集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第五章 永井荷風と慶應義塾

意外に近かった荷風と慶應義塾の関係

 五年に近い欧米生活、特にニューヨークとパリでの異邦人生活を通して身に付け、培ったモダニズムを精神とライフ・スタイルの柱としながら、その文学生涯を通して、性狷介、脱俗不羈、反権力的、反時代的生き方を貫き、吉原の遊女や新橋の芸者、銀座のカフェの女給、玉ノ井の私娼婦、浅草のダンサーなど、時代の性的風俗の最先端で、かつ社会の一番低い所で生きる女たちと情の交わりを通じ、日本近代文学史において希有の「性」の小説と日記文学、そして都市遊歩文学を書き残した永井荷風が、明治43(1910)年2月に、31歳の若さで、慶應義塾大学部文学科の教授に抜擢されたと聞くと、なぜ荷風が?……と、いぶかる向きも少なくないと思う。

 しかし、荷風の出自や生い立ちの環境、あるいはそののち、文学者として立つまでに辿った生の軌跡を調べてみると、意外に慶應義塾と縁が近いことに驚かされる。まず第一に、荷風の父親の久一郎は、名字帯刀を許された尾張藩の豪農の家の長子として生まれていて、その出自のバックグラウンドは、尾張藩が徳川御三家の一つで、幕末明治維新期には佐幕派の中心的存在であったことで、豊前奥平藩家臣の家に生まれた、後に江戸に出て慶應義塾を創立した福沢諭吉と同じく佐幕派であること。さらにまた、久一郎は明治新政府に出仕し、文部大臣首席秘書官、および会計局長まで出世を遂げるものの、それ以上は官途での栄達を望まず、慶應義塾ととりわけ関係の深い日本郵船に途中入社し、上海支店長に転身、実業の世界に身を置き、経営の手腕を発揮して晩年を全うしようとしたことでも、経済学や商業学、法律など実学を主体とした実業教育機関としての慶應義塾の経営に生涯をささげた福沢諭吉の反官、反政府的生き方と重なるところがある。

 さらにまた、永井荷風のいわゆる「新帰朝小説」シリーズの白眉と言っていい、『狐』という短編小説を読めばわかる通り、東京小石川区金富町にあった屋敷内に潜む狐を鉄砲やつるはしで殺してしまう荷風の父親は、封建的家父長の典型のように書かれていて、荷風はその前近代的な父親に徹底的に反抗する形で成長し、文学者として生きる道を見出していくことになる。しかし、永井久一郎は、初めは、尾張藩の藩儒鷲津毅堂について漢学を学び、師の毅堂が明治新政府に招かれ、初めは京都、次いで江戸へと出るに及んで、久一郎も、毅堂に従って京都、東京にと出てくる。そして、明治という新しい時代の知と教養の主流が漢学ではなく、英語と英学にシフトしていることをいち早く見抜き、当時すでに英語と英学教育では日本で最高と目されていた慶應義塾に入学している。そうした意味で、モダニスト福沢諭吉の創立した慶應義塾に学んだ荷風の父親は、荷風のモダニズムを先取りしているところがあると言っていい。

 なおまた、余談になるが、この『狐』の舞台となった金富町の家は、安政5年に江戸に出てきた福沢諭吉が、英語習得のため、築地の鉄砲洲にあった中津藩中屋敷から通っていた、外国奉行の森山多吉郎の屋敷があったところで、単なる偶然と言ってしまえば、それまでの話だが、それでも、永井久一郎と荷風父子が、何か目には見えない糸で福沢諭吉と慶應義塾に繋がっていることを思わせてくれる。

 さて、永井久一郎は、慶應義塾在学中に尾張藩の貢進生に選ばれ、大学南校に入学するが、翌明治4(1871)年には藩の留学生としてアメリカに留学、およそ3年間、アメリカ北東部ニュージャージー州のプリンストン大学やラトガース大学などで英語やラテン語を学んでいる。日本帰国後、得意の語学を生かして外務省に出仕することを希望するが、その願いは叶えられず、二年ほど、工学寮(のちの工部大学校、及び東京帝国大学工学部)で語学教師を務めたのち、文部省と内務省に出仕し、文部省では最初は医務局に勤務するが、のちに湯島の聖堂内にあった日本最初の公立図書館・東京書籍(しょじゃく)館と博物館に勤務、書籍館の書籍票に「The Pen Mightier Than The Sword(ペンは武器より強し」)という、慶應義塾の建学精神の一つと言ってもいい、エドワード・ブルワー=リットンの戯曲のなかの格言を印刷し、さらに書籍館が廃館になろうとしたときには、一国の文化の指標と言ってもいい書籍を残すことは国家の一大事であるとする上申書を書いて、上申するなどしてその存続に力を尽し、今日の国会図書館の基礎造りに貢献。のちに、東京女子師範学校(現お茶の水大学)三等教諭兼幹事、帝国大学書記官などを歴任し、最後は文部大臣首席秘書官にまで昇進している。

 久一郎は、さらにまた、内務官僚としては、衛生局統計課長、同統計局第三部長などを歴任し、明治17{1884}年には、ロンドンで開かれた万国衛生博覧会に日本政府代表として参加し、ヨーロッパ各国の都市衛生事情を視察し、帰国後に講演会を開いたり、見聞記を刊行するなどして、都市衛生思想の普及に努めるかたわら、東京の上下水道の改良に努め、都市の衛生施設の近代化に業績を残す。そして、明治30{1997}年に文部省を辞し、日本郵船に入社、上海支店長、横浜支店長など要職を歴任することになる。

「THE PEN MIGHTIER THAN THE SWORD」と書かれた東京書籍館の書票
永井久一郎が、欧州の衛生事情を視察し、帰国後に行った講演録
(共に江戸東京博物館編『永井荷風と東京』より)


 以上見てきたように、永井久一郎は、アメリカ留学から帰国してのち、文部官僚、内務官僚として、図書館や大学、高等学校、専門学校など高等教育機関関係の行政や都市衛生近代化事業の分野で才腕を振るい、官を辞して後は、日本郵船の経営に参画し、上海や横浜など重要港湾都市の支店長として重きをなしたことで、慶應義塾を卒業したわけではないものの、明治42(1909)年に、三田商業研究会編で、実業の世界社から刊行された「慶應義塾出身名流列伝」に、慶應義塾を卒業して、のちに大きな仕事をし、社会的に知名度を上げた卒業生に並んで、以下のように略歴とその人となりを紹介する文が、写真入りで掲載されている。かなり長くなるが、永井久一郎という人物が、慶應義塾においてどのような存在として受け止められ、認知されていたのかを知るうえで重要な証拠となる文章なので、全文引用しておきたい。

 氏は愛知県愛知郡島尾村の人。嘉永五年を以て生る。夙(つと)に徴士権瓣事鷲津毅堂氏に従つて漢学を修む。明治二年十七歳にして上京し箕作氏麟祥の塾に学び、小野湖山を友とし共に詩を森槐南の父森春涛氏に習ふ。既にして時勢の変遷に着目して英学を志し慶應義塾に転ず。暫くして藩の貢進生に選抜せられて更に大学南光に学び、明治4年、藩の留学生として米国に赴き在学3年に及ぶ。明治七年文部省留学生を遣すに及びて藩の留学生を召喚す。氏亦止むなく帰国し職を工部寮(工科大学)の予備門に奉じて語学を教授し、後二年、文部省に入り内務省に転じ、次いで又文部省に帰る。当時文部省にて帝国図書館(もとは東京図書館という)の創設に與り内務省にて衛生局に勤務して参事院の議官舗となり、又統計院書記官を兼ぬ。明治十七年の交(かう)衛生事務視察として欧州各国を巡遊し帰来帝国大学の書記官に任じられ、後文部大臣の秘書官に転じて会計局長の職に在りたりなると云ふ。

 三十年文部省を辞して郵船会社に入り上海支店長として清国に留まる事3年、其間清国の事情を視察し、業務の傍ら心を文事に寄す。氏は少年の頃より漢学を修めて詩文に通じ、一代の宗森春濤氏に師事し、同(同じく)森槐南、小野湖山、塚原周造の諸氏と交り、夙に作詩を以て名有。諸氏後年に至りて其の名を詩壇に擅(ほしいまま)にし明治文学の一部を飾り、嘖々たる其名内外に聞ゆ。然るに氏少年にして新知識の要求に急に、早くも実用の学に赴き、官に在りて其の勤労を尽すこと二十有三年、明治草創の時代に在りて施設せる所允に少なからずとなす。然るに郵船会社に入りて上海に居り、閑を以て更に好学の志を養ふ。氏の快果たして如何なりしぞ。

 支那は文字の本国にして詩文の本国なり。従ひて文人墨客の詩文を断じ得るもの亦少なからず。氏の上海に在るや一時中絶し居たる作詩作文の研究を始め、支那人と交際して其の蘊奥を叩き趣味の益々深きを覚え、且は湖南潮州等に旅行を重ねては普(あまね)く詩想に耽り、知己も多くして現今に至る迄、清国の学舎文人と書状の往復絶えず。又支那語にも深く通暁するに至れりと。

 氏はかくの如く詩を好み、且詩文の本国に在りし事なれば、詩の材料となるべき書籍を買ふを以て一の道楽となセリ。然るに支那は幾世の戦乱を経て絶滅せし書籍も少なからず却つて朝鮮などに残れる物あり。仍(よつ)て氏は朝鮮までも残れる古書を捜索せるもの甚だ多し。珍籍奇書室内に堆(うず)たかく、閑を以て繙読時の移るのを覚えずといふ。(下線筆者)

『慶應義塾出身名流列伝』に掲載された永井久一郎の写真と略伝

 ところで、永井久一郎がなぜ、そして如何なる経緯で、文部省のエリート官僚から日本郵船の上海支店長に転身できたのかについては、西園寺公望や伊藤博文、加藤高明らの斡旋(あっせん)で実現したとされており、秋庭太郎の『考証永井荷風』(岩波書店、昭和41年)の「その十一」でも、「永一郎は西園寺の周旋に依り、日本郵船会社に職を奉じたのである」とし、久一郎をして、官を辞し、日本郵船会社に職を転じさせた要因として「友人加藤高明の口添へ」や「実業界に知己が多かった」こと、「官界に在つた時代に久一郎が船舶水運並統計事務に造詣あり、且は欧米各国に再度渡航した経験から諸外国の事情に明るかつた」ことなどを挙げている。

 しかしながら、久一郎が日本郵船に引き抜かれた背景には、西園寺公望とか伊藤博聞、加藤高明など、政財界の大物の上からの口利きだけでなく、日本郵船内部に、慶應義塾卒業生、あるいは久一郎と同じ尾張藩出身で、慶應に籍を置いたことのある経営トップが何人もおり、その縁故があってスムーズに事が運んだ事も見落とせない。すなわち、久一郎が、日本郵船に転身したとき、同郵船会社の社長をしていた吉川泰次郎は、久一郎より一歳年上で、尾張藩と同じ徳川御三家の一つ紀州藩の出身で、しかも、久一郎と重なる時期に、慶應義塾で学んでいたことがあり、久一郎とも当然面識はあったはずである。

 さらに、吉川より一代前の社長であった近藤廉平も、久一郎と時を同じくして慶應義塾と大学南校に学んでおり、明治三十年に久一郎が日本郵船に引き抜かれるまえ、文部省の書記官として東京高等商業学校(現在の一ツ橋大学)の商議議員(今の大学の評議会のメンバーのようなものか)に名を連ねていたとき、近藤廉平もまた日本郵船社長として商議議員の一人であり、二人が緊密な関係性を持ち合っていたことがうかがえる。

日本郵船上海支店長時代の永井久一郎(江戸東京博物館編『永井荷風と東京』より)
父親が日本郵船上海支店長だった頃上海を訪れ、中国服を着てカメラに収まった荷風。


 今、大正11(1922)年に、慶應義塾塾監局によって編集され、『慶應義塾塾員名簿』という名で刊行された卒業生名簿から、勤務先が日本郵船となっている卒業生の数を数えてみると、ざっと数えただけでも128名に上る。おそらく、当時の日本郵船にあって、慶應卒業生は最大派閥であり、当然のこととして、経営トップにも慶應卒業生が突出して多かったはずで、そうした社内的背景も、久一郎の招聘に有利に働いたものを思われる。

 一方、文部官僚としては最高位に当る次官を目前に控えながら、日本郵船に転身した久一郎がなぜ転身を図ったかについて、秋庭は、明治十年に、久一郎が、文部省が欧米の新知識の普及を図るために刊行した百科全書の内、船艦にはじまり、航海術や灯台、礁標など海運に関わる知識を翻訳して、『水運』と題して刊行したことを引きながら、「該書は船艦航海術灯台礁標の概要を百二十一ページに渉つて説き、海運に関する啓蒙書としては先駆的な翻訳書であつた。久一郎としては成すところあるを期して日本郵船の業務に就いたものと察せられる」としている。

 このように、永井久一郎が、官途を途中で断ち、日本郵船に転身した経緯を辿ってみると、慶應義塾閥とでも言うべき、同窓関係に根差す緊密な人的関係性が、大きな要因として働いていたことが見えてくる。

 ところで、ここに引いた「慶應義塾出身名流列伝」の記述を全文を読んでみて、一つ興味深く思うのは、前半においては、久一郎の生い立ちから成人して東京に出て、慶應義塾や大学南校に学び、途中にして尾張藩の留学生に選ばれ、アメリカに留学、3年余を経て日本に帰国し、文部・内務官僚として才腕を振るったのち、日本郵船に引き抜かれて上海や横浜支店長として、実業の世界で才腕を振るうに至るまでの、いわば永井久一郎という人間の「官」の人としてのキャリアが紹介されている一方で、「実業」の人としての後半のキャリアを紹介するなかで、上海支店長に赴任して以降、実務の傍ら、中国の文人趣味に習って、若い頃たしなんだ漢詩を詠み、漢文を書き、書画骨董を愛で、中国人の文人墨客と交わりを深めるなど、ビジネスマンにしては珍しく、東洋的脱俗文雅の生活を楽しんでいることを、多分に羨望の念を交えて記述・紹介していることである。

 さらに、そのことに関してもう一つ言えば、慶応義塾出身者で、功成り名を遂げ、『慶應義塾出身名流列伝』に名を連ねるような実業界のエリートや慶應義塾経営者たちのなかに、実業の世界で成功を収め、社会的名声を得られるだけでは満足できず、永井久一郎のように、詩文・風雅の世界に心を遊ばせる心の余裕を持ちたいという願望のようなものが、一つの共同意識として生まれてきていて、それが慶応義塾にも文学の花を咲かせたいという願望となり、結果として永井荷風の慶應義塾招聘を可能にする状況的要因として働いたのではないかということである。

早稲田の文科より一段低く見られていた慶應の文科

 さて、永井荷風と慶應義塾の浅からぬ縁を伝える最後の話として、明治43(1910)年10月、「三田文学」に『紅茶の後(其五)』として掲載された五篇のさほど長くない文章の内の「九月」の記述を紹介しておこう。この文章は、当時、日本の高等学校や大学の入学・始業時期に当る「九月」というタイトルで書かれていることで分かるように、荷風が学生時代、学業をほとんど放棄して、小説を書いたり、読んだり、尺八を吹いたり、落語家の弟子になったり、新吉原に出入りしたりして、放蕩の限りを尽くしたため、東京第一高等学校の入学試験し失敗したことで、怒り心頭に発した父親の久一郎から激しく叱責されたときのことを思い返して書かれたもので、そのなかで荷風は、激怒する父親とそれをなだめようとする母親のやりとりを次のようにリアルに再現している。

「貴様見たやうな怠惰者(なまけもの)は駄目だ。もう学問などはよして仕舞へ。」
自分の父は、絶望と憤怒の宣告を自分の頭上にあびせ掛けた。然し流石(さすが)物優しい母親は、
「なにも大学と限つた事ではないでせう。東京商業学校か福沢さんの学校位でもいゝぢや有りませんか。」
すると父親は猶更怒つて、
「お前は世間を知らんからんさう云ふ馬鹿な事を云つてゐられるのだ。会社にしろ官省にしろ、将来ずつと上の方に行くには肩書がなければ不可(いか)ん、子供教育は女の論ずべき事ぢやない。」
何年落第してもいゝから高等学校の試験を受けろ。其れがいやなら学業を全廃しろ。と云ふのが父の意見であった。

 ここで、母親の恆の口からでた「東京商業学校か福沢さんの学校位でもいゝぢや有りませんか。」という、とりなしの言葉は、荷風一家、特に父親の久一郎と慶應義塾の「近さ」を物語っているといえよう。すなわち、慶應義塾に大学部が開設された、明治23(1890)年には、文部大臣首席秘書官から文部省会計局長兼参事官に昇進していた久一郎は、慶應側が大学部設置の認可を文部省から得るにために、陳情や交渉を行うに当って、福沢諭吉や学校経営幹部から、文部省側の重要な人物としてみなされ、面談や文書のやり取りを交わすことを通して、面識を深めていた可能性が高いからである。

父親に反抗して落語家になろうとしたり、新吉原に出入りしていたころの荷風とその家族。左端は母親の恆。上海にて撮影(江戸東京博物館編『永井荷風と東京』より)


 なお、この「九月」の記述でもう一つ見落とせないのは、久一郎から「何年落第してもいいから高等学校の試験を受けろ」と命じられたものの、荷風は一句素行を改める風もなく、今度は歌舞伎の立作者(座付きの狂言作者のこと)になろうとして、歌舞伎座で拍子木の打ち方を稽古しているところを見つかり、再び父親から激しく叱責されたときのこと、さすがに久一郎も一高受験は諦めたのか、「何処でゝもいゝ。早く学校へ這入れ。早稲田の文科でもいゝ。止むを得んから」と言われていることである。つまり、久一郎は、慶應義塾なら、自分の顔で入れさせることが出来たのにもかかわらず、慶應の名は出さず、早稲田の文科ならいいと言っている。つまり、慶應の文科は、この時点で、明らかに早稲田の文科より劣るものとして意識されていたということである。

 以上、詳しく見てきたとおり、明治43(1910)年の2月に、永井荷風が慶應義塾大学部文学科の主任教授に招聘された背景に、荷風の父親の久一郎と慶應義塾の間に、日本郵船上海支店支店長転身を仲立ちとして、相当緊密な関係性があり、それが荷風招聘の動きを前に推し進めたという事情があったことを、改めてここに確認し、次章から荷風招聘の動きが具体的にどう進められたかについて、記述を進めていくことにしたい。

(2017年06月20日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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