集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第四章 孤立する新帰朝文学者

父との和解―小説を書いて行く自由を許される

 明治41(1908)年5月30日、4年と10月に及ぶアメリカとフランスでの生活を打ち切り、日本郵船讃岐丸に搭乗し、ロンドン港を出港、帰国の途についた永井荷風は、ジブラルタル海峡から地中海に入り、紅海、アラビア海、インド洋、南支那海、黄海と抜けて、一か月半かけて日本に到着。神戸港で上陸し、すぐに夜行列車に乗って、翌日新橋に帰着し、そのまま東京牛込区大久保余丁町にあった家に旅装を解いている。

 その夜は、荷風のために酒宴が催され、父と母と二人の弟を交えて席に着く。荷風を驚かせたのは、父久一郎が口髭が少し白くなったものの、「銅(あかがね)のやうな顔色はますへ輝き、頑丈な身体は年と共に若返つて行くやうに見え」たのに対し、母親の恆のほうは「十年も二十年も老込んで仕舞ひ」「小さく萎びた、見るかげもないお婆さん」になってしまっていたことだった。だがそれでも、久しぶりの一家団らんに、荷風の土産話の花が咲く。父親の久一郎も上機嫌で、若い頃、ニューヨークに近い、ニュージャージー州のプリンストン大学やラトガース大学に留学したことがあることから、荷風の話の合い間、合間に自身の見聞や体験談を交えて話に花を添え、心たのしく語らいの夕べを過ごす。おそらく、久一郎は、「実業を身につけて来い」という希望は叶えられなかったものの、息子が、4年半を越える、海外での単身生活を通して、様々なことを体験したことで、人間として一回り大きく成長し、精神的に大人になったことを発見し、心強く思ったに違いない。

 翌朝、荷風は、父親に呼ばれ、「ところで、これから先、お前は何をするつもりだ」と聞かれる。日本に帰国してからおよそ半年後に書かれ、明治42(1909)年の3月1日、「早稲田文学」第40号の「創作欄」に掲載された『監獄署の裏』に、「日本に帰つたら、どうしやうと云ふ問題は、万事を忘れて音楽に聴いて居る最中、恋人の接吻に酔つて居る最中若葉の蔭からセーヌ河の夕暮を眺めている最中にも、絶えず自分の心に浮かんできた散々に自分の心を悩ました久しい問題です」と書いたように、荷風の心を悩ました最大の問題であった。にもかかわらず、自分だけでなく、父親にとっても最大の悩みの種であったこの問題に、何ら決着を付けられないまま、「西洋へ行つても此れと定まった職業は見出さず、学位の肩書も取れず、取集めたものは、芝居とオペラと音楽界の番組(プログラム)女芸人の写真と裸体画ばかり」(『監獄署の裏』)といった、自分の体たらくに父親は再び激怒し、「家を出て行け!」と怒鳴りつけられるのではないかと恐れたものの、父親の口調は意外に静かで、穏やかであったことで、荷風は安心したのであろう、おおよそ以下のように思うところを虚心に語る。

 お父さんの、実業を学んで来いというご希望を叶えることはできませんでした。そのことは大変申し訳なく思っていますが、英語とフランス語の習得には力を入れ、またフランスの文学や西欧音楽も、日本人としては一番深く、新しいところまで読み込み、聴き込んできました。また、自分が文学者として、何を書き、どういう方向で生きて行けばいいかも自分なりに見極めてきたと思っています。ですから、これまで通り、小説を書き続ける一方、大学とか高等学校で、フランス語とフランス文学を教えるようなポストを探して、身を立てて行きたく思っています。ただ、私のように、「大学卒業」という資格を持っていない者に、大学や高等学校で教えるというのも難しいでしょう。新聞記者にでもなろうかと考えたこともありますが、私はまだ、正義とか人道を商品として扱うほど悪徳にはなじんでいないし、芸術家にもなりたいと思ったことがありますが、芸術などというものは迷惑がられるだけの日本の社会にあっては、到底私のような人間に芸術家になることもできません。そういう訳ですから、どうか、私のことは、狂人か不具者と思って、世間的な望みは托さないでください。

 この言葉を聞いて、久一郎はもっともと思ったのであろう、「新聞屋だの、書記だの、小使だのと、つまらん職業に我が子の名前を出されては、却つて一家の名誉に関する、家には幸ひ、空間もある食物もある。黙つて、おとなしく、引込んで居て呉れ」(『監獄署の裏』)と、家にいて小説を書いて行くことを許してくれたのだ。次章「永井荷風と慶應義塾」で詳しく見ていくことになるが、久一郎は、明治30(1897)年に、文部省書記官の職を最後に、官界から去り、日本郵船に入社、上海支店長に就き、上海で生活するようになっていた。そして、中国の風土に触れ、中国の文人と交わりを深めるなかで、若い頃、鷲津毅堂について学んだ漢詩を詠む趣味を復活させていた。それは素人の域をはるかに越えるものであり、本場中国の漢詩人からも高く評価され、交わりの輪を広げ、深くしていた。

 こうして、官の世界を去り、事業の世界に身を投じながら、長く失われていた漢詩人としての自己を取り戻すなかで、久一郎は、荷風がアメリカに渡るまえから、息子が書いているという小説をひそかに読み始めていたはずだし、アメリカに渡って以降、結果として『あめりか物語』に収められることとなる短編小説も、日本の雑誌に掲載される都度読んでいた。そして、息子が書く小説が、放蕩息子の道楽の粋を越えて、新しい時代の文学表現に届こうとしていることも、相応に理解していたはずである。おそらく、そうした理解の深まりが、荷風が日本帰国後も小説を書いて行くことを許す心の下地になっていたものと思われる。

好評をもって迎えられた『あめりか物語』

 ともあれ、父親と子の壮烈な戦いは、意外にあっさりと終結し、荷風は、父親による子殺しの本能的意志の呪縛から解き放たれ、生まれて初めて自分のしたいこと(小説を書き、文学の世界で身を立てていくこと)が、したいだけできる「自由」を手に入れる。荷風にとって幸いだったのは、日本を不在にしていた間も、アメリカやフランスでの体験に基づいて短編小説を書き続け、それらを日本の文芸雑誌に発表していたことで、まだ完全には「忘れられた」、あるいは「消えた」「小説家」にはなっていなかったことであった。いやそれだけでなく、アメリカ滞在中に書きためた短編の原稿を、恩師の巌谷小波の元に送ったところ、それが『あめりか物語』と題して、荷風が日本に帰国してすぐあと、明治41(1908)年の8月4日に、博文館から刊行され、新時代の小説集として大きな評判を呼んだことであった。

明治41年8月、博文館から刊行された『あめりか物語』の初版本
『あめりか物語』に収められた短編小説を書いていたころの永井荷風

 当時、日本の文学界は、「早稲田文学」を中心とする自然主義文学が全盛を誇り、自然主義に非ざる文学は文学に非ずといった風潮が蔓延するなかで、島崎藤村や田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥、島村抱月、相馬御風などが健筆を揮っていた。そうしたなかで、自然主義とは一線を画した荷風の、多分にロマン的で、抒情的、耽美主義的、頽廃主義的で、作品の根底にワーグナーやドビュッシーなどの西洋近代音楽とアメリカの大衆的ダンス・ミュージックたるラグタイムなどの音楽が流れる小説文学は、新しい時代の文学として評価され、自然主義文学の旗振り役といった役どころで、「早稲田文学」に評論を書いていた相馬御風までが、「早稲田文学」の新年号で、荷風の『あめりか物語』を「新しい文学」と評価したことで、荷風は、自然主義文学が宰領する、日露戦争後のある意味で閉鎖的な文学空間に新風を吹き込む新進気鋭の文学者として、望みうる最高の形で再スタートを切ることとなったわけである。

 ともあれこうして、5年に近いアメリカとフランスでの生活を通して、真正モダニストとして生まれ変わり、日本に帰国してきた永井荷風は、気鋭の新帰朝文学者として認知され、文学者として復活することが約束された。にもかかわらず、荷風は、新帰朝者が必ず直面しなければならない現実適応不全障害とでもいうべき壁に阻まれ、モダニスト文学者として書き続けていくことに困難を感じるようになる。つまり、父親の拘束から解き放され、自分の思うさま小説が書けるという「自由」を手に入れた代償として、荷風は、新帰朝者文学者として、そしてまた真正なるモダニストとして、文明開化というまやかしの近代化が、結果としてもたらした明治日本の皮相、醜悪な現実に対する異和や嫌悪の感覚と絶望感に起因する孤立感に追い込まれ、苦しみ、絶望し……自身がこれから先、それらの壁に阻まれ、不自由に縛られながら文学者として、生きて行かなければならない運命を選び取ってしまったことに悲しまなければならなくなる。

日本的自然環境空間に対する異和感

 永井荷風が、日本に帰国してきて最初に直面しなければならなかった現実適応不全障害は、日本の自然的外部世界に対する異和と嫌悪の感覚によるものであった。たとえば、明治41(1908)年11月1日発行の「新潮」に発表されたエッセイ「帰郷雑感」の冒頭部分、香港を発って四日目、船が九州に近付き、緑の山々が見えはじめたときに感じた異和と嫌悪の感覚について、荷風は、ピエール・ロチが『お菊夫人』の冒頭、船が長崎に近づいていくときの印象に重ねて、「日本の海岸は、成程、ロツチの見た通り、小さな部分の処に、山もある、林もある、瀑もある、余りに変化に富んで居る為めに、自然らしい感想は浮ばぬ。山や林の緑深い事は、亦ロツチの言ふ通りに「真実とは思経ぬ程」である。日本の緑色は、同じ植物の緑色でも西洋のそれとは全く異なり、毒々しい程濃い事が著しく自分の眼に就いた。海の色は地中海ほど美しくはない、空も青く、高く、澄んでは居るが、矢張り南方フランスあたりの方が自分には美しく思はれる」(下線筆者)と記している。

あるいはまた、神戸港に上陸したときの印象については、「神戸に上陸すると、空気が澄明で、気味悪い程四辺が明い。然し、家屋は木造で塗つてないし、女の往来が少ないので西洋の港へ上つた時に感ずる色彩の混乱と云うふものが毫(すこし)も無い。瓦屋根ばかりが黒く、不快な程目につく。松の繁りが、植物と思はれぬ程、これも真黒に見えた。全市街は寂としてゐて、通行人が不規則に緩かに、だらしなく歩いて居る様子だけを見ると、近世的の面影は少しも認められず、如何にも原始的の楽土へ来たやうに感じられた」(下線筆者)と記し、そのうえで、神戸から新橋まで汽車の上から見た、東海道本線の沿線に広がる森や林、海や川、山、田畑、水田、農村、地方の都市などの風景・景観、さらには父の家で生活するなかで感じた日本の家屋の色彩感の欠如と、居住空間の調和や落ち着きのなさ、不便さ、陰影の欠如、久しぶりに歩く西洋の植民地風の銀座通りや日比谷公園界隈の都市景観の趣の欠如……などなど、荷風は目に入ってくるものすべてに徹底して異和や嫌悪感を表明している。そのことからも、荷風が、ニューヨークやリヨン、パリで生活するなかで、優越的固着イメージとして脳裏に焼き付けてきた、欧米の自然的環境世界についての印象に絶対的優越性を与え、その高みから日本の現実を見下ろして、異和や嫌悪の感覚を抱いていることが読み取れる。

 だが、そのように日本の自然的、あるいは人工的、社会的環境や現実が、あらゆるレベルで荷風を裏切り、異和感と嫌悪感を抱かせた結果、荷風は、不幸にも、二つの意味で逃げどころのない「孤立」の袋小路に追い込まれていくことになる。一つは、日本の自然的外部環境への異和感や嫌悪感を、小説やエッセイなどのなかで表白し、批判すればするほど、石川啄木が「そんなに日本がいやならフランスへでも、何処へでも外国に行ってしまえばいい」と批判したような、批判を読者から受けるようになり、荷風は孤立してしまうということ。そして、もう一つは、荷風自身が日本の現実世界のなかに居所を見失い、世界との関係性が壊れたまま、書くべき文学テーマが枯渇してしまうということである。

 さてそれなら、どうすれば、そしてどこに、自分は日本の現実のなかで、小説を書く人間としての足場を見つけ、世界との関係性を蘇えらせ、書くべきテーマを見出せばいいのか……真正モダニストして生まれ変わり、日本に帰国してきた新帰朝文学者、永井荷風が、文学者として生きるか、死ぬかを賭して、どうしても潜り抜けなければならない審問、あるいは関門が、そこに用意されていたことになる。

 そして、その審問に応え、関門をブレーク・スルーするためのマニュフェストとして書かれたテキストが、明治42(1909)年2月1日易風社発行の「趣味」に掲載され、のちに発禁本『歓楽』に収められた「深川の唄」である。

『深川の唄』― 衰残と零落の純粋、一致、調和の美を求めて

 「深川の唄」は、荷風の分身「自分」が、「別に何処と云ふ当てももない」まま、四谷見附から築地・両国行の市電に乗って観察した、品位というものを欠いた電車のなかの人々の風貌や身なり、振る舞いや会話、さらに窓の外を流れる「九州の足軽風情が経営した」俗悪蕪雑な「明治」がもたらした、およそ秩序とか美観を欠いた、文明開化のなれの果てといってもいい、東京市街の俗悪醜怪な景観を、あくどい程のリアルな筆致で描写していく。ところが、市電が、日本橋の坂本公園に差し掛かると、停電でストップしてしまう。イライラしながらかなり待たされるうち、車掌の「お気の毒様ですがお乗かえへの方はお降りを願います」という言葉に促され、「自分」は乗換券を受け取って、電車を降りる。

 と、そこには、下に引用したような、およそ秩序とか統一的美的感覚に欠け、ゴタゴタと殺風景な景観が広がるだけの東京市中の師走の町の景観が広がっていた。

 片側の人家で日陰になつた往来に海老色の漆で塗つた電車が二、三町も長く続いてゐる。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光(ひかげ)で、向う角に高く低く不揃いに立つてゐ幾棟の西洋造りが、如何にも貧相に、厚みも重みもないやうに見えた。屋根と窓ばかりで何一ツ彫刻の装飾をも施さぬ結果であらう。往来の上に縦横の網目を張つて居る電線が、透明な冬の空の眺望を目まぐるしく妨げている。昨日あたり、山から切出して来たと云はぬばかりの生々しい丸太の電柱が、どうかすると向うの見えぬ程、遠慮会釈もなく突立つている。其の上に意匠の技術を無視した色のわるいペンキ塗の広告が、ベタベタ貼つてある。竹の葉の汚らしく枯れた松飾りの間からは、家の軒毎に各自勝手の幟や旗が出してあるのが、いづれも紫とか赤とか云うふ極めて単純な色ばかりを選んでゐる。

 このような景観を怒りに近い感情に駆られて見ているうちに、「自分」は、「憤然として昔の深川を思返し」た。幸い深川行の乗換の切符は手の中にある。自分は「浅間しい此の都会の中心から、一飛びに深川へ行かう――深川へ逃げて行かうと云うふ、押えられぬ欲望」に駆り立てられ深川行の電車に飛び乗る。

 なぜそんな風に突然、深川へ行こうと思い立ったのか……それは、数年前、「自分」が、外国(アメリカとフランス、筆者註)に出て行くまで、「水の都深川は、久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であつた」からである。深川まで、電車がなかったその時代、東京市街の美観が散々に破壊されていくなか、「河を渡って行く彼の場末の一画ばかりは、到る処の、淋しい悲しい裏町の眺望(ながめ)の中に、衰残と零落の、云尽くし得ぬ純粋、一致、調和の美が味(あじは)はれた」からである。(下線筆者)

 深川行の市電がまだなかった時代、深川に行く途中で渡る永代橋は工事中で、道路が狭くなり、しかも石や砂利で歩きにくいところから、人々は汐留から築地の掘割を通ってくる小さな蒸気船か南八丁堀の河岸から出る艪船に乗り、永代橋の川下で隅田川を渡り、越中島から蛤町の掘割に入り、深川に行きついたという。「自分」は、市電に揺られ、窓の外に目を注ぎながら、昔、蒸気船に乗って深川に通ったころのことを懐かしく思い返す。

 不動様のお三日と云うふ昼過ぎなぞ参詣帰りの人々が、「つくばね」や、繭玉、成田山の提灯や、藁細工の住吉踊りの人形なぞ、さまべな玩具を携へて其の中には根下りの銀杏返しや、印半纏の頭なども交つてゐて、幾艘の小舟は艪の音を揃え、停泊した荷船の間をば声を掛け合い、静かな潮に従つて流れて行く。水にうつる人々の衣服や玩具や提灯の色、それをば諸車止めと高札打つたる朽ちた木の端から、欄干に凭れて眺める心地の、如何に美しかつたであらう。

 さながら白昼の夢でも見るように陶然として「昔の深川」の思い出に浸っているうちに、市電は鉄でできた永代橋を渡り、橋を渡り切ったところで、「自分」は市電を降り、いよいよ深川の町に入って行く。二十歳前後の頃、毎日のように深川に出入りしていた「自分」は、大通りのどこに何という店があったか、ほとんど頭のなかに入っていた。あれらの店は、どうなったのだろうか。「角の蛤屋」にいた「粋な女房」、「名物の煎餅屋の娘」……彼女たちはどうしたろう。無論、彼女たちはもういない。しかし、「日当たりが悪く」、「妙に薄寒いやうな気がする」深川の大通りは昔と変わってなく、「心は全く十年前のなつかしい昔に立ち返る事ができた」という。

永代橋。荷風は市電に乗って、この橋を渡って深川に行った。(筆者所蔵の絵葉書コレクションより)
荷風が「深川の唄」を欠いた頃の深川の木場(『明治・大正・昭和東京大集成』/石黒敬称章編/新潮社)

 こうして十年前の深川にもどったような気分で、大通りを深川不動の方に進むと、細い溝にかゝつた石橋のまえに、「内陣、新吉原講」と金字で書かれた鉄の門に行きあたったので、なかに入ってみる。そこでは、人だかりがしていて、坊主頭の老人が木魚を叩いて「阿呆陀羅経」をやっていて、その隣に「塵埃(ほこり)で灰色になつた頭髪をぼう/\生した盲の男が、三味線を抱えて蹲踞(しやが)んでいる。みていると、参詣帰りの客が、3、4人まえに立止るのを聞き分けて、懐から樫のばちを取り出し、「チントンシヤン」と弾きだし、やがて「あきイ―の夜―ウ」と歌い出す。腕は悪くなく、弾きぶりと謡いぶりに気品と味わいがある。

「自分」は、男の引く三味線と謡う歌が相当の腕であり、まぎれもなく歌沢節であることに見ぬき、しばしそこに立止って、男の三味線と唄を聞きながら、「自分は何の理由もなく、かの男は生まれついての盲目ではないやうな気がした。小学校で地理とか数学とか、事によつたら、以前の小学制度で、高等科に英語の初歩位学んだ事がありはしまいか。けれども江戸伝来の趣味性は、九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失ふと共に盲目になつた。そして、栄華の昔には洒落半分の理想であつた芸に身を助けられる哀れな境遇に墜ちたのであらう」(下線筆者)と推量する。

 夕日が左手の梅林から流れて、盲人の横顔を照す。しやがんだ哀れな影が、如何にも薄く,後の石垣にうつる。石垣を築いた石の一片毎には、奉納者の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、ばくち打ち、皆近世に関係のない名ばかりである
(下線筆者)

 「自分」は、「近世に関係のない」、すなわち近代の光が差し込んでこない深川不動尊の内陣の石垣の下という、大都市東京全体からみれば、ごみにも等しい低く小さな空間(トポス)にあって、盲人の弾き歌う歌沢節に聞き惚れながら、「近世に関係のない」時間の流れに浸り切る。どれほど時間が経っただろうか、ふと気が付いて、後ろを振り返ると、沈む夕日が「生血の滴る如く」燃えている。そろそろ帰らなければならない時間だ。だが、自分は「いつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境、内陣の石垣の下に佇んで、こゝにかうして、歌沢の端唄を聴いゐたい」と思う。

『深川の唄』は、「九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』」という時代の文明文化に辟易し、嫌悪感と絶望感を募らせた結果、孤立の地獄に堕ち込もうとしていた荷風が、隅田川を隔てて、東京の市中空間の向う側、すなわち下町と呼ばれる水際の周辺、あるいは辺境とでも呼ぶべきトポスにおいて、ようやく自身の心身と「調和」し、「一致」し、全体性を回復できる「場=トポス」を回復できたことを、自他に宣言するために書かれたマニュフェストであった。言い換えれば、真正モダニストを標榜して日本に帰国してきた永井荷風という新帰朝文学者が、日本で文学者として生き抜いていくために、自らのモダニズムを封印し、江戸の町人文化の名残が残る深川に自らの拠って立つべき拠点を置き、伝統文化回帰主義者という記号性を纏わなければならなかったということである。

 ニューヨークやパリで身に付けたモダン志向と日本に帰国してから、文学者として生き抜くために身に付けた伝統志向の間を循環的にクロスオーバーしながら、前に進んで行くというモダニスト的伝統志向主義者であり、同時に伝統志向主義者的モダニストでもある永井荷風独自の戦略的姿勢が、ここに確立したと言っていいだろう。

『すみだ川』― 踊ることが大好きな水辺のミューズを求めて

 『深川の唄』を書くことによって、モダニストから伝統主義者への回帰宣言を行った永井荷風は、それより10カ月後の明治42年12月1日発行の「新小説」の巻頭に、日本に帰国して以来初めての本格的小説と言っていい、『すみだ川』を発表する。日本に帰国してから、荷風が書いてきた小説は、基本的にモダニストとしての荷風が文章の背後に存在し、その荷風が、明治日本の文明と文化の開化が結果としてもたらした軽佻浮薄、吐き気を催すほど醜悪な現実を批判し、嫌悪感を表明するという形で書かれてきた。

 しかし、そうした書き方を繰り返し続けていくことで、荷風は、読者の方から「またか」と忌避され、また日本の現実のなかに自らが拠って立つべきところを見失い、自らを孤立の窮地に追い込んでいくことになってしまっていた。そうした窮地から脱出し、日本の小説家として小説を書けるようになるために、東京の下町、隅田川の向う側の深川に自身の拠って立つべき世界を見出し、『深川の唄』を書いた荷風は、次なるステップとして、幼少年時代から慣れ親しんだ隅田川下流域の両岸、すなわち浅草と向島を舞台に『すみだ川』を書くことになる。

『すみだ川』が巻頭に掲載された「新小説」(筆者所蔵の永井荷風関係古書コレクションより)
竹屋の渡しから隅田川越しに浅草を望む。右手、やや小高いのが待乳山で、屋根が見えるのが待乳山聖天(筆者所有の浅草関係絵葉書コレクションより)


 荷風自身が、後年、「フランスの郷土文学」に倣って書いたというこの小説で、荷風は、自身の分身といってもいい、向島に住む俳諧の宗匠「松風庵羅月」の目を通して、勝ち気で踊ることが何より好きで、芸妓になりたいと言って、三味線や歌の稽古に通う「お糸」という16歳の少女と彼女より2歳年上であるにもかかわらず、性格的におとなしく、母親からは末は大学を出て、出世してほしいという望みを託されて、勉学に励みながら、本人は役者になりたいと思っている「長吉」という18歳の、まだ少年の面影を宿した青年との淡い恋情の成り行を、共感をこめて描いた小説である。

 この小説を読んで最初に気づく、新帰朝文学者として荷風が書いてきたそれまでの小説と大きく違う点は、前述したように、筆者の荷風が記述の裏に隠れ、登場人物の性格や振る舞い、生活環境、さらにはストーリーの組み立てと展開、自然的景観の描写などすべての記述が、小説的に形象化された「松風庵羅月」の目を通して見られたものとして書かれているせいで、小説全体が一つのフィクショナルな完結した世界として描かれ尽しているということ。そして、そこに小説家としての永井荷風の進化と成熟を読み取ることが出来るということ。さらに、そのことの必然的結果として、この小説の世界には、『深川の唄』にあったような近代の影は、「長吉」が大学を出て、出世するために母親から勉強を強いられているという記述にかすかに差し込んでいるくらいなもので、後はすべて、小説が書かれた明治の末辺り、隅田川の下流域にかろうじて残っていたかもしれない下町特有の人情とや風俗、自然景観、さらには、ゆっくりとした古典的時間の流れのなかで展開される、美しく調和の取れた生活共同体の物語として書かれていることである。

 『すみだ川』を読んで、もう一つ発見する大きな変化は、荷風が、この小説において、初めて踊ることが大好きな少女を、ミューズとして登場させ、彼女の容姿や会話、振る舞いを極めて魅力的に、生き生きと描き上げていることである。重要なことは、『すみだ川』を書くことで、「お糸」という踊り子をミューズとして手に入れた荷風が、その後の文学人生を通して、『腕くらべ』の「駒代」や『踊子』の「花板」と「千代美」の姉妹、戦後の『裸体』の「左喜子」などなど、踊ることを何よりも喜びとし、「性」に対して自由に開かれた女たちを主人公に、日本の近代文学の歴史において最初といってもいい、「性」の小説群を書き抜いていくことである。

 だがしかし、ここで見落としてならないのは、「お糸」というミューズには、明治日本の現実に、失望し、嫌悪感を抱く荷風の、日本の女性は人としてこのように生きてほしいという夢が確かに託されていた。しかし、彼女は、その時まだ16歳の少女でしかなった。つまり、荷風が、踊りが好きな少女が、その後、いかなる人生の経路をたどって、大正5(1916)年8月に名作『腕くらべ』を雑誌「文明」に連載するまでに、およそ七年の歳月を必要としたということである。『深川の唄』を書いたことで、隅田川下流域東岸の深川や本所、向島に加えて、西岸の浅草など下町の生活空間に、文明開化の毒に汚されない、古き良き時代の生活空間と風景・風俗を発見し、そこに「お糸」という幼いミューズを発見し、『すみだ川』という名作小説を書いた永井荷風ではあったが,『すみだ川』があまりに完璧に完結した世界として、美しく、抒情的に書かれてしまったことで、 折角手に入れた素材を消耗しきってしまった。そして、そのことによって、荷風は再び、書くべき世界とミューズが見付らないという危機に立たされたことになってしまったのである。

『ふらんす物語』発禁-国家の表現の自由に対する干渉

 真正モダニストとして、日本に帰国して以来、文明開化とか殖産興業、富国強兵の掛け声の下に、国上げて日夜推進してきた文明開化による近代化がもたらした現実に深く幻滅し、批判を繰り返すことで、日本において、自身の立ち、居るべきところを失い、孤立の危機に追い込まれた永井荷風は、それでも、上述したように自らの居るべき世界が、江戸以来の風俗や景観を留める深川にあることを発見し、『深川の唄』を書き、さらにもう一つの心の「故郷」である隅田川とその両岸の浅草と向島を舞台に『すみだ川』を書くことで、危機を潜り抜けたかに見えた。

 だがしかし、「すみだ川」がフィクショナリーに構築された美的世界であり、そこに生きる「お糸」というミューズが、現実にすでに存在しない人間形象であり、同時にあまりに美しく、完璧に描き上げられてしまったことによって、荷風は、第二、第三の「お糸」の物語を書けなくなる。そして、荷風は、『すみだ川』を書いたあと、再び「踊るミューズ」をヒロインにした小説らしい小説が書けなくなるという危機に立たされることになる。

 くわえて、『あめりか物語』の続編として、刊行を予定していた『ふらんす物語』が、発売直前に発禁処分を受けたことで、荷風はさらに一層深刻な危機に立たされることになる。

 父親から小説を書いて行く自由を許された荷風は、『あめりか物語』の成功に気をよくして、フランスのリヨンとパリ滞在中に書いて、雑誌に発表した短編やエッセイを取りまとめ、『あめりか物語』と対にする形で、『ふらんす物語』と題して、日本に帰国して8か月後の明治42(1909)年3月25日、博文館から刊行しようとしていた。文化や芸術の世界では、ヨーロッパ志向、特にフランス志向が強い日本にあって、『あめりか物語』の続編として、モダニスト文学者としての自己の内面を一層自由に表出した『ふらんす物語』を出せば、一層広く読者が読んでくれ、高く評価されるに違いない。またそれによって、これまでの日本の文学界には存在しなかった、新しいタイプの近代文学者として、自分は一層高く認知され、これから先、自由に自分の思うとおりに小説を書いてくことができるはずだ。

 このような期待を抱いて、荷風は、『ふらんす物語』の刊行を心待ちにしていたはずである。ところが、全く予期せぬ形で、内務省は、以下のような告示を出し、本の発売禁止を命じたのである。

  内務省告示第36号
   一 ふらんす物語 全一冊 東京市日本橋本町三丁目八番地 大橋新太郎 発行
   右出版物ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムルヲ以テ出版法第十九条ニ依リ明治四十二年三月二十七日発売頒布禁止及刻版竝印本差押ノ処分ヲ為シタリ
     明治四十二年三月二十九日    内務大臣  法学博士男爵平田東助

 『ふらんす物語』は、フランス文学に最も強く影響された永井荷風の神髄を最もよく体現した小説集として、荷風のみならず読者一般も発売を心待ちにしていた本であった。それまで、日本の近代文学者が外国文学から受けた影響というと、森鷗外におけるドイツ文学と夏目漱石におけるイギリス文学が主流で、フランス文学の影響を受けたことを看板にして日本に新帰朝してきた文学者は、永井荷風が最初であった。そうした意味でも、荷風だけでなく、周囲の文学者たちも『ふらんす物語』に期待する所は大きかったはずである。ところが、それが、「風俗壊乱」を理由に発売を俟たずに発行禁止処分を受けてしまったのである。禁止を知らされたときの荷風の驚きと憤りは、並み大抵のものでなかったはずである。しかし、発売禁止処分が公にされてから2週間余りたった4月11日付の読売新聞に寄せた「『フランス物語』発売禁止」という一文によると、荷風は「別に驚きもしなかった」という。そして、驚かなかった理由について、「当局者の処置には已に幾度となく憤慨しぬいて居るので、今更私自身の著作が禁止されたとて、別に驚いたり怒ったりする程事件が珍しくなかつたせいでせう」と記している。

 荷風は、さらに内務省が「風俗壊乱」という理由で発禁処分を下した根拠がどこにあるのか、考えを巡らし「巻中に収めた著作の大半は雑誌へ出したものであるから、禁止の原因はどうしても、まだ一度も発表せぬ巻頭の小説『放蕩』と脚本『異郷の恋』の二ツにあるらしい」と推測している。しかし、「西洋に10年近く放浪し恋にも飽きる、成功もつまらない、愛国の念も薄らぐ」ものの、「自殺する勇気もなく」、無気力にその日、その日の生活を送る一日本人外交官、小山貞吉の頽廃的、かつ反政府的な思想を書き表したこの小説が、「風俗壊乱」に当るとはどうしても思えない。荷風が薄々感じ取っていたように、「風俗壊乱」というのは表向きの口実で、実際は、小山貞吉の反政府的な言行と思想が危険視され、発売禁止になったというのが事実に近い感じがする。

発売と同時に発禁処分となった『ふらんす物語』の初版本
『ふらんす物語』発売禁止の原因となった「放蕩」の挿絵に使われた絵葉書(筆者所蔵の『ふらんす物語』関係の絵葉書コレクションより)

 さらにまた、『異郷の恋』についても、荷風は、「此れと云つて現代の風俗を壊乱するやうな点は少しもないと思ふ」としたうえで、こうした政府権力の干渉に対して、文学者の一人として戦わなければならないとは思うものの、芸術的表現の自由などどうでもいい日本という国においては、世論の支持など到底望めないので、「日本の社会に芸術の自由の認められないのは、致し方ない次第です」と、あきらめた風を装っている。

 確かに、荷風が言うように、「放蕩」と「異郷の恋」が「風俗壊乱」に当ってないという言い分は筋が通っている。にもかかわらず、内務省がこじつけの理由まで持ち出して、『ふらんす物語』に発禁処分を下さざるを得なかったのはなぜだろうか?……考えられる理由は、日露戦争の最終段階として、ポーツマスで日露講和交渉が始まろうとし、ワシントンの日本公使館全体が緊張感に包まれ、愛国感情がいやましに高まろうとするなか、そうした愛国感情とは無縁なところで、アーマという街娼婦との交情に現を抜かす小山という外交官を主人公に、小説が組み立てられ、要所要所に小山の非愛国的な言辞や行動が書き込まれていることが、検閲官の忌避に触れ、危険思想と見なされて、発禁処分を受けたことは想像に難くない。

 荷風は、発禁処分を受けて「別に驚きもしませんでした」と書いているが、驚きもしなかったのは、荷風自身が、「放蕩」を通してかなり露骨に日本政府を挑発していることを、知っていたからに他ならない。つまり、荷風は、わざと日本政府を挑発するために、「放蕩」をこれ見よがしに『ふらんす物語』の冒頭に持ってきたのである。ただ、荷風が一つ油断していたのは、どうせ短編小説のなかで、日本政府を揶揄し、からかっただけだから気づかれる筈はないと高をくくっていたことである。

 それにしてもなぜ、『あめりか物語』はパスしたのに、『ふらんす物語』はパスしなかったのか。確かに、「風俗壊乱」という点でいえば、『あめりか物語』にもかなり露骨な性的描写があり、明らかに麻薬を喫って書いたと思われる記述(「夏の海」)や、当時としてはかなり露骨な性的描写、さらには政府批判の言辞も少なからず書き込まれている。にもかかわらず、『あめりか物語』は発禁にならなかったのは何故なのか? それはひとえに、たとえそれが、セントルイスから日本の友人あてに書かれた葉書とはいえ、日露戦争の真っ最中に、万博会場のロシア展示場に日参し、ガイド嬢を口説き落とそうとして失敗し、「国家と個人は両立せぬものです」などと友人に書き送った永井荷風という文学者の危険性に、政府当局が気づいていなかったから。いや、アメリカへと消えて行った永井荷風という文学者の存在自体が、検閲当局の目に入っていなかったからである。

 ところが、荷風本人の帰国とタイミングを合わせるようにして刊行された『あめりか物語』は大きな評判を呼び、新しい文学がここにあると高く評価された。おそらく、そこで内務省の検閲担当官は、『あめりか物語』を読んで見て、かなり危険な反国家的思想が書き込まれていることを見抜いた。しかし、本はすでに発売され、かなりの部数が売れてしまっている以上、今更発禁に処すわけにもいかない。そこで、永井荷風に「危険文士」のマークをつけ、注意深く次作の刊行を待受けていた。一方、荷風と出版社の博文館は、『ふらんす物語』が刊行されるに当って、それぞれの作品が雑誌に掲載されたときには発禁処分を受けなかったし、『あめりか物語』が刊行されたときも問題は起らなかったかたら、「これなら大丈夫だ」と高をくくってしまった。こうして、出版準備もすべて整い、いざ発売という時になって、内務省は、「そうそう、お前らの思い通りにはさせんぞ!」とばかりに、一気に発禁処分を打ち出してきたわけである。

 おそらく、内務省は、荷風が『ふらんす物語』に収めるはずの短編を雑誌に発表していたころから、目を付けていた。しかし、その時点では知らぬふりをして通し、単行本の発売直前まで待って、発禁処分を打ち出したのは、原稿の編集も、ゲラのチェックも、活字の組みも、印刷も、装丁もすべて出来上がってから、発売禁止にした方が、著者と出版社が受ける経済的打撃と社会的信用の失墜度が大きいことを見極めていたからであった。その意味で、荷風と博文社は、検閲官の罠にはまったということになる。

 以上、詳しく見てきたように、真正モダニストとして日本に帰国してきた永井荷風は、日本特有の自然的外部環境世界と文明開化がもたらした醜悪皮相な現実世界に対する不協和と異和の感覚、そしてそれらに起因する止みがたい嫌悪感と孤立感に駆り立てられて、出口のない、蟻地獄のような孤立状態におちこんでしまおうとしていた。さらにまた、『ふらんす物語』が発禁処分を受けたことで、荷風は、国家という全体共同的なものからも忌避され、危険視されてしまったことで、社会的存在権まで奪われ、正に逃げようのない完全孤立状態に追い込まれようともしていた。そうしたときに、天から差しのべられた救いの手のように、荷風を窮地から救い上げたのが、慶應義塾大学部文学科という知的教育共同体からの、荷風を文学部の主任教授格で招聘したいという打診であった。

(2017年05月17日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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