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中東から世界を見る視点

作者近影

川上泰徳(かわかみ やすのり)

中東ジャーナリスト。元朝日新聞記者・中東特派員。中東報道で2002年ボーン・上田記念国際記者賞。退社後、フリーランスとして中東と日本半々の生活。著書に『「イスラム国」はテロの元凶ではない グローバル・ジハードという幻想』(集英社新書)、『イラク零年』(朝日新聞社)、『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)など。共著に『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)。


 

 中東の混乱が止まらない。2017年3月で6年目となったシリア内戦は、一体、どこに向かうのか。イラクとシリアで進む「イスラム国」(IS)掃討作戦の行方も見えない。紛争、難民、テロという中東の問題は、地域にとどまらず、そのまま世界の問題となる。
 中東情勢は、中東の国々と中東に関わる国々の相互作用で生まれる。米国が加わり、ロシアが加わり、日本もまた中東情勢をつくる構成要素の一つである。中東には世界を映す舞台がある。米国の政策はワシントンで決まるかもしれないが、それを世界に見せるのは中東なのである。本コラムでは、中東情勢を読み解きながら、日本を含めた世界の動きを追っていく。

(1)台頭するイランとシーア派

 第1回はイランとシーア派について書く。
 ニュースの表にはほとんどでないが、シリア内戦であれ、ISであれ、いまの中東情勢を見る上で、重要な鍵を握っているのはイランとシーア派である。ISのように戦闘的なイスラム組織がイラクやシリアのスンニ派地域で勢力を広げた背景には、イラク戦争とシリア内戦を経て、シーア派大国のイランとシーア派民兵がイラクとシリアで強大な影響力を持ち、スンニ派勢力を抑圧したことへの反動という要因が大きい。

イスラムのジハードに「国境」はない

 シーア派についての私の直近の記憶は、2016年9月、シリアの隣国レバノンの首都ベイルートでの、シーア派組織「ヒズボラ(神の党)」についてだ。ベイルート南郊のパレスチナ難民キャンプ「シャティーラ」を訪ねた時、難民キャンプに入る手前の地区の路地で、ヒズボラのナスラッラ党首の写真が添えられた若い兵士の大きなポスターを見た。若者の名前の前に「シャヒード(殉教者)」とアラビア語で書かれていた。

ベイルートのシーア派地区の街角にあったヒズボラ殉教者のポスター(撮影・川上泰徳。以下同)

 ポスターの近くにあった小さなカフェの店主に、殉教した若者について聞いた。店主は30代半ばで、殉教した若者は近くに住んでいたが、2016年春にシリアで死んだという。若者は店主よりも10歳ほど年下で、個人的にも知っていたと語った。2015年に初めてシリアに行った時は戻ってきたが、翌16年に再び行き、殉教したというニュースが入ったためポスターが貼られたという。ヒズボラは2013年春から、シリア内戦でアサド政権を支援するために地上部隊を送っていた。ポスターの殉教者は兵士の服を着ているが、レバノン兵士ではなく、ヒズボラの戦闘員である。

「若者がシリアで死んだことをどのように思っているのか」と店主に聞いた。「ジハード(聖戦)に行けば死ぬこともある」と店主は淡々と答えた。私は、若者が祖国のレバノンではなく、外国であるシリアで死んだことについてどのように思うかと聞いたつもりだったが、店主は、シリアで死んだことは問題にもしなかった。

 私は、レバノンの組織ヒズボラが国外のシリアの内戦に介入し、レバノン人の戦士がシリアで死んだことに問題性を感じていたが、シーア派の人々にとっては、国の違いは問題にならないということだ。私は、戦争について無意識に国と国との戦いを前提としているが、イスラム教徒はそうではない。そのことは、頭ではわかっていても、このようなやりとりで改めて気付かされる。イスラムの「ジハード」は近代国家の枠組みを前提としているわけではなく、イスラム共同体を防衛するための戦いである。ましてや「シリア」「レバノン」「イラク」というような、西欧諸国が線引きした現在の国境線の枠によって、イスラムのジハードが縛られるわけではない。

 シリア内戦ではイランの革命防衛隊がアサド政権を支援し、その指揮下にあるともいえるヒズボラの戦士やイラクのシーア派民兵がシリアで戦っている。シーア派のジハードが国境を超えていることは、スンニ派の過激派組織ISのジハードがイラクやシリアという国境を超え、さらにアラブ世界、欧米、アジアから3万人を超える外国人がISの支援に入っていることと、対で考えなければならない。

 ISがイラクとシリアの国境を越えて「カリフ国」の樹立を宣言したことをもって、1916年に英仏ロシアがオスマン帝国の分割を約した「サイクスピコ協定」への挑戦や破棄である――などという捉え方が喧伝されているが、私たちが現在考えているような近代的国家の枠組みを超えているのは、ISだけではない。シーア派も同じである。

フセイン体制崩壊で「シーア派パワー」が勃興する

 日本人にとってはイスラム自体なじみが薄い。スンニ派、シーア派といわれても理解がついていかないだろう。しかし、世界の総人口73億人の23%にあたる17億人がイスラム教徒であることを考えれば、イスラムを知らないで現在の世界を理解することは難しい。その1割を占めるシーア派が、中東で台風の目となっている。

 私にとってもシーア派は、長い間、遠い存在だった。学生時代にエジプトのカイロで1年学び、1994年から朝日新聞の特派員としてエジプトやエルサレムに駐在したが、エジプトもパレスチナもスンニ派世界の一部であり、イラク戦争まではシーア派を取材する機会は非常に限られていた。

 イラクには90年代からたびたび訪れたが、イラク戦争前のサダム・フセイン体制はアラブ社会主義を唱えるバース党という世俗的(非宗教的)支配であり、スンニ派、シーア派という宗派の違いが政治の表面に出てくることはなかった。スンニ派であれ、シーア派であれ、イスラムを強調するような考え方をとれば、すぐに秘密警察に目をつけられただろう。

 2003年のイラク戦争でフセイン体制が崩壊した途端、イラクで人口の6割を占めるシーア派の存在が急激に表面化した。「シーア派パワー」がどっとあふれてきたという印象だった。バグダッドが陥落した後、バグダッド郊外にあるシーア派地区のサドル・シティによく取材に行った。特に金曜日礼拝を取材に行くと、見たこともないような群衆がシーア派モスクに集まり、モスクの前の広大な空き地を埋めて一斉に礼拝をした。

サドル・シティのシーア派モスクで行われた金曜日礼拝


 フセイン体制下では、シーア派民衆が新しいモスクを建設したり、古いモスクを修復したり、拡張したりすることは厳しく制限されていた。シーア派民衆がモスクからはみ出して大規模な金曜日礼拝をすることも認められていなかった。見渡す限り人で埋まったサドル・シティの礼拝は、フセイン体制のくびきを解かれたシーア派が、数の力を誇示しているかのようだった。

 バグダッドが陥落した直後は、政府やバース党の事務所への略奪が横行した。シーア派のモスクの説教で「略奪はイスラムに反する。盗品を戻せ」という説教があった。すると、モスクに併設した倉庫は、人々が運んで来た略奪品であふれかえった。文字通り無政府状態が続いていたものの、10日、2週間とたつうちに治安が回復してきた。フセイン体制の下では幾重にも張り巡らされた秘密警察が治安と秩序を守っていたが、体制が崩壊した後、それに変わって出てきたのは部族と宗教(イスラム)である。

 実際にイラク戦争後のイラクで取材をした経験から考えると、スンニ派とシーア派では、部族と宗教者の力関係が異なっていた。スンニ派地域では部族の結束や部族長の権威が強く、ウラマーと呼ばれる宗教者は部族長を補助する形だった。一方、シーア派の宗教者は「大アヤトラ」を頂点とするピラミッド的なヒエラルキーを持ち、イラク中部のナジャフというシーア派の聖地に宗教権威がある。こちらは、部族が宗教者体制を支えているような構図だった。

 サドル・シティはイラク戦争前まで「サダム・シティ」と呼ばれていた。300万人以上の人口を抱える貧しいシーア派地区だが、まさにシーア・パワーを象徴する場所である。「サドル」は、フセイン体制下で暗殺された聖地ナジャフの大アヤトラ、サーディク・サドルに由来する。単に名前が変わっただけではない。殉教者サーディクの息子としてイラク戦争後に風雲児のように現れた若い宗教者ムクタダ・サドルが率いる民兵組織「マフディ軍」の最大の拠点ともなった。

 ムクタダ・サドルは米軍占領に対抗して反米デモを率いた。マフディ軍はバグダッド陥落から約1年後の2004年4月、サドル・シティでパトロール中の米軍を襲撃し、8人の米兵を殺害、50人以上の負傷者を出すなど、米軍への対抗姿勢を強めた。当時40歳だったムクタダ・サドルが率いる政治勢力は「サドル派」と呼ばれ、フセイン時代から反体制活動をしてきたダワ党やイスラム最高評議会と共に、政治勢力としての「シーア派パワー」を形成した。

2004年4月にバグダッドで開かれた、米軍占領に反対する大集会


 イラク戦争でバグダッドが陥落した2003年4月9日から約2週後に、バグダッドの南100キロのシーア派聖地カルバラで行われた宗教行事「アルバイン」を取材したことがある。シーア派はイスラムの預言者ムハンマドの甥で女婿の第4代カリフ、アリの家系を正統な後継者とみなして、主流派のスンニ派に対抗した。カルバラは、アリの息子フセインがスンニ派との争いの中で戦死した町である。シーア派は「殉教者」フセインが殺害された日を「アシューラ」、殺害から40日目を「アルバイン」とする。毎年、その日はフセインの殉教を悼んで鎖で体を打ったり、刃物で傷つけたりという熱狂的な行列を繰り出すのだ。

 私はアルバインの前日にカルバラに入った。途中、バグダッドからカルバラを目指して歩くシーア派の人々の列が途切れることはなかった。沿道の町、村ではカルバラに向かう人々のために水や食料を用意していた。フセイン体制下のイラクでは「アシューラ」や「アルバイン」のような宗教行事は禁止され、カルバラ巡礼もできなかった。

 カルバラでは各地から集まった集団が町や村ごとにまとまって、それぞれ工夫を凝らして嘆きや悲しみを表現していた。フセイン体制は倒れたばかりで、イラクがどのように動くかまったく分からない状況だったが、シーア派の人々の熱狂を見て、新しい時代の到来を実感したものである。

 米国は「強権からの解放」「イラクの民主化」を掲げてイラク戦争を始めた。しかし、その結果は、イランの支援を受けたシーア派宗教勢力が比例代表制選挙で統一名簿をつくって半数の議席を占め、政権を主導することになった。米国にとっては、長年敵視してきたイランが中東で影響力を強める手助けをするという、皮肉な結果となった。

 シーア派がイラクの人口の6割を占めるのだから、選挙でシーア派が勝つのが当然と思うかもしれない。しかし、政治と人口統計とは常にリンクしているわけではない。シーア派の間でも、サドル派とイスラム最高評議会が軍事的に衝突することがあった。それでも、イラク戦争後の2005年に憲法制定議会選挙でシーア派宗教勢力が協力したのは、イランの存在と、ナジャフの意向があったからだ。イランは、過去にサドル派とイスラム最高評議会の和解を仲介したことがあった。さらに、ナジャフの大アヤトラであるシスターニは、シーア派各派が共同歩調をとることを宗教見解として掲げたのである。

 シーア派民衆は、シーア派の候補者統一リストを「シスターニ師のリスト」と呼んで、投票場に詰めかけた。スンニ派にはイスラム党というイスラム主義政党があったが、部族勢力もいれば世俗派のリベラル派もいて分裂し、さらに選挙をボイコットする動きが広がった。スンニ派は政治的求心力を欠いていた。

 イラク戦争後、ヨルダンのアブドラ国王が、イランの勢力伸長について「シーア派三日月地帯」という言葉で警告した。その言葉は、当時、政治的プロパガンダとしか受け取られなかった。しかし、イランの後ろ盾でイラクのシーア派が選挙に勝利して政権を主導し、さらにシリア内戦が始まると、イラン、レバノン、イラクのシーア派民兵が支援してアサド政権が存続する。このような状況になって、「シーア派三日月地帯」は実体を持つことになった。

シーア派の聖地・ナジャフにて

 イラク戦争が一段落した2010年4月、イラクの主となったシーア派について知るために、私は中部のシーア派聖地ナジャフを訪ねた。ナジャフにはアリ廟がある。前述のように、シーア派はアリとその家系をムハンマドの正統な後継者と考える「アリの党派」である。それだけに、ナジャフはシーア派教徒にとって特別の町なのだ。

ナジャフの旧市街。正面のドームがアリ廟


 ナジャフには2008年に国際空港が開港し、イラン、バーレーン、アラブ首長国連邦(UAE)、クウェート、レバノンから定期便が就航していた。私はバーレーンの首都マナマからナジャフ空港に降り立った。飛行機が空港に着陸した瞬間、機内で「ムハンマドとその家族に祈りを捧げる」というシーア派流の掛け声が上がり、その声に機内全体が唱和した。スンニ派世界では経験がないことで、一瞬、何が起こったのかと、私は思わず機内を見回した。それが私にとっての「ナジャフ体験」の始まりだった。

 ナジャフは学問の町だった。有名なモスクに併設して、ハウザと呼ばれる学院がいくつもあった。シスター二のような大アヤトラはもちろん、かつて大アヤトラを輩出したナジャフの名家もハウザを持ち、学生を抱えていた。アラブ世界のシーア派は、イラク以外ではレバノン、サウジアラビア東部、クウェート、バーレーン、イエメンなどにコミュニティがある。さらに、イランはもちろん、アフガニスタンやインドにも大きなコミュニティがある。世界各地のシーア派コミュニティから、ナジャフのハウザに学生たちが学びに来ていた。

 私が訪ねた学院では、60代のアヤトラが教授として100人以上の学生に教えていた。教授は18歳でハウザに入り、初級課程を5年、上級課程を15年の計20年学び、やっと信者に法解釈を示すことができるムジュタヒドとして認められたという。教授は「学生のうち学問が成就するのは10人に1人」と語った。

ハウザで教授を囲んで学ぶ学生たち


 1970年代には、ナジャフに5000人以上の学生が国内外から集まっていたとされるが、79年にイランでシーア派のイスラム革命が起き、翌80年にイラクのフセイン体制がイランとの戦争を初めて、ナジャフの宗教勢力への弾圧を強めた。そのため、多くの宗教者がクウェートやイランに逃げた。ナジャフは80年代、90年代と抑圧されていたものの、イラク戦争後にシーア派が台頭し、ナジャフ復興が起き、留学生も増えている。

 ナジャフの学院には、学生が住む小さな部屋が付属している。ヒズボラ党首のナスラッラが、1979年まで学んでいたという学院もあり、ナスラッラが使った部屋が残っていた。ナスラッラはレバノンに戻った後、82年のイスラエルによるレバノン侵攻の後に生まれたヒズボラに参加し、指導者になった。

 私が訪ねた時、ナジャフにはシスターニら4人の大アヤトラがいた。そのうち、地元のナジャフ出身者は1人だけだった。シスターニはイラン、あとの2人はアフガニスタンとパキスタン出身で、コーランとイスラム学の言葉であるアラビア語を母語とするアラブ人ですらなかった。ナジャフに来た学生は、国籍や出身地に関係なく、学問で認められれば、宗教界のトップにまで上り詰めることができるということである。

 大アヤトラは学問の世界の権威というだけでなく、豊富な資金を持つ。資金源となるのは、信者が払う「フムス(5分の1)」と呼ばれる宗教税である。フムスは収入の5分の1(20%)を指すが、信者は自分が信奉する大アヤトラに払う。家や土地、車などを買った時に、その代金の20%を支払うのだ。大アヤトラはハウザを開き、信者のための慈善活動や文化活動を幅広く行っている。各地に自分の代理人をおいて、宗教者として人々の相談を受け、様々な社会活動を行って人々と結びつき、フムスを徴収する。

 シスターニの事務所の前には、フムスを払おうとする信者が列をなしていた。フムスの支払いは信者の義務であり、強制されるわけではないが、払わなければ天国に行くことはできない。国の税金とは異なり、ごまかして報いを受けるのは自身である。ある信者に話を聞くと、大アヤトラの事務所でフムスを算定してもらい、事務所に払うのは10%で、残りの10%は「自分で貧しい家族に与えなさい」と教えられたという。もちろん、それも天国に行くために実行するという。

 エジプトやサウジアラビアなどほとんどのスンニ派国家では、宗教者は大学でイスラム法など学を修めて、政府の宗教省に属し、政府から給料を受ける公務員である。中には大学院で研究を続けて博士号をとり、自身で宗教関連の研究書や著作を発表するなどして宗教者として社会的に評価される傑出した宗教者もいるが、数は少ない。一方、シーア派の宗教者は政府や権力者から独立したヒエラルキーと資金源を持ち、その分、独自性が強いといえよう。

 ナジャフのもう一つの顔は、墓である。アリ廟があるというだけでなく、市の北と東の方向に、30平方キロの広大な墓地「ワディ・サラーム(平和の谷)」が中心部から延びている。シーア派の人々は、ナジャフに埋葬すれば、アリが天国にいくことを神様に取りなしてくれると信じている。墓地は1000年以上にわたって広がり、500万基あるとされる。

広大な墓地「ワディ・サラーム(平和の谷)」


 墓地には、木製の棺を屋根に積んだ車が次々と到着する。入り口でイスラム式の洗浄を受けた後、アリ廟で宗教者の礼拝を受け、人々が棺を担いで墓地で埋葬される。ある埋葬人に聞くと、イラク戦争後の2006年にスンニ派とシーア派の宗教抗争が激化した時には、月に500体を葬ったという。スンニ派との抗争がそれだけ激しかったということであるが、ただし、シーア派が一方的に被害者だったわけではない。当時、「イラク・イスラム国」が無差別にシーア派民衆を爆弾テロで殺戮したのに対して、スンニ派地域を攻撃したシーア派民兵の残酷さも人権団体などによって報告されていた。

 ナジャフに行って分かったのは、激しい宗派抗争の間にも、イラク全土のシーア派地区から遺体が運ばれてきて、ここが追悼と埋葬の場になっていたというシーア派の一体性である。さらに国際空港が整備されて、イラク国内のシーア派はもちろん、国外のシーア派の人々も棺をナジャフに運んで埋葬するようになったという。生者だけでなく、死者にとっても、ナジャフは国境を超えた都市になっている。

 ナジャフについて詳しく書いたのは、国という枠組みを超えたシーア派の存在を示すためである。レバノンのシーア派ヒズボラ党首ナスラッラが1970年代にナジャフで学んだように、かつてはイランのコムよりも、ナジャフがシーア派教学の中心だった。人口の多数がシーア派のバーレーンや、サウジアラビアのペルシャ湾岸にあるシーア派都市カティーフなどでも、60代、70代のシーア派宗教者の中には、若いころナジャフで学んだ人物が多い。イラン出身のナジャフの大アヤトラ、シスターニはまずイランの聖地コムで学んだ後、ナジャフに移った。

 イラクのサダム・フセイン体制は、シーア派本拠のナジャフを抑え込むことで、インド、アフガニスタン、イラン、湾岸アラブ諸国からレバノンまで延びるシーア派ネットワークを分断していた。その体制が崩壊し、イラクにシーア派政権が生まれたことで、改めてネットワークが動き出した。それが「レバノンのシーア派の若者が、ヒズボラ戦士としてシリアにジハードに行く」という状況を生み出しているのだ。

シリアで交錯する、2つのジハード

 アサド政権支援でシリアに行っているのは、ヒズボラだけではない。2016年、アサド政権軍の侵攻によって反対派が支配していたシリア北部のアレッポ東部が陥落した時、レバノン、イラク、アフガニスタン、パキスタンなどから数千人のシーア派民兵が政権軍に加勢に来ていると報じられた。まさに、ナジャフの学院に学問を修めるために来ている宗教者の出身国と重なる。シリアで戦う各国の民兵を束ねているのは、イランの革命防衛隊である。

 シーア派ネットワークは国を超えて、各地のシーア派と連携するものだが、現在のネットワークはイランの革命防衛隊が主導しているため、イランのイスラム国家体制に縛られ、囚われている。ヒズボラやイラクのシーア派民兵が、ジハードと称して、アラブ世界で最も専横的な国家で、イスラムの価値とは無関係の世俗的なアラブ民族主義を標榜するバース党体制のシリア・アサド政権を支えているのは矛盾としかいえない。

 もちろん、シーア派の立場からは、自分たちを敵視するISとの戦いだというかもしれないが、アサド政権軍が主に戦っているのは、自由シリア軍や、IS以外の反体制イスラム武装組織である。政権軍やロシア軍の爆撃機が反体制地域の民間地域を空爆して子供を含むおびただしい民間人の死者を出し、地上でシーア派民兵が戦っているのである。

 現在、混迷のシリア内戦で、国境を超えてISに集まるスンニ派の若者と、アサド政権支援のシーア派という、ともに国の枠を超えて広がる2つのジハードが重なっている。イスラム教徒は、スンニ派もシーア派も「イスラムは平和を求める宗教」と強調するが、それぞれの「ジハード」がぶつかって6年間で30万人を超える死者を出し、500万人以上の難民を生んでいる。そのような愚行を前にすると、スンニ派、シーア派と言う前に、イスラム世界の英知を示すべきだと考える。

(2017年04月21日掲載)

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