集英社新書WEB連載
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慶應義塾大学文学部教授
永井荷風
―知られざるもうひとつの顔―

末延芳晴

はじめに

 久保田万太郎と佐藤春夫や堀口大学、水上瀧太郎、金子光晴、、青柳瑞穂、原民喜、安岡章太郎、遠藤周作、江藤淳……。慶應義塾大学文学部を卒業、または中退して、後に日本の近・現代文学に独自の表現領域を拓き残した文学者の系譜を見ていくと、彼らは、共通するいくつかの流れでつながっているように見える。

 その流れとは、第一に、彼らのほとんどが、小説家や詩人、劇作家、評論家、翻訳家として名を挙げるまえ、あるいは挙げてからのちの文学人生において、少年時代から文学書を読みふけったり、蔵の中で書画、骨董にうつつを抜かしたり、映画に熱狂したり、中学校や高等学校時代に落第・留年したり、高等学校や大学受験に失敗したり、授業にほとんど顔を出さないまま除籍されたり、中退したり、胸を病んだり、脊椎カリエスでコルセットを嵌めたり、親(特に父親)に反抗したり、住居を転々と変えたり、深刻な貧困に苦しんだり、失恋したり、離婚したり、生きることに絶望して自殺を図ったり、自殺したり……と、人生の初期、あるいは中途で失敗や挫折を繰り返し、社会的「敗者」として生きることから、自身の内面を見つめ、文学的表現の世界こそ、自身の「生」を証かす唯一の道と思い定め、それぞれ固有の文学表現の世界を展開・構築していったということである。

 たとえば、大正3(1914)年3月に慶應義塾文科を卒業した久保田万太郎は、十五歳の時に東京府立第三中学校に入学するものの、第三学年の修了試験で代数の点数が悪く、進級できなかった。そのため、慶應義塾の普通部の編入試験を受けて転校、三年次を二回繰り返してようやく卒業するものの、両親は、家業(袋物製造業)を継がせることを強く望み、大学に進むことを許さなかった。それでも、祖母のとりなしと、万太郎自身が「兵隊にとられたと思つて学校をつゞけさせてくれ……」と懇願したことで、かろうじて進学を許され、慶應義塾文学科予科に入っている。浅草の商家の家に生まれた男の子が、成人して稼業を継ぐという、当時としては当たり前の道を、万太郎は自ら断って、文学の道に身を投じたわけである。

 また、紀州和歌山新宮の医者の家に生まれた佐藤春夫は、中学生時代に町内で開かれた文学講演会での発言が問題視され、無期限停学処分にあい、さらに、同盟休校事件が持ち上がった際には、その首謀者に目されたりと、危険分子で通している。それでも、中学校を卒業し、明治43(1910)年9月、永井荷風の教えを受けたいという理由で、慶應義塾大学部文学科予科に入学するが、荷風以外の授業にはまったく出席せず、二年間籍を置いただけで退学している。一方、佐藤春夫と共に文学科予科に入学した堀口大学は、与謝野鉄幹の推薦で永井荷風の知遇を得たことで、予科一年の時に早々と詩を「三田文学」に発表しているが、父親が外交官であったことで、慶應義塾を中途で退学し、父の任地メキシコに渡り、以来、慶應に戻ることなく、フランス近代詩の翻訳や詩作の道に進んでいる。

 かたわら、父親が明治生命創業者という恵まれた家庭に生まれた水上瀧太郎は、東京市内三田の御田(みた)小学校を卒業し、慶應義塾普通部に進むものの、文学書を読み漁ったことと好きな学科と嫌いな学科が極端に分かれたため、二学年次と三学年次にそれぞれ落第を繰り返している。普通部卒業後は、大学部理財科予科に進学し、ビジネスマンとして生きる道を選ぶものの、理財科本科の二年次に、永井荷風が文学科教授に招聘されたことで、小学生のころから文学書を読みふけったことで培われた文学熱が蘇えり、荷風の講義を文学部の学生以上に熱心に聴講。処女作『山の手の子』が「三田文学」に掲載されたことで、理財科を卒業後、アメリカ留学を経て、帰国後は明治生命に入社、最終的には同生命の取締役まで進み、エリート・ビジネスマンとして生きながら、昭和15(1940)年3月23日、脳溢血で倒れ逝去するまで、五十四歳の生涯を通して小説を書き通している。

 さらにまた、大正4年9月、慶應義塾予科に入学した金子光晴は、暁星中学校時代に、校風に反発して二百日近く学校を休んだため、留年。卒業後は、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学のリーダーを自負し、自然主義文学以外は文学に非ずという気風がはびこる早稲田の文学部の空気になじめず退学し、東京美術学校(現東京芸術大学)に入り直す。しかし、これもすぐに退学と、留年、退学、再入学を繰り返している。慶應入学後も、学業をほったらかし、荒んだ生活を送ったせいで肺尖カタルを病み、大学を三か月休学し、翌年には退学。そのあとも自由奔放、無頼派詩人として荒んだ生活を繰り返し、詩人として立ったあとも、反逆・反骨、狂骨の詩人としてその文学的生を全うしている。

 あるいは、時代が少し下がって、大正22(1924)年、慶應義塾大学文学部予科に入学した原民喜は、初めはダダイズム風の詩を書いて、文学的生をスタートさせるもの、左翼運動に関わったりして、卒業は大幅に遅れ、昭和7(1932)年。八年かけてようやく卒業。昭和11(1936)年から十五年にかけて、「三田文学」などに短編小説を発表するものの、昭和20(1945)年1月、郷里の広島に疎開する。しかし、運命の八月六日、米軍機による原爆投下により、爆心地から一・二キロの生家で被爆。たまたま狭いトイレにいたことから一命はとりとめるものの、体調の不良に苦しみながら、自身が体験した原爆投下後の、正にこの世の終末を思わせる黙示録的惨状をメモした手帖を基に小説『原子爆弾』(のちに「夏の花」)を執筆し、第一回水上瀧太郎賞を受賞するものの、昭和25(1950)年1月、国鉄中央線の吉祥寺駅から西荻窪の間、線路に身を横たえ自ら命を断っている。

 さらに目を戦後に転じて見ると、小学生時代から「問題児」で「劣等生」として通してきた安岡章太郎は、中学校卒業後、旧制の松山高等学校など、いくつか高等学校を受験するがいずれも失敗し、昭和16(1941)年、慶應義塾大学文学部予科に入学する。ところが、三年後に学徒動員で召集され、満州に送られる。そして、短編小説『遁走』に詳しく書かれているように、およそ一年あまり、上官から事あるごとに、どなられ、殴られ続けるという悲惨な軍隊生活を送り、かろうじて終戦を迎えている。復員後は、慶應義塾に復学するものの、陸軍少将であった父親は失職し、家計は貧困を極め、しかも結核菌による脊椎カリエスを患い、コルセットを付けながら吉行淳之助らと遊び歩いていたという。

 安岡章太郎より二年遅れて、1943(昭和18)年に慶應義塾大学文学部予科に補欠入学した遠藤周作は、中学校こそ神戸の灘中学校と名門に入学するものの、生来の映画狂と読書狂がたたり、成績は年を追って低下し、最後は一八三名中、一四一番の成績で卒業。京都の第三高等学校を受験するものの失敗し、翌年も三高に再チャレンジするが再び不合格、広島高等学校の入試にも失敗する。さらに浪人三年目も広島高等学校の入試に失敗し、やむを得ず上智大学の予科甲類に入学する。しかし、一年も経たずに中退し、浪波高等学校を皮切りに、姫路高等学校、甲南高等学校を受験するが、すべて不合格。四年目は東京外国語学校や日本医科大学予科、東京慈恵医科大学予科、日本大学医学部予科を受験するものの、これもすべて不合格で、慶應義塾大学文学部予科にかろうじて入学している。おそらく、日本の近・現代文学者のなかで、遠藤周作ほど、たくさん高等学校や大学を受験し、失敗しまくった例はないと言っていいだろう。

 最後に、遠藤周作より10年遅れて慶應義塾大学文学部に入学した江藤淳は、中学校こそ神奈川の名門、湘南中学校に入学し、途中、東京都立第一中学校(現都立日比谷高等学校)に転向しているが、在校中に肺浸潤にかかり、休学を余儀なくされている。病ようやく癒えて、1953年に日比谷高校を卒業し、東京大学文科二類を受験するが失敗し、慶應に進んでいる。しかし、第二学年次に再び喀血し、自宅療養を余儀なくされている。それでも、四年で、英文学科を卒業し、大学院に進んでいるが、学部在学中に執筆、刊行した『夏目漱石』が大きな反響を呼び、文芸誌に評論を寄稿し、原稿料を稼いでいることが教授会で問題となり、退学を勧告されている。結局、江藤は、自主退学することで決着をつけるわけだが、慶應義塾文学部出身の文学者に共通する、「落第」、「受験失敗」、「中退」、「貧困」、「病気療養」という五つの「負」の記号性をしっかり身に着けている。

 このように、慶應義塾大学を卒業、あるいは中退したのち、小説家や詩人、評論家として立つに至った文学者の辿った文学的生の軌跡を振り返ってみると、そこに落第・留年や受験失敗、中途退学、肺結核など疾病による長期療養、貧困、親への反抗、無頼放浪の生活、自殺未遂、失恋、離婚などなど、社会的敗者としての「負」の遺産が累々と横たわっている事実を発見し、驚かざるを得ない。

 だが、彼らに共通するのは、そうした「負」の遺産と記号性に押しつぶされ、社会的敗北者として生きる道を断固肯んぜず、「負」の体験と記号性を逆手にとって、文学という最後に残された自己表現手段によって、正に起死回生の一手を打つことで、文学者として、さらには社会的存在として復権する道を選びとっていることである。そして、彼らが、文学によって人間的復権を図るうえで、拠り所としたのが、慶應義塾大学文学部の機関誌ともいうべき「三田文学」であった。彼らのほとんどは、「三田文学」に作品を発表することで、文学者として立つ契機を掴み、自身の進むべき道を見定め、地歩を固めていった。そして、ライバルである早稲田大学文学部に対する対抗意識によるものと思われるが、彼らが押しなべて自然主義文学に反旗を翻す形で、モダニストとして反権力主義的姿勢と精神を保ち続け、いくつかの例外を含むものの、おしなべて耽美主義的、浪漫主義的、あるいは表現主義的、実験主義的、前衛主義的方向性において、それぞれに固有の文学的立ち位置とスタンス、姿勢を定め、作品を書き進めていることである。

 さてそれなら、このような「負」の共同性が生まれ、そこから一世紀以上の長きにわたって、新しく、固有の文学的表現世界が次々生み出されてきた所以は何か、という問題意識に立って、改めて慶應義塾大学文学部と「三田文学」の歴史を振り返って、ある驚きと共に発見するのは、そうした流れの源泉として、1910(明治43)年から大正5(1916)年まで、慶應義塾大学部文学科の教授として後進の指導に当る一方、文芸誌「三田文学」を創刊し、みずから主幹として編集に当り、日露戦争後の文学空間に、新風を巻き起こした日本近代文学史上希有のモダニストとして生涯を貫き通した、永井荷風の存在が浮かび上がってくることである。

永井荷風

 知られているように、永井荷風は、文部省会計局長を務めたあと、官を辞し、日本郵船に迎えられ、上海支店長や横浜支店長を務めるなど、実業界のエリートであった永井久一郎の長男として生まれている。父親の久一郎は、明治の父親として、荷風に対して、官界、実業の世界で身を立ててほしいと願い、厳しくしつけようとするものの、荷風はそれに逆らい、学業を放棄し、漢詩造りや尺八に熱中。その結果、高等師範学校付属学校尋常中学校は一年落第して卒業、第一高等学校の受験に失敗し、やむを得ず、神田一橋にあった、高等商業学校付属外国語学校清語科(現東京外国語大学中国語科)に臨時入学する。

 しかし、学業はほったらかしたまま、落語家の朝寐坊むらくに弟子入りして、噺家修行に熱を入れた結果、外国語学校からは除籍され、さらに歌舞伎作家を目指して歌舞伎座に出入りするなどなど、十代の頃から人生の裏街道をことさらに選ぶようにして歩み通す。

 そして、1903(明治36)年)十月には渡米し、西海岸北西部の港町、オレゴン州タコマに一年ほど滞在したのち、ミズリー州セントルイス、ミシガン州カラマズー、イリノイ州シカゴ、ペンシルバニア州ウィルケス・バーレ、ワシントン州ワシントン、ニューヨーク州ニューヨークと、アメリカ大陸を異国遍歴者として東にゆっくりと横断、ワシントンでの日本公使館小使い、ニューヨークとフランス・リヨンでの横浜正金銀行現地採用職員……と、下積みの生活を続けるなか、夜はタイムズ・スクェア―ヤチャイナ・タウンなどの風俗歓楽街に入り浸り、娼婦と情をかわし、麻薬の陶酔に沈殿する一方、オペラやコンサートに通い、フランスの近代文学、特にモーパッサンやボードレール、ヴェルレーヌなどの文学を読むことを通して、文学者として自身の立つべき地点と進路を見定めていく。

 さらに、1908(明治41)年7月、日本に帰国してからは、『あめりか物語』を筆頭に、『狐』、『深川の唄』、『監獄署の裏』、二つの発禁本、すなわち『ふらんす物語』と『歓楽』に加えて、『帰朝者の日記』など、いわゆる「新帰朝者小説文学」と言われる短編、中編小説を立て続けに発表。そのかたわら、幼少年期の頃から慣れ親しんだ隅田川を舞台に、自らの意志で芸者になる道を進む下町育ちの少女と彼女に惹かれ、思いを寄せる少年を主人公に、名作『すみだ川』を「新小説」に発表。続けて浅薄な近代化、西洋化が進む明治日本の文明・文化の皮相性を徹底的に批判した『冷笑』を「東京朝日新聞」に連載するなど、旺盛な筆力を発揮して、島崎藤村や田山花袋らの自然主義文学が主流となっていた明治末期の近代文学の状況に対して、新風を吹き込み、その文名と文学界における地位を確固なものにしようとしていた。

 こうして新帰朝の新進気鋭の文学者として名を挙げるなか、荷風は、森鷗外と上田敏の推輓で、慶應義塾大学部文学科の教授に一躍抜擢され、ようやくというか、社会的に認知される優性的記号性を初めて身に着ける。そうした意味で荷風は、、正に「負」の人生を歩き通してきた文学者であった。だが、「負」の人生を歩き通してきたことによる荷風の、異端ではあるものの、ふてぶてしいまでに低く、自由で、捉われることのない生き方と考え方、さらには欧米の最先端の文化に触れることで吸収・蓄積され、磨きをかけられた「知」と「思想」と「モラル」と「感性」そのものから発せられる、真正モダニストとしてのオーラのようなものに、多くの学生たちは惹きつけられた。そして、高々六年近くと短い在職期間ではあったものの、教師と教え子の間で結ばれた影響と感応の関係は、荷風が慶應の職を辞してのちもずっと続き、多くの文学者が文学部と「三田文学」から巣立って行った。永井荷風が、慶應義塾大学文学部の生みの親であると言われ、慶應義塾モダニズム文学の源泉とされる所以が、そこにあると言っていいだろう。

 稀代の好色文学者とされる一方で、日和下駄をはき、雨傘を杖代わりに曳き、東京の下町に残る江戸文化の名残を探し求めて歩き回り、日記という閉ざされた密室的書記空間において、大正・昭和初期の時代風俗と人情の変化・推移を克明に観察・記述するかたわら、国家や軍部の悪を痛烈に批判、弾劾した反社会的、反時代的文学者永井荷風は、その文学人生のある時期、慶應義塾大学部文学科の教授として、フランス語とフランス文学及び文学評論を教え、多くの優れた文学者を門下生の中から輩出させた、優れた教育者でもあった。日本の近代文学者のなかで、門下生から多くの優れた文学者を生み出したという意味で、荷風は、寺田寅彦や小宮豊隆、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、和辻哲郎などを、その門下から出した夏目漱石と並ぶ希有の教育者でもあった。

 だがしかし、文学教育者としての永井荷風については、教え子たちが折に触れて書き残したものが断片的に残されているだけで、トータルにその実像を復元し、成し遂げた仕事の大きさがしっかりと検証され、評価されたことはこれまでも一度もなかった。

 本論は、反社会的な「性」の文学者、永井荷風が持つ社会的な一面に光を当て、大学教師としての荷風の真面目を明らかにすることを通して、モダニズムと反モダニズムとしての伝統的文化の世界を横断的、かつ循環的に往還を繰り返しながら、独自の文学世界を構築した永井荷風の多義的、多面的本質を浮かび上がらせるとともに、荷風の謦咳に接し、「三田文学」を通して、文学者として立つ契機を掴んだ久保田万太郎や佐藤春夫、堀口大学、水上瀧太郎、小島政二郎らがどのように固有の文学的表現世界を構築し、それらが、日本の近代文学の展開に対していかなる意味を持ったかを明らかにするものである。それはまた、戦後文学において、安岡章太郎や遠藤周作、江藤淳など、慶應文学部を卒業したものの、荷風からは直接教えを受ていない文学者が、いかに永井荷風という文学者の存在を受け止め、その文学に感応し、意識的、無意識的に荷風の影響を受けるなかで、それぞれの文学的アイデンティティを見出して行ったか、その軌跡をたどる試みでもある。

(2017年01月17日掲載)

末延芳晴(すえのぶ よしはる)
作者近影

文芸評論家。1942年生。東京都出身。京都在住。東京大学文学部中国文学科卒業。
1973年より25年間、ニューヨークに在住。アメリカの現代音楽や美術、舞踏、写真、各種パフォーミング・アーツについて批評・評論活動を行う。
1997年、『永井荷風の見たあめりか』を中央公論社より刊行したのを機に日本帰国。以後、文学評論と映画評論の領域で、旺盛な執筆活動を続けている。『正岡子規、従軍す』で、「第24回和辻哲郎文化賞」を受賞。
主な著書は以下の通り。
*『回想の・ジョン・ケージ』(音楽の友社、1994年)、
*『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)、
*『荷風とニューヨーク』(青土社、2001年)
*『荷風のあめりか』(青土社、2004年)、
*『ラプソディ・イン・ブルー』(平凡社、2003年)、
*『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)
*『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)
*『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社、2009年)
*『正岡子規、従軍す』(平凡社、2011年)第24回和辻哲郎文化賞受賞
*『原節子、号泣す』(集英社、2014年)
現在、朝日新聞ウェブ・マガジン「WEBRONZA」にて、
「追悼・原節子―追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家」を連載中。

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