集英社新書WEB連載
文字の大きさ
タイトルイメージ

慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

 

第一章 福沢諭吉―慶応義塾モダニズムの泉源

慶應義塾の目的
慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
之を口に言ふのみにあらず躬行実践
以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
福沢諭吉

昭和5年の経済学部卒業記念アルバムの冒頭に掲げられた福沢諭吉直筆の「慶應義塾の目的」
腕を組み、直立して演説する福沢諭吉。男らしく精悍な風貌から覇気が感じ取れる

「慶応義塾の目的」のなかに表明されたモダニズム宣言

 今、筆者の手元に昭和5(1927)年に慶應義塾大学経済学部を卒業した学生の卒業記念アルバムがある。縦30センチ、横40センチ、厚さ5センチはあろうかという、大変分厚く、重いアルバムで、紙というより薄い板で作ったように頑丈な表紙板には、渋いオード色の布が貼り付けられ、その左上に慶應義塾のシンボルであ二つの交差したペンに「大」と入った紋章が刻され、その下にラテン語で「calamus gladio fortiori=ペンは剣より強し」と書かれてある。さらにアルバムの右下には「慶應義塾」と白舟九畳篆の書体で印され、さらに右端の四つの穴には、白く、太い糸を何本も束ねた紐で綴じてある。おそらく日本の大学の卒業アルバムで、これほどお金のかかった、贅沢なアルバムはないと思われるほど豪華で、流石に慶應義塾の経済学部と思わせられる卒業アルバムである。

昭和5年の慶應義塾大学経済学部卒業記念アルバム。左上に交差する2本のペンに「大」と書かれ、その下にラテン語で「ペンは剣より強し」と書かれてある

 この卒業アルバムの冒頭に掲げられているのが、上に引いた福沢諭吉が語り、自ら雄勁な筆致で毛筆書きした「慶應義塾の目的」である。ここで福沢諭吉が言おうとしたことは、「慶應義塾は単に一つの学塾に甘んじることはできない。その目的は日本国中の気品の源泉であり、知性や徳性の模範であることを期し、現実社会においては家庭や社会、国家の本来の目的を明らかにし、それを口先だけで言うのではなく、躬行実践し、もって全社会の先導者たることを求めるものである」ということで、慶應義塾という知的学術・教育共同体は、一つの大学のレベルに自足するのでなく、人間としての品行や知識、道徳の模範、さらには人が人として家庭や社会、国家のために成すべき道を、実際の行動によって示し、すべての社会の「先導者」たらんする決意を表明したものである。

 ここに高らかに宣言された「慶應義塾は、小さく閉ざされた独善的な知的、教育的共同体に留まることなく、その理念と目的を不断の実践躬行によって前へ前へと推し進め、日本の社会全体に広げていく」という覚悟、あるいは決意こそが、明治、大正、昭和の時代を通して日本の大学のなかにあって、欧米の近代社会と文明・文化を範として、常に進歩することを本旨としてきた慶応義塾大学のモダニズム精神の表明と言っていい。そしてさらに言えば、そのモダニズム精神の根本にあるのが、人間の自主独立を何より貴ぶ近代欧米の社会道徳であり、思想であり、合理性を貴ぶ文明であった。福沢諭吉が、慶應義塾のモダニズムの泉源である所以が、ここにあると言っていいだろう。

明治43(1910)年2月、新帰朝の気鋭の小説家としての名は上がっていたとはいえ、大学を卒業したわけでもなく、取り立てて専門分野での論文があるわけでもない永井荷風が、慶應義塾大学部文学科の主任教授に招聘された経緯を調べてみると、森鷗外や上田敏の推輓があったことに加えて、モダニスト福沢諭吉に源を発する慶應義塾が体現していたモダニズムが、荷風の招聘に向けて大きな要因となっていたことが見えてくる。

 つまり、アメリカのニューヨークにおよそ1年と7カ月、フランスのリヨンとパリに10カ月滞在し、異邦人として生活するなかで身につけた欧米人風の、個我の自主独立をモットーとする生活モラルと精神、さらにモーパッサンやボードレール、ヴェルレーヌなどのフランス文学を読み、ワーグナーの楽劇やドビュッシーの近代音楽を聴くことを通して培った文学的、音楽的知性や感性から表出されてくるところの文学者、永井荷風のモダニズム精神が、明治の終わりのあの時期、慶應義塾大学部という、東京帝国大学や東京専門学校(後の早稲田大学)と並ぶ、日本最高の知的教育・学術研究共同体が体現していた「モダニズム」とが感応し合い、英語で言う「ケミカル」がうまく合い、それが荷風招聘につながったということである。

 以上を踏まえて言えば、日本近代文学史上、奇跡とも言っていい永井荷風の慶應義塾大学部文学科教授招聘という「事件」は、永井荷風という特異な履歴と文学的知性と感性に恵まれた文学者に体現されるモダニズムと慶應義塾大学部に体現されるモダニズム、それと慶應義塾の創立者であり精神的バックボーンであり、慶應義塾モダニズムの泉源でもある福沢諭吉に体現されるモダニズム、さらに荷風を慶應に推輓した森鷗外と上田敏に体現されるモダニズムと、四つのモダニズムが、いくつもの偶然の幸運が、明治43(1910)年の2月という時点で出会い、実現した稀有の出来事であったということになる。

 そうした意味で、なぜ慶応義塾文学部教授永井荷風が可能であったのか、その謎を読み解くためには、まず最初に福沢諭吉というモダニストが、どのような時代的背景から生まれ、モダニストしてどのように、そして何を志向して生き、その結果として、幕末から明治の初めにかけての激動の変化の事態にあって、慶應義塾に象徴されるモダニズム共同体が形成されるに至ったかを検証しておく必要があるだろう。

 日本における官立の最高教育・学術研究機関として君臨した東京帝国大学に対して、私立の最高教育・学術研究機関として、早稲田大学と並んで百年以上の歴史有する慶應義塾大学の創立者福沢諭吉は、江戸時代の天保5(1834)年12月12日、豊前中津藩士福沢百助の末子として、大阪の堂島橋に架かる玉江橋北東詰(現大阪市福島区福島1丁目)にあった同藩蔵屋敷内の長屋に生まれている。

 父親の百助は、このとき43歳。中小姓格、13石二人扶持の下級藩士として、中津藩蔵屋敷に勤務し、諭吉自身の言葉を借りれば、「大阪の金持、加島屋、鴻ノ池といふやうな者に交際して藩債の事を司どる役」(『福翁自伝』)を務めていた。ただ、福沢百助は、下級の武士とはいえ、生来読書を愛し、自分の手で集めた書籍は1、500冊を越えていたと言われている。『福翁自伝』に、「其書遺したものなどを見れば真実漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心屋漏に愧ぢずといふこと許り心掛たものを思われる」とあるように、百助は、自ら儒者として生き、儒者として藩に仕えることを望んだ男であった。それだけに、儒者としての自分の本領が理解されず、大阪の蔵屋敷で、算盤を執って金の数を数える仕事に携わざるを得ないことに、不平不満を感じていたことは十分に考えられる。

 たしかに、1787年、6歳のときから1825年まで38年間、第九代藩主として中津藩主を務めた奥平昌高(1789-1825)は、「蘭癖大名」として知られ、「中津辞書」と呼ばれる日蘭辞典「蘭語訳撰」や蘭日辞典「バスタールド辞書」などを刊行し、シーボルトとも親交があった。また、ペリー来航の折には、開国を主張する意見書を幕府に提出するなど、開明的な藩主であった。しかし、13石二人扶持の中小姓格の福沢百助が、儒者をもって藩に仕えることは許されなかった。中津藩の奥平家は、徳川家康以来の譜代の大名で、九州の東の守りとして中津城を拠点に重きをなしてきたことで、上は城主や家老から下は足軽まで、身分の上下による格差は厳しく、幕末に至るまで門閥制度が揺るぎなく守られていたからである。

 一方、母親のお順は、同藩藩士橋本濱左衛門の長女で、諭吉に先立って一男三女を産んでいる。お順は一風変わった女性と言われ、『福翁自伝』で諭吉が語ったところによれば、諭吉がまだ子供だった頃、中津城下に着ている着物はボロボロ、髪はボウボウで虱がウヤウヤたかっている「チエ」という女の乞食がいたという。その乞食が来ると、お順は、「おチエ、此方(こっち)に這入て来い」と庭に坐らせ、襷がけで身構えして、乞食女の髪の毛の中から虱を取っては、石のうえに置き、それを諭吉に小石で潰させ、全部取り終ると乞食に飯を食べさせることを愉しみにしていたという。人々が、臭い、汚いと言って忌み嫌う乞食女を庭に坐らせ、虱を取らせてもらい、そのお礼に食べ物を振る舞うという母の姿に、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」という自主平等の思想の泉源が読み取れるように思う。

 このような、お順の一風変わった気質が、儒者として仕えることを許されないまま、不満を抑え殺して、算盤はじきの仕事を続ける、夫百助と支えたのであろう。諭吉がよちよち歩きをする頃までは、一家は、慎ましくはあるものの、大阪の中津藩蔵屋敷で平穏に暮らしていけた。 ところが、天保7(1835)年6月、諭吉の生後一年半で、百助は脳溢血で急死し、その結果、母と五人の子供たちは郷里中津に帰って生活することになる。そして、幼少年時代から成人して、安政元(1854)年、21歳のときに長崎で蘭学を学ぶため中津を去るまでおよそ20年の間、一家の柱を失った五人家族の末子として、諭吉は中津城下で過ごし、そこでの生活が、モダニストとしての福沢諭吉の生涯の方向性を決定することになったのである。


豊前なまりに対する違和の感覚

 慶応義塾大学モダニズムの泉源としての福沢諭吉の出自と生い立ちが持つ意味を考えるうえで重要なことは、一つには諭吉が大阪に生まれ、大阪に育ったことで、父親が死去した後、母と四人の兄姉とで郷里中津にもどってからの生活において、豊前地方の生活風俗や習慣、言語に慣れることができず、地方共同体の人たちと交わりの輪を結び、その輪のなかで生活していくことができないまま、内向きに閉ざされ、孤立した家庭共同体の一員として生きざるをえなかったことが挙げられる。その辺のところを、諭吉は、『福翁自伝』の冒頭「幼少の時」のなかで、次のように回想している。

 扨(さ)て中津に帰つてから私の覚えて居ることと申せば、私共の兄弟五人はドウシテも仮名勝人と混和することが出来ない、其できないと云ふのは深い所以も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方のもあれば従兄弟母方の従兄弟モアル。マア何十人と云ふ従兄弟がある。又近所の子供も幾許(いくら)もある、あるけれども其者等とゴチヤゴチヤになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「さうじゃちこ」と云ふ処を、私共は「さうでおます」なんと云うふやうな訳で、御互に可笑しいから先づ話が少ない。夫れから又母は素と中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、子供の髪の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違ふと云ふ外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥ずかしいやうに思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云ふやうな風でした。

 この口述記を読んで、筆者が「なるほどなあ、自分もそうだった」と納得させられたのは、大阪弁では「さうでおます」と言うところを、豊前なまりでは「そうじゃちこ」と、語尾に「ちこ」を付けて言うということに、幼い諭吉が違和感を抱いたということである。この「ちこ」と言うのは、豊前地方の人が頻用する語尾言葉で、大分名産の焼酎「いいちこ」の「ちこ」である。

山国川の対岸から中津城を望む。中央小さく見えるのが中津城。福沢諭吉は城の右手『留守居町』と呼ばれる地区あった下級武士の組屋敷に住んでいた。(筆者撮影)

 実は、筆者の両親は豊前地方の出身で、父は、中津市の北端、福岡県と大分県の県境を流れる山国川の向う側、吉富町の隣の豊前市(時代劇映画の名俳優で、丹下左膳の役で知られた大河内伝次郎の出身地)の、そして母は豊前市北隣りの、築上郡椎田町(現福岡県築上郡築上町椎田)の出身で、戦後すぐに東京に出て来て、私と弟二人を育て上げている。そのため、父も母も普段の生活では東京弁「標準語」を使っていたが、田舎から叔父や叔母、従弟たちが東京に出て来ると、豊前なまりに戻って「……ちこ」を頻発していたものである。

 ただ大阪生まれの諭吉が自然に大阪弁を身に着け、その結果、豊前なまりに奇異感を感じたように、東京育ちの私にとっては、豊前なまりの言葉は地方の文化の後進性、あるいは劣等性を象徴しているようで、「ちこ」という語尾には、相当の嫌悪感と抵抗感を持っていたことは確かである。その嫌悪感と抵抗感は、なまり言葉だけでなく、自分の出自たる郷里共同体の文化の後進性と劣等性に対しても向けられ、私はそこから離脱し、遠くよりモダンで都会的な文化を求めて、結局は日本を離脱し、ニューヨークで25年間も生活するようになったのである。そうした道を自分自身が辿ってきただけに、私には、諭吉がより自由でモダンな文明・文化を求めて、なぜ郷里から離れ、遠く長崎や大阪、さらには江戸やアメリカ、ヨーロッパまで自身を駆り立てて行ったのかが分かる気がするのである。

中津時代に福沢諭吉が住んでいた家。屋敷内に福沢諭吉記念館がある(筆者撮影)


封建的な門閥制度に対する反感

 福沢諭吉を郷里中津から離脱させたもう一つの要因として無視できないのは、中津藩藩主奥平家の家風が、身分の上下の差に厳しく、下級武士の二男として生まれた諭吉には、郷里に止まる限り、出世は望めない、それなら外の世界に出て、自分の力でやれるところまでやってみようという意識が強く働いたことである。

 諭吉の父親の百助は、幕末とはいえ、封建的門閥制度が強く残っていた中津藩で、自身の志望を押し通すことが不可能であることを十分弁えていたからであろう、自分を押し殺し、上から与えられた職務を全うしようとした。そして、生まれ落ちたときから、大きな痩せた骨太な赤子だった諭吉について、産婆が「此子は乳さへ沢山飲ませれば必ず見事に育つ」と保証したことで、何とか諭吉が将来大成できるようにと、諭吉を10歳になったら寺に遣って坊主にすると語っていたという。

 諭吉は、母親から何度も聞かされた父親の遺志について、「福翁自伝」のなかで、「私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチヤント物を箱の中に詰めたように秩序が立つて居て、何百年経つても一寸とも動かぬと云ふ有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽(中略)、何年経つても一寸とも変化と云ふものがない。ソコデ私の父の身になつて考へて見れば、到底どんな事をしたつて名を成すことは出来ない、世間を見れば玆に坊主と云ふものが一つある。何でもない魚屋の息子が大僧正になつたと云ふやうな者が幾人もある話、それゆゑに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であらうと推察したことは間違ひなかろう」と語っている。

 幸か不幸か、諭吉は、兄の三之助が家督を継いだこともあり、幼い頃に叔父の中村術平の養子となり、中村姓を名乗っていた。そのため、諭吉が僧侶の道に進むことはなかったものの、次男坊に生まれた自分を僧侶にしてまでして、将来の道を開かせようとしてくれた父親の恩愛に対して、諭吉は生涯感謝の気持ち抱き、門閥制度の犠牲となって儒者として生きたいという思いを果たせなかった父親の無念の思いを思い量り、「亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る」と、門閥制度に敵意をあらわにしている。


夏目漱石と重なる出自と生い立ち

 以上、福沢諭吉の出自と生い立ちの経緯を辿ってきて、一つ興味深く思うのは、43歳という当時としてはかなり高齢の父親の末子として諭吉が生まれていることと、幼い頃から成人するまで、叔父の中村術平の養子になっていたことで、諭吉より33年遅れて、江戸の牛込馬場下で庄屋を務めていた父親の、50歳のときの末子としてこの世に生を享け、生後すぐに里子に出され、一度は実家に戻されながら、すぐに再び養子に出され……と、本来自分が所属すべき家族共同体から疎外され、孤立した生を幼少年期に生きることを強いられた夏目漱石の生と重なり合うところがある。

 それだけでない、諭吉は、本来の出生地であるはずの中津から遠く離れた大阪、それも当時の日本にあって、江戸と並ぶ最大の商業都市に生まれている。そして諭吉が生まれてから一年後に父親が急逝し、母や姉・兄たちと共に郷里に帰り、そこで幼少年時代を過ごしている。そのため、本来自分が所属し、生きていくべき郷土共同体に対する違和、あるいは不協和の感覚を抱いて、幼少年時代を過ごしている。そうした生い立ちの経緯は、生まれてすぐに四谷の古道具屋に里子に出され、店先の笊の中に放置され、それを姉が見つけて可哀想だと家に連れて帰えされたものの、すぐにまた養子に出されと、不幸な幼年時代を過ごしたことで、世界に対する剥離、孤立、関係不調和、破壊の感覚に本能的に脅え、苦しんで育った夏目漱石と重なっている。

 しかも二人は、世界との違和、不調和の感覚と関係性から逃げることなく、それらを自身の生にあたえられた条件として受け入れたうえで、共に最初は「漢文・漢学」という異言語を通して古代中国の文学や思想、哲学、歴史を学ぶことで知や感性の基礎を養い、さらに高次の異言語としての英語を学び、「英学」という新時代の知の共同性に自己を委ねることで、福沢諭吉は、真に自己に適合し、存在の全てを托すことのできる知的、教育的理想共同体として慶應義塾を創立し、それを近代日本を代表する大学にまで育て上げた。

 そしてまた、漱石は、一高から東京帝国大学文科大学英文学科に進み、自身の知的バックグランドとして英語、および英文学を学び、卒業後は熊本第五高等学校教授を経て、ロンドンに留学、帰国後は、処女作『我輩は猫である』を俳諧誌「ほととぎす」に発表して、一躍国民作家にブレークし、『坊つちゃん』や『草枕』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』、『道草』、『明暗』などの小説群を書き抜き、前人未到の膨大な文学的言語共同体を構築した。このように、一方は学術・教育共同体としての大学を創立し、もう一方は文学共同体として膨大な小説を書き抜いたことで、生得的な世界に対する違和の感覚を克服しようとした。そのことにおいて、諭吉と漱石は共通する何かを持っていた。

 ただ、福沢諭吉と夏目漱石は、共に英語を基礎言語とし、英学を基礎教養としながら、諭吉の知や思想のバックグランドが「アメリカ」の文明・文化にあり、ヨーロッパを欠落させていたのに対して、漱石の知と感性の根拠が、「アメリカ」ではなく、ヨーロッパ、特にイギリスの文明・文化にあったということで、二人は決定的に違っていた。そして、福沢が志向・追求したモダニズムは、近代ヨーロッパに源を発する文学や芸術を欠落させたまま、経済学や商学、法学、工学、医学など実学を志向・追及し、慶應義塾という知的学術研究・教育共同体を構築した。それに対して、漱石は、イギリスの文学を受容することを通して、独自の漱石文学を構築したものの、「アメリカ」を欠落させていたことで、20世紀文学としての真のモダニズムに届き得なかった。

 そして、この二つの欠落は、日露戦争後の文学空間に在って、日本の近代文学が真に20世紀の世界文学に届き得るかどうかを決めるうえで、決定的に重要な意味をもっていた。ならば、その欠落を誰が、どう補えばいいのか。この問題に応えるために、福沢諭吉と慶應義塾、さらに夏目漱石の文学に欠落していたものを補い、そのうえで、それまでイギリス文学やドイツ文学、ロシア文学などの受容を通して、独自の近代文学の道を模索しながら、それでも20世紀の世界文学として、日本文学が決定的に欠落させていたものを補完する形で、時代の表層に浮かび上がってきたのが、明治43{1910}年2月、慶應義塾大学部文学科の教授に抜擢された永井荷風であった。

 なぜなら、永井荷風は、アメリカでの遊学生活(特にニューヨークでの)を通して、アメリカの文明・文化(特に音楽芸術)を精神の深い所で受容したうえで、フランスに渡り、短い滞在であったものの、フランスの文明・文化、特にモーパッサンやボードレール、ヴェルレーヌ、レニエ、ロチなどのフランス近代の文学を読み込むことを通して「フランス」的なるもののエッセンスを体得したうえで、日本に帰国、『あめりか物語』や『監獄署の裏』、『狐』、『新帰朝の日記』、『冷笑』、『すみだ川』などの小説を立て続けに発表、日露戦争後の文学空間に新風を巻き起こしたことで、福沢諭吉と慶應義塾に欠けていたもの、すなわち近代フランス文学をバックグランドとする、20世紀志向の新文学と芸術を補い、同時に漱石の文学に欠けていた「アメリカ」と「音楽」と、さらには文学の「20世紀性」、具体的には「性愛」と「戦争」という20世紀文学の根本主題を補完することになったからである。

(2017年02月01日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

ページトップへ