集英社新書
カルチュアどんぶり
作者近影 金平茂紀(かねひら しげのり)
TBS「報道特集」キャスター。1953年北海道生まれ。1977年TBS入社。報道局社会部記者、モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」担当デスク、ワシントン支局長、報道局長、アメリカ総局長及びTBSインターナショナル副社長等を歴任。2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」受賞。著書に『テレビニュースは終わらない』『世紀末モスクワを行く』『電視的』『二十三時的』『ホワイトハウスから徒歩5分』『報道再生ーグーグルとメディア崩壊』(河内孝氏との共著)他。


11-10 (1) 自然と人間の二元論を超える風景写真がある

展示会場での畠山直哉氏(9月30日。筆者撮影)展示会場での畠山直哉氏(9月30日。筆者撮影)

 東京都写真美術館で10月1日から始まった畠山直哉の写真展「Natural Stories」のプレスツアーというのに参加してみた。僕はその種のプレス用イベントにはあまり縁がないのだが、今回はどうしても参加してみたいと思った。そして参加して本当によかったと思う。畠山は聴衆の前で淡々と制作の意図などを説明していた。
 自然を征服=コントロールしようとしてきた人間の営みが歴史だとかいう考え方がある。むしろ通説だろう。だが、畠山のいう自然は、「人間に感得される束の間のもの」であり、「人間が出会った時に生じる何かが〈自然〉だ」と語っていた。会場に展示されたヨーロッパの炭田地帯のボタ山や製鉄工場から出る水蒸気や爆破によって取り壊される古い建物の風景写真を見ながら、確かに僕らはそこに〈自然〉を感得していた。つまり、畠山は一種の不可知論のような立ち位置にいる。人間の歴史など地球の現象のごくごく微小な部分にすぎないのだから、そのような巨視的なスケールで、たとえばフランスのカマルグ平原とその近くの製鉄工場を対比して提示すると、「天為も人為もプロセスは異なりながらも、結果的には等価な行為である」(今回のキュレーターの藤村里美の言葉)ことが感得されてしまうのだ。畠山はまた「鉱山と都市は一枚の写真のネガとポジだ」とも語っていた。そのような写真展を準備していた畠山が、〈3・11〉による自分の生まれ故郷・岩手県陸前高田の壊滅に遭遇した〈偶然/必然〉を、僕らはどのように捉えたらよいのだろうか。
 正直に告白すれば、僕自身は報道にかかわっている者であり、大震災で肉親と生家を失い、生まれ故郷の被災後の風景を撮影したという彼のストーリーに、そのような理由から興味を抱いたことも確かだった。畠山の写真展を見た後でも、そのような自分の態度が浄化されることはあるまい。だが、畠山が壊滅した生まれ故郷の風景に接した後にとった行為、それを表現する際の自分自身への問いかけ、写真は何のために撮られているのか(いたのか)に対する自身に対する真摯な自問の一端を想像したとき、僕は畠山の〈熱さ〉と〈誠実さ〉に感動せずにはいられなかったのだ。「陸前高田のことが気になって、気になって、そこでみた出来事のヒドさに、一遍に歳をとってしまったような気がしました。破壊的なテーマを撮った写真は今までたくさんあったのですが、今回の(陸前高田を撮った写真)は、それと似ているけれども意味合いが全く違います。それまでは高みに立って写真を撮ることには何の逡巡もなかったのに」(畠山自身の会場での言葉から)。それらの写真のキュレーションがどのようなものになっているのかを、会場に運んでみてもらいたい、と僕は思う。そして〈3・11〉以前と以降で写真の意味が変わったのか変わっていないのかを、みている人が直接、確認してほしいと思う。(12月4日まで開催予定)

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