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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第90回 チークダンス・パーティ(最終回)

01 引っ越し

 半年前に恵比寿から馬込に引っ越して、はやく引越しパーティーをやらなければと思いつつ、あっというまに8月に入ってしまった。馬込はぼくの生れたところ。うちの近くは作家やアーティストがいっぱい住んでいたことで知られている。ぼくの家から大森駅に向かって歩きだして山王にさしかかる直前の信号のところに蔦でおおわれた北原白秋邸(跡)が見える。その信号を右に渡って坂を下ると山本周五郎が住んでいた場所に出る。いまは公園の一角となっている。その先のT字路が三好達治宅で、かつては彼の詩集をいつも持ち歩いたものだった。北原白秋の『フレップ・トリップ』も大好きな旅行記だし、山本周五郎はほぼ全作品を愛読している。いずれも好きな作家ばかりだ。

(撮影:編集部)

 そこからちょっと東へ入ったところに室生犀星宅があり、ぼくが通った馬込第三小学校の校歌も彼の作詞になっている。大学までいろいろな校歌があったけれど、小学校の校歌がなんといっても一番格調が高い。三好達治宅からさらに南に歩くと、萩原朔太郎の家があり、臼田坂上のバス停の近くには三島由紀夫邸がある。写真でおなじみの洋館でなかなか風格のあるたたずまいだ。そこからまた臼田坂に戻って半分ほど下ると、そこが川端康成の家があったところで、石坂洋次郎の家とはすぐ近所同士だったらしい。立原道造の家も近くにあるし、臼田坂下には川端龍子記念館もある。まあそんな調子で、うちの近所には作家やアーティストが少なく見積もっても100人近くは住んでいたことになる。尾崎士郎、宇野千代、徳富蘇峰、日夏耿之介、北園克衛、山本有三、山本太郎など枚挙に暇がない。

 もともとこのあたり一帯は緑がいっぱいのすばらしい地域で、最近では世田谷が人気スポットになっているが、こちらに住んだ人々にはなにより知性のきらめきがあった。どうしてそれほど多くの作家が集まったのかわからないが、週末ごとにダンスパーティーがあって、作家だけではなく妻たちも参加してアトリエなどでダンスに興じたらしい。

 そんな馬込の子どもたちにとって、世田谷の等々力とか尾山台は冒険に出かけるところだった。実際、等々力渓谷をぬけて多摩川に出て、向こう岸まで泳いで渡るのが勇気のしるしだった。大田区のイメージといえば中小企業が密集している工場地帯を連想する向きもあるだろうが、うちの近所には山王、久が原、田園調布となかなか高級な住宅地も数多い(うちは違うけど)。

 恵比寿に住んでいた頃にはマンションがすぐ駅前だったこともあって食事には不自由しなかった。よくテレビで紹介されるおいしい店がいっぱいあったし、ラーメン屋だけでも30軒は下らなかった。ところが、いまの家の近くにはほとんど店らしきものがない。仕方なく食材を大量に買い込んで自分で料理するはめになっている。それでも東京には珍しく昔のままほとんど変化しなかった地域で、仕事をやるぶんには悪くない環境だ。先人たちの魂を受けついでいい作品が書けるようになるといいのだけれど。

 ところで、引越しパーティーはチークダンスと決めている。恵比寿にいた時にはうちでしばしば30名規模のパーティーを開いたものだった。狭いワンルームに大勢が押し寄せて、コスプレとかダンスもあって、なんとも楽しい日々だった。せっかくだから久々にちょっと官能的なパーティーをやってみたいと思っている。夏というのは意外と感傷的になる季節でもある。ラテンをかけてメローな感じで一晩踊って過したらどんなにすてきだろう。

 そんなわけでさっそく女の子たち(というか女子たち)に声をかけてみた。すると、「えっ、チークダンスってどうするんですか?」という反応。予想どおり経験者はほとんどいない。ディスコでチークタイムが流行ったのはたしか80年代だったし知らなくて当然だろう。しかし、フツーにからだを寄せ合って踊るだけと説明すると、みんな「おもしろそう、やってみたい」という。初めは社交ダンスのように男と女が片手を組み、もう一方の手を女は相手の肩に、男は女の背中におく。それでただ軽くステップを踏むだけでいい。もさらに、男は両手を相手の腰に当て、女は男の首に両手を回す。そして、もっと進むと(ここからが本当のチークダンス)、そのまま身体を密着させる。踊りはあってないようなもので、適当に揺れていればいい。

 チークダンスを踊るということは、その場でいきなり相手とからだを密着させることだから、かなり抵抗もあるだろう。たいてい「だれとでもこうしなければいけないんですか?」と聞かれる。「好きな人だったらいいんですが」。もちろんチークダンスは好意をもっている相手と踊るもので、だれでもいいというわけにはいかない。しかし、30名ちょっとのパーティーだとあぶれる人が出ないようにしなければならない。そうなると組み合わせがむずかしい。果たしてくじ引きでみんな納得してくれるだろうか。

 ためしに何人かの女子と踊ってみた。相手のからだが自分のなかにすっぽり入る感じで、息づかいや胸の動悸まで伝わってきて、なんとも言えない気分になる。女子のほうはもともとこういうのが好きなので、すっかり安心してこちらにからだをあずけている。一緒に揺れているとなんだか離れがたくなる。こちらはだれと踊ってもそういう気分になれるのだが、女子たちはいったいどうなんだろう。みんなセクシーな気分になって夜を過ごしてくれたらいいんだけれど。

02 出雲

 この1か月は相変わらず旅に出ることが多かった。とりわけ6月末から7月にかけての10日間は収穫の多い旅だった。山口、広島(比婆)、松江、出雲、大阪と移動したわけだが、とりわけ出雲にはずいぶん通ったつもりでいたが、今回リストアップした場所はこれまでなかなか行く機会がなかった場所ばかり。予想どおりすばらしい調査結果が得られたのだった。

 全体の行程は、広島と島根の県境近くにある葦嶽山(日本ピラミッド)に入り、そこでしばらく巨石群を調べ歩いてからレンタカーを飛ばして志都岩屋[しずいわや]神社を訪れる。すごいところだ。さらに、そこから大田市を経由して出雲大社までドライブする。出雲大社は遷宮を終えて人でいっぱい。谷村新司の奉納コンサートの準備が進んでいた。早々にそこを離れて、近くの荒神社、命主社[いのちぬしのやしろ]、真名井社を調べてから、韓竈[からかま]神社まで車を走らせる。翌日は須我[すが]神社奥宮から加茂岩倉遺跡、矢櫃[やびつ]神社(跡)へと向かい、荒神谷遺跡を見てから、もう一度出雲大社の近くまで戻り、そこから松江市内への帰りに石宮神社を訪ねるという強行軍。

 なかでも矢櫃神社(跡)は圧巻だった。大量の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡は奥まった谷のような形状のなかにある。そこに着くといよいよ陽射しが強くなっており、日蔭を見つけるのもむずかしい。ちょうど12時くらい。ついでにすぐ近くの矢櫃神社も見ておこうと徒歩で向かう。入り口は間違いなさそうなのだが、そこから延々と山肌にそって登っていっても見つからない。感じのいいカップルが当惑げな顔をして立っている。こちらをご存知なんですかと聞かれるが、こちらも初めてだと言うと、すぐ左にある小さい階段を指差して、この上あたりかなと登ってみたんですが、スズメバチの大群がいて、さらに、漆の木があって、これ以上進めないと思い、降りてきたところなんです、と言う。

 それからが大変だった。あらゆる可能性を調べていよいよ諦めようと思ったところで一本の道を見つける。それは駐車場から見える大岩の背後を通って続いており、半信半疑で進んでいくと、先ほどのカップルが下りてくるのと出会う。どうやらこちらの道だったらしい。親切にアドバイスしてくれる。困難に出会ったもの同士の連帯感。そこからさらに進んでいくと、ようやく矢櫃神社跡の道しるべが現れる。もっと早く出せよと思いつつ、いよいよ目的地が近いと安心する。道の右側に崩れかけた石垣のようなものがあり、さらに進むといくつかの墓石がある場所に出る。そこを右に上がっていくといよいよ矢櫃神社(跡)に着く。

 一言ではいえない感動だった。そこにはあたかも室生龍穴や丹倉神社と同じような気配がただよっていた。尋常な場所ではない。明らかに他とはちがう。ご神体の磐座は巨大な岩が大きな口唇のように上下に重なっており、まるで沖縄の御嶽のような空間を形成している。まさかこんなすごいところだとは予想もしていなかった。離れがたい気持ちで周囲を調べてみると、すぐ近くに供物台のような石組みがあり、さらに入ってきた入り口のところには禊[みそぎ]場跡があって、そこにも苔むした石が置かれていた。江戸の寛永の文字が読み取れた。石組みそのものはそんなに古くないのだろうが、この場所は想像を絶するくらい太古から信仰の対象とされてきた場所であったのは間違いない。

 この2日間は記憶が混乱しないようにするだけで精一杯だった。もうどこにも行く気がしなかった。ここ数年、熊野大社や神魂神社の方ばかり見てきたけれど、大事なのはやっぱり木次[きすぎ]から雲南市にかけての一帯だと思い知らされる。またすぐに戻ってこなければならない。そう思いつつ松江へと向かったのだった。

03 井上陽水

 7月終わりになって久しぶりにコンサートに出かけることになった。山口はるみさんから「陽水さんのコンサートに行きませんか」とお誘いを受けたからだ。山口はるみさんは世界的なイラストレーターであるとともに、音楽のセンスも抜群でだれかが歌いだすとすぐに低音部を追いかけて、みごとなハーモニーを聴かせてくれる。井上陽水ともそんな夜があったと聞いている。出かけたのは「井上陽水ライブ2013 Missing」というツアーのほぼラストにあたるコンサート(7月26日)だった。はるみさんと井上陽水は親しい仲でご招待を受けたわけだが、ぼくも一度だけまだテレビに出ないと言っていた頃の彼と朝日ニュースター(CS)の番組で一緒になったことがある。亡くなったばばこういちさんの番組で、『話の特集』編集長の矢崎泰久、歌手の松島トモ子さんらと楽しく語り合った記憶がある。

 いったんステージが開くと、たちまち60年代の終わりから70年代にかけての記憶が次々とよみがえってきて、なんともせつない気持ちになった。3曲目がかかる前に「女性の歌手のためにつくった曲を2曲続けてお送りします」と陽水。客席はざわめき立つ。すぐに石川セリの『ダンスはうまく踊れない』が始まる。1977年発表だというが、もっとずっと前だったような気がしていた。「井上陽水が妻となる石川セリと付き合い始めの頃、気を引くために目の前で30分ほどで作ってプレゼントした曲」(Wikipedia)とのことだが、いまでも一番好きな曲のひとつ。その次が中森明菜の大ヒット曲『飾りじゃないのよ涙は』で、場内の興奮は一気に最高潮を迎えた。だれもが知る歴史的名曲だ。

(矢櫃神社跡/撮影:編集部)
(矢櫃神社跡/撮影:編集部)

 それから度重なるアンコールもあってコンサートは2時間を超え大成功のもとに幕を閉じた。ぼくは『リバーサイドホテル』のなかの「どうせ二人は途中でやめるから〜」の一節が意味深長で好きだ。陽水らしくいくつもの意味にとれる歌詞のなかにかすかな官能がこめられている。ほぼ同時代を生きたこともあって(陽水はぼくより1つ下)、どの曲にも思い入れがある。これは音楽だけがもつ力で、いまの若い人たちもいまの音楽を同じように記憶していくのだろうか。コンサートが終わると外はすっかり夕闇に包まれていた。これから夏も後半に入る。連日の猛暑が続いている。これからどうやって過ごすかまだ決めてないが、あまり仕事ができる季節ではない。どこかで水浴びするくらいが精いっぱいか。それなら群馬あたりに出かけてみようかとも思っている。

 さて、この連載も10年近く続いたけれど、いよいよ最終回となりました。みなさん長いあいだご愛読いただきありがとうございました。


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』『賭ける魂』他。

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