集英社新書WEB連載
文字の大きさ

ガザの声を聴け!

作者近影

清田明宏(せいた あきひろ)

1961年福岡県生まれ。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長で医師。高知医科大学(現・高知大学医学部)卒業。世界保健機関(WHO)で約15年間、中東など22カ国の結核やエイズ対策に携わった。2010年から現職。中東の結核対策では、患者の服薬を直接確認する療法「DOTS」を導入し、高い治癒率を達成。その功績が認められ、第18回秩父宮妃記念結核予防国際協力功労賞を受賞した。


 

第1章 UNRWA「ウンルワ」とは何か

001 仕事の背景にあるもの

 1948年5月15日、パレスチナの地で第1次中東戦争が始まった。前日の5月14日にイスラエルが独立を宣言し、それに反発したアラブ諸国が戦争を宣言。翌1949年まで戦争は続く。その間、戦火を逃れて約80万人のパレスチナ人が難民となり、パレスチナの地を離れた。

 ある家族は西南部に逃れガザに。ある家族は東部に逃れヨルダン川西岸、あるいはさらに東部のヨルダンに。またある家族は北部に逃げレバノンやシリアに。彼らとその子孫がこの連載の主人公であるパレスチナ難民だ。

 現在、ヨルダン川西岸地区と地中海に面したガザ地区をパレスチナ自治区と呼ぶ。1993年のオスロ合意でパレスチナ人による暫定自治が始まった。

 1948年からもうすぐ70年になる2017年になっても、彼らの難民問題はまったく解決していない。パレスチナ難民の総数は1948年に避難した難民の子孫を入れて、すでに560万人に達している。20世紀最大の負の遺産とも言えるパレスチナ難民。彼らの長い、苦悩の旅はまだ続いている。

 パレスチナの地を逃れた難民の多くは、各地に開設された難民キャンプに避難した。当たり前だが、難民キャンプでも人々の生活は続いた。赤ん坊も生まれた。仮に、ヨルダン川西岸のある難民キャンプで生まれた子供の一人をアリ君としよう。1948年生まれだ。

 そのアリ君が13歳になった1961年に私は生まれた。当時の日本は高度経済成長期の真っ只中、3年後の1964年の東京オリンピックに向け、日本中が沸き立っていた。この頃になってもアリ君は依然、ヨルダン川西岸の難民キャンプで生活を続けている。1956年には第2次中東戦争も経験し、学校には通うものの、状況は変わらない。

 アリ君が19歳になった1967年にパレスチナで激変が起こる。第3次中東戦争だ。6月5日に始まったこの戦争は6月10日に終わった。たった6日間の戦争で、6日戦争とも呼ばれる、非常に短い戦争だが、アリ君に起こった変化は甚大だった。アリ君がいたヨルダン川西岸がイスラエルに占領され、アリ君の一族はヨルダン川を渡りヨルダンに逃げた。2度目の難民生活だ。

 その1967年に私は山口県の田舎の小学校に入学した。いわゆる平成の大合併の際、学校のあった玖珂(くが)郡錦町は岩国市錦町となったが、当時は、同級生が50人もいない山の中の学校だった。皆のんびりし、平和で、夏休みには川で泳ぎ、冬休みには雪合戦をした。近所の山には熊も出た。難民の「な」の字も知らず、将来のことは全く考えていない、呑気な子供であった。

 それから50年後の2017年、56歳になった私は中東のヨルダンの首都、アンマン市にいる。 国際連合パレスチナ難民救済事業機関という非常に長い名前の機関で仕事をしている。この機関、英語で書くともっと長い名前だ。United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near Eastといい、略称UNRWAと呼ばれている。現地の人はこれを「ウンルワ」と発音する。この連載でもUNRWA「ウンルワ」と書かせて頂く。 (続く)

第2回は7月14日(金)掲載予定
(2017年07月07日掲載)

ページトップへ