集英社新書WEB連載
文字の大きさ
タイトルイメージ

慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第一章 福沢諭吉―慶応義塾モダニズムの泉源(2)

14、5歳の時から漢学を学ぶ

 森鷗外や正岡子規、夏目漱石、南方熊楠などなど、幕末から明治維新前後に生まれ、明治・大正期にかけて文学や学術の世界で大きな仕事を成し遂げた人たちの生い立ちと成長の軌跡を追ってみると、幼少年期に異言語としての縦書きの漢文の教育を受け、四書五経、唐詩などを読んで漢学の素養を養ったうえで、新時代の異言語として横書きの英語やドイツ語を学び、西洋の新知識を吸収し、それぞれの分野で前人未到の業績を残している。つまり、漢文や漢学は、文学や学術の巨人たちの知や思想、感性の基礎を構築するうえで、不可欠の役割を果たしていたことになる。

 たとえば、文久2(1862)年2月、石見の国津和野の亀井藩の御典医の子として生まれた森鷗外は、5、6歳のころから漢文の教えを受け、四書五経を読んで漢学の素養を養っている。また、伊予の国松山藩藩士正岡常尚の嫡男として生まれた子規も、母方の祖父大原観山が儒者であったことで、鷗外同様に4、5歳のころから漢文・漢学の教育を受け、11歳で「子規を聞く」と題し、「一聲孤月下 一声 孤月の下/啼血不堪聞 血に啼いて 聞くに堪えず/ 半夜空欹枕 半夜 空しく枕を欹(そばだ)つ/古郷萬里雲 古郷 万里の雲」と、とても11歳の子供が詠んだとは思われない五言絶句を詠んでいる。江戸の名主の末子として生まれた夏目漱石も、大学は帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学英文学科に進んでいるが、幼い頃から漢文に親しみ、東京府立第一中学校に入学するものの2年ほどで退学し、わずか一年ほどの在学ではあったものの、漢学塾の二松学舎に転学している。

 このように、漢文・漢学は、明治・大正期の文学や学術、思想の巨人が知性や感性の基礎を養う上で不可欠の教養であったわけだが、福沢諭吉は、武士の子供、それも漢学に通じ、自らを儒者と任じていた武士(福沢百助)の子供として生まれながら、漢文・漢学を学んだのは意外に遅く、14、5歳の頃だったという。『福翁自伝』の「門閥制度は親の敵』と「年十四五歳にして始めて読書を志す」の記述よると、諭吉は、漢文・漢学を学ぶのが遅れたことについて次のように語っている。

 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。ところが誰も世話の為人(して)がない。私の兄だからといって兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間はみな女の子、母もまたたった一人で、下女下男を置くということの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜をこしらえたりして五人の子供の世話をしなければならぬから、なかなか教育の世話などは存じ掛けもない。いわばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を読むとか大学を読むくらいのことは遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もいない。殊に誰だって本を読むことの好きな子供はいない。私一人本が嫌いということもなかろう、天下の子供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりいて何もしない。手習いもしなければ本も読まない。根ッから何にもせずに居た。

 ところが、14、5歳になって気が付いてみると、周囲の同じくらいの年齢の子は、みんな漢文を学び、漢書を読んでいるのに、自分独りだけ読んでいない。それでは外聞が悪いし、恥かしいということで、本気になって漢文を学び始めたという。

  夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。どうも十四、五になって初めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのというのに、私は孟子の素読をするという次第である。ところがここに奇なことは、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をするということになると、私は天稟、少し文才があったのか知らん、よくその意味を解して、朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりでその意味は受け取りの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗なら訳けはない。その中、塾も二度か三度更(か)えたことがあるが、最も多く漢書を習ったのは、白石(しらいし)という先生である。そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。

 福沢諭吉旧居の裏庭に建つ土壁造りの書斎兼仕事場(筆者撮影)

 このように漢籍の読書を通して、知と思考と感性の基礎を養う習慣が身に付く年齢こそ、大幅に遅れてしまったものの、一旦それが身に付くと進歩は速く、諭吉は、四書五経にはじまり、『蒙求』、『世説(世説新語)』、『左傳』、『戦国策』、『老子』、『荘子』を読みこなし、読書範囲は『前後漢書』、『晉書』、『五代史』、『元明史略』など歴史書にも及んだという。諭吉は、そうしたなかで、『左傳』を特に好み、普通は3、4巻で終えてしまうものを、諭吉は全巻を11回も通読し、面白い所は全部暗記していたというほどで、「一ト通り漢学者の前座ぐらいになつて居た」という。

書斎の2階に正座し、読書に励む諭吉の像(筆者撮影)

 ここで興味深いのは、諭吉が漢学を学んだ白石照山という漢学者が、江戸中期、荻生徂徠に始まる古文辞学派の儒者として知られ、福岡黒田藩に儒医として仕えた亀井南冥の流れをくむ漢学者であり、森鷗外や子規の学んだ漢学と違い、漢文を読み、漢文を書くことを貴んだものの、漢詩を作ることを軽んじていたことである。

 私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑していた。広瀬淡窓などのことは、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと言って居られました。先生がそう言えば門弟子もまたそういう気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下していて、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章といわれるなら、誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで屹ったところが意味は通ずるというようなものだ」なんて大層な剣幕で、先生からそう教え込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見ていました。
(『福翁自伝』)

 もし、このとき、福沢諭吉が、正岡子規のように漢詩を作ることを教えられていたら、今日私たちの知る福沢諭吉とは違った諭吉になっていた可能性は否定できない。

福沢諭吉が漢学を学んだ中津藩藩儒・白石照山の肖像写真(筆者撮影)

ところで、諭吉が学んだ漢学で、もう一つ興味深いのは、豊前・豊後地方の武士階層が学んだ漢学が、幕末期の傑出した儒者として、三浦梅薗、広瀬淡窓と並んで「豊後3賢」と言われた帆足万里の影響を受けて、いわゆる儒学の壁に捉われず、蘭学をベースとする数学や天文学、物理学、地理学、博物学、医学など自然科学をも重視する学問の体系であり、そのため砲術や数学に対する関心が高かったことである。その辺の事情について、諭吉は『福翁自伝』のなかで次のように語っている。

 当時世間一般のことであるが、学問といえば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、ただ他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んでいました。帆足先生といえばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に「鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くというのは大間違い」というその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張り先輩に倣うて、算盤の高尚なところまで進んだ様子です。

 このように、数学や砲術など西洋から伝えられた科学的知識や技術まで「学」の対象とする豊前・豊後地方の儒学を学んだことが、合理性を貴ぶ実学思想の基礎となり、のちに福沢諭吉が蘭学と砲術習得のために長崎に遊学し、さらに大阪に出て緒方洪庵の適塾に入塾しオランダ語と蘭学の習熟に励み、それが結果として、江戸に出て英語を習得したうえでの二度に及ぶ渡米とヨーロッパ視察、そして慶応義塾の創設につながって行くことになったのである。

迷信や俗信、俗習に対する反発

 少年、及び青年時代の福沢諭吉を知るうえで、もう一つ重要なことは、諭吉が、豊前地方の人々の心を長く縛り続けてきた迷信とか俗信などの前近代的共同幻想に対して、最初から疑ってかかり、自ら禁忌を犯す行為を行うことで、その欺瞞性を証明して見せていることである。たとえば、12、3歳の頃、たまたま何の気もなしに、奥平の殿様の名が書かれた紙を踏んで通ったところを兄に見つけられ、殿さまの名前が書かれた紙を踏んで通るとは何事かと厳しく叱れたことがあったという。ところが、諭吉は、表向きは「私が誠に悪う御座いました」と謝ったものの、心のなかでは、「名の書いてある紙を踏んだからツて構うことはなささうなものだ」と思っていたので、神様の名前の書かれた紙を踏んでみたが、どうということない、それならと便所紙に使ってみたが、それでも何も起こらないので、「ソリヤ見たことか』と、ひとり納得したという。

 そんな諭吉のことである、「神罰」とか「冥罰」などいったものも頭から信じてないので、そんなバカなことがあるものか試してみようと思って、諭吉が養子に入っている中村術平の家の稲荷社の扉を開けたところ、石が入っていた。諭吉は、その石を取りだしてどこかに打ち捨て、隣の家の稲荷社のなかには木の札が入っていたので、それも捨ててしまったが、何も罰になるようなことは起らなかったという。そんな自分に対して、諭吉は少しも悪びれる風はなく、やがて初午(旧暦の2月最初の午の日で、稲荷社の祭りが行われる)の日になり、村人が幟(のぼり)を立てたり太鼓を叩いたり、御神酒を上げたりしてワイワイしているのを見て、ひとり大笑いして、「馬鹿め、乃公の入れて置いた石にお御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と、面白がっていたという。諭吉は、そんな少年時代の自分を、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸もない。ト筮(うらない)呪詛(まじない)一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と語っている。

中津市内の民家の庭先に立つ稲荷社。諭吉はこのような稲荷社の扉を開け、中に入っていた石や木札を取り出して捨てていた(筆者撮影)

蘭学と砲術を学ぶため長崎に遊学

 どうしてもなじむことのできない豊前地方の方言や前近代的な迷信や俗信に基づく、土着的生活習慣、身分の上下が最初から決められ、行動や思想の自由が到底許されない武家社会の封建的な門閥制度、父親のいない5人家族の次男坊……生得的に独立自尊の気性に富み、合理的思考と進取の気性に恵まれた青年福沢諭吉にとって、前近代的な郷土共同体としての中津には どうしても同調することができず、そこにこれから先、自分の人生を托すものは何も見出すことはできなかった。「自分の一身は何処に行て如何な辛苦も厭はぬ、唯この中津に居ないで如何かして出て行きたいものだと、独り夫ればかり祈つて居た」(『福翁自伝』という、後年の述懐に、未知の新しい世界で自分の可能性を存分に発揮したいという、前途有為の青年のかなり追い詰められた心情を読み取ることができる。

 そうした諭吉にとって、千載一遇のチャンスが、安政元(1954)年2月、諭吉21歳(満19歳3か月)のときに訪れる。兄の三之助が、藩命で砲術を学ぶため長崎に行くことになり、それに同行して長崎に行くことになったのである。兄の三之助としては、自分一人だけでオランダ語を習得し、砲術を学び取ることに自信がなかったせいで、漢学の覚えが早い諭吉をつれて行けば、助けになると思ったのであろう。また、諭吉の側としては「唯田舎の中津の窮屈なのが忌(い)で忌やで堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さへすれば有難い」という思いで、兄の誘いに飛びついたということなのだろう。このときの長崎行が、豊前の中津藩の下級武士の末子として生まれた福沢諭吉の人生を、後に諭吉が確固不動のものとして獲得することになる脱亜入欧、文明開化、独立自尊を旨とするモダニズムの方向へと決定づけたのである。

 福沢諭吉にとって幸いしたのは、その前年の嘉永6(1853)年7月8日、米国の東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーが、4隻の黒船を率いて浦賀に来航し、幕府側に開国を求める親書を手渡すという、正に驚天動地の事件が起こり、そのニュースは中津にも伝わって来ていたことである。外からの圧力によって、徳川封建体制の扉が開かれ、時代が大きく「近代」へと変わろうとするなか、中津藩のように海に面して城を構える藩では、防備のため西洋の砲術を学ぶことが急務とされ、そのためにはオランダ語の習得が焦眉の課題とされていた。そうした意味でも、福沢諭吉は、時代の申し子として生まれてきたことになる。

 政元年、浦和に来航し、開国を求める大統領親書を幕府に手渡したペリー


 すでに見てきたように、天明6(1786)年から文政9(1826)年まで40年間、中津藩第5代藩主を務めた奥平昌高は、江戸の中津藩藩邸内に、総ガラス張りの「オランダ部屋」を作ったり、オランダ語辞典を刊行したりして、「蘭癖大名」と言われるほど蘭学好みの殿さまであった。また、昌高より二代前の藩主奥平昌鹿も蘭学に理解が深く、江戸藩邸の医師で、杉田玄白らと『解体新書』を翻訳して、歴史に名を遺した前野良拓を「蘭学の化け物」と揶揄しながら、手厚い保護を与えている。

 このように中津藩は、幕末当時の日本にあって、蘭学では突出した存在であり、中津市と福岡県築上郡吉富町広津をつなぐ山国橋のやや下手で山国川から分かれて周防灘に注ぐ中津川の河口に建つ中津城は、四国の今治城と高松城と並んで日本三大海城として聞こえていた。ということは、外国の艦船が九州地方を攻めてきたときには、まず最初に砲撃を受ける危険性が高いことになる。そうした立地条件も重なり、中津藩としては、外敵に対する防備態勢をいち早く構築すべく、藩士を長崎に派遣し、オランダ語を習得させ、砲術を学び取らせることは藩そのものの存続にかかわる喫緊の課題であった。

 しかし、横文字のオランダ語を学ぶのは並大抵のことではなく、上級、中級の藩士は嫌がって行こうとしない。仕方がなく、福沢三之助のような下級武士にお鉢が回ってきたわけだが、父親百助のあとを継いで儒学を学んで育ち、儒教の教えを守って生きていくことこそが自分の本望であると信じきっている三之助に、横文字の蘭語を学ぶ気持ちは最初からなく、また学んだところで習得できる自信もない。そこで、弟の諭吉に「長崎に行く気はないか」と声をかけたところ、諭吉は、漢学の習得が人より早かったという自信があるので、一も二もなく同意し、兄弟で長崎に同行することになったということなのであろう。

 兄と共に長崎に出てきた諭吉は、諭吉たちより先に、オランダ語と砲術習得のため長崎に出て来ていた奥平藩家老の息子、奥平壱岐が滞在していた桶屋町の永光寺に居候してオランダ語の初歩の学習に取り掛かる。ABCのアルファベットを覚えるのに3日もかかるなど、最初は苦労したものの、次第にオランダ語で書かれた書物が読み取れるようになるなか、奥平壱岐の紹介で高嶋秋帆の弟子である山本物二郎という砲術家を知り、山本の書生といった役回りで山本の家に寄宿し、砲術を学ぶかたわら、目の悪い山本のため本を代読したり、山本の妻が飼っている犬やネコの世話をしたり……と、家事万端を取り仕切り、山本から山本家の養子にならないかと誘われるまで信頼を勝ち得る。

 当時、砲術家の家計は、大砲製造のノウハウを教えてほしいとか図面を見せてほしいと言ってくる諸藩の家臣に対して、砲術家が秘蔵している大砲の図や製造工程を示した図を、見せてやったり、複製を作成するために貸し出したりして、金銭を得ることで成り立っていた。諭吉は、本物の大砲を一度も見たこともなく、従って大砲の製造法も知らないまま、目の悪い山本に成り代わって、いかにも全て知っている風を装い、訪れてきた諸藩の家臣を相手に、滔々と講釈することで、いっぱしの砲術家にみなされるようになっていたという。

単独で決行された大阪行き

 こうしてオランダ語と砲術習得に目安が付き出したころ、厄介な問題が一つ発生する。家老の息子の奥平壱岐が、10歳も年下の諭吉のオランダ語の進歩が自分よりはるかに速いことに嫉妬して、諭吉の母親が病で倒れたという口実をでっち上げ、諭吉を中津に追い返そうとしたのである。諭吉は、すべては奥平壱岐が仕組んだ策略であることを見抜いていたが、家老の息子の言うことなので逆らえないまま、中津に帰ることを決意し長崎を発つ。

 しかし途中で、一層のこと江戸に出てやろうと気持ちが変わる。ただ、一気に江戸まで行くには路銀の持ち合わせがいかにも足りない。そこで、とりあえずは大阪の中津藩蔵屋敷に勤めている兄の三之助に頼っていこう、長崎を誘ってくれた兄のことだ、きっと江戸行きも理解し、路銀の用意もしてくれるだろう……そう思案して、諭吉は、小倉から船で下関に出て、そこから船を乗り換え、瀬戸内海を横断して、明石で上陸する。そして、大阪に向かって歩きはじめるものの、途中宿に泊まる金がないので、明石から歩きづめに歩き通し、夜の10時過ぎにようやく、大阪堂島川に架かる玉江橋北詰の中津藩蔵屋敷にたどり着く。

 明石から大阪まで約15里(今の60キロ)。地図とかガイドブックもなく、道路も整備されていない時代、諭吉は途中、酒二合に大きな筍の煮つけと飯4、5杯掻き込んで、ただひたすらに歩き通したという。時は三月、夜の帳が降り切る時間は幾分遅くなっていると言っても、夜間の外気の寒さは一通りではない。くわえて街路灯など一切ないなか、腰に刀を差しているとはいえ、いつ、どこで追いはぎに襲われたり、怪しまれて刃傷沙汰にならないとも限らない。そんな危険な夜の単独行の恐ろしさと、危険性について諭吉は以下のように回想している。

 日は暮れて暗夜で真暗、人に会わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい所で変な奴に会えば却って気味が悪い。そのとき私の挟してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を言えば、大阪近在に人殺しの無暗に出る訳もない、ソンナに怖がることはない筈だが、独旅(ひとりたび)の夜道、真暗ではあるし、臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却って危ないことだと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋ということを知ってるから、ただ大阪の玉江橋へはどういくかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着いて兄に会ったが、大変に足が痛かった。

 この間の一歩間違えば命を落としかねない単独行は、藩に対する反逆行為としてみなされ、相当の処罰が科せられてもおかしくないほど身勝手、無謀で、前後を弁えない強行突破と言ってもよかった。しかし、この間の経緯を語った、『福翁自伝』の「長崎遊学」から「長崎に居ること難し」、「江戸行を志す」、「諫早にて鉄屋と別る」、「贋手紙を作る」、「馬関の渡海」、「馬関より乗船」、「明石より上陸」、「大阪着」までの口述筆記は、野生の人としての福沢諭吉、常に前に向かって強行突破も辞さず前進する人としての諭吉、そして決断の人としての福沢諭吉の真面目が躍如としていて、今読んでも無類に面白く、スリリングで、感動的ですらある。

 満19歳のときに、単独でやり遂げた決死の脱中津・大阪行。それは、文明開化とか脱亜入欧、独立自尊といった理念や願望を、慶応義塾という学知と教育共同体の構築と発展を通して実現していくうえで、福沢諭吉がどうしても突破しなければならなかった最初の関門であり、通過儀礼でもあった。(未完)

(2017年02月17日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

ページトップへ