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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第82回・高知・足摺岬へ

01 「ビバ・アメリカ」

 東日本大震災でだれもが意気消沈したこの5ヶ月、ぼくの脳裏にはそうした状況にはまったくふさわしくない音楽がずっと鳴り響いていた。1975年に大ヒットした「ビバ・アメリカ」だ。当時のディスコブームのなかでこの曲が特に気に入ったのは、馬鹿騒ぎにも似た派手なディスコミュージックでありながら、ラテンっぽい哀愁を帯びた旋律がつけられていて、どこかこの世の終わりが予感されるような曲調だったからである。

 震災で壊れた恵比寿のマンションにいるより最近は自宅で仕事することが多くなっているのだが、そうだ、どこかに「ビバ・アメリカ」のレコードがあったはずと思いつき、部屋中を探しまわってみたら、ついに屋根裏から「ビバ・アメリカ」のEPレコードを見つけることができたのだった。所要時間1時間半。36年前のシングルレコードで、もはや再生する術もないのだが、なんとかできないかと思案したあげく、とりあえずYouTubeで調べてみたら、なんと「ビバ・アメリカ」がアップされていたのでびっくり。

 これまで何千回聴いたことだろう。いまでもヒット当時のことが甦ってくる。ぼくは28歳で、大学院の博士課程に在籍しつつも、自分の未来について悲観的な思いでいっぱいだった。結局、翌年からしばらくシカゴ大学の大学院に留学することが決まったのだけれど、これから10年以上経たないとだれも就職できないという当時の東大宗教学研究室の状況からして、今後どうやって食べていこうかと考えていたところだった。そんなときに日本中を沸きに沸かせたのが74年に起こったディスコブーム。「ビバ・アメリカ」はフランスのディスコバンド「バンザイ」の第2弾シングルで、みんな毎晩のようにこの曲で踊り狂ったのだった。当時のぼくは、この世の終わりはこういう馬鹿騒ぎのなかでやってくるのだと思っていた。

 しかし、よく見ると、「ビバ・アメリカ」のジャケットの表に165という数字が貼り付けてある。そう、それは出玉165個でこのレコードを手に入れたという意味である。当時、パチンコ玉をレコードや本に替えてくれる店は限られており、ぼくはそれをお茶ノ水神保町の「人生劇場」で入手したのだった。友人のなかにはそこでマルクス全集をそろえたと豪語するものもいたが、ぼくはたいていレコードと交換し、それをコレクションして楽しんでいたのだった。

02 旅はさらに続く

 3・11以降、原発事故の収拾もままならず、とんでもない事態になっても、相変わらずぼくはずっと旅を続けている。震災直前にも伊勢(朝熊山)、日光、高野山と立て続けに出かけていたが、震災直後には山梨の岩殿を訪ね、岡山の吉備津神社、楯築古墳墓、兵庫の生石神社(石の宝殿)をまわり、6月に入って高知の足摺岬まで足を延ばし、兵庫の鏑射寺(かぶらいじ)、茨城の出雲大社常陸教会、そして、ふたたび伊勢(磯部)といった按配で、ほとんど家に戻れなかったのだった。

 ここに調査スケジュールが書かれた一枚の紙切れがある。日付は3月9日。震災の2日前に東北調査に出かけようと調べておいた日程だった。まず、渋谷からの夜行バスで山形の鶴岡に入り、そこから秋田の大湯環状列石・黒又山に向かい、それから東北を横断して岩手に入り、一昨年出かけたばかりの遠野の続石、五葉山を調べ、花巻から東京に戻るというスケジュールになっていた。なぜ1週間延期することになったのかわからないのだが、もし当初の予定どおりだったら、ぼくも秋田か岩手あたりで震災に遭遇していたことになる。まあ、調査といってもひとりで気ままに歩くだけのことが多く、思いつきで見知らぬ地に泊まったり、行き先を変えたり、そのときの気分しだいでどうにでもなるもので、そのときの延期の理由もいまはもう憶えていないのだった。

 そもそも昨年から身内の死が重なり、もうしばらくは仕事なんてできないだろうと思っていた。ずっと自分が自分ではないような毎日だった。死はいつどこからやってくるのかわからない。だいたいすべてにおいて肯定的なぼくがこういう気持ちになるなんて想像もできないことだった。もうすべて投げ捨てて世界中のカジノを渡り歩くなどして気を紛らわせようと思ったりしたが、それはあくまでも心の奥底でのことで、表面的にはそんなに変わることなく毎日を過ごしていたのである。

 ここでは、少しだけ足摺岬の佐田山(白皇山「しらおざん」とも呼ぶ)と唐人駄場(とうじんだば)を訪れたときのことを書いてみたい。そんな非常時に、黒潮が日本に最初に接岸する場所を見たいと思ったのは、けっして偶然ではないように思われたのである。

 なにしろ高知というのはちょっと特別なところで、あまり身近に知り合いはいないと思っていたのだが、意外にもぼくの周囲は高知出身者で埋め尽くされているのに気がついた。漫画家の黒鉄ヒロシさん、西原理恵子さん、電通の竹葉理沙さん、教え子の内田都さん、甲原稚菜さん、等々。特に、竹葉理沙さんは足摺岬近くの出身だとのことで、いろいろ聞きたいと思っていたのだが、たまたま彼女が監督した短篇映画がアメリカで上映されることになり、しばらく日本を離れているとのことだった。それなら適当に行けるだけ行ってみようとすぐに切り替えられるのがぼくのいいところ。日程だけ決めて、いつも一緒に調査に入っているKさんにすべてをまかせることにしたのだった。

03 足摺岬

岬の先にみえる竜宮神社(撮影/編集部)
岬の先にみえる竜宮神社(撮影/編集部)

 だいたいどこへ出かけるにも何の準備もしないことが多い。それには怠惰でだらしないぼくの性格によるところが大きいのだが、いろいろ調べて知ってから行くとソンするような気もするからだ。見たいものを先に見てしまったら、それがたとえ写真だったとしても、出会った時の感動は確実に薄れることだろう。何事も偶然が好ましい。

 以前、阿蘇の調査に入ったものの、天候が悪く、濃霧のなかを車でつっぱしり、ようやくの思いで阿蘇を下り、幣立神宮にたどり着いたことがあった。結局、そのときの調査では阿蘇の火口どころか阿蘇山そのものさえ見えなかったが、それでも押戸石、鍋ヶ滝、阿蘇神社などそれなりの収穫もあったので、そのまま帰るつもりだった。ところが、幣立神宮からの帰途ふたたび北上して黒川温泉に向かうつもりで車を走らせていたら、突然、霧がさっと晴れて、一瞬だけ黒々とした阿蘇山が姿を現わしたことがあった。ほんの一瞬の出来事だったが、その姿はなんともいえず神々しく、思わず車を飛び降りたほどだった。おそらく観光バスで火口近くまで行って、みんなで覗きこんだり、記念撮影をしたりするよりも百万倍感動したといってもよかろう。

 そんなわけで高知の足摺岬に出かけたときも、ほとんど何の資料も持っていかなかった。興味があったのは、そこに広がるという唐人駄場というストーンサークルと佐田山(白皇山)の中腹に広がる磐座(いわくら)群だった。それだけ実際にこの眼で見られたらいいというくらいの気持ちだった。

 それにしても、高知にはこれまで何度も来ているのに、なぜ足摺岬まで足をのばさなかったのかとわれながら不思議に思っていたのだが、いよいよ足摺岬に行くということになってその理由がはっきりわかった。あまりに遠すぎるのである。東京から高知まで飛行機で1時間半ほど、これはもちろん計算内。ところが、高知から足摺岬への入り口にあたる中村までの列車(もちろん特急)が信じられないくらい時間がかかり、待ち時間を含めて3時間。さらにそこから先は車で入るしかないので、中村でレンタカーを借りて2時間弱。つまり、東京から最短で7時間ほどかかることになる。

 しかも、到着したら雨。これはいつものことだから仕方がないとして、ぼくと同行のKさんはまず足摺岬を足のつま先だとするとかかとの部分にあたる臼碆(うすばえ)にある竜宮神社へと向かったのだった。それほど期待していたわけではなく、いったん足摺岬のほうに入ったらわざわざここまで来ないだろうと思ったので、とりあえず立ち寄ったのである。しかし、こここそが黒潮が日本で最初に接岸するという場所だった。

 雨にけぶる竜宮神社は本当に岬の突端にあり、周囲は険しい断層に囲まれていて、まさに野生のままだった。しかも、夫の航海の安全を祈って、女性はそこで海に向かって秘所を露わにするという風習も残されていて、なんだかしみじみとした気分にさせられた。貞淑な女性が秘所を露わにするという伝承はさまざまなかたちで世界に広まっており、ケルト神話のクーフリンのような無敵の英雄の怒りをしずめたり、隠れた神を引きずり出したり、戦いで陣を張って相手をひるませたりする例などが知られている。

 それはともかく、どう工夫しても足摺岬の一日目はこれくらいで日没を迎えることになる。ぼくらは足摺テルメというホテルに着いて、とりあえず生ビールでも飲みながら翌日以降のスケジュールを相談しようということになったのだが、レストランで生ビールを頼んだら、これが天下一品のおいしさで、毎日飲んでいるわれわれでもビックリするほどの出来栄えだった。たしかに入り口のところに「日本一おいしい生ビール」と書かれてはいたが、なぜ、たかが生ビールでそんな違いが出てくるのだろうか。

04 巨石群

佐田山第二峰頂上の磐座(撮影/編集部)
佐田山第二峰頂上の磐座(撮影/編集部)

 そんなわけで、いつものようにスケジュールの相談と言いつつ、結局何も決まらないまま翌朝になり、とにかく当初の目的地である佐田山に登ってみようということになった。標高451メートル。しかし、それがどこにあって、どこから入ったらいいのかまったく見当がつかない。ホテルから5分くらいのところだと聞いてはいたが、わざわざ行きたがる人もいないようで、それを指し示す案内板も見当たらない。とりあえず出発してみたらところ、たしかに5分ほどで道路わきに古ぼけた鳥居が姿を現わしたのだった。

 しかし、鳥居の上にかすかに読めるのは「石鎚神社」という文字のみ。そんな神社があるなんて初耳だった。しかも、山の頂上を目指すのに、その入り口からはだらだらした長い下り坂が続いている。それでも、ちょっと普通ではない気配も感じられたので、いつも成り行きまかせのぼくは、なんとかなるだろうとザッザッと歩きはじめる。

 30分ほど歩いて、もしこのまま進んでどうにもならなくなったらどうしようと思いだした頃になって、ようやく石垣のようなものが出てきて、われわれの選択が間違っていなかったと確信したのだった。

 そこからは佐田山頂上を目指してまっしぐら、頂上には石の祠のようなものがあり、その背後には遠く海が広がっているのが見えた。すばらしい光景だった。さらに尾根沿いに進むと佐田山のもう一つの頂きに到達する。そこにはストーンサークルのような密集した石組みが見られ、明らかにかつて祭祀場であったことを告げていた。やっぱり苦労して来た甲斐があったというものである。一つひとつの石に触れながら、ひんやりした質感をしばし楽しんだのだった。そこに至るまでにも多くの磐座(いわくら)を目にしてきており、やはりそのあたり一帯が尋常な場所ではないと確信したのだった。それにしても案内人もなくそんな山に入るなんて無謀の極み。いつもながら結果オーライの人生としか言いようがない(実際、もう一つの頂きをめざして進むうちに逆の方向へと下りだし、あやうく遭難するところだった。Kさんが磁石を持ってきていたので助かったようなものだった)。

05 唐人駄場

唐人駄場。かつてはここに巨大なストーンサークルが存在していた(撮影/編集部)
唐人駄場。かつてはここに巨大なストーンサークルが存在していた
(撮影/編集部)

 もうひとつの目的地・唐人駄場はこれまで不幸な歴史をたどってきたのだった。そこが縄文のすぐれた遺跡であり、聖なる祀り場であったということは確実なのだが、最近までそれほどよく知られていなかったに違いない。いまでも巨大なストーンサークルの痕跡は残されているものの、見るからに平坦でおもしろくもなんともない公園になってしまっている。神聖な感じはみじんも見られない。

 そもそも唐人駄場とは不思議な響きだが、「神と人のための平らな場所」という意味らしい。

 記録によると1977年に現在のような公園にするため駄場内部の石をすべて撤去したとのことである。ネット記事によると、それを高知県の自然保護課がやったというのだから開いた口がふさがらない。なんという環境破壊! すでに1959年にも食糧難を解消するため駄場内部が芋畑にされたことがあったというが、それでも石の撤去が行われたことは一度もなかった。まさに「敵は味方にあり」だ。

 実際、唐人駄場はおもしろみのない空間に成り下がっていたが、すぐ近くの唐人石はそれでもなかなかみごとな巨石群で、唐人駄場西の配石群とともに、こちらに対してなんらかのメッセージを送ってくれているように見える。そうしたことを学問的・科学的に究明しようとする試みも少なくないのだが、どうもうまくいかない気がしてならない。そうなると、ただひたすら身体で感じるものを大切にするしかないのだろうか。

竃神社(撮影/編集部)
竃神社(撮影/編集部)

 その後も、灘(なだ)の大石や竃(かまど)神社など興味は尽きなかったのだが、それよりちょっと休憩のために寄った「アネモス」(風の神)という山中深いところにあるカフェがおもしろかった。なにしろ、店のなかにグラハム・ハンコックが来たときの写真や巨石写真の第一人者・須田郡司氏のポスターが貼ってあって、ぼくはどちらとも対談したことがあったのでなつかしい気持ちになった。いまは石の研究家であったご主人も亡くなり、初老のご婦人がひとりで切り盛りしているようだったが、いったいだれがこんな山深いカフェに来るのだろうか。そんな疑問をぶつけてみたら、「石に縁のある人は必ずたどりつくものですよ」という返事だった。

 縄文の祭祀遺跡から弘法大師の伝承に至るまで、この地の不思議はだれもが認めざるを得ないものだろうが、いつかその不思議が読み解かれる日は来るのだろうか。

06 よき時代よ、再び

 そんなわけで、震災から5ヶ月が過ぎても、こうして旅を続けているのだが、どうやらこの世の終わりはいまだやって来そうにない。すでに危機は去ったのか、それとも、これからもっと悲惨な状況になっていくのか。そんなふうには思いたくないが、やっぱり「ビバ・アメリカ」で踊りつづけていたあの時代がもっともよき時代だったのだろうか。いずれにせよ、このダメージから回復するには長い年月が必要となるだろう。

 


参考文献
『足摺岬周辺の巨石遺構―唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書―』土佐清水市教育委員会、1996年。
『黒潮と巨石文明』唐人駄場探索協会、1999年。

 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。宗教人類学者。1972年東京大学卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、ミルチャ・エリアーデらのもとで研究する。関西大学教授、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、人間総合科学大学教授を歴任。1970年代から現在まで、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

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