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著者近影

○岡崎玲子(おかざき れいこ)
1985年兵庫県生まれ。小学6年生時に英検一級を取得。静岡県浜松市の公立中学1年生時にTOEFL670点、2年生時にTOEIC975点を獲得し、また国連英検特A級を取得する。全米トップ3に入るといわれるプレップスクール(寄宿制私立高等学校)、チョート・ローズマリー・ホール校に合格し、中学3年生の2000年9月からチョート校2年生として入学。2003年6月に卒業。

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レイコ@チョート校 -アメリカ東部名門プレップスクールの16歳』 
9・11ジェネレーション -米国留学中の女子高生が学んだ「戦争」


029 祭りの過剰

◆祭りの裏では

 四年に一度、サッカーの祭典ワールドカップが世界中を興奮の渦に巻き込む。そう考えがちだが、例えばアメリカのメディアに接している限りでは、開催にさえ気づかない可能性すらある。一つに、新聞によっては「ビジネス」や「スポーツ」、「エンターテインメント」、「地域の情報」等が別冊として閉じられているということがある。今回はアメリカ代表が初戦で敗北したこともあってか、新聞社によるネット上のニュース配信ではスポーツ分野のヘッドラインにすら挙がっていない。メダルの獲得数が多いオリンピック等にもさほど関心が集まらないことから、孤立主義の表れだという者もいる。
 さらに、決勝大会に出場はしていても、サッカーはどちらかと言えば中流階級のスポーツとして知られる。大卒・白人で、家族を支えるために自身が働く必要もなく、大型車で子供をサッカーの練習から送り迎えする "soccer mom" が、やや保守的な浮動票の担い手として政治の議論にも登場するほどだ。高校や大学のチームからプロチームまでもが地域全体の支持を集めるバスケやアメフトほど浸透していない。
 その一方で、自国チームの試合がある日には仕事を早めに切り上げたり休んだりする国だってある。個人的に印象深かったのは、準々決勝で韓国がスペインをPK戦の末に下した二〇〇二年の夏。ちょうどスペインに短期留学中だった私は「韓国人か」と何度も尋ねられた。もしそうであった場合にどんな言葉を投げかけられたのかは不明だが、街を見渡してもワールドカップというテーマは日本ほど商業的に利用されてはいなかった。
 当然のことながらワールドカップなど知らない、またはそれどころではない人間が圧倒的に多いのだが、それにしても世界中でこれだけ広く同時に共有される話題は少ないだろう。ただし、試合の結果がスポーツ新聞でもない一般紙の一面を飾るとなると、害の方が大きい気がする。それが嫌ならば日経新聞だけ読んでいれば良いのかもしれないが、どうかそこは踏みとどまってほしいと願ってしまう。
 私は運動が好きだし、実際に毎日何らかの形でアクティブでいることにしている。ことにサッカーは高校時代、今なお脚に後遺症が残っているほど留学先のアメリカでプレーしたし、人生のうちもっとも長い年数を過ごしている静岡県では、中学校には野球部がなくサッカーが盛んだった。
 しかしスポーツを観戦するとなると、たとえピッチに立っているのが自分の知り合いでもスター選手でも、あるいは競技場に足を運んでいてもテレビ画面で全体像を捉えていても、退屈してしまう。披露されている能力や重ねられてきた努力には感銘を受けるが、どうも一人の選手や一つのチーム、ましては特定の国の代表を応援するというメンタリティーに欠ける。

 私が十年近くにわたって暮らしていた遠州地方では、五月の初めに行われる浜松祭りがゴールデンウィークの人出については行楽地と混じってトップにランクインされるほど有名であり、地元の人々は一年間それを楽しみにしていた。周りの友人も、例えば女の子なら幼い頃からお化粧をしてお囃子を練習していた。私にとっては<生まれ育った地>ではないため(かといって他の場所に帰属意識があるわけではないのだが)、連休中は必ず県外に出掛けていて、祭りの様子を実際に目にしたことはない。
 砂浜を彩る凧揚げ合戦では「遠州の空っ風」を生かして相手の紐を切るのが目的だが、そもそもは男児の誕生を祝って凧を揚げるという風習に則っている。町の法被や提灯を購入しなければ祭りには参加できないという立て看板も、至るところに立ててあった。町別に集まって街を練り歩く際にはハメを外すもので、髪を染める、深夜徘徊、未成年者の飲酒といったことも許されてしまう点が一つの魅力でもあったようだ。それにしても、伝統が自然に受け継がれているのが見てとれた。
 アメリカでは地方やコミュニティー別のイベント、あるいは移民たちにとっては母国の祭日が重要な意味を持つものの、全国的に有名なものは限られている。今年は六月のニューヨーク名物であるプエルトリコ・デーのパレードをジェニファー・ロペスとマーク・アンソニー夫妻が先導し、ヒラリー・クリントン議員やブルームズバーグ市長なども顔を揃えたことで注目が集まっていた。一方でスペイン北西部に語学留学していた際には、七月にパンプローナの牛追い祭りがテレビで放映されているのを見て、多数の負傷者、そしてときには死者も出るのだから馬鹿げていると周りが語っているのを聞いた。祭りへの感想というものも、実に様々だ。
 文化的、歴史的な意味において、宗教や祭典には関心がある。そういったものを見つけると、国内でも海外でも行く先々で寄り道を繰り返してきた。バーミアンの仏像のように破壊されるか、観光促進の意図をもって保護・宣伝されるかという運命こそ違えども、遺跡そして最近は評価が高まっている無形遺産……これらの持つ力には誰もが気づいている。しかし、はっと息をのむような建造物や芸術作品は、富の集中や労力の搾取なしでは実現しなかっただろう。それらを支えていた陰の部分は元々見えにくい上に隠蔽されており、目を凝らし、想像力を働かせなければ浮かび上がらない。
 昔から、ハレとケの区別は重要だった。日本なら、主食であり税でもあった貴重な米を分けておいて造った酒を飲み、神に近づく日であっただろうし、近代も、祝祭日に配給が増えるのは世界中どこでも同じだった。有形でも無形でも、今日まで受け継がれてきた過去の遺産は例外的な日に関わるものが多い。その裏にあった、冴えなかったり、苦しかったりする日常から気を紛らわす手段が祭りであったはずだ。

 それが、どうだろう。新商品、新発売、新登場……今の世の中は連日、お祭り騒ぎではないだろうか。子供も大人も新しいおもちゃを欲しがり、与えられた娯楽を消費する。<新事実>ばかりが報道されていれば、ある特定の事柄もじっくり議論されること抜きに忘れ去られる。言い換えれば、自分は責任を問われない他人のプレーを批評し、たとえ負けても(賭け事やビジネスチャンス以外では)実質的なロスのないゲームに熱狂していれば気楽だ。しかし、人々の興味を集めることだけがニュースバリューではない。悩ましい問題は減ることもなく、先延ばしされているに過ぎないのだから。
 記録したものが<歴史>として扱われ権威を誇示する新聞、ニッチを確立しているインディペンデント系メディア。イメージに重点が置かれるファッション誌、スピードが売りのネット記事。ページの黄ばんだ書籍、スクープを宣伝する週刊誌の中吊り。手軽なフリーペーパ、表示方法が巧妙に計算されている食品の成分表。多くの活字に目を通す現代の生活の中では、あるテーマがクローズアップされていたり、逆に排除されていたりする理由こそが、実際に掲載されている文章よりも重要だ。大きな見出しで飾られた記事は、他の知らせを覆い隠す。ヘッドラインの裏に、真実がある。

◆英語教育の目的

 私が日本の教育に足りないと思う(たくさんの)要素のうちの一つが、メディア・リテラシーへの考慮だ。イメージ先行形だったり、論点がすりかわっていたりということがあっても、情報を受ける側が厳しい評価を下していないという印象を受ける。読解力や思考力、表現力といった柱が欠かせないことに異論を唱える者は少ないと思うが、語学力の話題になると意見が割れているようだ。
 日本における語学教育の現状については、まず表面的に見ても不公平な点を指摘したい。日本国内で公立の小・中学校に通っていた私には、中学校や高校を卒業してからすぐに働きだした友人が多く、彼らは海外へ出たこともないが、英語を学べていればと口を揃えて言う。入学試験や就職・昇進を決定する局面に占める英語のウェイトが大きい今、家庭の経済状況や親にとっての優先順位次第では、習い事として始める子供が多い。公立小学校に英語の授業が導入されることに反対する論者は、中学校の時点で既に圧倒的な差がついているにも拘わらず理解度に応じた配慮がない点を無視している。

 次に、本質的な議論へと話を移したい。英語がなくても生きていけるという主張は成り立つのだろうか。言葉が通じなくても世界中を放浪したという体験談には、私も親しんでいる。しかし、今求められている国際交流とは、旅行程度には留まらない。スピードが速く、一歩間違えてしまえばとりかえしのつかないような変化が地球規模で起きていて、市民がネット等の媒体を建設的に利用しながら政府の働きに関与し、哲学者として物議を醸す論点について考えなければならない。誰もが外交官であり、記者であり、裁判官だという時代なのだ。
 超大国アメリカが、新たな植民地支配の形態であるグローバリゼーションやIT化で英語を押し付けて、自分たちは外国語を学ばなくて済むために得をしていると説く者もいる。果たしてそうだろうか。逆にアメリカ国内に暮らしていながらも子供に英語を学ばせないことを選択する、スペイン語のコミュニティーのような例もあるわけだが、母語が広く通用するためにその殻を破ろうとしない人がいるとすれば、それは損だという気がする。もはや英語は英語圏の国々のものでも、西洋のものでもない。私も、ポーランド、レバノン、台湾と出身地は様々な友人と英語によって互いに意思疎通ができることに初めて感動した自身の小学校時代の海外経験から十年以上が経つ現在も、再会を約束しながら彼らと交信を続けている。
 日本という国の領土を離れるつもりがなくとも、今はインターネット等のバーチャルな越境が日常茶飯事になっている。現実の世界でも、環境保全、経済や医療の問題、安全保障などを考える際に、国境の反対側は関係ないなどとは言っていられない。また、自分の文化を捉える視点はどうしても一方向に留まってしまうが、説明を求められたり外部からの報道を読んだりすれば、理解は格段に深まる。
 英語に限らず、知識や能力を論じる際には外に勤め先があるような仕事を念頭に語られることが多いものの、それと関係ないところで、誰もが自分や家族のために日々決定を下している。サッカー一色の国内メディアから与えられる情報だけでは正しい選択ができず、比較や議論が欠かせないことは明らかだ。

 英語を学ぶ必要がないと主張することはナンセンス。それでは、どのような教育法が望ましいのだろうか?
 早期に開始することの有効性については、科学者の意見も分かれている。当然のことながら、大人になってから外国語を習得することができないわけはない。問題はどれほど容易であるか、そして子供のうちから世界が広がることにいかなるメリットがあるかという点につきる。幸いなことに私は幼少期に、比較的自然な形で英語を習得できる環境に置かれていた。中学校から文法の訓練を始めるという手法で、好きになることができたとは到底思えない。「国語力がおろそかになる」という、まるで片方が増えればもう一方が減るかのような主張には(限られているものには授業の時間数があげられるが、それについては後ほど触れる)納得できない。それどころか、自分の興味に合わせてさらに多くの言葉を操ることができてもよいのではないかと感じる。言語の多様性は、人類の貴重な財産だ。
 時間と効率の課題は、それぞれに合ったペースを選択することで解決できる。習熟度別に学習を進めることへの批判は、理解するのが遅い=悪いことだという前提に基づいている。だが、誰でも慣れるのに時間がかかる分野と、得意な分野があり、他人と比較する理由などない。
 好きなことを追求し、新しいことに挑戦し、苦手なことを克服していけるような環境を整えることができるのか?
 ここでは、しばしば手段と本質の問題が取り違えられている。本来ならば、少子化が進むにつれ子供一人一人に丁寧に向き合うことができるはず。逆に余裕がなくなっている原因は、政策や予算配分の問題に他ならない。
 もし我々が教育の大切さを信じているならば、状況は改善できる。軍事費を少しでも教育の分野にまわすことは、突拍子もない案に聞こえるのかもしれない。ところが全額を振り替えた中米コスタリカは、不安定な周辺地域の和平に貢献し、学校や医療のシステムが整備されているとして名高い国である。うらやましい評判ではないだろうか。

 皮肉なことに、英語が必要ないという立場をとった場合、得ることのできる情報はアメリカのものに限定されてしまう。日本とアメリカの新聞を並行して読んでいると、記事がこれほどまでに酷似しているのかと驚くことも少なくない。一方で、あまり馴染みのない国や、同じアジア地域から発信されるメッセージの多くは、日本語には対応していなくとも英語には訳されている。原文で読むことが理想的だとはいえ、すべての言語を理解することなど不可能だ。しかし、英語でなら一味違った報道内容を判断材料に取り入れることができる。
 祭りへ参加する形は自ら決めるべきだ。踊らされないよう揺るぎない自覚を持った上で、初めて踊ることができる。


 

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