って検証していくことにしたいが、その前に、荷風が慶應の教授に抜擢された経緯、特に上田敏が果たした役割について振り返っておきたい。

偶然の幸運が重なりパリで上田敏と知り合う

 永井荷風が、いかなる経緯で慶應義塾の文学科教授に招聘されたかについては、慶應義塾大学文学部国文科の出身で、「中央公論」編集者を経て作家として立つに至った村松友視氏が、『三田の文人』(慶應義塾文学部開設百年記念「三田の文人展」実行委員会編/丸善株式会社/平成2年)に寄せた「鷗外・敏・荷風―荷風招聘をめぐる経緯」で、鷗外や上田敏、荷風の書簡や日記の記述に基づいて、詳細に明らかにしており、ここでの記述が村松氏の記述とかなりの部分重なることをお断りしたうえで、荷風がいかなる幸運の巡り合わせで、パリで上田敏と出会い、交友を深めたことが、結果として荷風の慶應義塾文学科教授招聘という幸運をもたらしたかについて、少しく筆者の読み取ったところを記しておきたい。

 永井荷風が、慶應の文学部教授に招かれるに至った経緯で、森鷗外が重要な役割を果たしたことは論を俟たない。この点について、村松氏は「鷗外・敏・荷風―荷風招聘を巡る経緯」で、「義塾当局はひとまず措けば、荷風招聘の最大の立役者は森鷗外であり、上田敏がその脇に沿っている」と書いている。しかし、荷風の慶應招聘に関して、鷗外と敏とがどうかかわったかを調べてみると、鷗外が立役者であることに異論はないが、上田敏は「脇」以上に重要な役割を果たしていて、鷗外とならぶもう一人の「立役者」であったことが見えてくる。つまり、荷風が、パリで上田敏と出会い、親交を深めていなければ、上田が、荷風に対して、慶應の招聘を受けるように、懇切丁寧に説得することはあり得なかったはずであり、従って荷風が慶應でフランス語やフランス文学を教えることもなく、さらに今日私たちが知るような形で、特異な文学人生を全うすることもなく、あれらの膨大な作品群を書き残すこともなかったかもしれない。そうした意味で、上田敏は、慶應義塾文学科教授永井荷風を生み出すうえで、決定的に重要な役割を果たした人物であり、鷗外にならぶもう一人の立役者であったということができる。

 ところで、荷風と上田敏のパリでの出会いの経緯とその後の親交の成り行を辿ってみると、いくつもの偶然としか言いようのない幸運な出来事とか、人との出会いが重なり、荷風は、招かれるべくして慶應に招かれたという感じがしてくる。

 最初の幸運は、明治40(1907)年の夏に、どうしてもフランスに渡りたいという念願がかない、父親永井久一郎の配慮と手配で、それまで現地採用の職員として勤めていた横浜正金銀行ニューヨーク支店からフランスのリオン支店に転勤になったこと。そして、第二に、リヨン滞在中の明治41(1908)年3月23日に、たまたまリヨンに来ていた宗教学者で、ドイツ留学中にワーグナーの楽劇に傾倒し、『タンホイザー』などを日本に最初に紹介し、ワーグナー・ブームの火付け役となっていた、東京帝国大学教授の姉崎嘲風に会い、面談した折に姉崎から、ニューヨーク経由でヨーロッパに渡り、イタリアに滞在している上田敏が近くパリに出てくることを知らされたことである。

 さらに第三の幸運として、銀行勤務にほとほと嫌気がさし、銀行を辞め、日本に帰国する前にパリにしばらく滞在したい旨、父親の久一郎に申し出たところ、それが許されて、明治41(1908)年3月28日、パリに出てきて、カルチェ・ラターンの一画にあるホテルに滞在するようになったこと。荷風としては、パリに出て行けば、上田敏に会えるかもしれないという淡い期待があったのかもしれない。その辺のところについて、荷風は、大正7(1918)年10月1日発行の雑誌「花月」に発表した「書かでもの記(4)」のなかで、以下のように回想している。少し長いが、いかに荷風が、偶然の人との出会いや出来事の積み重ねで、慶應に招聘されるに至ったかを知るうえで、重要なテキストなので、全文紹介しておきたい。

 これより先わが身なほ里昂(リオン)の正金銀行に勤務中一日公用にてソオン河上の客桟に嘲風姉崎博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の伊太利亜より巴里に来られしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその年月わが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの『即興詩人』『月草』『かげ草』の如き森先生が著書とまた『最近海外文芸論』の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集『悪の花』のいかなるものかを知りしは上田先生の『太陽』臨時増刊「十九世紀」といふものに物せられし近世仏蘭西文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、幸にして今やその望み半(なかば)既に達せられし折柄、あたかも好し先生の巴里に来れるを耳にす。後学の書生いかんぞ欣喜雀躍せざらんや。

リヨン市内を流れるソーン河。荷風は、この川沿いのホテルで姉 崎嘲風に会い上田敏が近くパリに来て、しばらく滞在するという話を聞いた
東回りで太平洋を横断、ニューヨークを経て、イタリアに滞在したあと、パリに出てきて、荷風と会った上田敏

 アメリカに渡ってきて、西海岸部の港町タコマに滞在すること一年、セントルイスとカラマズー、ワシントンを経て、ニューヨークに出てきて、ウォール街の横浜正金銀行ニューヨーク支店で働くこと二年半余り。そしてフランスに渡ってから、同銀行リヨン支店ではたらくこと半年余り、荷風が欧米の自然風景に心を開き、文学や音楽、美術などに深く心を動かして来たのも、ひとえに森鷗外の『即興詩人』や「月草」、「かげ草」といった詩文を読み、上田敏の名訳詩集『海潮音』や『最近海外文藝論』や『近世仏蘭西文学史』といった著述を読み、深く感化を受けたからに他ならなかった。

 その上田敏先生が、近くパリにやってきて、しばらく滞在するという。かなうことなら、自分もパリに出て、先生にお会いして、フランスの文学や音楽について先生からお話を聞き、また自分の知識や情報も聞いてもらいたい……。アメリカに渡ってきて以来、ほとんど孤独に異邦人として生活し、文学書を読み、音楽を聴いてきただけに、荷風がパリで上田敏と会い、話をしたいと思ったのは自然なことであった。

 くわえて、荷風は、昼間は銀行員として働き、夜はオペラやコンサートを聴き、芝居小屋に足を運び、興が赴けば娼婦と枕を共にするという二重生活を続けていくことにほとほと疲れ、愛想を尽かしていた。結果、そろそろ日本に帰ろうかという思いが荷風のなかで兆しはじめていた。丁度そんな時、上田敏が近くパリに来るという話を、姉崎嘲江の口から聞かされたのである。荷風は、恐らく父親あてに、「銀行員の仕事にほとほと飽きました。これ以上、勤務を続けることは、体調と精神状態にもよくないので、一日も早く辞めて、パリに出たいと思っています」という趣旨の手紙を書き、それに対して久一郎の方から 「銀行を辞めたいというのは、致し方ないだろう。ただ、パリに出ていつまでもブラブラしているのはよくないから、せいぜい2か月くらいにして、日本に帰国するというのなら、パリでの滞在費と帰りの船賃は送ってやろう」という内容の手紙が来た。それを読んで、荷風はこの辺が潮時だと思ったのだろう、銀行に辞職願をだし、明治41(1908)年3月28日、リヨンを発ちパリに出てきて、カルチェ・ラタン地区のパンテオンの近くのホテルに宿を取る。

 こうして、念願かないパリに出て来たものの、上田敏がパリのどこのホテルに滞在しているか知る由もないまま、荷風は、昼間はパリ市内の名所旧跡を訪れたり、公園や墓地にモーパッサンの石碑やゾラの墓を探したり、カフェで読書をしたり、手紙を書いたり、セーヌ河の河畔を散策したり、夜は夜で音楽や芝居を鑑賞したりと、自由気ままなエトランゼとしてパリ生活をエンジョイし、心がそちらの方に傾くなか、「上田敏先生に会いたい」という気持ちも次第に薄れていく。

 ところが、そうこうするなか、荷風は、四番目の偶然の幸運に恵まれる。すなわち、ある夜、「コンセール・ルージュ」という「寄席」で、観客のなかにイギリス風の髭に、鼻眼鏡をかけた、どこかで見覚えのあるような日本人が一人いるのを発見。向こうも荷風の存在に気づき、お互いに視線を交わし合うものの、相手が誰であるか分からないため、言葉を交わすこともなく終わってしまう。「書かでもの記(4)」のなかで、荷風は、そのときのことを次のように記している。

 ある夜元老院門前の大通なる左側小紅亭(コンセール ルージュ)とよべる寄席に行きぬ。こも亦巴里ならでは見られぬものゝ一なるべし。木戸銭安く中売(なかうり)の婆(ババ)酒珈琲なぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に異ならねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴアトアルの若き楽師来つて演奏す。折折々常連の客に投票を請ひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事一方ならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭なり。始めて上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。

 小紅亭の定連は多く羅甸区(らてんく)の書生画工にして時には落魄せる老詩人かとも思はるる白髪の翁を見る。
 その夕(ゆふべ)中入も早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席より訝しげに顔を見合せたり。然れども何人なるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これ即ち上田先生にして、其夕先生はイギリス風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡かけてゐたまひけり。

ラテン・クォーターの中心とでも言うべきパンテオンをスフリ通りから望む。荷風はこの界隈のカフェで手紙を書いているときに、瀧村立太郎と松本蒸治に偶然再会し、上田敏を紹介してもらった
ラテン・クォーターのシンボルの一つ、ソルボンヌ大学。荷風はこの界隈のホテルに滞在した


 こうして、運命の糸に引かれるようにして、永井荷風と上田敏は、パリ市内の「寄席」(註1)で出会ったことになるが、上述したようにその夜は、面識がないまま言葉を交わすことなく別れてしまう。ところが、幸運の女神は、ここでも荷風を見捨てることをせず、翌日、5番目の、それも奇跡的にとしか言いようがない偶然の幸運を荷風のために用意し、荷風は上田敏に出会い、面識を得るようになる。その偶然の幸運につぃて、荷風は、同じ「書かでもの記(4)」のなかで、以下のように記している。

 次の日われサンジェルマンの四ツ角なる珈琲店(かふぇ)パンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる卓子(テーブル)に二人の同胞あり。相見れば一人はわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし仏語科の滝村立太郎君、また他の一人は一橋の中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし松本蒸治君なり。この旧友二人はその夕クリユニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれを誘ひゆきたり。

パリの五区にあるクリュニー国立中世美術館。
荷風は、この美術館の前にあったホテルで、上田敏と初めて会った

 ここで、荷風を上田敏に紹介した滝村(正しくは瀧村)立太郎と松本蒸治について簡略に紹介しておくと、東京外国語学校で荷風と同期生だったという瀧村は、同外国語学校の第一期卒業生で、卒業後は母校の教壇に立ち、フランス語科の教授を務め、フランス語教育システムを確立する一方で、『新式佛語概要』や『最新フランス語講座』といったフランス語辞書を刊行するなど、近代日本におけるフランス語教育の基礎を固めるうえで功績のあった人であった。そしてまた、小説『普賢』で芥川賞を受賞した石川淳や中原中也、富永太郎、玉川一郎、渡辺紳一郎など、東京外国語学校に学んだ小説家や詩人、ユーモア作家、ジャーナリストにフランス語を教えた教師の一人でもあった。

永井荷風が、清語(中国語)を学んだ東京外国語学校。
フランス語科の学生だった瀧村立太郎とは、第一期同期生だった。


 一方、「一橋の中学校」、すなわち「高等師範学校付属尋常中学校」(現筑波大学付属中学校・高等学校)で荷風より2年先輩だったという松本蒸治は、附属尋常中学校を卒業後、一高、東京帝国大学法学部を卒業後、農商務相の出仕、参事官を経て、帝国大学に戻り、助教授に就任。明治39年から42年(1906~1909年)にかけてヨーロッパに留学、帰国後すぐに教授に昇進し、以後、満鉄理事、副総裁、関西大学学長、斎藤實内閣時の商工大臣などを務め、戦後、昭和20年(1945)年に幣原内閣が成立すると、憲法改正担当の国務大臣に就任し、いわゆる「松本試案」と呼ばれる憲法草案を作成するなど、法律学者、あるいは政治家として重きを成した人物であった。

 上に引いたように、コンセル・ルージュの聴衆のなかに上田敏の姿を発見しながら、言葉を交わすことなく別れてしまった夜の翌日、荷風は、カフェ・パンテオンでコーヒーを飲みながら手紙を書いていたときに、偶然前の席に東京外国語学校時代にフランス語科の学生で、交流のあった瀧村立太郎と「一橋の中学校」で2年先輩の松本蒸治が坐っているのに気づく。お互いに『やあやあ』と言葉を交わすなか、二人が、クリュニー美術館に近い「旅館」に上田敏が滞在していて、今夜会いにいくことになっていると語るに及んで、荷風は「ぜひ自分も一緒に!」と頼み込み、荷風は初めて上田敏に紹介されたということになる。

上田敏から「近代人(モダアンズ)」と認められた荷風

 ところで、上田敏が、瀧村立太郎と松本蒸治から紹介された永井荷風をどこまで知っていたかは確かでないものの、荷風が日本を出る前に出版した『女優ナナ』や『夢の女』などの小説を読んでいたり、アメリカ滞在中に書き上げ、日本の雑誌に紹介し、のちに『あめりか物語』に収められることとなる短編小説を読んでいて、「ああ、あの永井さんですか」と知っていた可能性は高い。ともあれ、偶然の幸運が重なって上田敏にパリのホテルで会うことのできた荷風に、運命の女神が6番目の幸運として用意したのは、上田敏が、すでに翻訳詩集『海潮音』の著者として、そしてまたヨーロッパの文学や音楽、演劇、美術界の最新の情報をいち早く日本に紹介する文芸評論家として、嘖々たる名声を上げていた文学者であったにもかかわらず、実に誠実・謙虚で、しかも人物を見抜く眼識をそなえた人であったことである。

 上田は、初対面であるにもかかわらず、荷風の人柄と感性鋭さ、才能の大きさ、アメリカやフランスでの生活体験を通して蓄積してきたものの新しさと深さを見抜き、「ここにまったく新しい気鋭の文学者が出現した」と、心中ひそかに舌を巻き、全面的に受け入れて呉れた。上田敏は、そんな荷風の印象を、日本に帰国してから、明治41(1908)年12月発行の雑誌「趣味」に寄稿した「漫遊雑感」のなかで次のように記している。

 永井君には度々逢ひました。ある日舞踏を見に行つてゐますと、見物中に一人の日本人がゐるのです。よく見ると何処かで見た事があるやうなので、誰だらうと幾ら考へても分らない。其後不図した事である料理屋で紹介されて、初めて永井君だと云ふ事が知れたのです。それからは度々一処にカフェなどへ行つて話を聞ひたのですが、実に傑(えら)い人です。まだ若い人ですが、何でもよく分つて、華やかな人です。あんな人が巴里のやうな処へ行つてゐたら面白いでせう。どうしても吾々とは一時代違ふやうな気がします。近代人(モダアンズ)です。帰つてから「あめりか物語」を読んで益々感服しました。

 上田敏は、パリのカフェで荷風と会うたびに、欧米、特にフランスの文学や音楽の新潮流について詳しく話を聞かされるなかで、荷風に対して「実に傑(えら)い人です。まだ若い人ですが、何でもよく分つて、華やかな人です。あんな人が巴里のやうな処へ行つてゐたら面白いでせう。どうしても吾々とは一時代違ふやうな気がします。近代人(モダアンズ)です」という印象を持ち、日露戦争後の日本の近代文学空間にあって、自然主義にあらざれば文学にあらずといった、ある意味では文学的閉塞状況が蔓延するなか、新風を吹き込み、新時代の文学をリードしていく気鋭の文学者が現れたことを、確信したのである。

 ここでも荷風に幸いしたのは、上田敏が、年齢の上での差とか、学歴の有無・優劣とか、文壇における地位の上下に拘泥することなく、荷風の人となりを虚心に受け止め、交わりを深め、日本帰国後も、新帰朝文学者として孤立の壁に閉ざされ、ややもすると絶望の淵に沈もうとしていた荷風を励まし、文学者として立って行けるように便宜を図ってくれたことであった。

 

註(1)コンセール・ルージュ(Concerts Rouge)  
コーヒーやワインやビールを飲みながら、音楽の演奏を楽しむ、手軽なコンサート・ホール。荷風は「寄席」という訳語を使っているが、落語や漫才などお笑いネタが中心の話芸で楽しませる日本の「寄席」とは違って、クラシックから斬新なフランスの現代音楽まで、正規のコンサート・ホールで演奏される曲が演奏され、内容も演奏レベルも高い。「書かでもの記」に、「木戸銭安く中売(なかうり)の婆(ババ)酒珈琲なぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に異ならねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴアトアルの若き楽師来つて演奏す。(中略)この小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事一方ならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭なり」と、荷風が記したように、ドビュッシーの作品の多くがここで演奏された。
 荷風は、また、明治41年9月20日、読売新聞の「日曜附録」欄に寄せた「欧米に於ける音楽会及びオペラ劇場」(下)の「巴里につきて(2)」のなかで、コンセール・ルージュについて以下のように記している。

 又音楽界では、近年になつて、以上せつめいしたやうな厳格なものでなく、独逸のRestaurationkonzerteにならつたカツフヱ-―風(休茶屋風)の音楽会が出来た。切符なぞ買ふ面倒もなく珈琲もしくは其の他の飲物を命じながら、音楽を聞く。つまり日本の席亭のやうなものであるが、演奏する音楽は厳粛な大演奏会と同様クラシツクから今日の新派音楽まで、又聴衆の投票によつて其の好むものを選んで、演奏する事なぞもある。(此の種の有名なるはConcerts-Rouge,とConcerts-Toucheである。)

(2017年07月14日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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