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集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第85回・日本の聖地ベスト100

01 記憶

龍穴(撮影/筆者)
龍穴(撮影/筆者)

 今月(4月17日)発売の『日本の聖地ベスト100』(集英社新書)のために、久々に室生寺に出かけてみたいという気になった。この前に訪ねた時も雨、そして今回も予報では雨。聖地に出かけようと思うとたいてい雨に襲われる。それも90%くらいの確率で。とても偶然とは思えないのだが、特に室生寺で晴れていた記憶は一度もない。さすがに朝廷が雨乞いの使いを何度も遣わした寺だけのことはある。

 それにしても、人の記憶なんてまったく当てにならない。この20年以上日記をつけてきて、どこで何を食べたかくらいはすぐに検索できるのだけれど、誰と行ったのかという一番肝心な点だけがわからなくなっている。すべてイニシャルのみ(たとえばCとか)で表記されているせいだ。その時はCといえばすぐに顔が浮んだのだが、20年も経つとどのCか思い出せなくなっている。かなり親しく一緒に旅した相手でさえそんなことだから、たまたま食事に行った相手など憶えているはずもない。

 いずれにせよ、日記などいつかすべて処分したいと思っているわけで、イニシャルにしたり暗号をつかったりするのは、もし何かの弾みで流失したりしてもだいじょうぶなようにとの思いからだった。それなのに、たった20年で自分でも何が何だかわからなくなっている。本人にとって大事なことでもそうなんだから、他人の日記を覗き見してもおもしろいわけがない。そんなにしてまで、死んだ後は何ひとつ残らないようにしたいと思うのはいったいどうしたことだろう。

 実際、そういったプライベートなことだけでなく、聖地を訪れたときのメモや映像記録などにしても、あまり多くなるとわけがわからなくなってしまう。撮ったはずの写真やビデオがいつのまにか紛失してしまっていたり、いつ出かけたのか記憶があいまいになっていたりするケースも少なくない。もはや再現不可能だ。30年も前に撮った貴重な映像など、いまはたまたま行方不明だが、いつかひょっこり出てきたりするのだろうか。どうでもいいと思うようになったとしたら、いよいよ耄碌してきたということかもしれない。

02 室生寺ふたたび

檜原神社(撮影/筆者)
檜原神社(撮影/筆者)

 たしかにこのところ聖地を100どころか300以上も回っているので、多少記憶があいまいになるのは仕方がない。しかし、室生寺とその背後にひそむ室生龍穴だけは今回の本でもキーポイントになる場所だけに記憶があいまいと言ってすませるわけにはいかない。確認したいことも多々ある。それなのに毎回印象が著しく異なるのだ。

 午前8時30分。いつものように大阪でレンタカーを借りて、一路奈良に向けて出発する。吹田インターから近畿自動車道に入り、松原ジャンクションから西名阪に入ればだいたい1時間ちょっとで行けるはず。実際、思ったよりずっと早く室生寺に到着したのだった。そして、予報どおり雨の室生寺となった。もともと雨が好きなので苦にはならないのだが、撮影にはまったく好ましくない。

 それはそれで仕方がない。まあ、聖地には雨がよく似合うというのもたしかで、人もいないし、なんとなく落ち着いた気分になる。そう思いつつ室生寺の境内に入ったのだが、どこか室生寺の雰囲気が違っている。雨の鐙(あぶみ)坂はいつものようにすばらしいのだけれど、石楠花も桜もない季節でひっそりとしている。

 まず、十一面観音(国宝)がおかれている金堂に向かう。たしかその手前に室生龍穴神社の遥拝所があり、近くに軍荼利(ぐんだり)明王の石仏があったはずなのに、工事中のためか、どこにも見えない。そこから金堂に上って、金堂の須弥壇に居並ぶ仏像を眺めながら回廊を歩くものと思っていたのだが、今回はいきなり十一面観音と対面することになる。

 ぼくは観音像のなかでも十一面観音が好きだし、なかでも室生寺の十一面観音こそもっともすばらしい仏像だと思っている。ここの金堂には、本尊の釈迦如来立像を中心に、右に薬師如来立像と地蔵菩薩立像、左に文殊菩薩立像と十一面観音菩薩立像というように五尊がならんで安置されている。これまでは別にどうとも思わなかったのだが、今回はなんとなく違和感を覚えた。どうにもバランスがおかしく感じられる。まず、本尊が釈迦如来ならば脇侍は普賢・文殊両菩薩であるのが普通なのに、なぜこのようなフォーメーションになっているのか。おそらく別々につくられたものが寄せ集められたのではなかったか。今回はそんなことを考えながら歩いた。

 それにしても、ふくよかな十一面観音菩薩の横顔から連想するのはどうしても女性的な面影で、唇に塗られた朱も含めて、数多く存在している十一面観音のなかでもきわだって繊細な美しさを感じさせる。降りしきる雨のせいで、ほとんど参拝客もいない。まったく贅沢このうえない。

 しかし、まだそこまではいい。そこから記憶は一気にあいまいになっていく。金堂のすぐ横から五重塔に上る階段があるのはわかっていたが、さらにそこから奥の院へと急な階段がつづくと思っていたら、奥の院への階段は全然違うところにあった。記憶では、全体にこぢんまりした印象だったのが、それなりにスケールも大きくて歩くだけでしんどくなりそうだった。こうして再び訪れてみると、意外なほどゆったりとしている。

 さらに、室生寺から川沿いに室生龍穴神社にたどり着くと、その社殿からしてイメージが違っていて戸惑う。写真もビデオも撮って何度も見ているはずなのにいったいどうしたことだろう。さらに、神社を出ていよいよ聖域である吉祥龍穴に向かうことになるのだが、車で4、5分といった印象だったのが、そこへの道には落石も多く、到着するまでかなり時間がかかったような気がした。しかも、龍穴のある入り口の前には天の岩戸と書かれた立札があって、二つに割れた岩が屹立しているものと思ったら、それらはまったく別の場所に位置していたのだった。

 こうして何もかもが違うと、いったい記憶のほうが本物なのか、それとも、実際に見た方が本物なのかという奇妙な気持ちになってくる。しかし、おそらく目の前の現実よりも自分自身が感じた現実のほうが頼りになるのではないか。もともと聖地は巨大なフィクションなのだから、ぼくらの頭のなかのイメージがそのまま描きかえられてしまうのも、ある意味必然なのかもしれない。たぶん、これまでの室生寺の印象は、いくつかの際立ったパーツが集められ、シンボリックに構成されたものであって、余白の部分がすっきり切り落とされたものだったにちがいない。

 いよいよ龍穴に到着すると、道の中央に大きな物体がいくつも置かれていて、車道がふさがれている。一瞬なにがなんだかわからなかったのだが、それらがゆっくりこちらを振り返って動き出してから、その物体が4、5頭の鹿であることが判明する。みんな尻がハート型に真っ白く、それがゆっくりとしたリズムで跳びはねるようにぼくの車から遠ざかっていく。カメラを構える余裕もなかった。崖の繁みに姿を隠すまであっというまの出来事だった。

 以前ここに来たときも道の中央にたたずむ鹿と出会い、互いに視線を合わせながらしばらく動くことができなかったことがあった。そのときも雨が降っており、ぼくは映画『スタンド・バイ・ミー』で少年たちが鹿と出会うシーンを思い出したのだった。みんなはここで鹿になど出会ったことがないと言うが、こういうこともなにかの縁かもしれない。鹿の去った方向を目で追いながら、龍穴に向かって下りていくと、川の向こう岸に龍穴がぽっかり黒い洞窟のような姿をさらしている。たしかにそれは記憶どおりだったが、その距離がすぐ目と鼻の先で、手を伸ばせば届きそうなところにあるのが意外だった。川を隔ててもっと遠く離れていた印象があったので、こちら側につくられた小さな拝所が位置を変えて建て替えられたのかと思ったくらいだった。もちろんそんな気配もない。なんだか目眩ましにあったような感じがした。

03 聖林寺まで

檜原神社遥拝所(撮影/筆者)
檜原神社遥拝所(撮影/筆者)

 そもそも今回は十一面観音をもう一度よく見たいと思って来たのだが、その点では、まずは室生寺、そして長谷寺、最後に聖林寺と回ってみるつもりだった。ただし、室生寺、長谷寺から聖林寺に直接向かうというのではなく、むしろ、こちらの次の目的地は大神(おおみわ)神社から檜原神社へという三輪山をご神体とするいくつかの神社をめぐることだった。

 ところが、大神神社から檜原神社などをへて撮影をつづけ、いよいよ聖林寺へと向かおうとするところで、とんでもない狭い道に迷いこんでしまった。雨が降りつづくなか、ようやく車1台分の狭い路地を走っていくと、細いT字路にぶつかり、そこには電柱の工事をしている車両が2台ほど停めてあってどうにも身動きが取れなくなってしまった。ただでさえそのT字路を左折するだけでも困難だというのに、さらに、車両が邪魔していて、どうにも動けそうにない。しかも、左折の角の地面には石が積まれていて、どうしても車の左前方がこすれてしまう。雨で視界も悪い。

 さすがにこちらが難渋しているのを見かねて、工事の人々が車両をどけてくれることになった。それでも左折できるスペースはない。バックすべきだったと後悔するが、もはやそんなことを言っている場合ではない。7、8回切り返しただろうか、誘導してくれる工事の人々も手に汗を握っている(大雨で見えなかったけど)。なんとか左折成功。しかし、やっとT字路を左折できたといっても、左右のサイドミラーをたたんで、運転席側を壁ぎりぎりに近づけて、ほとんど10センチくらいの間隔で走っても、車の助手席側が壁に接触しそうになる。こんな狭い道初めてだった。しかもカーブしている。工事の人々がまるで手を緩めることなくずっと先まで誘導してくれなかったら、果たしてどうなっていたことか。

 そこを抜けて広い道に出るまで、田んぼのあぜ道のようなところを走り、そのまま行き止まりになってバックで戻ったりしつつ、ようやく県道に出たときには、全精力を使い果たしていた。それにしても、その狭い道を通りぬけるときの一軒の家に車庫が見えていたが、あの道を日常的に軽々と運転しているのかと思うと尊敬せざるを得なかった。

 必要以上に時間がかかってようやく聖林寺にたどり着いたときには、もう拝観時間ぎりぎりとなっていた。結論から書くと、長谷寺の十一面観音は大きすぎて、スケールの大きさは感じられてもやや雑駁な印象だったが、聖林寺の十一面観音(国宝)には圧倒されたといってもいい。あまり時間もなかったのだが、聖林寺ではついゆっくりしてしまった。場所も辺鄙なところにあるし、雨で誰ひとり訪れる人もなく、小さな観音堂まで上ると、そこにはただ十一面観音だけが中央に鎮座されている。多くの人々が感嘆の声を上げた理由もわかる。しばらく対座しているとどこか違う世界へと引っぱっていってくれるような錯覚さえ感じさせられた。なんとも言えない体験だった。

 やはりネパールやチベットで仏像づくりの人たちと交友関係を深めてから、仏像に対する印象もちょっと変わったのかもしれない。果たしてもう一度来る機会があるかどうかわからないが、この印象だけは大切に持っておきたいと思ったのだった。

04 日本の聖地ベスト100

聖林寺(撮影/筆者)
聖林寺(撮影/筆者)

 それにしても、『日本の聖地ベスト100』に対しての思い入れは深い。これまでに訪れた日本のすべての聖地をランキングするというのだから、気が遠くなるような作業だった。ランキングの基準は冒頭の「旅のはじめに」の章で書いたとおり。あくまでも「人々が祈りを捧げるためにつくられた場所」ではなく、「神の臨在を感じさせる場所」を最優先とした。いわゆる「ゲニウス・ロキ」だ。多くの人々、聖(ひじり)、修験、優婆塞(うばそく)、雑密らの山林修行者が神の存在を感得した場所がそれで、後に多くの人々がそこで庵を編み、修行に励み、小さな祠がつくられていく。そうした信仰の原点となるべき場所を上位に取り上げることになった。

 本来ならば熊野、伊勢、出雲、高野山などをトップに挙げるのが普通だろうが、それらは信仰の象徴としてはもちろん尊敬に値するものの、ぼくはどうしてもそこが特別な場所であるという認識には至らなかった。ベスト100には、とんでもなくマイナーなところも多いが、一度そこまで足を運んでいただくと、そうすれば何が違うのかここで詳しく説明するよりもはっきり感じとれるはず。ぜひみなさんの感想を待ちたい。

 しかし、本書には隠されたテーマもあって、日本の聖地はおそらく国内だけではとらえきれない要素がその中核をなしているのではないかとも考えている。江南や朝鮮半島のみならず、太平洋沿岸から東南アジアにまで広がる巨大な信仰の足跡が、日本列島を縦断して、さまざまな信仰行事や儀礼に至るまで2000年以上にわたって大きな影響を与えつづけてきたというものである。

 それについてはまた触れる機会もあるだろう。みなさんには、これまでに行ったところがいくつあるかなど数えたりして、ひたすら楽しく読んでいただければ幸いである。自分なりのベスト100をつくるのもまた楽しいかもしれない。20歳をちょっと過ぎたころから福島県田島や北海道常呂や奥三河などに調査に出かけ、それ以来何十年と調査をつづけてきたわけだが、それがこういうかたちで一冊の本としてまとまるとは、当時想像もしなかった。ぼくの興味はあくまでも祭りや宗教儀礼における身体技法の解明にあったからである。思わぬかたちで成就した『日本の聖地ベスト100』、なるべく多くの人の目に触れることを心から祈っています。

 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

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