集英社新書
集英社新書WEBコラム

 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第83回・大湯環状列石

01 大湯環状列石

大湯環状列石(万座環状列石)[撮影/編集部]
大湯環状列石(万座環状列石)[撮影/編集部]

 ちょうど震災から半年が過ぎた。しかし、世の中は依然として落ち着かないままだ。被災した人たちも取り残された感じだし、原発も収束からは程遠い。こんな時期、秋田・山形はどんなふうになっているのだろうか。夏も終わりになる時期に、早朝の便で、羽田から大館能代空港へと出かけてみた。飛行時間はわずか1時間。いつもながら鳥海山の美しさに圧倒されつつ、飛行機はあっというまに着陸態勢に入る。今回は機内から眺めたのだが、その姿の美しさ、黒々とした迫力のある威容、まさに神の山にふさわしいたたずまいだった。しかし、意外な混雑ぶり。まさか世間がお盆休みとはつゆ知らず、帰省で大変な時期を選んでしまったようだった。空港からレンタカーで一路「大湯環状列石」へと向かう。

 秋田は猛暑を忘れさせるような爽やかな気候、かと思ったら、それほど東京と変わらなかった。秋田には何度も来ているし、青森の十和田湖周辺にもよく来ているのだが、目指すはその境界にあたる県境の地、鹿角(かづの)盆地だ。レンタカーでほぼ2時間。しかし、航空券の半券を見せると、いまキャンペーン期間中で、なんと一日1000円だとのこと、ラッキーとしか言いようがない。道は空いていて、あっというまに目的地に到着する。

 大湯環状列石はいまや日本でもっとも有名なストーンサークルとして知られているが、こちらの興味はその背後にそびえる黒又山を含めたその地域一帯の聖性探検だった。黒又山は「日本ピラミッド」とかあやしい名前がつけられていて、そちら方面の人にはかなり人気の高い山である。たしかにこれまで「日本ピラミッド」と呼ばれる山をいくつか見てきたが、不思議な気持ちになることもあるので、まったく無意味であるとは思わない。

 それでなくとも、そのあたり一帯が日本でも1、2を争う鉱物資源の密集地であるという点は見逃せない。あまり正確な数字は分からないけれども、以下のような指摘もある。「この地帯には、ひと昔前の義務教育の教科書に出てくる尾去沢、小坂両鉱山の他、小真木(白根)、不老倉、鴇(ときと)などの有名鉱山が集中している。そして、金、銀、銅、鉛などの主要金属の一大生産地として、古くから知られてきた。…中略…銅の生産量は国内の60%を占めて1位、銀、鉛、亜鉛、硫化鉄鋼においても1位、金が3位となっている」(最上孝太郎)。実際、鹿角市から大館市にかけて日本でも有数の鉱山が密集していたことはよく知られた事実である。

 これまでにも、聖、修験、山林修行者らが歩く軌跡を追うと、地域の豊かな水脈、鉱脈と重なり合うことが多かったのだが、それは熊野から吉野、高野山にかけての調査でも十分確認できたことである。地質学の研究者らがある地域の水脈、鉱脈について調べるとき、まずその地域の神社の位置を知ることから始めると聞いたこともある。ここだって例外ではないはず。鹿角地区周辺を含むこの地域は、宗教的に特別な意味を持つ地域であることに間違いないし、さらに、そこで大湯環状列石が発掘されたというのだから、これはますます興味を引かれずにはおれないだろう。

 しかしながら、世界中に数多く分布するストーンサークルの存在意味についてはいまだに議論が分かれている。天文観測所、墓所、祭祀場などさまざまな説がある。大湯はいまから4000年前の縄文時代の遺跡なのだが、さらにその周辺の山岳祭祀遺跡となんらかのつながりが見られるとしたら、その謎が明らかになる可能性もある。とにかくなによりまずその土地のありさまをよく見ておく必要があると思って出かけてきたのだった。

 ところが、昼前に大湯環状列石に到着したのだが、車を降りてまわりを見わたすと、たちまち拍子抜けしてしまった。そこには熊野の大斎原のようにだだっぴろい草地がひたすら広がっていたからである。まるで緊張感がない。しかも、そこにかなりの間隔をおいて、無造作に石組みや木組みが置かれている。こんなに自由に出入りできるところにおかれていて、盗難や器物損壊の怖れはないのだろうか。

 あまりに日差しが強いので、木陰を求めて動こうとするのだが、それも無駄なくらい広々とした草地が広がっている。もともと2つの環状列石、万座と野中堂がどういう関係にあるのか知りたいと思っていたのだが、それもやや離れているので、一つずつ確認するのに手間どりそうだった。まず、万座環状列石だが、整然としてはいるがわかりやすいというわけでもない。標識に従って歩いていくと、自動車道路をはさんで、ほぼおなじ構造を持っている野中堂環状列石が見えてくる。先入観なしに見てみると、二重構造の同心円の大きさもほぼ同じ。日時計の石組みもほとんど同じような位置にあって、思ったよりも共通したものだと理解できた。

 いきなり、近くに一人で来たおばさんに声をかけられた。
 「これいつぐらいのものなんでしょうか?」
 「4000年くらい前のものらしいですよ」
 「えっ、そんな古いんですか」
 「ええ、たぶん」
 「そんな時代にこんなところに人が住んでいたんですか?」
 「青森の三内丸山遺跡なんか、もっと古いかも」
 「へえ、大和からこんなところまでやってきてたんですね」
 「いや、こちら(東北)のほうが大和よりも先かもしれませんよ」
 「!?」

 われわれが学校の歴史の時間に習うのは、あくまでも大和朝廷が成立する前後、せいぜい7世紀くらいの出来事からで、そのとき東北は蝦夷と呼ばれる異なる文化を持った人々の支配下にあったと教えられてきた。坂上田村麻呂が征夷大将軍として801年に蝦夷を征伐してようやく日本の国の統一が図られるようになるわけで、それまで東北には見るべき文化などないと信じ込まされてきたのである。しかし、三内丸山遺跡は、国内最大級の縄文集落跡として1931年に発掘調査が開始され、それによると、そこは5500年〜4000年前の大規模集落跡で、世界史的に見ても、エジプトやメソポタミア文明とほぼ同じ時期に高度な定住社会が成立していたことが明らかになったのだった。

 つまり、青森や秋田では、大和朝廷が成立する3000年〜4000年も前に独自の文化を持った人々が定住生活を行っていたということになる。われわれは文化の流入経路を朝鮮半島や南方からと考えがちであるが、むしろ、大陸の北方からも縄文文化は流入してきていたのである。

 そもそも最近、インド西部グジャラート沖のカンベイ湾の海底から紀元前7500年頃の壷の破片や木材が発見され、シュメール文明よりはるか以前に古代都市が存在していたことが次第に明らかにされており、いまや四大文明などという言い方は死語になりつつある。インダス文明を支えた人々、または彼らに滅ぼされた人々は、すでにその地でいまから一万年も前から都市活動を行っていたと推定されている。

 そんな風に考えると、大湯環状列石がいったい何のためにつくられたのかを明らかにすることは、この日本列島に住む人々の生活を知るうえできわめて重要な役割を果たすのではないかと思われてくる。先ほど述べたように、これまでストーンサークルは何のためにつくられたのか疑問とされてきた。墓地か、祭祀場か、天文台かとさまざまに議論されてきた。しかし、遺跡全体は30万平方メートルにもおよぶ大規模なものだが、これまで約5万平方メートルしか調査されていない。ただ、万座、野中堂の配石(組石)の下から屈葬で遺骸を葬ることができる土抗が数多く確認されているのは事実で、それゆえに墓地説が有力となっているが、それでは大湯環状列石は果たしてただの墓地だったのか。

 いくつかの仮説はある。たとえば、佐々木藤雄によると、大湯のような典型的な環状列石が現れるのに先立って、まず中央広場に石組みの環をもった環状集落が出てくる。縄文時代中期後半、約5000年前のこと。そして、約4500年前の後期になると、この石組みの環が集落から独立し、そこから離れた特別な場として設営されるようになる。これが環状列石の成立だという。

 このように、環状集落から環状列石が独立してくる現象を、佐々木は、住居と中央広場、日常の空間と非日常の空間、生者の世界と死者の世界とがはっきりと区別されたことだと読み解いていく。そして、これを、中央広場が祭りの場として純化され、その性格を強化されたことの反映だと考える。

 しかし、果たしてそうだろうか。環状集落と環状列石の遺構をそう簡単に二つに分けることができるのだろうか。「石組みの環が、集落から独立し、そこから離れた特別な場として設営されるようになる」というが、それだと普段の日常生活が営まれる空間から墓地が独立したように読めるが、物事はそれほど明快ではない。もっとフレキシブルな思考が必要とされるわけだが、それを理解するには環状集落、環状列石の「外部」をもさらに問題としなければならないだろう。

 そんなことを考えながら、万座環状列石を見てから道路を渡り、野中堂環状列石まで歩いてみたのだが、ぼくの印象としてはただの墓地ではなく、死者が葬られるということに付随する霊的なものに対する考え方がその背景にあるだろうということだった。

02 黒又山、月山(つきやま)へ

月山神社にいたる道[撮影/編集部]
月山神社にいたる道[撮影/編集部]

 しかし、なにしろ35度の暑さで身体がまいりそうだったし、お腹も空いたので、とりあえず、大湯温泉まで車を走らせて、一息ついて、ようやく午後から黒又山を見てまわることになった。そこに祭祀場のようなものが見つかるかどうかはけっこう大きな問題で、それと大湯環状列石との関わりがわかれば、ストーンサークルの謎も解けるというものである。

 谷川健一に「神社の起源」という短いエッセイがある。そこに次のような記述がある。「柳田国男は『山宮考』の中で、山が祖先の葬地であり、山から神を迎える風習のあることを記しているが、そうした見地に立てば、山の姿が秀麗だから御神体山としてまつったと言ってすますわけにはいかないことになる」。円錐形の、いわゆる「日本ピラミッド」と呼ばれる山の多くが神奈備(ご神体)とされているわけだが、それはその姿が美しいという理由だけではないというのである。大和盆地の三輪山がその代表だが、この黒又山にしても同じことが言えそうだ。では、他にどのような理由が考えられるというのだろうか。「ここで私の仮説を申し述べると、円錐形の山が神なび山と称せられて御神体山となったのは、その山が祖霊が住む所とみなされたからである」と谷川は続けている。

 しかし、これではちょっと舌足らずかもしれない。マイヤー・フォーテスは、アフリカのタレンシ族の人々の研究を通して、「大地の精霊を祀る社が集落の外部に建てられ、リニージの祖先を祀る社が内部にある」という事実を明らかにしている。「中央アフリカや西アフリカの多くの社会では、祖先信仰の祭祀と土地精霊の祭祀が区別されているということを指摘しておきたい。そして侵入してきた征服者である政治指導者が組織した政治的儀礼と、その土地本来の伝統的な司祭が管轄する豊饒儀礼とが区別されている点も指摘しておきたい」。こちらのほうが包括的な意見ではなかろうか。

 つまり、大湯環状列石の中央に祀られているのは、そのグループの祖先とか長にあたる人々であって、外部に土地精霊の祭祀が行われる場所があるということである。もともとの祭祀は人々が住む集団の外で行われていたのであって、後にそこを征服した人々が自分たちの守り神として集団の中央に彼らの祖先を祀ったということになる。それで、黒又山がスポットライトを浴びることになるわけである。

 しかし、黒又山は「ムー」的な人気スポットで、調査団が幾度も入っていて、いまから何かが見つかるとは到底思えない。それでも、大湯から見た黒又山の姿はみごとな円錐形で、「日本ピラミッド」の名に恥じない威容を見せていた。こちらからも縄文遺跡が発掘されているが、もしかしてそこから大湯にかかわるなんらかの祭祀の痕跡が見つかったとしたら、大湯環状列石そのものの意味もさらに明確になるのではないか。とにかく登ってみるしかないと山麓までやってくると、そこには鳥居がかかっており、「本宮神社」という額が掲げられている。

 そこにある由緒書きには、だいたい以下のようなことが書かれている。10世紀末ごろにこの地を支配した豪族の一門のなかに本宮徳次郎という医師がいて、彼がみずから庚神を守りながら、薬師如来を一心に信仰し、四方はるか遠くからもお参りできるように、黒又山の山頂に薬師堂を建立したのが始まりだとのことである。実際、いまでも頂上には三間四面の薬師堂が鎮座されており、本尊は薬師如来であるという。本宮神社の額が掲げられたのは明治になってからであるが、1000年以上ものあいだ広くこの地一帯の信仰を集めてきたというのは間違いなさそうである。

 黒又山が標高300メートルもないということは知っていたが、登り口に「頂上の祠まで12分」と書かれてあったのでガクッとくる。たった12分。そう思って登り始めたら、かなり急勾配で息が切れたりはしたものの、たちまち頂上に到着する。やはりあっけなかったし、あまり野生の匂いもしないところだった。たしかにそこには本宮神社の祠(ほこら)、別名「薬師堂」があるにはあるのだが、それ以外に何もとりたてておもしろそうなものはない。いろいろ発掘したり、観測したりした後なのかもしれないが、こちらが期待したものとは違っており、すぐに黒又山を下りて一件落着となった。

 ただ、このあたりにはよく似た山がいくつも見られると聞いていたので、時間もあることだし、黒又山とよく似た外見を持つという月山(つきやま)および月山神社を探すことにする。情報は「大館市田代の米代川ぞいにある」ということだけ。田代の郵便局近くで川沿いに下りるも、まったくそれらしき山も神社も見あたらない。そこでもう一度調べてみると、どうやら大館市山田柏木に月山神社があるとのことなので、もう一度戻ってそちらを目指すことにする。

 半信半疑、それでも、なにかしらの期待はある。30分くらい車で米代川ぞいを戻ると、目指す山田地区が近づいてくる。主要道路からはずれてしばらく走るうちに、黒又山とほぼ同じ形状の山が遠くに見えてきて、おおっという気持ちになる。こちらは突然だったので、なんともいえない感動のようなものが湧き起こる。このピラミッドのような形状は、やはり昔の人々にとっても特別な感情を湧き起こさせる何かを持っているのかもしれない。なにより美しい。

 すぐ近くに見える月山に近づいても、いっこうに神社らしきものは見えてこない。もっと近くに寄ってみると、採石場の跡地が広がっている。廃墟だ。なんとも不気味な感じもするが、『聖地の想像力』(集英社新書)に書いた「聖地は採石場と関係がある」というフレーズが思い出されてくる。エルサレムの聖墳墓教会も、岩のドームも、アメリカ先住民の聖地パイプストーン・ケリーもみんなもともと採石場だった。

 しかし、採石場を通りすぎると、道は行きどまり。迷わず砂利道にも入るが、神社の姿など影も形も見えない。山すそをぐるっとまわって、もうどこにも行き場がなくなって、途方に暮れていると、わずかに一カ所、山すそのせせらぎにガードレールみたいなものがかかっている場所が遠くに見えた。月山にアクセスするにはもうそこしか残されていない。車を降りて歩いて近づいていくと、山すその繁みからわずかに狛犬のような石像が姿を表わす。そして、鳥居が見えてくる。感動的だった。

 そこからの石段は、草が生え放題で、湿っていて、長らく人が通った痕跡もない。蜘蛛の巣が顔にかかる。地面からなにか得体の知れない動物が出てきそうでやや緊張する。こういう場所では何が起こってもおかしくない。こういうことはこれまでに何度もあった。それでも、めげずに上っていくと、ようやく祠に行きあたる。これが月読命を祀る月山神社かと感慨にふけっていると、どこからかカサカサと音が聞こえてくる。

 しばらくそこにいると、月山および月山神社はやはりかなり古くからの祭祀場で、そこは周囲一帯の人々の産土神としての役割を果たしていたのではないかという確信のようなものが湧いてくる。おそらくそれは黒又山にしても同じだったのではなかろうか。それがあってようやく人々は小さな集落を維持しつづけることができたのであって、ストーンサークルはその過程で出来上がってきたものではないかという印象を強く抱いたのであった。

03 祈りの場

月山神社の入り口にある鳥居[撮影/編集部]
月山神社の入り口にある鳥居[撮影/編集部]

 戸川安章は『出羽三山と修験』のなかで日本人の祈りについて次のように書いている。

 〈そのような祈りをするばあいには、神の降臨を願い、祭りをするための臨時の斎場を設けたが、その祝(はふり)といえども山にはいって祭りをするということはなかったのである。のちに陰陽道や道教が渡来するにおよんで仙人崇拝の思想を生じ、やがて仏教が伝来すると、鶏や犬の声の聞こえない山林寂静の地をえらんで行屋を設け、密呪を誦して印を結び、経を読むことによって超能力(威神力)を体得し、国家を守護し、天変地異を鎮め、病者を治癒することができるようになると信じられた〉

 そういう場所がこの列島には至るところに見られたわけだが、この月山や黒又山もそういう祭祀場のひとつであったに違いない。われわれは日常的な空間のなかにそれを見出すことが可能だったとしても、それ以前に人里はなれたところに特別な場所を必要としたのではないか。聖性と出会うというのはそう簡単なことではなかったに違いないからである。

 日本列島にはこうして普通に人を感動させるような場所が広く分布している。むしろ、有名になればなるほど感動から遠ざかるのは仕方がないことかもしれない。月山神社は間違いなく共同体の祈りの場だったはず。しかし、いまや採石場の跡地と同じように廃墟となり、人々の記憶から消えようとしている。これを必然と受け入れてよかったのか。われわれは確実に前に向かって進んでいると言えるのだろうか。

 東能代でレンタカーを返却し、JR奥羽本線でその日のうちに秋田まで移動することにしたのだが、こんなふうに旅を続けていていったい何になるのかと自問自答することになった。人々のかつての信仰の痕跡が見つかったとしても、いまや失われたものを取り戻すことはできないし、いま失われつつあるものを守ることもできない。これまでの30年以上にわたる旅はいったい何だったのか。時代はどんどん変化して、いらないものは自然と淘汰されていく。

 秋田の駅前ロータリーに着くと雀の大群が空を舞っている。おそろしく数が多く、低く木々のあいだを旋回したり、高く空を舞っている。時間は18時。この時間は鳥たちにとって特別な時間なのだろうか。

 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

生きるチカラ

世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く

集英社新書 >WEBコラム>愛・賭け・遊び

本ホームページに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。
すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
(c)SHUEISHA Inc. All rights reserved.