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集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第87回 「ヘルタースケルター」

01 映画『ヘルタースケルター』

 一般公開からほぼ一ヶ月が経過したが、予想どおり客足は順調に伸びているようだ。まず公開2週間で10億円突破の大ヒット。その要因はいろいろあるだろう。もちろん原作・岡崎京子の漫画のおもしろさは誰もが認めるところだし、それを蜷川実花監督がみごとな映像美に結実させたのもすばらしい。美を求める女性の普遍的な心性をつくというアプローチもさることながら、沢尻エリカという彼女以外には不可能な役柄を演じる女優をキャスティングできたことが成功の最大のポイントだったのではないか。

 この映画の沢尻エリカは、好きキライはともかくとして、美しく、ひたむきで言うことなし。おそらく他の女優では映画自体成立しなかっただろう。乳首の露出がどうのこうのという水準ではない。冒頭で全身の包帯が解かれるシーンがあって、すぐに胸が見えてくると、息を呑むほど美しく、女の子たちのため息が聞こえてくるようだった。

平泉寺白山神社(撮影:編集部)
http://hs-movie.com/index.html

 ストーリーは、沢尻エリカ演じるモデルの「りりこ」が主人公で、彼女がトップの座を争いつつ次第に心が挫折していく過程を描いている。美ははかない。トップにいればいるほどそう感じざるを得ないだろう。次第に彼女の心は蝕まれていって、生放送でとんでもないことをしゃべったり、仕事を勝手にキャンセルしたりするようになる。このあたりは現実の沢尻エリカ像とぴったりかも。どんなスターでもいずれ飽きられる。一般のファンや視聴者はいつまでも自分を愛してくれるわけじゃない、そうわかっていてもどうしていいのかわからない。そんなとき、すべてをぶち壊しにしてみたいという気持ちになるのもわからないではない。彼女をスターにした当のファンたちは、気まぐれだし、飽きっぽくて、残酷だ。彼らはスターがトップに上りつめていく姿を見るのも好きだが、スターがトップからどん底まで転がり落ちていく姿を見るのも同じくらい好きだ。いつまでもそんな連中の思うままにされてはたまらない。

 と、まあここまではよくある話なのだけれど、『ヘルタースケルター』では主人公のりりこが全身美容整形によってつくられたサイボーグのような女性だということで、ストーリーは一気に熱を帯びることになる。映画のなかでの事務所社長(桃井かおり)のセリフ、「あの子はさ、もとのままのもんは、目ん玉と耳と爪とアソコぐらいのもんでさ、あとは全部作りものなんだ」というとおり、ちょっとやそっとの整形美人というわけではない。

 読者(観客)の興味は、「神の意に背いてまで人の顔・身体にメスを入れることがどのような処罰を受けるか」ということになるのだが、それは最初からそれとなくほのめかされている。全身美容整形は、やればそれでいいというような安直なものではなく、それは術後の副作用や後遺症といったかたちで彼女らを襲うことになる。この世の中はどれも同じ仕組みがまかり通っていて、男性のカツラや植毛でも、歯の治療でもなんでも、その後の定期的なメンテナンスによって稼ぐようになっているともいえる。それを怠ると以前にもましてひどいことになってしまうのだ。

 すでに映画の冒頭からりりこ自身の身体を蝕む副作用(肌に浮かび上がるシミ)が描かれており、女性の恐怖心を煽る。原作でも、どんどん定期的なメンテナンスを行っていかないと、あっというまにゾンビのような姿になってしまうという設定になっている。全身美容整形は、単に身体の老化のスピードを早めるだけではなく、美の衰えは同時に精神、理性、感情など、なにもかも巻き込んで、たちまち「死に至る病」へと向かわせるのである。

02 若い女の子たち

 八月に入ったばかりのある日、大阪梅田の伊勢丹8Fにある映画館に入ると、なんと観客の95%が若い女性でびっくり。男性の姿などポツリポツリといった具合で、男女比は1対100といった感じだろうか。いくら女性に人気だといってもこれではあまりに極端すぎると思って耳をそばだててみんなの話を聞いていたら、どうやらこの日(水曜)はレディースデイだったらしく、ポップコーンとコーラを両手に抱えた女性同士のカップルが一番多かったようである。

 映画の主人公はもちろんりりこなのだけれど、実際には渋谷ハチ公前のスクランブル交差点に集まる女の子たちと言ってもいい。昔ならキャバレーとか水商売の女性しかしなかったような過剰な化粧、つけまつげ、肌を露出した服装の女の子たちが、いまでは平気で昼間の東京の街を闊歩している。いい悪いはともかくとして、こんな国は世界中を探しても日本しかありえない。すでに80年代から「日本の女の子は売春婦のような格好で外を歩いている」と海外の人々から指摘されてきたが、その勢いはいっこうに収まる気配はない。

 映画館にやって来る観客もほぼその層と重なっている。そういう女の子たちに反撥する普通のOLやちょっと年配の客もまじってはいるのだけれど、客席全体がアイドルのコンサート状態。彼女らが何を期待してきたかは分からないが、激しいテンポで展開される音楽・映像・ストーリーに息を呑んでいる様子が伝わってくる。最後のほうのシーンでちょっとした悲鳴が上がることはあっても、すっかり満足して映画館を出るといった女の子はほとんどいなかったようだった。他人事ではなかったのだろう。

 蜷川実花監は次のように語っている。「私に求められていたのは、蜷川実花の写真が映像として動いたらどうなるか? というビジュアルへの期待。それに加えて、女の子たちが共感できる映画、つまり"女性のリアリティ"じゃないかと。そういったことを踏まえた上で、私は女性作家の作品に必ずちりばめられている"わかるわかる感"を表現することが得意なのかもしれないと思ったんです」(劇場用プログラムより)。

 女の子たちに、「どうしてそんなに念入りにつけまつげしたりするの」と聞いても、「きれいだから」とか「したいから」という答えしか返ってこない。どう考えてもやりすぎだとか逆効果とか思うのは、果たしてこちらの年齢のせいだろうか。しかも、彼女らの頭のなかには男の子にもてたいという気持ちよりも、ただひたすら自分がどうしたら美しくなれるのかということしかない。キーワードは「かわいい」(自己愛)。

 そんな彼女らはこの映画に接して「あまり見たくないものを見せられた」という気持ちになったのではないか。映画のコピーは「あなたが見たいものをみせてあげる」だから、なかなか皮肉なつくりになっている。

03 岡崎京子さんのこと

 この映画は「漫画・岡崎京子」「監督・蜷川実花」「主演・沢尻エリカ」という最強の布陣でつくられたわけだが、やっぱりぼくの関心は岡崎作品がどのように映画化されているかということに尽きる。彼女の漫画『ヘルタースケルター』には深い思い入れがあったからだ。実際、1990年代の初め頃には岡崎京子さんとかなり親しくさせてもらったことがある。写真家のアラーキーと彼女と三人で表参道スパイラルホールでイベントをやったこともあるし、なにより『広告批評』誌上でも2年近く往復書簡のやりとりを続けたこともある。

 二人が交わすテーマはいろいろで、「顔」から始まって、「スキャンダル」「ヌード」「神様」「結婚」「うわさ」「名前」「「お金」「エロス」「年齢」など多彩なテーマで交信を続けたのだが、どれもおもしろいし、しかも、毎回彼女のイラストもついていてすてきな連載だった。このたび20年ぶりに読み返してみて、とてもなつかしい気持ちになった。

 たとえば、「ライブ」の回(1992年8月号)の岡崎さんのコメント。「そうだ、この前ひさしぶりに夜遊び的なことをしたんですが、今、若い子ちゃんたちのあいだでコンサートやライブに行く人系とクラブとかディスコに行く人系がけっこうハッキリ分かれてるというのがあって、それは何かなあ?」とある。思いもしなかった指摘だった。彼女はそれを、ライブはエネルギーを充電しにいくもので、クラブは流れる音楽をからだでダンスに変換するものという違いだと説明してくれる。一方は受動で、一方は能動だというのである。なるほど、そう言われるとまったくそのとおりで、妙に納得してしまったのだった。

 それを受けて、ぼくも、「この世界そのものを劇場と見なすか(クラブ派)、劇場で行われる行為によって世界を理解するか(ライブ派)」という分類も可能かもしれないね、と返信している。ただ、R・シェクナーの「パフォーマンス」の定義を引用しただけのことなのだけれど。

 そんなわけで、岡崎さんの感性と好奇心、ぼくの引用というスタイルで進行しつつ、お互いの私生活もちらほら見えたりして、とても20年前とは思えないほど新鮮な印象を受けたのだった。

 特に興味深いのが「顔」の回(1992年6月号)。自分の顔が好きかキライかという話から、お化粧の話になり、「私がもし『思うがまま』整形するとしたらどんな顔を選ぶでしょうか?」(岡崎)と展開していく。それに対して、ぼくが選んだのは一六、七世紀の貴婦人たちが外出するとき必ずマスクで顔を隠したというエピソード。

〈ヨーロッパの場合、外出するとき必ずマスク着用のこととなると、実に興味深いことが起こりました。つまり、「女の愛嬌を他の部分でさらけだそうというわけで」(J・リゲット『人相』)、胸をはだけることが流行するようになったのです。彼女らは乳房を露出してバランスをとったのでした。〉
 岡崎さんはすかさず次のようにFAXしてくれた。

〈例えば目の部分。D・リンチの映画に出てくるアイ・パッチの女、ブレイクの無実の罪で断頭されてゆく白い布で目隠しされた姫君、昔の少女漫画の失明の危機にさらされた白い包帯の美少女。視覚を外の者に強制的に剥奪された人間は、唇をきゅっと結ぶことが出来ずに半開きの口、何かがねじこまれるのとやってくるのを待っているかのような半開きの唇をしています。〉

 いずれにせよ、顔はもっともエロティックな箇所で、「逆に顔のパーツを隠せば隠すほど性的なメッセージというものは強調されてしまう」(岡崎)ということになる。どこか一部分を隠すとしても、違う部分が二重にセクシュアルな働きをするようになるのである。

 この往復書簡が掲載されたのが1992年から93年にかけてで、『ヘルタースケルター』が雑誌連載されたのが1995年からだから、二、三年のタイムラグはあるものの、当時の岡崎さんの好奇心の広さは十分に読みとることができるだろう。連載終了が1996年、その直後に不幸な事故にあってしまったので、ストーリーは未完ということになっているけれど、これはこれで完結していると読むことも可能だろう。いずれにせよ、岡崎さんの回復をなにより心からお祈りしたい。

04 変身願望

 さて、ご存じのとおり、これまでも似たようなテーマの作品は内外を問わずいくらでもある。岡崎さんの『ヘルタースケルター』はもちろん別格だが、SF界では「サイボーグ・フェミニズム」とかいうかたちでも展開されたし、みんなが好むのは、このテーマが女性のもっとも深いところにある欲望を刺激しているからにちがいない。

 ここで一例を挙げると、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短編小説『接続された女』(1975年)など傑作中の傑作ということができるだろう。バルザックの『サラジーヌ』(1930年)も、むしろロラン・バルト『S/Z』の分析のほうが有名になってしまったけれど、こちらも広い意味で『ヘルタースケルター』と結びつく要素をはらんでいる。ここでは、ジェームズ・ティプトリー・ジュニア『接続された女』(浅倉久志訳)のストーリーを簡単に紹介しておきたい。

 ある日、自殺未遂の結果、とんでもなく醜いお化けのような17歳の娘が細長く陰気な病棟に運び込まれてくる。未来社会では、公共の場所での自殺行為は重罪となっているのだが、しかし、彼女には特別な仕事が与えられることになる。彼女はブースにつながれたまま特別仕様のアンドロイドのような美女と結ばれることになる。そう、彼女はサウナ風呂に似た大きいキャビネットにひとりで入り、遠隔操縦キャビネットを通して、とんでもなくかわいい15歳のデルフィの身体と結ばれる。

 その彼女の様子ときたら、それ以前よりもっと悪い。「まばらな髪の毛から透けて見える電極ジャックと、あっちこっちの肉と金属のつなぎ目だ」。しかし、一方では巧妙な売り出し戦術によって、デルフィはすぐに視聴者の心をつかむことになる。「皮膚内共感というか、彼女には、Y染色体の持ち主だけではなく、女性とその中間のあらゆるものをひきつける魅力がある」。

 そうこうしているうちに、デルフィを心から愛する青年ポールが現れる。彼はまさかデルフィの正体が毛むくじゃらな怪物だとは思ってもいない。しかし、二人の愛が深まっていくにつれて、いつしか彼女の美しい金髪の中に隠された電極に気がついてしまう。「おれのデルフィが、無線制御の奴隷だったとは!」「きみをこんな目に合わしているやつを、殺してやる!」

 ポールは、デルフィを自由の身にしてやろうと、遠隔操縦でつながったキャビネットへと迫る。しかし、そこで見たものは……「痩せさらばえた素っ裸の女ゴーレム、身体中から電線を生やし、血を噴き出したそいつ」、そう、そんな彼女が金属の爪をふりかざして近づいてきたら、だれだってそうすると思うが、ポールも怪物の電線をなぎはらったのだった。彼女は神経系を身体の外にぶら下げてるようなものだった。ポールの一撃で、人間だったらあたかも脊髄を引っ張られて悶絶するかのように、彼女はばたばたあがきながら息絶えたのだった。

 それでポールは目的を果たしたのだろうか。これで怪物は退治した、ぼくの愛するデルフィはこれでやっと自由になれる、ポールはそう思ったわけなのだが、いや、ほぼ同じくデルフィもアザラシのように乱暴な音を立てて床にずり落ちて死んでいったのだった。あたかも「脳が死ねば身体も死ぬ」とでも言わんばかりに。

 そういうわけで、この「接続された女」は、二人のサイボーグと化した女性たちをめぐる大きな悲劇を物語っているわけだが、これを書いたJ・ティプトリー・ジュニアという女性作家も、1987年、死を望む夫を射殺して同じベッドで自分の頭を撃ち抜いて息を引きとっている。

05 夢の後で

 たとえば、きゃりー・ぱみゅぱみゅとか、初音ミクとか、その反動としてのAKB48なども含めて、「何か自分とは違ったものになりきること」がかっこいいのであって、ちょっと目が小さいとか口が大きいとかを個性として受けとめるような時代ではなくなっているのかもしれない。変身願望はとどまるところを知らない。りりこはけっして他人事ではない。いまや女の子たちにとって化粧と美容整形とのあいだの距離はないに等しいものとなっているのかもしれない。

 漫画『ヘルタースケルター』は、セリフを細かく切ったり、ト書きを入れたり、一瞬時間が止まったかのようなシーンを入れたりして、それなりにかなり工夫をしていたが、その感覚は映画とはちょっと違ったものだったのかもしれない。それと関連して、映画『ヘルタースケルター』についてあえて一つだけ難を言わせてもらいたい。この映画では、どの場面にも非現実(アンリアル)で過剰な演出がつめこまれていて、観客からするとすべてがクライマックスのように見えてしまう。どこにもゆるみがない。

 映画に一シーンこういうシーンが入ったらすてきだなと思うようなシーンが、ほぼ全編にわたって繰り広げられている。贅沢といえば贅沢、でも、ちょっと疲れる。映画が始まってすぐ、紀里谷和明監督の「GOEMON」を思い出した。息つぐヒマもないほどのスピード感、展開、華やかな演出。最初のうちはいいのだけれど、次第にこちらもマヒしてくる。CM撮影やPV(プロモーション・ヴィデオ)では当たり前かもしれないが、そっちはせいぜい3分くらいだからいいのであって、やはり映画には映画の文法があるのではないかと思ったのだった。

 こういう野心的な映画にケチをつける人はいくらでもいるだろうから、とにかく手放しで応援したいと思っていたのだが、つい口がすべってしまった。ほぼ同時に、吉田喜重監督の『エロス+虐殺』(1970年)を何十年かぶりで見た影響もあるかもしれない。こちらは「行儀が悪く」「わいせつで」「はちゃめちゃ」なのだが、やっぱり映画らしい映画だとしみじみ思ったのだった。

 この夏は、スリランカ、ラオスに長く滞在したいと思っている。そこで生きるスピードということについて、もう一度ゆっくり考えて見たいと思っている。


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』『賭ける魂』他。

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