集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第二章 慶応義塾誕生―新時代の知と教育の共同体

咸臨丸に乗って初めての渡米

 2か月前の1月17日にアップされた本連載の第一回目原稿「はじめに」にはじまり、これまでに第一章「福沢諭吉―慶應モダニズムの泉源」として3回、原稿を更新させ、福沢諭吉の出自と生い立ち、そして成人して以降、中津から長崎遊学を経て、大阪の適塾での塾生生活、さらに江戸に出てきては中津藩藩邸中屋敷でオランダ語を教授するまで、北九州豊前の中津藩の下級武士であった福沢諭吉が、幕末維新の激動期にあって、図抜けたモダニスト福沢諭吉に「成り上がる」までの経緯を丁寧に追ってきたわけだが、肝心の永井荷風と慶應義塾大学文学部との関係について、なかなか記述が出てこないのはどうしてだ?と、いぶかる向きもあるだろうと思われる。

 しかし、これは、4年と10か月に及ぶアメリカとフランスでの生活を通して、近代欧米社会の根底に流れるモダニズム精神をしっかりと身に付けて新帰朝してきた永井荷風が、慶應義塾大学部文学科の教授に招聘され、結果として、日本近代・現代文学史の展開にあって、慶應義塾大学文学部を早稲田大学文学部に匹敵するに存在たらしめる至った背景に、荷風のモダニズムと、福沢諭吉に源を発する慶應義塾のモダニズムが、相互に感応し合い、それがプラスの方向に働いたからであるという読み取りに立って、本連載の記述を進めていくうえで、すべての源泉としての福沢諭吉のモダニズム精神が如何なる経緯で生まれ、慶應義塾という新時代のモダニズムを体現した「知」と「教育」の共同体の成立を可能にしたか、その経緯をしっかりと検証しておく必要があると思ったからだということをご理解いただきたい。

 ただしかし、50数年ぶりに読み返した『福翁自伝』が無類に面白く、しかも私自身の出自が諭吉と同じ北九州地方の豊前であり、諭吉が自身の出身地たる豊前の中津地方の方言や、人々の意識や行動を縛る古い封建的な身分制度や風習、迷信などに対する嫌悪感から中津を脱出し、より自由に己自身の生きる道を求めて長崎、大阪、江戸、アメリカ、ヨーロッパと、外へ外へと己の存在を駆り立て、欧米の新時代の文明・文化とクロスオーバーすることで、文明開化の思想や独立自主の精神を持つに至った経緯が、豊前から東京、ストックホルム、ロンドン、ケンブリッジを経て、ニューヨークで25年間生活し、日本に帰国してきた私自身のクロスオーバーな人生体験と重なることを発見したせいで、諭吉についての記述がついつい長くなってしまったことも事実である。

 その点をご理解いただいた上で、本章から『慶應義塾誕生―新時代の「知」と「教育」の共同体』というタイトルで、永井荷風を迎え入れる母胎となった慶應義塾大学部文学科の前身である慶應義塾が、モダニスト福沢諭吉の指導の下、いかにして東京帝国大学と並ぶ新時代の「知」と「教育」の共同体として、自立・発展するに至ったかについて、筆を進めていくことにしたい。

 さて、独学に近い形で英語習得に目途が付き出したころ、英語の能力をさらに一段と飛躍的に向上させるうえで、千載一遇のチャンスが諭吉に巡ってくる。安政5(1865)年6月19日に締結された日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする徳川幕府の遣米使節団が、米軍艦ポーハタン号に乗って渡米することになり、諭吉は、その護衛艦として渡米する咸臨丸の司令官(総督)で、軍艦奉行の木村摂津守喜毅の従者として渡米することになったのである。

 咸臨丸は、1857年にオランダのキンデルダイクで建造された木造のバーク式マストを3本備えた蒸気コルベット船で、12門の大砲を備える軍艦であった。完成後すぐに日本に送られ、長崎の海軍伝習処の練習船として使われていた。諭吉ら一行はこの船に乗って、万延元年(1860年)の1月13日(旧暦)に品川を出港、途中ハワイに寄ることなく、44日かけて太平洋を横断し、2月26日にサンフランシスコに入港する。

太平洋の荒波にもまれながら、アメリカに向かって進む咸臨丸

 『福翁自伝』によると、途中、海は荒れに荒れ通し、晴れて青空が見えた日は3日くらいしかなく、船体が40度近く傾くことも珍しくなかったという。そのため、司令官の木村摂津守はじめ、一行のほとんどがひどく船酔いに苦しんだが、元々身体頑強な諭吉は、「航海中私は身体が丈夫だとみえて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて『これは何の事はない、生まれてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入って毎日毎夜大地震にあっていると思えば宣いじゃないか』と笑っているくらいなことで、船が沈もうということは一寸とも思ったことがなかったという。

 ちなみに、咸臨丸には、司令官で軍艦奉行の木村摂津守以下、船長の勝海舟や運用方の佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量士の小野友五郎、伴鉄太郎など幕府派遣の団員に、通訳の中浜萬次郎、医師二人、さらにくわえて瀬戸内海塩飽諸島の水夫数十名に火夫など合わせて百人近くが乗り込んでいたが、彼らは、最初から最後まで、すべて日本人の手でやり通す覚悟で、アメリカ人航海士が何人か同乗していたものの、一切彼らの手を借りず、荒海を乗り切ったという。

 この点について、諭吉は、「しかしこの航海については、大いに日本のために誇ることがある、というのは、そもへ日本の人が初めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年のことで、安政二年に長崎においてオランダ人から伝習したのがそもへ事の始まりで、その業成って外国に船を乗り出そうということを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しょうというその時、少しも他人の手を借らずに出掛けて行こうと決断したその勇気といいその伎倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う」(『福翁自伝』)と、日本人の自主独立の気概と進取の気性を称えている。

 ともあれこうして、日本人だけの力で太平洋を横断し、サンフランシスコに上陸した一行は、およそ二か月に及ぶ滞在期間中、盛大な歓待を様々に受け、欧米式の近代社会と人々の生活の実態を見聞し、新知識を大いに吸収したうえで、再び咸臨丸に乗って帰国の途に就き、途中ハワイに寄港し石炭を補給したうえで、5月5日に浦賀に帰着している。

サンフランシスコ滞在中に15歳のアメリカ人少女と一緒に撮影した写真。

 3本マストの帆船による、往復3か月半に及ぶ太平洋横断の旅は確かに、苦難の航海であった。ただ、その反面で、2か月余りのアメリカ滞在で諭吉が得たものは大きかった。先ず第一に、朝起きてから夜眠るまで英語しか通用しない世界で、全神経を集中させて、英語を聞き、英語でしゃべることで、諭吉の英語力が飛躍的に向上したこと、さらにまた、アメリカ人の生活や風俗、習慣の実態、社会や国家のシステム、自然風景や都市の景観、各種産業施設など新大陸アメリカの文明文化の在り方を、自身の目で確かめたことで、文明開化や独立自尊といった、福沢諭吉の理念としてのモダニティの実態が、初めて具体的に見えてきたことである。

遣欧使節団の通訳として初めての渡欧

 自ら売り込むようにして、木村摂津守の従者として咸臨丸に乗りこみ、幕府派遣の一行とおよそ4か月生活を共にしたことは、さらにもう一つ諭吉に恩恵をもたらした。それは、司令官の木村摂津守や艦長の勝海舟、その他使節団の要人から諭吉の才能と豪胆な気質が認められ、帰国後に幕府の外国方(今の外務省のような役所)に翻訳官として採用され、欧米から派遣された公使や領事から幕府に送られてきた公文書の翻訳の仕事に就くことが出来たことである。当時、英語やフランス語で書かれた外国公使、領事からの手紙にはオランダ語の訳が付けられていたので、諭吉たち翻訳官は、英語で分からないところは、オランダ語の翻訳を参照して訳して行ったという。

 こうして、幕府の翻訳官として日々、外国公文書を翻訳することで、英語に磨きをかけるなか、さらに翌文久元年末の12月、諭吉にとってもう一つ願ってもないチャンスが訪れることになる。幕府が派遣する遣欧使節団の通訳としてヨーロッパに渡るというものであった。これは、それより前、安政5(1865)年7月にイギリスやフランス、オランダなどのヨーロッパ先進国と修好通商条約が締結され、横浜や神戸、長崎などの開港と、江戸や大坂などの都市が開都することが決められたものの、幕府側の都合で開港・開都の期日を延期してもらうための交渉と、ロシアとの樺太における国境画定交渉を行うために派遣されたもので、正使の竹内下野守を筆頭に、副使の松平石見守、御目付役の京極能登守、組頭の柴田貞太郎以下、幕府からの派遣員に医師や通訳などを加えて、総勢40名近い一行は、文久元年(1862年)の12月22日、イギリスの軍艦、オーデン号に搭乗。途中、香港、シンガポールと寄港し、インド洋を横断し、アラビア海から紅海に入り、スエズで上陸し、汽車でエジプトのカイロに向かい、そこから再び船で地中海を横断して、フランスのマルセイユで上陸。さらに、汽車に乗ってリヨン経由でパリに入る。

 一行は、20日間パリに滞在したのち、イギリスのロンドン、オランダのアムステルダム、プロシアのベルリン、ロシアのペテルブルグなどを歴訪し、文久2年12月12日に日本に帰着することになる。この間、およそ一年に及ぶヨーロッパ歴訪体験は、福沢諭吉にとって二つの点で重要な意味を持つものであった。一つは、ヨーロッパ列強諸国を近代的な文明国たらしめている政治や経済、法律、工業、郵政・交通、教育、軍事などが如何なる理念や制度、組織で組み立てられ、運営されているかをその目で確かめることで、日本が国を開いた後、いかなる方向において、いかにして近代的文明国家としての目的と理念を見出し、具体化して行ったらいいかが、諭吉なりに見えてきたことである。

遣欧使節団の通訳として随行した福沢諭吉。右より二人目。
 19世紀末のパリ凱旋門とパリ市街概観。(筆者所有の絵葉書より)

19世紀末のベルリン、ブランデンブルグ門の風景。(筆者所有の絵葉書より)
19世紀末のロンドン、テームス河と聖ポール大聖堂。(筆者所有の絵葉書より)

アジアの悲惨な現実を見ることで獲得された「脱亜入欧」の理念

 さらにもう一つ重要な意味というのは、西回りでヨーロッパに上る船の旅の途中、香港やシンガポールなど、南アジアや東南アジアの、ヨーロッパ列強国の植民地支配の下に置かれた国々の港町に寄港し、波止場で働く労働者の惨めな姿や船から投げられた小銭を海中に潜って拾い上げ、生活の足しにしている現地人の卑屈な生の実態を目の当たりにして、諭吉が、日本が国を開くのはいいとしても、列強の植民地になることだけは、絶対に避けなければならない。そのためにも日本は一日も早く、ヨーロッパの文明・文化を取り入れ、「文明開化」という近代化を推し進めることで、アジアの劣等国から脱出して、ヨーロッパの列強の仲間入りしなければならないという、いわば「脱亜入欧」の理念を思想として持つに至ったということである。

 福沢諭吉が、ヨーロッパに上る途中で見た、アジア的貧困と被差別、抑圧、前近代性の現実は、諭吉に続いて、ロンドンやパリ、ベルリンに留学、あるいは職務の上で赴任して行った明治期のエリートたち、例えば森鷗外であれ、夏目漱石であれ、誰もが見た現実であり、アジアの悲惨な現実から一日も早く抜け出して、ヨーロッパ先進国の仲間入りをしなければならないという「脱亜入欧」の決意と理念もまた、誰もが共有したものであった。

アジア的貧困と被差別の象徴、香港の波止場で働く苦力。(筆者所有の絵葉書より)
シンガポール港の船上生活者。観光客が船の上から投げる小銭を、海に潜って拾い上げ生活の足しにしていた。(筆者所有の絵葉書より)

 たとえば、福沢諭吉が遣欧使節団の通訳としてヨーロッパに渡ったときより32年のちのことであるが、明治28(1895)年の4月、日刊新聞「日本」の特派員として、日清戦争を取材すべく近衛師団の従軍記者として、遼東半島に渡った正岡子規は、香港とは全く逆方向ではあるもの、中国大陸の北東部に位置する遼東半島南端部の大連に近い柳樹屯というところの海岸に船が近づいたとき、何かもらおうとして小舟に乗って現地の中国人が寄せ集まってくるのを見て、『陣中日記』に次のように記述している。

 行先遥かに山を見る。漸く近づくに幾多の邱陵兀げ並びて姿のけはしからぬさすがに大国の風あり。砲台に昨日の戦を忍びつゝ〇〇湾に碇を投ずれば、乞食に劣りたる支那のあやしき小舟を漕ぎつけて船を仰ぎ物を乞ふ。飯の残り、筵の切れ迄投げやる程の者は皆かい集めて嬉しげに笑ひたる亡国の恨みは知らぬ様なり。船の形は画に見つる如く中部低く、両端に高くして雅致多きものから、不潔言はん方なければ、悪疫の恐れありとて近づけざるもあはれなり。(下線筆者)

  子規は、さらにまた上の記述に続いて、柳樹屯に上陸し、金州城内に入ったときのこととして、現地人が日本語で葱を売っている場に行き当たり、彼らが利にさといことについて、「橋頭に土人の葱を売る者『いくら/\』と叫ぶ。之を買ふ者値を問へば日本語もて答ふ。それは高いと云へば『安い/\』と答ふ。頑迷の民と誰が謂ひけん、利に喩(さと)る事の早きは皇国人の及ばぬ所なめり」とも記している。(下線筆者)

 あるいはまた、子規が日清戦争に従軍出征したときより5年遅れてイギリスに留学すべく、明治33年9月8日、ドイツ船プロイセン号に乗って横浜を出港した夏目漱石は、9月25日、シンガポールに寄港した際に、船のうえから見た光景を、「土人丸木ヲクリタル舟ニ乗リテ、船側ヲ徘徊ス。船客銭を海中に投ずれば海中ニ躍り入ツテ之ヲ拾フ」と記している。漱石はさらに、十月一日、セイロンのコロンボ港に着き、上陸して仏教寺院を見学したときのこととして、「路上ノ土人花ヲ車中ニ投ジテ銭を乞フ。且Japan Japanト叫ンデ銭ヲ求ム.甚ダ煩ハシ。仏ノ寺内尤モ烈シ。一少女銭ハ入ラヌカラ、是非此花ヲ取レト強乞シテ已マズ。不得已之ヲ取レバ、後ヨリ直グニ金ヲ呉レト迫ル。亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」とも記している。

 このように正岡子規の「亡国の恨みは知らぬ様なり」とか、夏目漱石の「亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」という、上から見下す目線で発せられた言葉とその裏にある蔑みの意識は、そのまますぐに「脱亜入欧」の理念とつながり、日清戦争や日露戦争など対外戦争を戦うに至って、激越な愛国意識に豹変し、子規は「行かば我筆の花散る処まで」とか、「出陣や桜みながら宇品まで」という俳句を詠み残し、旧藩主から拝領した刀を一本背負いに背負いこんで、まなじりを決して近衛師団付の従軍記者として遼東半島に渡り、夏目漱石は、日本軍の勝利に興奮し、愛国感情に駆られて「従軍行」という新体詩を詠んで、「ロシア討つべし!」と激越に歌い上げ、日本軍兵士を鼓舞したことは、拙著『正岡子規、従軍す』(平凡社、2012年)で詳しく論じたところである。

 以上見てきたように、地球を西回りでヨーロッパに上った明治のエリートたちは、東アジアや東南アジア諸国の港湾都市で、植民地支配の悲惨な現実を見たことで、母国日本のために自分が何を成すべきかを悟り、文明開化の戦いの先兵として、日本国家の近代化のために全力を尽くそうという決意を固めて留学先や勤務先に赴き、そこで精一杯新知識と技術を吸収して日本に帰国していった。重要なことは、彼ら明治日本の先鋭としてヨーロッパ先進国に留学したエリートたちの、アジア的悲惨な現実を慨嘆する上から見下ろす眼差しが、そのまま「脱亜入欧」の意識や決意、あるいは使命感と化し、それはまたさらに理念として昇華され、日本が懸命になって文明開化と殖産興業、富国強兵に努め、欧米列強に匹敵する強大国となり、軍事力を背景にアジアの近隣諸国を侵略し、ヨーロッパ型の植民地宗主国に成りあがって行くうえで、日本を支え、前へ前へと突き動かす原動力ともなったということである。

低い眼差しからアジアの現実を見た永井荷風

 ところで、福沢諭吉に端を発し、正岡子規から森鷗外や夏目漱石まで流れ込むこととなった「脱亜入欧」の思想と理念を支えた、上からの目線とは対照的に低い目線でアジアの現実を見据え、そうした現実を超克して、文明開化、殖産興業、富国強兵という近代化を強引に推し進め、中国やロシアとの戦争に勝利したことで、欧米列強並みの帝国主義国家に成り上がろうとしていた日本に対して、痛烈な批判の眼差しを投げかけた文学者として、永井荷風の存在を見落とすことは出来ない。

 拙著『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)や『荷風のあめりか』(平凡社、2005年)、さらには『夏目金之助、ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)で詳しく見たように、明治36(1903)年9月22日、横浜を出港し、太平洋を横断してシアトルに上陸、以後、タコマ、セントルイス、カラマズー、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューヨークと1年と3か月かけてアメリカ大陸を横断しニューヨークにおよそ1年と8カ月滞在したあと、明治40(1907)年18日、フランスに渡るべくニューヨーク港を出港し、ルアーブルでフランスに上陸。リヨンとパリにほぼ9カ月滞在し、明治41(1908)年5月30日にロンドンを出港して帰国の途に就いた永井荷風は、地中海から紅海を抜け、アラビア海、インド洋を横断して、スリランカのコロンボに寄港したのち、6月の末頃、シンガポールに寄港している。そのときの見聞に基づいて書き上げ、明治42(1909)年1月1日、発行の「秀才文壇」(文光堂)に掲載され、のちに『ふらんす物語』に収載された「悪寒」とい短編小説のなかで、荷風は、シンガポール港に入って行く船のうえから見た、波止場のうえで、現地の労働者(クーリー)たちが、貨物を倉庫に運び込んだり、石炭を船に運び込んでいる現場を目にして、次のように記述している。

  汽船は古い木製の桟橋に繋がれて居る。桟橋の向うには、汚れた瓦屋根の倉庫が引続いて居て、熱帯の青空ばかり、陸地の眺望の、凡てを遮ってゐる。甲板からは、耳を聾する機会の響と共に、荷物が桟橋へと投出される。醜い馬来の土人や汚い支那の苦力が、幾人と数知れず、互いの身を押合うやうに一方では、取出された荷物をば、倉庫のなかに運んで行く。と、一方では、倉庫の中から石炭を運び出して船へと積込む。何(いづ)も腰のほとりに破れた布片一枚を纏う不ばかりなので、烈日の光と、石炭の粉、塵埃の烟の渦巻く中に、行つ戻りつ、是れなどの労働者の動いている有様は、最初は人間でなくて只、黒い、汚い肉の塊りが、芋でも洗ふやうに動揺して居るとしか思はれなかつた。(中略)東洋と云ふ処は実にひどい処だ、ひどい力役の国であると感じた。
 (中略)
  あゝ、シンガポール。英領海峡植民地の船着き場シンガポール。荷船、土蕃、出稼人……自分はふいと、流行だの、粋だの、華奢だのと云うふものが、如何にこの天地は無縁であるかに驚いた。自分が腰掛てゐる椅子の前をば、汚い毛脛を出した跣足の土人が、絵葉書や宝石や果物なぞを売りに来る。爪の延びた黒い手先や、厚い唇の間から現はれる磨かない歯、垢だらけの胸、襟首、毛脛の肉は、実際、自分をして、これまで経験した事のない一種の恐怖をさへ催さしめる

 「醜い馬来の土人や汚い支那の苦力」とか「人間でなくて只、黒い、汚い肉の塊りが、芋でも洗ふやうに動揺して居る」、「汚い毛脛を出した跣足の土人」、「爪の延びた黒い手先」、「厚い唇の間から現はれる磨かない歯」、「垢だらけの胸」……。こうした言葉に表出されている荷風の、薄汚く、不潔なアジア的現実に対する、吐き気を催すような生理的嫌悪感は、正岡子規や夏目漱石がアジア的現実を前にして、露わにした嫌悪感と明らかに共通するものである。

 だがしかし、荷風の嫌悪感が、子規や漱石のそれと決定的に違うのは、子規が「亡国の恨みは知らぬ様なり」とか「利に喩る事の早きは皇国人の及ばぬ所なめり」と、また漱石は「亡国ノ民ハ下等ナ者ナリ」と、目の前の醜悪な現実を見据える代わりに、それぞれが精神的な拠り所としている国家という共同性、すなわち「皇国=大日本帝国」の存在を意識の前面に浮かび上がらせることで、上から見下げる眼差しを獲得し、優越者としての安全圏を確保し、差別的な言辞を弄することで、醜悪な現実と向かい合うことから逃げていることである。

 ところが、子規や漱石のように「皇国」の後ろ盾を持たない荷風は、上述のようなアジア的現実に対する不快感と絶望感をしつこい程書き連ねたうえで、「いくら焦立つても、最う駄目だと云う気もした。自分一個の小い才能では、どうしても大きい自然に敵しやう。『東洋』と云ふ野生の力が、眼には見えないが、もう身体中に浸込んで、此の年月、香水や石鹸で磨いた皮膚や爪は無論、詩や音楽で洗練した頭脳まで、あらゆる自分の機官と思想をば、めちや/\に蛮化さして行くややな気がする」と、心身のレベルで自分がなし崩し的に、アジア的悲惨・醜悪な現実に浸蝕・同化されていく感覚に捉われつつあることを告白する。そのうえで、荷風は、

 あゝ、再び見るわが故郷。巡査、軍人、教師、電柱、女学生、煉瓦造りにペンキ塗り。鉄の釣橋、鉄矢来。自分は桜咲く、歓楽の島ではなく、シンガポールよりも、それ以下の、何処かの植民地へと流されて行くやうな気がする。

 と、子規や漱石にとっては安全圏で、自己の優越性を保証する根拠でもあった「皇国(大日本帝国)」を、シンガポールより以下の「植民地」に貶め、自分はそこに「流されて行くやうな気がする」と、諭吉や子規、漱石らの「脱亜入欧」の意識や理念とは真逆の方向で、自身の心身のレベルで悲惨・醜悪な現実に身を浸し、その現実に溶解されていくことで、「脱欧入亜」していかざるを得ない不安と絶望感に捉われている。

 こうした記述を読めば分かるように、日露戦争に勝利したことで、「脱亜入欧」の悲願達成に向けて、益々醜悪皮相な近代を推し進める「大日本帝国」の現実に、自分がこれから落ち込んでいくという永井荷風の絶望的「下降感覚」と、自身の出自たる母国「日本」に対する批判意識において、荷風のモダニズムは、福沢諭吉のモダニズムと鋭く対立することになる。

 福沢諭吉の「脱亜入欧」の理念は、前近代性なアジア的後進性に強くしばられた郷里共同体としての豊前・中津のローカルな言語や風俗・習慣、封建的な門閥制度や迷信に強く反発してそこから脱出し、長崎から大阪、江戸、アメリカ、ヨーロッパと、常に外へ外へと、そして近代へ近代へと自身を追い立てるようにして、生きる道を追求してきた諭吉が、思わぬ形で行きあたってしまったモダニズムの矛盾点であり、限界点でもあった。そして、それは同時に、人間の独立自尊を説き、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と説き、「ペンは剣よりも強し」という言葉を、慶應義塾建学の理念として掲げたモダニスト福沢諭吉の言説と矛盾するものでもあった。さらにそれは、鎖国から脱出し、国を開き文明を開化することで、近代国家として自立することを求めた帝国主義国家、日本の近代主義が内包していた矛盾でもあり、同時にそのことによって、福沢諭吉のモダニズムは、文明開化がもたらした「負」の側面、すなわち文明開化や殖産興業、富国強兵を国家理念として掲げ、結果としてアジア最大の軍事国家に成り上がり、侵略戦争に勝利することで、遅れてきた最後の植民地宗主国たらんと欲した近代日本のありようを徹底的に批判し、その文学的生涯を通して「ペンは剣より強し」を身をもって証明しようとした近代的反近代文学者、あるいは反近代的近代文学者永井荷風のモダニズムと鋭く対立・矛盾するものでもあった。

 そして、それ故にというべきか、永井荷風は、福沢諭吉のモダニズムとそれとは裏返しの「脱亜入欧」の夢と理念を最もよく追及し、実現してきた慶應義塾大学分理財科の教授のなかから「荷風が慶應の教授であるのはまずい」という声があること知って、大正5(1916)年3月、文学科教授のポストを投げ捨てるようにして、慶應を去って行くことになるわけだが、そのことについては、後の章でくわしく見ていくことにしたい。

攘夷論が吹き荒れるなか慶應義塾誕生

 さて、文久元年の遣欧使節団に通訳、翻訳官として随行し、ほぼ一年を費やしてヨーロッパ各国を歴訪し、欧米先進国の近代的文明・文化の実態を知ることができたことで、福沢諭吉がとりわけ思いを深くしたのは、日本が国を開き、欧米の近代的先進文明や文化を取り入れていくことの必要性であり、それを担うことのできる、近代的「知」と「技術」と「発想力」、さらに「行動力」を身に付けた人材を育成することの必要性であった。

 諭吉にとって、新しい時代の日本を担う人材を育成する方法は二つあった。一つは啓蒙することで、欧米先進国の近代的文明や文化の実態を演説や書物の刊行によって広く国民に知らせることで、諭吉は、ヨーロッパ歴訪から帰国した翌年の文久2(1862)年には、早くも『西洋事情』を刊行し、以後、『西洋旅案内』、『条約十一国記』、『西洋衣食住』、『兵士懐中便覧』、『英国議事院談』、『世界国尽』、『学問のすゝめ』、『文明論之概略』など、啓蒙書を次々と刊行し、啓蒙思想家として地位を確立していくことになる。

慶応2年に初篇が刊行された『西洋事情』ヨーロッパ先進国の政治や外交、軍事、教育、科学技術などについて解説・紹介したもの。
明治2年に初版が刊行された『学問のすすめ』

 諭吉にとって、もう一つの人材育成法は、現に自身が英語、英学の教師として関わっている中津藩江戸藩邸内中屋敷での英語と英学教育の内容を一層充実させ、規模を拡げていくこと、つまり後に「慶應義塾」という名称を冠せられることとなる、英学塾を近代的な「知」と「教育」の共同体に発展させ、そこでの教育を通して有為の才能を育て上げることであった。そのため、諭吉は二度に及ぶアメリカ訪問と一度のヨーロッパ諸国歴訪を通して、英語の字書や英文、欧文による書物を大量に購入し、日本に持ち帰ってきていたため、それによってより効果的な教育と学習環境を整えられることになったのである。

 こうして、国を開いて、文明を開花させることで、東洋の後進国日本を欧米先進国と伍しうる近代国家に変身させようという福沢諭吉の理念を実現させていくための手段、あるいは拠り所として、中津藩中屋敷での英学塾は、基本的な教育機関として一応の体制を整えることが出来た。ただそこで、諭吉の頭を悩ませたのは、嘉永6(1853)年に、ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求して以来、攘夷論が急速に高まり、文久2(1862)年8月、薩摩藩主島津茂久の父親の島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの薩摩藩士が切りつけ、一人を殺し、二人に重傷を負わせるという生麦事件が発生し、それが原因で翌年7月には薩英戦争が勃発するなどした結果、攘夷論は一層盛り上がり、諭吉のような洋学者は、いつ襲われてもおかしくないという危険な状況が続いていたことである。

 そうしたなかで、諭吉は何度か暗殺されそうになったことがあるが、その都度うまく逃げて暗殺を免れている。諭吉自身は、立身新流(たつみしんりゅう)の居合い術の免許皆伝の達人であったが、剣を抜いて立ち会うことの危険性を弁えていたせいか、逃げるが勝ちを決め込んでいる。そんな自身の流儀について、諭吉は、『福翁自伝』のなかで「言語挙動を柔らかにして決して人に逆はないやうに、社会の利害と云うふやうな事は先ず気の知れない人には云はないやうにして、慎めるだけ自分の身を慎んで、ソレと同時に私は著書翻訳の事を始めた」と語っている。諭吉としては、攘夷論者から目を付けられたり、「あいつは危険な考えを持つ開国論者だ」などと告げ口されないように言行を慎み、英書の翻訳に専念することで時代の嵐を乗り切ろうとしたわけである。

文久2(1862年)江戸築地鉄砲洲にあった中津藩中屋敷内の蘭学塾。塾は画面中央左側築山下の平地にあった。

 攘夷論の嵐を潜り抜けるうえで、諭吉に幸いしたのは、日本を不在にしている間も、中屋敷ではオランダ語や英語の教育が続けられていたことで、日本帰国後も、幕府の外国方での翻訳の仕事をこなす一方で、英語と英学教育の一層の拡充に努めたことで、「攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第次第に殖え」(『福翁自伝』)たため、「家の活計は幕府に雇われ扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て」(同前)いたという。

 こうして、攘夷論が吹き荒れるなか、それでも入塾者は増え、鉄砲洲の中屋敷が手狭になったため、文久元年の冬、諭吉は、塾を芝の新銭座(現港区浜松町)の借家に移し、そこで文久3年の秋まで英語と英学を教え、次いで、文久3年秋には、鉄砲洲の中屋敷に戻り、旧藩主奥平昌高の隠居所に塾を移し、イギリスの公立学校の組織・運営法を参考に、旧時代の塾から近代的な学校教育機関へと脱皮を図ることになる。当時まだ学塾には特別の名称はなかったが、書庫には、ウェブスターの大字典が数十部備えられ、さらにまた経済や修身、物理、化学、リーダー、地理、歴史などの英文、欧文書がかなりの数揃い、幕府の学問所と並ぶ量と質を備え、正に新時代の近代的教育機関としての体制が整いつつあった。

 この時期重要なことは、諭吉自身が中津から連れてきた小幡篤次郎や小幡甚三郎、小幡貞次郎、服部浅之助、浜野定四郎らが塾生に加わり、学塾を支える中核となったことと、徳川御三家の一つ紀州藩の藩士で入塾するものがかなりの数あったことである。紀州藩士の師弟で優秀な者は、塾が鉄砲洲の中津藩藩邸の中屋敷にあったころから入門してきていたが、慶応2年の冬頃から、入塾を希望する者が急増し、塾舎が手狭になったため、紀州藩の出費で、中津藩の藩邸のなかに専用の寄宿舎を建造し、そこに寄宿させるようになったためであった。

 塾舎は「紀州塾」とよばれ、慶應元年には3名だった入塾者が、2年には10名、3年には12名と増えて行った。この紀州塾に寄宿し、諭吉のもとで英語と英学を学んだものからは、のちに慶応義塾の塾長や横浜正金銀行の支配人を務め、小泉信三の父親でもある小泉信吉や慶應義塾幼稚舎の創始者である和田義郎、横浜正金銀行ロンドン支配人を長らく務め、現慶應義塾大学文学部英文学科の教授であり、SF評論家としても知られる巽孝之氏の祖父でもある巽孝之丞、慶應義塾医学所(後の医学部の前身)の所長を務め、のちに慈恵医大を創設した松山宗庵、南方熊楠がロンドン在住時代の横浜正金銀行の支配人で、熊楠とも親しく交わった中井芳楠など少なからぬ人材が出て、慶應義塾の名を高からしめるうえで、多大な貢献をしている。

 福沢諭吉の英学塾は、幕末・明治維新の頃には、江戸を代表する英学塾として名声を高め、入門者が年を追って増えたことと、鉄砲洲一隊が外国人居留地に指定されたことで、芝新銭座にあった久留米の有馬藩の藩邸を購入し、奥平藩邸内の長屋を貰い受け、150坪の塾舎を建造し、慶應4年の1月に移転し、塾の名称を「慶應義塾」と定める。事ここに及んで、福沢諭吉の英学塾は、近代的な学術研究、教育機関として面目を新たにして、慶應義塾大学149年の歴史に向けて第一歩を踏み出したことになる。

(2017年03月17日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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