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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第84回・出羽三山へ

01 森敦『月山』

月山にて(撮影/編集部)
月山にて(撮影/編集部)

 人は旅をしていても、何もせず、ひたすらぼんやり過ごす日々がやってくる。いや、もともと旅とはそういうものだったはず。慌ただしく動きまわるのでは旅の意味がない。たとえば、雪に埋もれた村で交通手段もなく一冬を越さなければならないということだってある。突然がけ崩れでバスが通れなくなったこともある。そんなとき、調査メモは白紙になるしかないと思われるだろう。しかし、実はそういう時の自分をいかに表現できるかが大切なのだ。そうなると調査というより、むしろ文学の領域に片足を突っ込むことになるのだが、なんでも究極のところでは文学へ入り込まないと自分のことだって理解できない。そういう意味での最高傑作の一つが森敦『月山』であろう。

 背景は雪に閉ざされた出羽三山・注蓮寺での一冬の物語。事件らしい事件は何一つ起こらない。ただ、ぼくは信仰の大事な側面として「籠り」(インキュベーション)ということがあると考えているので、冬籠り、それもあまりの寒さに紙(古い祈禱簿)を貼りつけ蚊帳のようにして、主人公の「わたし」が繭のような状態で籠るとなれば、それだけで十分すぎるくらい興味が湧いてくる。毎日同じ貧しさの極致ともいえる大根のみそ汁やイトコ煮(赤人参や南瓜をまぜた小豆ガユ)をとり、毎日同じような日々を送る。それだったら何も書くことなどないはずなのに、ところが、そこに豊かな精神世界が立ち現れる。

 ある日、寄り合いがあって、村の人々が彼の下宿する寺に集まり、念仏が終わり、みんなで酒盛りすることになった。たまたま山で出会った若い女の姿が見えない。「だば、セロファン菊を持って行ってくれるかの、おらもそげだとこさ寝てみてえ」と言っていたのを思い出し、そっと座を離れて自分の部屋に戻る。

 予感にも似たものがして、胸をときめかしながらそれとなく立って和紙の蚊帳に戻ると、果たして女は敷きっぱなしの布団の上に足をこちらに向け、わたしの枕を抱いて上半身をうつ伏せに、下半身を横にして倒れたように寝ているのです。

 たしかに繭のようなところで寝てみたいとは言っていたが、酔いにまかせたのか、ただセロファン菊を持ってきてつい寝込んでしまったのか、それとも、ひそかに自分を待っていたのか、容易に判断がつかない。彼はためらったあげく戻ってしまうのだが、事件らしい事件といったらそれくらいのことだった。

 しかし、一面雪に閉ざされた僧坊で一冬を過ごすというグレーな毎日に一滴朱が落とされたようなこの出来事は、かえって彼が籠る世界の豊饒さを物語ってくれることになる。朱があってはじめてグレーの持つ意味に気づかされる。生きるというのはそういうことで、一見単調な繰り返しに見えたり、波瀾万丈に見えたりしても、その本質は自分の背後に何があるか、自分を包み込むものはいったい何かという問いに収斂するものではなかろうか。

02 出羽三山

 その日は山形道を月山ICで下り、一路宿(「ゆどのやま」)を目指すことになった。出羽三山といっても、羽黒山から入って月山(がっさん)を越えて湯殿山に至るというのが道順なのだが、いろいろなものを見すぎるのもよくない。ぼおっとしている時間も必要だということで、時間に余裕を持たせて、宿でゆっくり酒でも飲んでくつろぐことにしたのだった。

 まだ夕食には早い時間だというのに、ぼくらは食堂に下りて酒を飲みはじめた。給仕をしてくれる女性らはそんなぼくらにやさしかった。男二人でこんなところまで来ていったい何がしたいのかという目で見ているようだった。

 宿の夕食時になって、酒に酔ってきたついでに「月山に登りたい」と話すと、みんなで親切にいろいろと教えてくれる。受付のメガネの女性から、この「ゆどのやま」に泊まった人だけ特別に湯殿山の聖域への早朝参拝が許されており、車で奥までお連れしますが、いかがですか、と提案される。もちろん断る理由はない。月山に登るぼくらだけのためにお弁当も作ってくれるという。こうなるとだんだん引っ込みがつかなくなってくる。

 実は、今回日程的に2000メートル級の山に登るのはパスかなと思っていたのだった。しかも、大雨が降り、足元も悪くなっている。半分やめるつもりだったのに成り行きというのは恐ろしい。翌日の朝6時半に玄関に集合することになった。

 しかし、その夜、さんざん飲んで、目が覚めると、まだ22時台なのにすごい豪雨の音が響きわたっている。当初から登るのはパスかなと思っていたわけで、山全体が靄でかすんでしまっているのを見て、ふたたび及び腰になる。ここにはテレビもないし、冷蔵庫もない。何もない。窓を閉めると暑いけれど、開けると雨の音がうるさくて眠れない。心のなかで逡巡をくりかえす。湯殿山から月山まで登るには、月光坂のように鉄はしごや鎖をつかって登る難所もあるし、崖も険しく、危険も多いという。しかも、片道3時間半。レンタカーで来ているため、また戻ってこなければならないわけで、つまり往復7時間。ほぼ一日がかりということになる。珍しくネガティブな気持ちで眠りにつく。

 そもそも出羽三山とは月山、羽黒山、湯殿山の総称であり、第32代崇峻天皇の子、蜂子皇子(能除太子)が三本足のカラスに導かれて羽黒山に登頂したのがその始まりとされている。そんな伝承が残されているということは、あえて羽黒修験の独自性を強調したかったということでもあるのだろう(他の修験の山のように役小角を開祖としていない)。

 出羽三山は早くから山岳修験の霊山として知られており、もともとの三山は羽黒山、月山、葉山だとのことで、湯殿山はその三山すべての奥の院的な位置づけだったらしい。もともと月山には採燈森(さいとうもり)、羽黒山には荒沢、葉山には白磐神社を奥の院といったように、それぞれに奥の院があり、三山すべてのもっとも深奥にある湯殿山はそれとは別格の総奥の院と理解すべきものらしい(戸川安章『出羽三山と修験』)。

 森敦『月山』の冒頭に次のような記述がある。「じじつ、月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の隠所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです」。湯殿山は女性の秘所にあたる場所なのだ。つまり、もともと出羽三山といっても三つの山があるわけではなく、庄内平野を潤すほとんどすべての河川は月山に端を発しているのだった。

 まだ学生の頃のことだが、森敦の『月山』(1974年)が最高齢(62歳)芥川賞受賞と騒がれたときのことをいまでも憶えている。この記録はいまも破られていない。彼はまだ若い頃に天才的な才能を認められていたのだが、62歳までまともに小説を書くこともなく、老齢にいたって初めて発表した作品が『月山』だったのである。いま読み直してみると、その完成度の高さにおどろかされる。かつて読んだ時は、庄内地方の方言がちりばめられていて、読みにくさばかりが印象に残ったのだが、やはり本を読むにはそれにふさわしい年齢というものがあるということだろう。

03 湯殿山

 湯殿山のご神体のある場所は撮影禁止だった。10人くらいで列になって入る。まず、靴を脱いで裸足になり、身体を清め、お祓いを受けてからご神体のもとへ。ご神体はピンクがかった赤褐色の岩で、上部から温泉が流れ出ており、なんともエロティックな印象だ。案内人によれば、女性が出産する姿を表わしているというが、とてもそんな風には見えない。それにしても、ご神体が温かいというか熱い温泉が噴き出す岩だというのだから、なんとも変わっている。脇の岩場から裸足でご神体の上にあがって、じかに流れ落ちる温泉の温かさを感じとる。

 ご神体以外に鳥居も社殿もないのはいいのだが、それならいっそ穢れをはらう人形(ひとがた)や御守りなど余計なものもいらないだろう。何もないからこそ、そこが神域であると心から感じられるのであって、おみやげを売る小屋のようなものもできれば撤去したほうがいい。ここに人間の浅知恵はいらない。

 それにしても、岡本太郎の「修験の夜」という出羽三山の記録は、これまでどの学者もうまく語れなかった日本の伝統文化の本質をみごとに描き出してくれている。その冒頭部分の描写。

 瞳孔が攪乱されるような朱、紅、黄―濃く深くみだれ輝く紅葉が、山いっぱいに噴きあがっていた。
 六十里越街道を、本道寺から峠を越えて、湯殿山に向かう。昔、三山参りの行者たちが、ワラジを三足も四足もしょって、先達に導かれ、列をつくって通った道だ。
 このあたりは紅葉で名高い。しかし世界は透明で、ほとんど行き会う人もなく、車はどこまでも紅い密度の中をくぐって行く。

 まるで母である岡本かの子のように豪華絢爛な文体ではないか。しかも、すばらしいのは文体だけではない。見かけの華やかな外見にはまったく目もくれず、その本質を見抜く力はそのへんにいる学者らの比ではない。彼は出羽三山の修験のあり方を観察しつつ、どこかこの国本来のものとは違っていると喝破する。

 やっぱり、(修験道の)その過酷な精神、タケダケしい修行のあり方は、大陸の高度な精神主義が入ってきてから現れたストイシズム、つまり仏教の影響だとしか思えない。
 苦行によって高まるとか、力をかちとるというのは、どうも日本本来のものとは考えられない。
 この風土の初源的な信仰はそんな精神主義とは無縁で、はるかに平たく、生活的だったろう。
 たとえば、何も知らないのに、神のお告げで、人は超自然の力をおびたりするのである。津軽で聞いた話では、カミサマとよばれる目明きの巫女たちは、以前は普通の生活をしていた農家の主婦だ。道ばたで三角の石を拾うと、それがお告げで、不思議な力がそなわり、カミサマになるのだという。沖縄の水無島では、幻に馬のヒヅメの音が聞えたら、女はカミンチュ(神人)になる。昔話にも、馬鹿みたいなのや、怠け者が、何かのきっかけで神の使になったり、特別な恵みを受けたりする例は多い。

 このあたりの事情をこれほど明確に表現する文章は他にない。日本人の固有信仰のあり方として、もっとのんびりした、平らかで、日常的な神とのつながり方があり、そこに大陸から高度な教えが入ってきて、お互いに絡みあいながら独特な文化を築きあげてきたというのである。だからこそ、むしろ、彼は手の込んだ宗教的建築物より沖縄の御嶽(うたき)のシンプルさに深い共感を寄せることになる。

 ぼくもかれこれ30年以上同じ気持ちで調査を続けてきたわけだが、人間がつくりあげたものほど脆弱なものはないと思っている。だいたい社殿や鳥居や五重塔などがあるところに神は居つくわけではない。神はそんなものとはまったく無関係にどこかを移動している。こちらの都合でどうなるわけでもない。こちらはただ身を清め、罪を悔い改め、ひたすら謙虚な気持ちで祈るしかない。それが本来の信仰のかたちなのだ。

04 月山へ

霧の立ちこめる月山(撮影/編集部)
霧の立ちこめる月山(撮影/編集部)]

 朝7時半参拝終了。湯殿山のご神体を拝んだ後、われわれだけ月山山頂を目指して出発する。通常とは逆のコースになるが、いくつもの登山路があるなかで、もっとも困難を予想させる経路である。昨夜来の雨もあるし、山頂は靄で曇ってほとんど見えない状態だろう。尻込みしつつ、しかし、それでも歩き出せばサクサクと進むのが能天気なぼくらのいいところ、すぐにかなり急な積み石の道に入っていく。さらに10分くらいで月光坂にさしかかり、鉄はしごや鎖のかかる急勾配の崖になる。

 月山に登ると言った時の周囲の反応は最初からわかっていた。いつものスタバにコーヒーを飲みに行くような格好だったからだ。シャツにチノパン、肩からバッグを下げており、いかにも顰蹙を買いそうなのはわかっていた。何度も同じことを経験してきたからである。せめてシャツの裾だけはベルトの下に入れてだらしなくないように見せていたのだが、やはり注意してくる人もいた。こんな天候では3m先も見えないくらいガスが出ているし、尾根で強風に煽られでもしたら、谷底まで落ちてしまうかもしれない、現に、落ちて救助を求めた人もいて、そんなときはわれわれが駆り出されるんですよ、と言われた。まあ、こんな格好で月山の頂上を目指すというのだから、無謀だと思われても仕方がない。しかし、無謀なのはわかっているが、これまで生きてきて無謀じゃなかったことなど一度もなかったではないか。

 たしかに肩にかけたバッグは邪魔だった。それでも、急な崖にかかった鉄梯子も鎖もなんとかクリアすることができた。美しい花に見とれながら撮影しつつ登ったのだが、こうやって歩きながら思うのは、何も考えずにいられるのはやはりすばらしいということ。目の前に次々と現れる石積み、虫やその他の生き物、繁茂する草のあいだから顔をのぞかせるニッコウキスゲなどの高山植物、どれも一瞬のことだが、その一瞬一瞬が心に刻印されていく。

 最大の難所を越えると、装束場という尾根に出て、そこからは尾根伝いにお花畑を歩くことになる。金姥、牛首まで進めば、もうあと1時間で頂上の月山神社に着くことになる。なんという心地よさ。それまではだれとも会うことがなかったが、下の門が開けられる時間になったのか、帰り道では3組の人々と出会った。それにしても帰りは早い。実は、帰りを急いだわけは、どうやら車のドアをロックするのを忘れたらしいと気づいたからだった。実際、車のロックはされてなかったが被害もなかった。

05 即身成仏

大日坊の仁王門(撮影/編集部)
大日坊の仁王門(撮影/編集部)

 まだ時間は十分にある。これから、羽黒山に行くのではすぐに一日が終わってしまう。ついでということもあって、大日坊、注連寺に寄ることにする。それらは即身仏で知られたお寺で、明治の神仏分離令までは出羽三山一の栄華を誇ったところだった。特に、大日坊は広大な敷地を所有し、湯殿山全体をとりしきる権力を持っていたのだった。しかし、明治維新以来、わずかに仮の本堂を残すだけで、いまやかつての面影もない。それは注連寺もほぼ同じで、そこは森敦が『月山』を書くまでほとんど廃寺だったらしい。

 森敦の『十二夜~注連寺にて』によると、彼がそこに長く滞在したのは1947年頃のことで、『月山』では当時の注連寺近辺の様子が活写されている。「(湯殿山の山ふところにあたる)大網には大日坊、七五三掛(しめかけ)には注連寺と称する大きな寺があって、湯殿を背景とする真言の霊域とされ、古くから羽黒の天台とその栄えを競うところとなっていました」。

 ぼくらがそこを訪れたときも、大日坊の住職らしき人が、「羽黒山は明治の神仏分離令で神社に寝返っていまも隆盛を誇っているが、うちらは寺であることを一貫して主張したため、本当にひどい目に遭ってきた」と延々と語ってくれた。

 羽黒山は修験道羽黒派の総本山として栄え、江戸期には三十二坊、一〇八堂、三六〇坊が立ち並ぶほどの勢いだったという。たびたび湯殿山をも制圧しようと訴訟を起こしたり、政治的抑圧を加えたりしてきたが、なかなか思うようにはならなかった。そのうち明治維新に神仏分離、廃仏毀釈の布告がなされると、出羽三山自体が大きな衝撃を受け、それぞれに身の振りかたを考えなければならなくなる。湯殿山は弘法大師開基の真言の寺院であると主張したが、明治4年に神の山と認定され、その後は神道に改宗しなければ湯殿山奥の院の支配権を失うことになると脅かされたのだった。そして、事実上湯殿山を支配していた大日坊と注連寺は真言宗のままとどまり、その結果すべての権利を失うことになる。それに対して、羽黒山はいちはやく神道に切りかえて生き残り、しかも、湯殿山奥の院や仙人沢の支配権まで奪ったかたちになったのである。

 それにしても、絶対に見られないと思っていた即身仏がいとも簡単に披露されているのは驚きだった。それを前に住職らしき人物が、やや怨念のこもった解説をしてくれる。本堂前では、別の坊さんが経を読み、一人一人にお祓いまでしてくれる。しかも、柏手(かしわで)まで打つ。とてもお寺とは思えないのだが、もはや羽黒山に鐘楼があったり、五重塔があったりしても、だれも疑問に思わないようになってしまっている。むしろ、この大日坊で行われている神仏混淆の所作こそ、かつてのこのあたりの信仰のもとのかたちを維持しているのではないかと思えてくるのだった。

 いきなり即身仏のところに通される。いまもその当時のまま厨子のなかに座っているのがやや不気味でもあり、ありがたくもある。個人的な感想を言えば、どうしてこんな不気味なものをありがたがるのかと思わないでもないが、それでも、目の前にしてみれば、なんともいえない感慨にうたれるのだった。

 こちらの即身仏はミイラといっても、エジプトなどのように死後に防腐処置などされて保存されたものではなく、生きているときから自分の意思でミイラになるという壮絶なもので、死を決意してからの辛い日々、木の実を食べたり、最後には、腐らないように自分で漆を飲んだりして、苦行に苦行を重ねて、ようやく即身仏になることができたのである。森敦も『月山』で、寺守のじさまに「つくって、できるもんではねえて。即身成仏というてのう。木食(もくじき)で難行苦行した行者が、思いかなって穴さへえり、鉦(かね)を叩き叩き、生きながら仏になったもんだ。聞かねえだかや」と言わせている。

 注連寺も同じで、こちらは受付の女性も含めて総動員で熱心に解説してくれる。そのせいか大日坊ほど世の不条理に対する怨念のようなものは感じられない。こちらの即身仏、鉄門海上人の姿はもっとも美しいと言われるだけのことはあって、しばし見とれてしまった。かつては寺の前を街道が走り、注連寺が大いに栄華を誇った時期もあったのだが、いまは見る影もない。ただ、隣の廃屋は映画『おくりびと』の撮影に使われたとの説明もあった。

 そこから羽黒山までは20キロもない。12時すぎに羽黒山の門前に到着する(なんと一日が長いこと)。山門から上がるのだが、それも五重塔が見られれば十分なので、それから戻って、車で山頂を目指すことにする。これだとお参りしたことにはならないが、月山の後で2500段の階段を上がるのは苦痛でしかない。しかも、せっかく着替えたのに、また汗みずくになりそうな気配。朱に塗られた橋をわたり、10分弱進むと国宝五重塔が見えてくる。あまり興味がなかったのだけれど、さすがにこの五重塔は美しい。岡本太郎も次のように書いている。

 杉木立の奥に、風格のある五重塔がそびえ立っている。平将門の建立と伝える巨大なもの。東北地方最古の塔だが、これも百ヵ日のうちに移築ときまったのを、費用がなくて、そのままウヤムヤに残ってしまったのだそうだ。今こそ、この山のたいへんな宝物なのである。

 みごとに均斉のとれた建築で、これより美しい五重塔はなかなか見つからないかも知れない。しかし、繰り返すことになるが、だれも神社に五重塔があるのに疑問を持たなくなっている。この出羽三山が受けた弾圧など、いまやだれも気にかける人はいない。それはいいことなのか悪いことなのか。

 以前来たときは一面雪景色でさすが羽黒山と思った瞬間もあったのだが、こうして参拝客が列を成しているのを見ると、ここもどこかの観光地と見間違えそうだった。車は大回りして工事現場のようなところを過ぎて山上に至るも、そこで突然の土砂降りに見舞われる。やっとのことで、本殿を見て、鏡池を見て、鐘楼を見て、そして、車に戻る。

 八月十七日、お盆をすぎてようやく調査を終えることになる。もうここに来ることは二度とないだろう。還暦を過ぎると、いつもそんなことばかり考えるようになる。


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

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