集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第一章 福沢諭吉―慶応義塾モダニズムの泉源(3)

緒方洪庵の適塾に入門

 安政2(1855)年3月、中津に帰る途中、突然翻意して江戸に出て蘭学を学ぶべく、門司から船に乗って瀬戸内海を横断して明石で上陸、そのまま歩きに歩き通して、深夜に近く大阪の中津藩蔵屋敷に突然姿を現した福沢諭吉は、兄の三之助を驚嘆させた。なぜ、前もって知らせることもなく、勝手に大阪に出てきたのだと、厳しい口調で問い詰める兄に対して、諭吉は、事の次第を説明し、蘭学をもっと学びたいので、江戸に行かせてほしい旨、希望を語る。

 三之助は、諭吉の言い分に、「なるほど、それももっともだ」と思ったのだろう、「乃公(おれ)が此処に居なければ兎も角、乃公が此所で貴様に面会しながら之を手放して江戸へ行けと云へば兄弟共謀だ。如何にも済まんではないか。おツかさんは夫程に思はぬだらうが、如何にしても乃公が済まぬ。それよりか大阪にも先生がありさうなものぢや、大阪で蘭学を学ぶが宜い」と諭し、諭吉も「それもそうだ。まずは大阪に腰を落ち着け、蘭語と蘭学を学ぼう」と気持ちを切り替える。諭吉に幸いしたのは、蘭学を教えてくれる先生を探し始めてほどなくして、蘭方医でありながら、適塾という塾を構え、蘭学を教えている緒方洪庵という先生がいることを知り、さっそく入塾を申し出て、許可されたことであった。

 緒方洪庵は、文化2(1810)年7月14日、備中足守の木下藩の藩士で、備中佐伯氏第8代の当主佐伯惟因の三男として生まれている。佐伯惟因の祖先は、豊後の国の豪族大神氏に端を発する佐伯氏に始まるとされ、代々大友氏に仕えてきたが、戦国時代の末、大友宗麟が、日向に侵攻した島津義久の軍と耳川で戦い、敗れたことで大友家が衰運に向かうと、豊後を離れ、津藩の藤堂家に仕える佐伯氏と備中藩の木下家に仕える佐伯氏に分かれたという。

 備中佐伯氏当主の三男として生まれた洪庵は、文政8(1825)年に、大阪蔵屋敷留守居役となった父と共に大阪に出て、中天遊の私塾「思々斎塾」に入門して、蘭学、医学を学び、天保7(1838)年には長崎に遊学し、オランダ人医師ニーマンのもとでオランダ語と医学を学び、天保9(1838)年には大阪に戻り、瓦町(現・大阪市中央区瓦町)で蘭医として開業。同時に「適々斎塾(以下、適塾)」を開き、後進の指導にも当るようになる。

福沢諭吉をわが子のように見なし、訓育した緒方洪庵肖像画

大阪市中央区北浜3丁目3番に残る適塾の外観

 適塾は、洪庵の蘭方医としての名声が上がるにつれて、入塾するものが増え、手狭になったため、弘化2(1845)年に、過書町(現・大阪市中央区北浜三丁目)に商家を購入し、適塾を移転させたことで、益々門人が増え、そのなかからは、大村益次郎、佐野常民、橋本左内、高峰譲吉、長与専斎、福沢諭吉ら、幕末・明治に名を残す逸材が多数出ていることで、吉田松陰の「松下村塾」と並ぶ存在と言っていいだろう。

 ただ、松下村塾の門下生は、政治志向が強く、幕末・明治維新の動乱期に命を落としたものが多く、また生き残った者も伊藤博文とか山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義など政治家が多いの対し、適塾の出身者は、長州征伐と戊辰戦争で長州軍を指揮して勝利に導き、のちに日本陸軍の創始者となった大村益次郎と安政の大獄で26歳の若さで斬首された橋本左内を別として、東京帝国大学医学部初代総理にして、日本最初の医学博士号取得者である池田兼斎、日本赤十字社初代総裁の佐野常臣、世界最初のアドレナリンの発見者であり、胃腸薬タカジアスターゼの開発者として知られる高峰醸吉、内務省初代衛生局長を務め、衛生思想の普及に努めた長与専斎、慶應義塾の創立者であり、幕末から明治初期にかけて『西洋事情』、『世界国尽』、『学問のすすめ』、『文明論の概略』などの啓蒙書を次々と刊行し、国民意識を文明開化の方向にリードしていった福沢諭吉、読売新聞社創業者の本野盛亨など医学や言論、教育の分野で名を残したものが多いことで対称的である。

洪庵から実の子のように目をかけられる

 緒方洪庵の適塾に入門したことで諭吉に幸いしたのは、第一に、洪庵の祖先の出自が、諭吉の出身地である豊前の南隣の豊後であり、15歳の時に父親に伴われ大阪に出て来て、木下藩の蔵屋敷で生活し、長じて長崎に遊学と、諭吉の歩んできた道と重なるところがあったせいで、諭吉に対して特別の親近感を抱き、かつ諭吉が並はずれた才能と気力と情熱を持っていることを見抜いていたことで、諭吉をわが子のように目を掛け、指導してくれたことである。

 さらにまたオランダ語を学び始めてから初めて、「塾」という組織的教育システムのなかで学ぶことが出来たことも無視できない。すなわち、それまで長崎に遊学していたときは、個人的伝手を頼って、蘭語を教えてくれそうな通訳や医師のもとを訪ねて行き、玄関先で教えてもらうと言った形で学んできたわけだが、適塾に入門したことで系統的にオランダ語を学び、同年代の塾生たちと切磋琢磨することで、オランダ語の力と原書を読む能力が飛躍的に進歩し、めきめきと頭角を現し、最後は塾長にまで抜擢されることとなる。

 だが、適塾での三年半の生活が最初から最後まで順調であったわけではない。入塾して一年目の安政三年の春、諭吉は腸チフスに罹り、死にそうになったとき、洪庵は、わが子のことのように心配し「病気の治療をすると迷いが出て来るから、それは他の医者に任せるが、病気の診断だけは自分がしてやる」と言い、その診断よろしきを得て、諭吉は一週間ほどの人事不省の危機を乗り切り、全快することを得ている。諭吉は、そのとき、洪庵夫妻から受けた恩愛について、後年「昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、自分の家の子供を療養治して遣るに迷ふと同じ事で、其扱は実子と少しも違はない有様であつた。(中略)私が緒方の塾に居た時の心地(心持)は、今の日本国中の塾生に較べてみて大変に違ふ。私は真実緒方の家の者のやうに思ひ又思はずには居られません」と回想している。

 さらにまた、兄の三之助が若くして死亡したことで、諭吉は福沢家の家督を継ぎ、中津藩に正式に出仕し、中津で生活することを余儀なくされるが、元々中津に留まる意思ない諭吉は、大阪で砲術を学ぶという口実で、母を残して大阪に出て来てしまう。しかし、兄の死去に伴う出費その他でふくらんだ借金を返すために、家と有り金と残された書画骨董や家財道具の類を売って得た金で返済したため、諭吉には適塾に塾生として戻るだけの金銭的余裕がない。そのことを見て取って、洪庵は、諭吉が中津にいるときに写し書きしてきた、オランダ語で書かれた築城術に関する書を持参していることを知り、その書を翻訳するという名目で、適塾の食客として遇することで、諭吉に適塾に戻ることを許している。

自由放埓な塾生たちの生活

 ところで、洪庵の実の父親のような恩愛に包まれて、福沢諭吉が適塾で過ごしたおよそ3年半に及ぶ塾生生活について語った『福翁自伝』の「大阪修行」と「緒方の塾風」の口述筆記を読んで、驚かされるのは、諭吉らの生活が、かっての旧制高等学校や大学の寮で生活する学生たちのように、自由放埓で、活気に溢れていたことである。適塾が教育の場であり、そこで学ぶ塾生のほとんどは武士の師弟であることで、厳しい武士の生活倫理と規範が守られ、規律ある集団生活のなかでオランダ語やオランダ医学の教育学習が厳格に行われていたように思われるが、事実は全く逆で、適塾は、徳川封建体制の厳しい規範のなかに奇跡的に実現した、オランダ語と蘭学、さらに蘭方医の習得を目的とした自由なる独立解放区であった。

福沢諭吉らが自由奔放でありながら真剣にオランダ語の習得や原書の解読に取り組んだ適塾の内部

 その独立・解放区のなかで、諭吉らは、オランダ語の習得と原書解読の研鑽に励む一方で、女出入こそなかったものの、夏は真っ裸で生活し、弊衣粗食に甘んじ、昼夜を問わず大声で激論を戦わせ、食事は立ち食い、酒は飲む、煙草は喫う、近所で祭りがあると聞けば、徒党を組んで出かけて行き喧嘩を売る、衣類や食器が不潔なのも一切気にしない、牛鍋屋の親爺から豚を殺してくれと頼まれて、近くの川に豚をつれて行き、四足を縛りつけて水に漬けて窒息死させ死体を解体し、頭を貰い受け解剖したうえで、煮て食べてしまう、道修町(どしょうまち)の薬種屋から熊の解剖を頼まれたときは、薬種屋が熊肝(くまのゐ)を持って帰ってしまったので、後から文句をつけ、酒五升に鶏や魚を強奪してきて、酒盛りを開いて大騒ぎをする、遊女の贋手紙は書く、近所の料理屋から小皿、大皿、猪口(ちょく)を盗んでくる……などなど、塾生の生活態度は放埓を極めていた。しかし、事がオランダ語の学習や原書の解読に関する限り、塾生たちは一点もゆるがせにせず、真剣に立ち向かったという。そんな適塾の学風について、諭吉は次のように語っている。

 ……、外に出ても亦内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸(ちよ)と一目(いちもく)見た所では―今までの話だけ聞た所では、如何にも学問どころの事ではなく唯ワイワイして居たのかと人が思ふでありましょうが、其処(そこ)の一段に至ては決して爾(さ)うでない。学問勉強と云うことになつては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなからうと思はれる(以下略)。

 夕方食事の時分に若し酒があれば飲んで初更に寝る。一寝して目が覚めると云ふのが今で云へば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコトコト飯を焚く支度をする音が聞こえると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上がった頃起きて、其儘湯屋へ行て朝湯に這入て、それから塾に帰つて朝飯を給(た)べて又書を読むと云ふのが、大抵緒方の塾に居る間殆ど常極りであつた。

原書の解読に関しては日本最高のレベル

 適塾での自由で、一見無秩序で、かなり乱雑ではあるものの活気に溢れる一方で、オランダ語の原書を読み解くことに向けて知的能力の全てを傾けるべく組織された生活は、幕末から明治期へと時代が激変していく中で、諭吉がオランダ語のスペシャリストとして、あるいは英語のスペシャリストして身を立て、新時代の要請にこたえる形で、慶應義塾という知と教育の共同体を構築し、それを日本を代表する大学にまで飛躍・発展させるうえで、決定的に重要な意味を持った。

 重要なことは、ひたすら純粋に原語の書を解読することに傾注された諭吉らの努力によって、適塾は、当時の日本にあって、最も高いレベルに達していたこと、そして「江戸に居た書生が折節大阪に来て学ぶ者はあつたけれども、大阪から態々江戸に学びに行くと云ふものはない。行けば則ち教えると云ふ方であつた」と、江戸の蘭学に対して、適塾の蘭学が優越していることを諭吉らが自覚していたことである。

 ならばなぜ、適塾の蘭学は最高度の知的レベルに到達し得たのか。その理由について諭吉は、『福翁自伝』のなかで要旨、次のように述べている。

 江戸の方では、幕府をはじめ、諸大名の藩邸があって、西洋の新知識や技術を学び、吸収しようとする気持ちが強く働き、その結果、オランダ語を解する書生は引く手あまたの状況であった。つまり、オランダ語を解する能力を持った書生は、直ぐに実用の世界で重宝された。一方、大阪は町人の世界であり、蘭学そのものを学ぼうとするものは少なく、また実用に役立てようにも、役立てようがない状態であった。そんななかで、適塾の書生は、蘭学の能力を生かして、社会に活用されようとか、名声を求める気持ちもサラサラ持ち合わせていない。それどころが、大阪では蘭学書生は悪く言われるばかりなので、みんなヤケになって、昼夜難しい原書を読んで面白がっている有様であった。だがしかし、そんな書生の心の底を叩いてみると、そこには難しい原書を苦労して読み砕き、理解することへの純粋な喜びがあった。

 このように語った上で、諭吉は、その「喜び」について次のように述べている。

 之を一言すれば=西洋日進の書を読むことは日本國中の人には出来ない事だ、自分達の仲間に限つて斯様(こん)なことが出来る、貧乏をしても難渋しても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下ろすと云ふ気位で、唯六しければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云ふ境遇であつたと思はれる。(中略)兎に角に当時の緒方の書生は十中七八、目的なしに苦学した者であるが、其目的のなかつたのが却て仕合せで、江戸の書生よりも能く勉強ができたのであらう。

 現実的功利性とか実用性を離れて、原書を読み解くことにエネルギーと精神を純粋に集中させたことで、諭吉らのオランダ語読解力は、日本最高のレベルに到達していたということなのだろう。

江戸の中津藩中屋敷で蘭語を教える

 こうして、蘭語を生かして世の中に打って出てやろうなどという野心も目的もないまま、ただやみくもに難しい原書を読み砕いてやろうという一念に駆り立てられて、努力すること3年半、福沢諭吉のオランダ語の読解力は、当時の日本にあって最高度のレベルに達していた。しかし、福沢諭吉が、今日、私たちの知る福沢諭吉に成り上がるためには、どこかで適塾を出て行き、新しいより大きく、開かれた現実社会(具体的には江戸)のなかで、適塾で磨きをかけたオランダ語を実地に生かす必要があった。

 そして、そのチャンスは意外に早く、安政5(1858)年、諭吉25歳のときに訪れる。すなわち、江戸の中津藩邸に蘭語を学ぶことを希望するものが出てきたため、藩邸内に蘭語塾を開きたい。ついては、諭吉に蘭語教師として江戸に出るようにという藩命が降ったのである。
母の病気を理由に長崎から中津に帰る途中、江戸に出て蘭語を学ぼうと気持ちを変え、大阪に出てきたものの、兄から「このまますぐに江戸に出るのはよくない。自分のところに留まり大阪で蘭語を学ぶように」と諌められ、適塾に入塾して3年半余り、努力の甲斐あって、諭吉の本望はついに遂げられた。それも、蘭語を学ぶためでなく、蘭語を教えるために江戸に出て行くのである。諭吉がいかに得意の気持ちを抱いて、江戸に旅立って行ったかは、推して知るべしである。

 さて、東海道を歩いて下り、江戸に着いて、築地鉄砲洲(現在の東京都中央区湊1丁目)にあった中津藩藩邸に出向いて見ると、教授する場として中屋敷をあてがうから、そこで中津藩藩士で希望する者に蘭語を教えるようにということで、講座を開くと、3人、4人と受講するものが出て来て、ともあれ蘭語塾はスタートする。そして、中津藩以外の藩士で受講する者も、4人、5人と出て来て、少しづつ蘭語塾としての体裁が整い、軌道に乗り始める。

 そうしたなか、諭吉は自分のオランダ語の能力が江戸でも通用するかどうかを確かめるため、名のある蘭学者の元を訪ねては、オランダ語で書かれた難しい文章を見せて、自分には読めないから、読んで見せて呉れと頼み込み、相手が詠み解けず、困惑しているのを見て、自分の方が力量が上であることを確認して、自信を深めていった。

 ところが、江戸に出て来た年の翌年の安政6(1859)年に、諭吉の心を大変不安がらせる事態が持ち上がる。それは、その前年の安政5年に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの五か国との間で締結された「安政五カ国条約」が発布され、函館や横浜、長崎などの港湾が開港されたことで、徳川200年の鎖国体制が崩壊し、欧米の文物、情報が日本に自由に入ってくるようになったことである。

 こうした事態の急変を受けて、元々徹底した開国論者であった諭吉は、五カ国条約が発布されたことで、横浜が具体的にどう変わりつつあるかを、自身の目で確かめるべく、横浜まで出かけていく。そして、分かったことは衝撃の事実であった。それは、外国人を見かけてオランダ語で話しかけても、全く通じないし、相手の言うことも分からない。そして外国商品を売る店先に書かれている文字を読んでも、全く分からないことであった。一体どういうことなのか、途方に暮れる諭吉。それでも、とあるドイツ人の店でキニッフルというドイツ人が、オランダ語を理解するということなので、筆談を試み、横浜で使われている外国語が英語であることを、ようやく知ることができたのである。

開港当初の横浜の賑わい。ここではオランダ語はまったく通じなかった

 普遍的世界言語としてのオランダ語の地位はすでに失われ、英語が、オランダ語に代わる普遍的世界言語として、横浜では通用していた。つまり、オランダ語という、それまで世界何処に行っても通用すると思われてきた世界普遍的共通言語空間は、諭吉たちの気づかない間に崩壊し、英語という新しい言語が、世界普選的共通言語として世界を支配するようになってしまっていた。この事実は、諭吉にとって衝撃的な発見であり、驚きであった。諭吉は、今までやってきたことは何だったのか……と、心底落胆し、失意のどん底に落とし込まれてしまった。

「横浜から帰て、私は足の疲れではない、実に落胆してしまつた。是れは是れはどうも仕方がない、今まで数年の間死に物狂いになつて和蘭の書を読むことを勉強した、其勉強したものが、今は何もならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左(さ)りとは誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆してしまつた」という諭吉の述懐は、そのときの落胆ぶりの大きさを如実に語っている。

英語を学ぶ決意

 しかし、だからと言って、諦めてしまう諭吉ではない。「今我国は条約を結んで開けかかつて居る、左(さ)すれば此後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚(とて)も何にも通ずることができない」と、横浜から帰つた翌日から、諭吉は志を新たにして、「夫レから以来は一切万事英語」と覚悟を極めて、英語の教師を探し始める。しかし、当時の江戸に英語を教えてくれる人も塾もない。横浜に出向いた折に、オランダ語と英語の会話の本を買い込んできていたので、それを頼りに独学で英語を学ぼうとするが、英語とオランダ語の対訳辞書がないので、それも無理。蛮書調方(後の東京外国語学校、及び現在の東京外国語大学の起源)という幕府の洋学校があると聞いて、入門するものの、辞書の貸し出しはしないと言われて、一日で退所する。

 独学では無理だとわかって、友人の村田蔵六(後の大村益次郎)らに、一緒に英語をやらないかと誘うものの、オランダ語に訳されたものを読めば、それで間に合うと乗り気を見せない。仕方がなく、長崎から江戸に出てきた子供で英語のできるのがいると聞いては、わざわざ足を運んで発音を教えて貰ったり、漂流した漁民でアメリカ船に救助され、アメリカで何年も生活して英語を身に付けて日本に帰ってきたものがあると、その宿まで出かけて行って、教えを乞うたりもした。

 こうして無駄とも思える努力を続けるなか、それでも手がかりを一つ掴む。それは、横浜に商用で行く商人に、英語とオランダ語の対訳辞典がないか探して来てほしいと頼んでおいたところ、ホルトロップの「英蘭対訳辞典(発音付)が一部二冊本で売りに出ていることが分かる。ただ値段が5両と高いので、中津藩に買い取ってもらって、ようやく英語の独学体制が出来上がる。

『福翁自伝』によると、諭吉はその対訳辞典を引きながら、英語で書かれた文章をオランダ語に翻訳して行ったという。最初は暗中模索、苦労したが、一つ一つ辞書を引きながら、オランダ語に訳していくなかで、次第に英文の理解が早くなり、オランダ語と英語が共に横文字で、文法の構造も共通していることが見えて来る。そして、「蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨てて仕舞い、数年勉強の結果を空うして生涯にどの艱難辛苦と思ひしは大間違の話で、実際を見れば蘭と云ひ英と云ふも等しく横文にして、其文法も略(ほぼ)相同じければ、蘭書読む力は自から英書にも適用して決して無益でない」と思うようになったという。

 こうして、福沢諭吉は、ほとんど独学で、オランダ語を介して英語の読解力を身に付けて行ったわけだが、どれほど英語の読解力が高くなろうと、英語を完全に自分のものにするためには、どうしても越えなければならない関門が最後に一つ残っていた。それは、英語を共通言語とするアメリカやイギリスの社会や人々の生活、ひいては文明・文化が現実にどのようなものであるかを、自身の眼で確かめてみる必要があったということである。これまで見てきたように、福沢諭吉は、鎖国体制下の大阪と江戸においてオランダ語と英語を学び、その読解力はかなり高いレベルに達していたはずだが、そうした読書を通じて得られた知識や情報を基にして構成された欧米先進国のイメージは、すべて頭のなかで創り上げられたものでしかなかった。

 くわえて、諭吉は、幕末から明治維新にかけて尊王攘夷の声が澎湃と高まるなか、開国論で押し通した洋学者であった。しかも、開国論者である以上、国を開いて、近代西洋の文物、思想、制度を取り入れたうえで、どのような方向で日本を近代化していくか、その方向性を具体的に示す必要があった。そして、そのためには、近代国家として確固たる地位を確立しつつある欧米先進諸国の社会や人々の生活、さらには文明・文化の実態をその目で確かめてくる必要があった。

 言い換えれば、観念のなかで創り上げられた文明開化のイメージを、欧米近代社会の現実に対峙させ、クロスオーバーさせることによって、日本の文明・文化の近代化に向けて、具体的方向性と方策を提示することが求められていた。そして、そのチャンスは、諭吉が江戸に出てきた年の翌年、すなわち安政6年の冬、一月にやって来ることになる。

(2017年03月02日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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