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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第74回・性愛と想像力

01 官能教育

 前回は、ヴィクトリア朝のメイベル・ルーミス・トッド(1857-1932)という若い女性の秘密の日記をとりあげて、その暗号について解読しようと試みたのだが、それはともかくとしても、実は、この女性にはとても興味深い性生活が隠されていた。

 歴史学者のピーター・ゲイも言うように、《人間のかけがえのない個人的経験のなかで、男女の交合は、残された記録がもっとも少ないもののひとつ》であろう(以下、ここでの括弧内は『官能教育』による)。性愛の記録は、だれもが記録に残したい事柄であることは間違いないのだが、他人に隠しておきたいことでもあって、一般にはなかなか目にすることはできない。とりわけ、もっとも社会的抑圧の強かったとされる19世紀ヴィクトリア朝の若い女性の記録となれば、ほとんど手に入れるのは不可能に近いだろう。そうした意味において、メイベル・ルーミス・トッドの日記と忘備録が残されたのは奇跡といってもよかろう。彼女はアメリカ東部の中産階級の家に生れたきわめて育ちのいい知的な女性だった。

 メイベルは多感な十代を過ごした後、1879年、22歳でデイヴィッド・ペック・トッドと結婚し、3年後、天文学者である夫の仕事の関係でマサチューセッツ州アマーストへと移り住んでいる。当時25歳。彼女の日記および忘備録はきわめて率直な調子で書かれている。《1879年5月15日の朝、14番街1234番の私たちの部屋で、私は、いとしい人と朝食をとったあと、すばらしく幸福な愛のひとときをすごした》。メイベルの結婚はきわめて幸福なものだった。

 しかし、彼女はもっと多くのものを必要としていた。愛に生きる彼女は夫のデイヴィッドを愛してはいたが、同時に、他の男性たちからの求愛をも切実に求めたのである。デイヴィッドとメイベルは、すぐにアマースト第一の名家ディキンソン家と親交をもつようになり、メイベルはそこで出会った名士オースティン・ディキンソン(このオースティンこそ、かの有名なアメリカの女性作家エミリー・ディキンソンの兄だった)と、それから10年以上にわたって愛人関係を続けることになる。それはある意味では自然の成り行きだった。

 二人の愛は燃え上がり、そのまま1895年のオースティンの死まで続くことになったわけだが、では、夫のデイヴィッドはそれについてまったく気がついていなかったのかというと、そうではなかった。そのあたりのことは日記にはっきり書かれているわけではないが、三人がなかなか微妙な関係にあったことだけは十分に理解できる。夫のデイヴィッドは二人の関係を知っていながら、おそらく黙認していたらしいのである。《夫は、妻が愛人と逢うことを許していたばかりでなく、都合が許すのなら、ふたりの逢瀬を長引かせることさえ奨めていた》とも言われている。

 自分の妻が友人と性愛の関係になることは、夫がもっともおそれる事態ではないだろうか。そう思う人が多いのはもちろん承知している。ただ、一方では、それを許容する夫も実は少なくなかったのではないか。フランス語で「コキュ」といえば「寝取られ亭主」の意味で、からかいの言葉となっているが、彼らに、慣れ親しんだ自分の妻が別の顔を見せることを望む気持ちが全然なかったとは言えない。自分といるときには貞淑な妻であり、子どもたちに慈愛のまなざしを送る母でもあるのに、別の男たちからは、まったくちがった魅力的でセクシーな女性として認められる。それこそ夫にとって大きな喜びであったにちがいないのである。

 二人の娘ミリセントは、父デイヴィッドが自分と一階の居間でくつろいでいるとき、母メイベルとオースティンが二階のベッドで二人の時間を過ごすこともあった、と述懐している。なぜ父がそれを咎めないまでも変に思わないか不思議に思ったとも語っている。ミリセントによれば、彼女の父デイヴィッドは、アマーストでも、《相手が拒まない限り、ありとあらゆる女性と愛を交わすようになった》という、きわめて性的に自由な人間だったらしい。そうなると、一般には、《妻の不貞への協力が、自分の浮気に一役買っていた》というように理解されがちだが、事実はそうではなかったようである。《彼は、オースティンという代理を介して体験する妻のアヴァンチュールから、現実の交渉に劣らない満足を得ていたのである。さらに、無意識の、わかりにくい、強固な防衛に守られたレヴェルで、彼は、オースティン・ディキンソンがメイベルとのあいだの関係によって感じている感情面での親密さに、大きな性的快感を得ていたにちがいない》のだった。つまり、彼は妻メイベルを他人(友人のオースティン)と共有することによってひそかな喜びを得ていたらしいのである。

 ぼくも、かつて、同じシチュエーションの男女を描いた『オデッサの誘惑』(集英社)を書いたくらいだから、彼ら三人それぞれがどう考えていたのか手にとるようにわかる。もちろん、彼らの関係は、「社会的」には大きなスキャンダルであることはまちがいないが、「感情的」にはもっとも好ましい愛のかたちのひとつといえないこともないのではないか。現在、スワッピングとか3P、4Pとかいうと、あまり好ましい響きを持たないが、それは形だけを踏襲して、それにまつわる心の問題がなおざりにされてきたからではないだろうか。何事も、それにかかわる人々による深い愛情の共有がないと、それこそ何の意味も持たないのである。

 デイヴィッドは、オースティンを誘って三人で一緒に旅行したり、妻が不在のときには、オースティンを訪ねて、二人で妻を話題にし、彼女を賞賛して過ごしたりしたのだった。尊敬する二人の男に囲まれて、メイベルはさぞや幸福な日々を送ったことであろう。ぼくは、そうした人たちが社会的制裁を受けずに好ましい人生を送ったことを素直に喜びたいのだが、それでも、オースティンが死んだときの彼らの悲しみを思うと、やはり、多くのものを得ようとすると、多くのものを失う覚悟もまた必要だということを改めて感じさせられたのだった。

 

02 帝国の革(奴隷)バンド

 あの厳格なヴィクトリア朝時代において、そのような「自由な」性愛の事例が見つかるということは、いかに男女の関係が千差万別で、けっして一方向に進化しているわけではないということを思い知らせてくれる。SMというのも、もちろん時代を経るにつれて、その内容も意味も大きく変化せざるをえなかったのであるが、おそらく《19世紀末の帝国主義の時代に現れた儀式的サブカルチャー》として理解すべきではないかと思われる。つまり、それは19世紀末における、きわめて時代に条件づけられた一現象だったのである。

 ところが、いまや「わたしはMだから」とか「あいつ絶対Sだよね」とか平気で語られるようになっており、それは当初の意味を失って、攻撃的/受動的、いじめる(のが好き)/いじめられる(のが好き)というように、ただの単純な記号と化してしまったのである。そうやっていったん社会に受け入れられたものは、たちまち人畜無害なものへと変換されてしまうのだった。

 それに対して、ジル=ドゥルーズは、すでに『マゾッホとサド』で、以下のように語っている。《サディストの犠牲者がマゾヒストたりえないのは、放蕩者にとって犠牲者の体験する快楽が我慢しがたいものだからではなく、サディストの犠牲者が徹頭徹尾サディズムに属し、サディズム的状況に必要不可欠なものであり、奇妙ながらサディストの拷問者の分身として姿をみせているという理由によるのだ》と。さらに遡ってみても、フロイトからして、サディズムとマゾヒズムを対照的なものとはしていないし、マゾヒズムをサディズムの反転ということで満足してもいなかったのである。そのくらいの知識がなくてどうしてSMが理解できるというのだろうか。

 そういう意味で、さらに興味深いのは、同じヴィクトリア朝時代の弁護士アーサー・マンビーと雑役婦ハンナ・カルウィックの関係であろう。彼らは偶然ロンドン市内の路上で出会い、お互いを運命の人と思い、人目を忍ぶ恋に落ちることになった。カルウィック自身は気が進まなかったようだが、19年後には結婚することにもなる。ただ、だれの目にも二人は主人と女中として映っていたのだった。

 カルウィックは上流階級の雑役婦として働きながら、マンビーと一緒にファンタジーの世界を生きることを決心する。それが彼女の人生のすべてだった。二人がどのように生きたかは詳細につけた日記や写真が残されているので、いまも知ることができるのだが、それは想像を絶するものであった。彼らはひたすらSM、コスプレ、フェティッシュの世界に生きたのである。特にカルウィックは汚れた雑役婦の格好で彼の靴を磨いたり、マンビーの足元に奴隷のように跪いて靴に口づけしたのだった。彼女は「奴隷」のしるしに、手首に「奴隷バンド」を巻き、首には鍵付きの鎖(鍵はマンビーだけが持っていた)を巻いていたことがわかっている。

 その様子はアン・マクリントック「帝国の革ひも」(岩波「思想」1998.4-5、村山敏勝訳)で知ることができる。カルウィックとマンビーは、あたかもSMに必要な道具立てのもとで暮らしていたのである。《ブーツ、鎖、南京錠、革、目隠し、革バンド、衣装、台本、写真―それらを身につけたカルウィックの写真が今日まで残されているが、そのうちの何枚かはほとんどポルノだった》(以下、ここでの引用は「帝国の革ひも」による)。彼らのゲームにはフェティッシュの儀式が数々含まれていた。《二人は一緒のときは互いの快楽のために演じ、離れているときには日記で再演したのである》(彼女の日記はマンビーに請われたもので、彼に読まれることが前提となっていた)。

 マンビーは、カルウィックの第一印象について、次のように描写している。

 彼女は田舎娘、台所女だった。…背が高くすっくとしていて、足取りは軽やかだが確実で、物腰は気高かった。…がっしりとして働き者の百姓娘で、労働と隷属のしるしが身体中に見てとれたが、それでも、最上流の貴婦人にもふさわしい優雅さと美と明らかな知性に恵まれていた。

 それにしても、彼女がマンビーに与えた影響は想像以上のものだったと言えよう。それには彼女の《すぐに自分以外の人間になりきることができる特殊な演劇的才能》に負うところが大きかった。カルウィックが農婦、天使、奴隷、男、貴婦人などに変装した多くの写真が残されており、いまでいう「コスプレ」だが、なかでも徹底的に低い身分になりきって、主人であるマンビーに仕える自分を演じることに、彼女はいっそう情熱を傾けたのである。弁護士として社会的地位のあるマンビーに仕える雑役婦であるカルウィック。しかし、それだとあまりにできすぎた話ではないかという疑念もわいてくる。クラフト=エビングは、SMとは男性の「自然な」性的攻撃性と、女性の「自然な」性的受動性の実現だと説いたが、いまやそんなことを鵜呑みにする学者はひとりもいない。

 マンビーとカルウィックのケースも、その実態を調べていくと、まったく正反対の要素が次々と現れ出てきたのだった。つまり、一般には、弁護士のマンビーが支配権を握り、雑役婦のカルウィックを「奴隷」として、自分のファンタジーに自由に利用したと理解されるだろう。マンビーの日記だけ読むとそう受け取れないこともないのだが、カルウィックの17冊もの日記をよく読みなおしてみると、二人のあいだで演じられたフェティッシュの儀式の多くは、彼女自身によって書かれたものだということが明らかになってきたのである。えっ、雑役婦が主導権をもっていたんだって? 従来のいわゆるSM愛好家も、それから女性の地位向上を目指すフェミニストも、そうなると、彼らの関係について、たちまち理解不能に陥ってしまったのだった。

 アン・マクリントックは「帝国の革ひも」において、そのあたりの事情を明らかにしつつ、以下のように述べている。

 SMでは「いつも『主人役』が権力を持ち、『奴隷役』には権力がない」と言ってしまうと、劇場と現実とを読み違えることになる。世界がそのまま演じられていることになってしまう。しかし、SMのエコノミーは、転換のエコノミーである―主人から奴隷へ、大人から赤ん坊へ、権力から服従へ、男から女へ、痛みから快楽へ、人間から獣へ、そしてまた元へ。SMは、フーコーが言うとおり、『西洋の想像力における最大の転換の一つである。非合理性が精神の狂喜へと変わるのだから』。

 ある行為を社会的に認知されたものとするためには、それらにわかりやすい外面を与えてあげなければならない。あるものが社会的に有害とされるのは、実際、それが人を脅かしたり傷つけたりするからというのでなく、われわれの理解の範疇に収まらない「不定形なもの」だからである。暗闇が本能的に怖いと感じるのも同じことだ。それゆえ、セクシュアリティにかかわる事柄も、いったん社会に脅威となるものだと思われたら、すぐに単純化され、適当な名前がつけられ、理解の枠組みのなかに収められてしまうことになる。SMはその代表格ともいえるだろう。

 マンビーとカルウィックは、その関係を19年も続けた後にやっと結婚に踏み切ることになるが、それもけっしてカルウィックが望んだことではなかった。彼女は「結婚」には何の意味も見出さなかったのである。そんなことより大事なことは、カルウィックが現実とファンタジーとのあいだを行き来しながら、ヴィクトリア朝という時代に、だれもがなしえなかった自由をみごとに体現したということであろう。

03 時代を超えて


 いまから100年以上も前の、しかも、もっとも社会的な制約がきびしかった時代に、メイベル・ルーミス・トッドやハンナ・カルウィックのような女性たちがいたということは、どんなにわれわれを勇気づけてくれることだろう。彼女らの行為は、SMとかコスプレとかフェティッシュなどという言葉が濫用される現代の風俗とは比べようにならないほど、想像力豊かなものであった。

 いまやSM自体、「西洋合理主義の中心における(それをひっくりかえす)演劇的パフォーマンス」というような側面は抜け落ちて、いつのまにか合理化され、すべては覆い隠されてしまっている。サドの最大のメッセージ、「心情に警鐘を鳴らすいっさいのものを、つとめて快楽の源とすべき」を、いまこそはっきりと見直さなければならない時期ではないかと思うのである。

 

注:
ピーター・ゲイ『官能教育』篠崎 実・鈴木実佳・原田大介訳、みすず書房、1984年。
アン・マクリントック「帝国の革ひも」村山敏勝訳、「思想」1998年4-5月号、岩波書店。
ジル=ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、晶文社、1973年。
 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専 攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究 を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NY のニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在 まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続 けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』 『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

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