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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第三章 真正モダニスト永井荷風の誕生

父親から追放されてアメリカに渡った荷風

 明治36(1903)年9月22日、日本郵船の信濃丸に乗って横浜を出港、地球を東回りに13日かけて太平洋を横断し、10月5日にカナダのビクトリア港に到着、二日後の7日、アメリカ北西部の港町シアトルに上陸した永井荷風は、途中の船の旅の無聊と平穏さについて、『あめりか物語』の冒頭に収められた「船室夜話」という短編のなかで、以下のように記述している。

 私は今や計らずも此の淋しい海の上の旅人になつた。そして早くも十日ばかりの日数を送り得た処である。昼間ならば甲板で環投の遊び、若しくは喫烟室で骨牌(かるた)を取り謎して、何(ど)うにか斯うか時間を消費することが出来るけれど、さて晩餐の食卓を離れてからの夜になると、最う殆ど為す事が無くなつて了(しま)ふ。(以下中略)。

 何時になつたのか、遥かに時間を知らせる淋しい鐘の音が聞える。浪は折から次第に高まり行くと見え、今はベッドの上の丸い丸窓へ凄まじく打寄せる響きがすると甲板の方に当つて、高い檣(マスト)を掠める風の音が、丁度東京で云ふ二月のカラ風を聞く様で、其れに連れては、何所とも知らずギイへと何か物の輾(きしむ)む響きも聞こえ始めた。然し、噸数の少なからぬ大きい船の事なので、動揺は極めて緩かに、且つ私等(わたしら)も最早航海には馴れて了つた処から、少しも心地を悪くする虞(うれひ)はない。窓や戸へ帷幕(カーテン)を引き、蒸気の温度で狭い船室の中を暖かにして安楽に長椅子(ソフハー)へ凭れながら外部の暴風雨を聞いて居ると、却つて其れとも無しに冬の夜に於ける炉辺の愉快が思い出されるのだ。

 万延元(1860)年の1月13日、日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使にアメリカに派遣された使節団の護衛のため、福沢諭吉が咸臨丸に乗って太平洋を横断したときから43年後、明治日本が懸命になって追及してきた文明開化、殖産興業の理念と目的は、太平洋を横断する船を、オランダから輸入した、排水量620トンで、太平洋を40日以上もかけてようやく横断する、3本マストの木造船から、わずかに10日間で横断する6388トンの鋼鉄製の豪華蒸気客船にまで進化させていた。言い換えれば、永井荷風は、福沢諭吉や荷風の父親の永井久一郎らが先頭に立って、獅子奮迅の努力で追及してきた文明開化が結果としてもたらしたものの恩恵に浴して、無聊をかこちながら、太平洋を横断してアメリカに渡って行ったことになる。

連合艦隊司令長官東郷平八郎から信濃丸に送られた感謝状と信濃丸の
写真をあしらった絵はがき(筆者所有の絵葉書コレクションより)

 ちなみに、信濃丸は、日露戦争が始まると海軍の仮装巡洋艦として徴用され、1905年5月27日未明、対馬海峡に向かって南進してくるロシアのバルチック艦隊を発見、「タタタタ」と後に「タ連送」として知られる「適艦発見」を知らせる無線を送り、連合艦隊に日本海海戦における勝利をもたらしたことで、連合艦隊司令長官東郷平八郎から感謝状がおくられている。

 ところで、荷風の東回りの渡米は、荷風と父親の久一郎との深刻な対立と葛藤を避けるべく考え出された窮余の一策ともいうべき、一時的な妥協の産物と言えるものであった。明治の子として生まれた荷風は、当時の男子たちが貴んだ質実剛健、尚武の気性とか、末は国家有為の人として立ち、大臣か陸・海軍の大将にという立身出世意識とも無縁で、身体がそれほど丈夫でなく、高等師範学校付属中学校時代には、病気(おそらく胸の疾患)で小田原や逗子に転地療養したため、一年留年を余儀なくされている。そしてまた、家庭では母親の作る西洋料理を食べさせられたり、西洋服を着せられたり、万事西洋風の家庭環境に育ったことと、生来の長身細面の青白い風采に、髪の毛を伸ばしたりして、軟派で通していため、のちに陸軍大将になる寺内寿一ら、硬派の同級生から鉄拳制裁を食らったりしたこともあった。

 そうしたこともあって、荷風は、エリート中学校で優秀な成績を収め一高に進学するというコースから次第に離れ、文学書を読んだり、漢詩を学んだり、音楽(特に尺八)を聞いたり、演奏したり、芝居を見物したり、さらにくわえて18歳のときには、初めて新吉原の遊郭に登楼し、女遊びにも手を染め……と、殊更に父親の意向に逆らう方向でドロップ・アウトし、手におえない放蕩息子として青少年期を過ごすこととなる。

新吉原の遊郭の張見せ。荷風は、18歳の頃から遊郭遊びを覚え、新吉原に出入りするようになった(筆者所有の絵葉書コレクションより)
荷風が、清語科で中国語を学んでいたころの東京外国語学校(筆者所有の絵葉書コレクションより)

 一方、父親の久一郎は、永井家の長男として生まれた荷風に「壮吉」といういかめしい名前を付けたことからも分かるように、荷風を壮健な男子として育て上げ、ゆくゆくは一高、東京帝国大学……とエリート・コースを歩ませ、官僚の世界で出世させることを夢見ていた。その夢は、一応、荷風が東京第一高等中学校を卒業するまでは叶えられたが、荷風が一高の入学試験に失敗して以降は悉く裏切られていくことになる。すなわち、数学が苦手な荷風は、早々と一高入学をあきらめ、高等商業学校(のちの一橋大学)附属外国語学校(のちの東京外国語学校、及び現在の東京外国語大学の前身)の清語(中国語)科に入学して、中国語を学ぶことになる。

 しかし、外国語学校の授業も欠席がちで、荷風は、「悲惨小説」とか「深刻小説」と呼ばれた「今戸心中」や「黒蜥蜴」など、近代化の波から取り残された明治日本の下層社会の暗部を描いた作品を発表し、明治中期から大正期にかけて、日本近代文学史に特異な地位を占めた小説家広津柳浪の門下に入り、小説を書きはじめる。その一方で、、旧時代江戸の流れをくむ大衆的な芸能の世界、すなわち尺八を荒木古童について習ったり、落語家になることを夢見て朝寝坊むらくに弟子入りし、三遊亭夢之助と名乗って高座に上ったりするようになる。

 ところがそれが露見して、父親から厳しく叱責されるものの、一向に改める風はなく、ほとぼりが冷めると、今度は歌舞伎の立作者になろうとして、福地桜痴の門下生となり、歌舞伎座に入り、拍子木の叩き方から稽古するようになる。さらにくわえて、明治33(1900)年1月には、文芸誌「新小説」の懸賞小説に応募した「烟鬼」が番外当選に入賞して、賞金をもらったことが契機となり、本格的に小説を書きはじめ、『野心』、『地獄の花』、『夢の女』、『女優ナ 』など、フランスの自然主義小説家ゾラの影響を受けた小説を次々と刊行し、新進作家として名が出るようになる。

 だがしかし、小説を書いて身を立てることなどほとんど不可能であった当時、父親の久一郎は、道楽息子が一向に身を改めることなく、ますます芸能や小説の世界に深入りして行こうとするのを知って、激怒し、一層のことと思い切ってと、獅子が我が仔を谷に突き落とすように、荷風に「アメリカに行って実学を学んで来い!」と命じ、荷風を単身、アメリカへと追放することにする。荷風の方も、ゾラを通して憧憬を膨らませていたフランスに近付けるという思いで、渡りに船とばかり、明治36年9月22日、信濃丸に搭乗して横浜を出港、渡米の旅に就くことになる。

 明治の父親として、久一郎としては、ここに明治の放蕩息子をアメリカに追放することで「子殺し」を断行したわけであるが、荷風の方としては、父親が自分を殺そうとするなら、逆に自分の方から父親を殺してやろうとばかり、喜び勇むようにして太平洋の彼方へと消えて行ったわけである。

 このようにアメリカに渡るまで、明治の子としてエリートコースに乗りかけながらあえて時代の主流から逸脱し、半ば反逆的に反社会的な方向で自身の生きる道を探し求める荷風の、正に暗中模索といった生き方を振り返ってみて気が付くことは、荷風が、尺八や漢詩、落語、歌舞伎、江戸の軟文学と、旧時代の前近代的な芸能や文学の共同性に自らを委ねる一方、ゾラの自然主義文学に傾倒し、社会の底辺、あるいは暗部に生きる女性に光を当てた小説を書くことで、19世紀末のフランスの近代文学の潮流に乗る形で、近代という協同性を獲得しようとしていること。つまり、江戸の大衆的芸能文化、あるいは文学などに象徴される前近代性をよりどころとしつつ、もう一方で、世紀末フランス文学の近代性を志向するという、前近代性と近代性を同時に内包させながら、この二つを渦巻状に往還することで、新時代の文学表現を生み出していくという、20世紀日本近代文学の成立と展開のプロセスにあって、永井荷風が独自の文学的表現の領域を切り開いていくうえでの基本的姿勢が、この時点で早くも確立しているということである。

セントルイス万博視察―主題としての「性」の発見

 明治36年10月7日、船はシアトル港の桟橋に着岸、検疫・入国審査を経てシアトルに上陸した荷風は、シアトルから汽車で1時間ほど南に下がった、太平洋に面した港町タコマにほぼ一年間滞在したのち、明治37(1904)年10月、万国博覧会が開かれていたセントルイスを訪れる。セントルイス行は、万博会場で各国の産業展示物を視察し、何か商売になるものを見つけて来いという父親の命令を受けてのものであったが、荷風は、その命令を一切無視し、日ごとロシア展示館に足を運び、ガイド嬢に話しかけ、デートに誘い出そうとする。

 しかし、自分の母国が日本と戦争をしているときに、敵国の男性と恋に陥るわけにはいかないと断られたのであろう、荷風は友人の西村恵二郎に宛てた絵葉書のなかで、「此れは博覧会のロシアの家です、此の中には露西亜婦人が居ました、毎日ひやかしに行つて大分こんいになりましたよ。国家と個人はどうしても一致せぬものです」と書き送っている。岩波書店版の『荷風全集』第27巻の「書簡集」に収められた、明治37(1904)年11月25日付のこの絵葉書に記された「国家と個人はどうしても一致せぬものです」という文言は、これまでの荷風論でほとんど取り上げてこられなかったものであるが、男と女の性的対関係性において、国家と個人は矛盾・対立し、逆立するという発見は、近代市民革命を経て成立したヨーロッパ先進国の、個人としての人間の存在は国家に優越するという個人主義、あるいは自主独立、人権思想に立脚するもので、個人に対して国家、あるいは天皇が絶対的に優越するという明治の絶対主義的国家体制下にあって、極めて斬新で、20世紀的発見であると言わざるを得ない。

 明治37年の11月の時点で、国家と個人の両立しえない関係性を「性」において、見抜いていたのは荷風一人であり、「性」通して国家と対峙するという荷風文学の基本的姿勢は、この時定まったといっていいだろう。

セントルイス万博のメイン・アトラクション、カスケード(人工の滝)のステレオ写真。
荷風はその壮大な景観について、『あめりか物語』所載の「酔美人」のなかで、「我々の頭上に聳ゆる水盤から、高い階段の間を流れ/\て落ち込む瀑布の水を受けて、凄まじい噴水の周囲に、さまざまな小舟や画舫が浮かべて居る様まで皆一目に見下ろして了ふのである』と記している(筆者所蔵の立体写真コレクションより)

 ところで、荷風は、明治38(1905)年6月、雑誌「太陽」に発表され、のちに『あめりか物語』に収められた短編「酔美人」で、万博会場でアメリカ人の友人から聞いた話として、「モンテロー」というフランス人ジャーナリストが、黒人ダンサーの肉体から放出されてくる性的魔力に魅入られ、反社会的な惑溺の世界に溺れ込み、最後は命まで吸い取られてしまうという話を紹介している。そこでは人種や皮膚の色や国家の違いによる隔壁が、個人の性的快楽追求本能によって超克され、フランス人の男が黒人ダンサーの肉体から放出してくる性的魔力に屈服していく現場を次のように描いている。

 ……彼は訳もなく無暗と心怖ろしい気がして来て、一層部屋から飛出さうかと、危く腰を上げ掛けると、其の途端に女は彼の手を握るや否や、重い半身を彼の膝の上に投掛けました。
 女の身体の熱い事、まるで燃える火の様です。彼はその熱度をば、握り締められた手で食説に一分間とは感ぜぬ中に、其の胸は忽ち息苦しい程喘んで来るばかりか、己の身体中の熱度まで、次第/\に女の方へ吸取られて了ふ様な心地がするのです。(中略)。
 ぢ―ツと見つめた其の眼には明かに、お前は如何に逃げや鵜と急(汗)つても、私が一度見込んだからには、何処までもお前を自由にせずには置かないのだから……と云ふ激しい情の日からが現はれて居る様に思はれたので、彼は全身を通じて一種の顫(ふるへ)を感ずると共に、最う何様事(どんなこと)をしても無駄である。自分は此の女の餌(餌食)である。―鼠が猫の前に出たやうな、或は狼の前に子羊が立すくんだ様な、果敢ない犠牲(いけにえ)の覚悟が、我知らず心の底に起つて来るのでした。(傍線筆者)

 フランス人の新聞記者である「モンテロー」は、ある晩、夕食を済ませたあと、とある街中の小さなボードビルの小屋に入り、軽業や道化の踊り、楽器の曲弾きなどを楽しんでいると、上半身をあらわにした衣裳を着た「大分黒人の血が交つて居る」ダンサーが、舞台裏から駆け出して来て、楽器の演奏に合わせて踊り始める。「モンテロー」は、初めは興味なさそうに見ていたが、途中でフト、ダンサーが踊りながら踊りの段落が付くとこころで、「大きな黒い眼に情を持たせて、見物人の方を眺める」の気づき、なおも注意深く観察しているうちに、その眼が「馴れた家畜が主人に食物を請求(ねだ)る時の目付き」であることを発見する。

 どんな女だろうと、好奇心に駆られて「モンテロー」はダンサーに接近し、楽屋で初めて握手を交わしたその夜から、ダンサーと腕を組み、彼女の部屋を訪れ暖房のよくきいた部屋で、ダンサーと情を交わすことになる。ただそこまでは、男と女の関係性は、人種的に優越するフランス人の男が、劣等人種である黒人ダンサーを自己の性的欲望の支配下に置き、欲情の赴くまま、女の肉体をもてあそぼうという殖民地主義的支配・被支配の関係であった。ところが、交情が深まるにつれて次第に形勢が逆転し、「モンテロー」は、黒人ダンサーの肉体の不思議な魅力に取りつかれ、性的惑溺の世界に溺れ込み、ついには女の性的肉体の支配下に置かれ、女の性欲の餌食となってしまう。そして、激しい交情の日々を送った結果、「モンテロー」は、次第にやせ衰え、健康が衰えてきたためイタリアに転地療養で赴くものの、そこで熱病にかかって死んでしまう。

 この小説は、「モンテロー」に象徴されるヨーロッパ白人種の民族的、経済的、文化的優越性よりも、黒人ダンサーの性的優越性の方が優越するものとして書かれていることで、「国家と個人はどうしても一致せぬものです」という悲しい現実を逆転させる意図で書かれていると言っていいだろう。荷風は、この小説において初めて「性」を主題にして、男と女が、死と引き換えに、性的快楽と陶酔の頂点において全的に結合することで、人間は人種や言語や性差(ジェンダー)の壁を乗り越えて合体・融合できることを、日本の近代文学の表出史において、正面から書き上げたことになる。

 おそらくは、荷風自身の黒人娼婦、あるいはダンサーとの交情体験に基づいて書かれたものと思われるこの小説で重要なことは、荷風が、まさにアメリカ的というしかない、黒人女性ダンサーの踊る肉体の律動から放出される強烈な誘引力が、フランス人ジャーナリストに象徴されるヨーロッパ人の身体と精神を引き寄せ、暴力的に自らの律動の磁場に巻き込んでしまう。そして、その結果、ヨーロッパ的心身を貫く植民地主義とか帝国主義的支配の構造は完全に解体・溶解され、男はひたすら性的人間と化し、性的結合の頂点において獲得される恍惚の境地において、その先には死しかないという、原初的エロスの世界に飲み込まれていく。

 かくして踊るアメリカ的身体によって、白人種、さらにはヨーロッパ的身体は、音楽とダンスを媒体として非ヨーロッパ的身体と合体することで、アメリカ化され、性的混沌の世界に引きずり込まれていくことになる。正にその黒人と白人の性欲がクロスオーバーする現場を見とどけたうえで、この小説が書かれているという意味で、荷風は、アメリカに渡って一年間に及ぶウェスト・コーストの港町での生活体験と、セントルイスにおける二つの性的体験を通して、20世紀の精神文化がその先たどるであろう、アメリカ化という進化・発展の方向性を見抜き、予言したと言えるであろう。

「万博王」と呼ばれた櫛引弓人が、日本から材料を取り寄せ、金閣寺に模して、 京都から連れてきた大工職人に作らせた日本館のステレオ写真
(筆者所蔵のステレオ写真コレクションより)

ワシントンの街娼婦イデスとの出会いが意味するもの

 セントルイス体験を経て、「性」を介して国家と個人の関係が逆立・矛盾し合うこと、特に戦争という非常事態においては、国家が個人に優越すること、さらにまたまた人種的な優劣・差別による植民地主義的支配の構造が、男と女の「性」の場においては逆転する可能性があることを見抜いた荷風は、一か月あまりセントルイスに滞在したのち、ミシガン州のカラマズーの大学に入学し、七か月ほど学園生活を送ったのち、明治38(1905)年の6月30日、フランス渡航の資金を貯めるべく、ニューヨークに出てくる。

 しかし、このときニューヨークでは仕事が見つからなかったため、ワシントンの日本公使館で現地採用の小使いの職を見つけ、ワシントンに移る。時あたかも、日露戦争が日本軍の勝利の内に終決し、アメリカ大陸北東部のニューハンプシャー州ポーツマスで日露和平交渉が開かれるとことになり、公使館の公使を筆頭に相当数の館員がポーツマスに移ることになる。そのため公使館の日常的な職務に差しさわりが出ることを避けるため、和平交渉が終わるころまで臨時職員ということでという条件で、荷風は公使館に住み込み雑用掛として働き始める。
 
 このとき、およそ3か月に及ぶワシントン滞在で、のちに永井荷風が、日本の近代文学史において、最初の「性」の小説家として立っていく上で、決定的に重要な意味を持つ「事件」になるのは、昼間の職務を終え、夕食を認めたのち、ダウンタウンの酒場に出入りするなか、たまたま声をかけてきた街娼婦イデスと交情を深め、男と女が肉体の交接を通して、性的な対関係性のなかでジェンダーの壁を越えて合体することの喜びと悲しみを知るようになったことである。

 前述したように、「酔美人」におけるフランス人ジャーナリストと混血の黒人ダンサーの「性」の関係性は、人種を異にする男と女の性的結合を通して、人種とジェンダーの壁が溶解し、植民地主義的支配と被支配の関係性が逆転するという意味で、歴史的、かつ世界史的意味を持つものであった。しかし、この短編を書いた時点で、荷風はまだイデスと出会っておらず、従って「性」によって裏付けられた男と女の「愛」の関係性が、人間存在の真の解放に対して持つ根源的な意味を知らなかった。そのため、「酔美人」における男と女の関係性には、死と隣り合わせの極めて濃密・過激な性欲の充足感はあったが、「性」を通して男と女が真に人格的に合体しあうことの喜びと解放感はなかった。

 言い換えれば、荷風は、イデスとの交情を深めることで、初めて「性」の裏付けとしての「愛」を獲得したことになる。そして、その意味で、荷風にとってワシントンでイデスという娼婦と出会い、関係を深めたことは、永井荷風が「性」の小説家として立つうえで決定的に重要な意味を持つ「事件」であったといっていいだろう。

ニューヨーク体験を経て獲得したもの

 荷風は、ワシントンで知り合い、交情を深め合った娼婦イデスに激しく恋をした。それまで荷風の27年間の人生において、何人もの女が通り過ぎて行った。しかし、そのほとんどは性欲を満足させるためだけの、いわば「道具」としての女であったが、イデスは違っていた。イデスは、男の性欲を満たす「道具」として以上の、一個の人間として、独立した女性として人格と激しい感情生活をもっていた。そのため、彼女は、荷風が公使館を解雇され、ニューヨークに戻り、横浜正金銀行の現地職員として、ウォール街のオフィスで働くようになってからも、荷風を追掛けてニューヨークまで出て来ていた。

 だがしかし、その一方で荷風は、フランスに渡って、思うさま「フランス」を体験し、フランス文学を読みたいという願望も抑えがたく募らせていた。イデスとこのまま一緒になって、ニューヨークの陋巷に朽ち果てるべきか、思い切って彼女を振り捨てて、フランスに渡るべきか……荷風は死ぬほど苦しむ。そして最終的には、イデスを捨て、フランスに渡って行く道を選ぶようになる。

 ところで、1年と7か月に及ぶニューヨークでの、昼間は銀行員としてウォール街のオフィスで働き、夜は、チャイナタウンやタイムズスクェア―などの風俗街に出入りし、街娼婦と一夜を過ごし、秋11月の末から翌年の5月頃まで、オペラやコンサートのシーズンには、メトロポリタン歌劇場やカーネギー・ホールでワーグナーやベルデイ、プッチーニのオペラやべートーベンやドビュッシーの管弦楽曲に魂を奪われるという二重生活体験は、永井荷風が近代文学者として立つべき拠点を見出し、進むべき道を知り、のちに日本近代文学の歴史的展開において、希有の「性」の小説家として立ち、前人未到の表現領域を切り開いていくうえで、ある意味ではフランスのリヨンやパリでの生活体験以上に、決定的に重要な意味を持つものであった。荷風がニューヨークでの生活体験を通して獲得したもので、のちの荷風文学の成立・展開に重要な意味を持つと思われるものについては、拙著『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)や、『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)、『荷風のあめりか』(平凡社、2005年)に詳しく記述してあるので、興味のある方はそちらを読んでいただくこととして、ここでは、要点のみ箇条書きにして、見ておくことにしたい。

1.アメリカ、特にニューヨークの市民社会の根底に流れる自主独立、個人主義の精神とモラルを、近代文学者として生きて行こうとする荷風自身の思想・精神、及びモラルの中核において引き受けたこと。

2.20世紀形の近代的メガロポリスとして急速に変身・深化を遂げるニューヨークの真っただ中で生活したことで、本物のモダニズム志向を一層強くし、真生モダニストに鍛え上げられたこと。

3.その一方で、近代都市的な文明と文化のドラマチックな進化の根底に、伝統文化のエッセンスが流れていること、そしてそこに調和の美学が息づいていることを発見したこと。

4.人種や言語、宗教、芸術などの面で、ヨーロッパ的な文化と非ヨーロッパ的な文化、特に黒人文化が常にクロスオーバーし、せめぎ合う中から、新しいアメリカ的、そしてそれゆえに20世紀的な文化価値が生み出されてくる現場に立ち合ったことで、荷風自身のクロスオーバー的生き方が定まり、それがその後の荷風文学の方向性を決定づけたこと。

5.一介の無記号者として生活することを通して、低く生きる姿勢と低い眼差しを獲得したこと。そして、そのことによって、19世紀末から20世紀転換期にかけて、巨大なメガロポリスとしてダイナミックに発展・飛躍するニューヨークの底辺に生きる人々の生活の実態を鋭く観察し、そこから見えてきたものを、『あめりか物語』に収められた短編小説に書き残した。

6.タコマにいたころから、フランスの自然主義作家モーパッサンの小説を読み始め、ニューヨークに至ってからも、モーパッサンは言うに及ばず、マラルメやボードレール、ベルレーヌなど19世紀末フランスの象徴派や頽廃派の詩人の作品を読み込んだことで、ここにこそ自分の進むべき道があることを発見する。そしてそのことによって、ゾラ風の厳格自然主義の桎梏から解放され、自分の思うこと、感じることを率直に書いて行くことで、文学者として自身の立ち位置と方向性を見定めたこと。

7.メトロポリタン歌劇場でワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』に感動し、男と女が性的対関係性において、死と引き換えにエロスの頂点において完全に結合・合体しあうことの美しさと尊さを発見、深く感動したことで、最も20世紀文学的な主題である「性」を、自身の文学の主題の中核に据える契機をつかんだこと。
8.だがしかし、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』以降の楽劇、たとえば『タンホイザー』や『ローエングリン』などを聞き込むことで、性的解放感以上に宗教的モラル性を上に置こうとするワーグナーの偽善性を発見し、ワーグナーの世界から遠ざかって行ったこと。

9.さらにそれに代わるものとして、ニューヨーク・シンフォニーの演奏によるドビュッシーの管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』を、カーネギー・ホールで聴き、そこに人間の性欲本能が最も美しく、純粋、かつ肯定的に表現されていることを発見して、深く感動。そのうえで、自分自身を「牧神」に擬すことで、文学的生を生き抜いて行こうという姿勢とモラルを確立させたこと。

10.そしてその結果として、女性との性的対関係性を、常に社会の外、あるいは周辺に生きる女性(具体的には私娼婦やカフェの女給)に求めてきた自身をが、ギリシャ神話に出てくる半人半獣神として生まれてきたことのゆえに、神の世界と人間の世界の周辺に追放され、そこで生殖本能としての「性」を禁じられながら、それでも抑えがたい性欲に駆られてニンフを追掛けざるを得ない「牧神」に擬し、社会の周辺、あるいは外側に生きる女性と性的対関係性を結ぶことで、文化としての「性」が人間精神の解放に対して持つ意味を読み解くことを生涯の文学的テーマとする決意を固めたこと。

11.19世紀末から20世紀転換期にかけて、アメリカを風靡した、アメリカが生み出した最初の国民的大衆音楽であり、またヨーロッパ伝来の白人音楽とアフリカ大陸伝来の黒人音楽がクロスオーバーして生まれてきた、ダンス音楽としてのラグタイムの洗礼を浴びることで、黒人音楽や舞踏とクロスオーバーすることで成立した、アメリカの20世紀型の大衆的な都市文化のエッセンスを、初めて日本の近代文学に取り込み、結果として日本の近代文学が20世紀の世界文学として成立し、発展していくための下地を作った。言い換えれば、森鷗外や夏目漱石の文学に欠落していた「あめりか」を補完することで、日本近代文学に20世紀世界文学としての資格性を付与したということである。

12.街娼婦イデスと泥沼のような性愛の関係を持つことで、イデスとの関係に溺れこんで、ニューヨークの陋巷に朽ち果てるか、文学の道を自分なりに極めるべく、イデスを捨ててフランスに渡るか死ぬほど苦しむものの、最後は、自分の生きる道は文学にしかないと思い極め、フランスに渡る決意を固めたこと。

13.荷風がイデスを捨て、フランスに渡ることを取ったということは、愛より言語を取ったということであり、愛と言語の背立しあう関係性をギリギリの地点で見極め、生の証しとして言語(=日本語)を取ることで日本に帰国し、文学者として立った近代文学者は、森鷗外と永井荷風をおいて他にいない。

横浜正金銀行のーヨーク支店で働いていたころの永井荷風(筆者所蔵の絵葉書より)
荷風が、ハドソン河河口を渡るフェリーの上から見上げて、足下に拝伏したい」「あゝ神にも等しいではないか」とオマージュを捧げた自由の女神像(筆者の絵葉書コレクションより)


当時の橋梁築造技術の粋を集めて建造されたブルックリン・ブリッジ。創建当時から100年以上経った今も健在である(筆者所蔵のステレオ写真コレクションより)

荷風が、銀行のオフィスで働いていたころのウォール街 (筆者所蔵の絵葉書コレクションより)
チャイナ・タウンの阿片窟。荷風は、銀行勤務が終わると、こういうところに出入りしていた


夜のタイムス・スクェア―。白く光って立っているのがタイムズ・ビルディング
コニー・アイランドのルナ・パークのシンボル・タワーの天辺から綱を伝い、笠をさして下りて来る日本人軽業師
(いずれも筆者所蔵の絵葉書コレクションより)

荷風がワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴いて感動したメトロポリタン歌劇場
同歌劇場の看板歌手エンリコ・カルーソー
(いずれも筆者所蔵の絵葉書コレクションより)

荷風が、ニューヨーク・シンフォニーの演奏で、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』を聞いたカーネギー・ホール(いずれも筆者所蔵の絵葉書コレクションより)
印象派の作曲家、クロード・ドビュッシー。永井荷風が、20世紀の文学者として立つうえで、決定的に重要な影響を与えた。

あこがれのフランスへ―ある幻滅と疲労感

 ニューヨークで吸収できるものは全て吸収し、真正のモダニスト文学者として生まれ変わった永井荷風は、横浜正金銀行リヨン支店に転勤することが決まり、イデスをニューヨークの陋巷に捨てるようにして置き去りにし、1907(明治40)年7月18日、フランス船ブルターニュ号に搭乗し、フランスに渡る。船は9日で大西洋を渡り、7月27日、フランス北東部の港町ルアーブルに到着。以後、荷風は陸路でパリに出て、一泊し、直ぐにリヨンに向かう。

 夢にまで見たフランス……荷風の心身はさぞや喜びに溢れ、浮かれ立ったであろうと思われる。しかし、「フランスより」〔『あめりか物語』附録〕と題して、『あめりか物語』に収められた三つの短編の冒頭に置かれた「船と車」という短編を読むと、たとえば、ルアーブル発のパリ行急行列車が動き出すと、荷風は、ゾラが『獣人』で描いて見せた沿線の「荒涼、寂寞、又殺気に満ちた、さま/″\な物凄い景色」を確かめようと、身を乗り出すようにして、車窓の外に広がる景色に目を凝らすが、目に入ってきた風景・景観に、「自分は昨夜、港に這入(はい)つた時よりも一倍注意して、窓から首を出して居た。が、又も自分は失望―と云ふよりは意外の感にうたれねばならなかつた」と、ある種の幻滅感を表明している。

 さらにまた、ノルマンディの田園地帯を走る汽車の窓から見た風景についても、荷風は以下のように、失望感を表明している。

 例えば、見渡す広い麦畑の麦の、黄金色に熟して居る間をば、細い小道の迂曲して行く具合と云日、已に収穫を了(おは)つた処には、転々血の滴るが如く、真赤な紅瞿栗の花の咲いて居る様すと云ひ、又は、其の頂まで見事に耕されて、さまべの野菜畠が種々(さまざま)に色別けして居る小山や岡の高低と云ひ、枯草を山のやうに積んだ二頭立ての馬車が通つて行く路傍(みちばた)には、正しく列をなして直立して居る白楊樹(プープルヱー)の木の姿と云ひ、或は、野牛が寐て居る水のほとりの夏の繁りと云ひ、其の位地、其の色彩は、多年自分が、油絵に見て居た通りで、云はゞ、美術の為めに、此の自然が誂向きに出来上つているとしか思はれず、其れが為め、『自然』其のものが、美麗の極、已にクラシツクの類型になりすまして居るやうで、却て、個人的の空想を誘ふ余地がないとまで思はれた。

 夢に見るまで憧れたフランス北部のノルマンディの田園風景になぜ、荷風は失望し、幻滅しなければならなかったのか。その理由は、アメリカにおいてゾラやモーパッサンの小説を読み、マラルメやボードレーヌなどの19世紀末のフランス近代詩を読むことで、荷風の頭のなかで描かれたフランスのイメージが、ある意味で完璧に観念的な固着画像にまで定着し、そのイメージと現実に見るイメージとの落差、あるいは齟齬の感覚が、荷風を苦しめ、苛立たせたからであった。

 重要なことは、そのような幻滅、失望感が荷風を疲れさせたということで、「船と車」の次に置かれた「ローン河のほとり」という短編の冒頭で、荷風は「リヨンの市街を流れる、ローン河(が)の水を眺めて、自分は今、石堤の下、河原の小砂利を蔽ふ青草の上に、疲れた身体を投倒して居る」と書き出したうえで、「毎日、何も為(し)ないが、非常に疲れた。フランスに来てから、早や二週間余りになる。最(も)う旅路の疲れと云うふ訳でも有るまい……」と、ただならぬ疲労感を表明していることである。荷風が、アメリカに渡ってきて以来、ほぼ4年。シアトル、タコマからセントルイス、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンと、アメリカ大陸を横断し、さらにニューヨークで1年と7カ月余り生活して来て、その間に出口のないイデスとの泥沼のような性愛への惑溺や空虚な銀行員生活の味気なさ、フランス渡航を許してくれない父親との葛藤、病気……と苦しみ悩むことはあっても、荷風がこれほど深い疲労感に捉われたことはなかった。

 それにしても、荷風はあれほど憧れたフランスにやってきて、なぜこれほど疲れなければならなかったのは。理由は二つ、一つは昼間は仮面が被って、銀行のオフィスで仕事をしなければならないことにほとほと嫌気がさし、又それとは裏腹に夜は酒を飲み、女を捜し、オペラや芝居、コンサートを鑑賞し……という二重生活を続けることに耐えられなくなったこと。さらにもう一つは、前述したように、観念のなかのフランスと現実のフランスとの落差と齟齬、そしてそこに起因する葛藤が荷風の神経を疲れさせたからである。

 ただ、このような深い疲労を抱えて、人は長く生きてはいけない。荷風もまた、それ以上銀行員生活を続けていくことを断念し、日本に帰国を決意し、父親の許可を得て、横浜正金銀行リヨン支店の職を辞し、明治41(1908)年3月28日、パリに出てくることになる。

パリでのエトランジェとしての自由で、至福の生活

 明治41年3月28日、パリに出てきた永井荷風は、日本帰国のためパリを去る5月28日まで2か月間、一切の拘束から解き放され、自由なるエトランジェとして、パリの街を歩き、セーヌの河岸に佇み、エッフェル塔を見上げ、カルチェラタンやモンマルトルのカフェで憩い、声をかけてきたパリ娘と語らい、ムーランルージュやコンセル・バトワールで軽音楽劇を楽しみ、コミック・オペラやサラ・ベルナール劇場でオペラや演劇、舞踏を鑑賞し、モンソー公園のモーパッサンの石像に額ずき、モンマルトルの墓地に椿姫のモデルであるマルグリット・ゴーティエの墓を捜し……と、存分にパリ生活を満喫する。

 拙著『荷風のあめりか』(前出)で詳しく論じたように、荷風の4年と10カ月に及ぶ外国生活で獲得したもののほとんどは、アメリカ、特にニューヨークで獲得されたものであった。ただしかし、荷風が、リヨンとパリでの8カ月の生活を通して、アメリカとフランスでの生活体験の総仕上げともいうべき、大切なことを発見していることは見落としてはならないだろう。それは、20世紀のモダン都市として大きく変貌を遂げようとしているパリが、そのモダニズムを根底において支えるものとして、伝統を守り、大切にし、そのことが結果として、パリならパリ独自の調和の美を創りだしているということである。

 『ふらんす物語』の挿絵に使われたパリの絵葉書
(筆者所蔵の絵葉書コレクションより)


モンソー公園内に建つモーパッサンの石像(筆者所蔵の絵葉書コレクションより)

 かくして、永井荷風は、ニューヨークとパリの生活を通して、当時の日本にあって、最も先端的で、純粋、かつ真正なるモダニストに生まれ変わる一方、伝統を守ることの大切さを深く認識したうえで、5月50日、ロンドン港から日本郵船の讃岐丸に乗って帰国の途に就くことになる。

 さてそれでは、時代の最先端を走る近代主義的伝統主義文学者であり、伝統主義的近代主義文学者でもある永井荷風を、日本で待受けていたものは何か? 詳しくは次章に。

(2017年04月14日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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