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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第68回・串本・古座調査2008年初夏(続)

01 古座へ

 かつて人類学者のレヴィ=ストロースのモノグラフを読んでいたら、次の一節につきあたった。「正常な思考はつねに意味されるものの欠如に悩むのに対して、いわゆる病的な思考は、(少なくともその発現のある場合においては、)意味するものの過多を利用する」(『構造人類学』田島節夫訳)。なかなか意味深な言葉ではないか。

 つまり、そこにあるのがただの石ころだとして、われわれは通常それがもつ意味についてはそう簡単には理解できないが、病的な思考にとっては、どの石もみなさまざまに結びついて特別な世界(イワクラとかヒモロギとか)を形成するということであろう。想像力は後者のものだ。夜空の星を結びつけて星座を導き出したのと同じ理屈である。しかし、そうするとまた過ちも避けられない。星を結ぶ線は無数にあるのに、どうして「白鳥」とか「蟹」とか特別な名を冠することができるのだろうか。聖地を調査しているとしばしば同じような問題にぶつかってしまう。

 三重県側の熊野から南紀の串本、古座にやってきたときも、そうした疑問が心のなかで渦巻いていた。どうして立派な鳥居に囲まれた由緒ある神社に向かわないで、どこにでもありそうな小さな祭場や聖域に特別な感情を持ってしまうのだろうか。たしかにそこは他の場所とは何かが違っている。しかし、そんな感覚をたよりに動き回っていて、いったい何が見つかるというのだろうか。

 串本の矢倉神社、潮御崎神社を見るのに意外と時間を費やしてしまったぼくらは、それでも約束よりもやや早く昼の12時にはJR串本駅まで戻ることができた。そして、そこで予定どおり助手のA嬢とも落ち合えたのだった。陽射しはそろそろ強くなりかけており、じっとしていても汗ばむようだった。ぼくらが駅前の喫茶店で待っていると、12時40分くらいに那智勝浦町役場の芝先さんが車で迎えに来てくれた。当初の予定とは違って、紀伊勝浦集合ではなく、そのまま串本から古座川の一枚岩まで走って、そこで他のメンバーらと合流する手筈になっているとのことだった。

 すでに古座川近辺のいくつかの場所を書き出しただけのアバウトな予定表は芝先さんらに送っておいた(それもスタイリストのHさんの受け売りなのだが)。それを改めて書き出すと、以下のとおりになる。

 とりあえず、行けるかどうかは別として、行きたいところを列挙してみます。
 一枚岩 古座川に面する巨大な岩場
 さがりの滝
 琴の滝 すさみ(古座街道)―七川ダムの途中
 大山命 小さな祠
 天柱岩 みごとな形状
 嶽の山 高さ300m、1時間弱の行程
 矢崎の地蔵嶽 すごい岩場、軍手が必要かも
 ホコジマ 飯盛山(旧本宮町)の項上近くにある巨岩。高倉下命が剣を得たといわれる
 少女峰 伝説の岩場
 河内神社 島全体がご神体で速玉大社における御船(みふね)島と比較される
 滝の拝 数多い滝の中でも特別な場所

 実際には何も知らないわけだから、これからどうなるのかまるで見当もつかない。だいたい地理的な関係がどうなっているのか、1日半で全部をまわりきれるのか、どこがもっとも重要な場所なのか、すべてが行ってからのお楽しみというわけだ。しかし、無責任なようだが、それでいいのである。いくら詳しく調べておいたとしても、見られるものは見られるし、見られないものは見られない。何かを見落とすことを恐れるより、実際に見ることができたものを大切にすべきだと思っている。

02 「嶽(だけ)さん」

 予定どおり、13時頃に一枚岩に着くと、古座の人々が待っていてくれた。予想をはるかに越えた人々が集まってくれていた。古座の役場の仲本さん、有名な旅館「神保館」の神保さん、郷土研究家の上野さんらで、すぐに資料をいくつか手渡してくれた。そこに、すでに到着していた写真家の鈴木理策さん、三重県の平野さん、NHKの下老さん、それに、那智勝浦町役場の芝先さん、杉本さんで、ぼくらと合わせると合計11人という大人数になっていた。これ以上のメンバーは望めない。

 一枚岩は、緑いっぱいの山を巨大なチェーンソーで斜めに切り落としたような形状をしているのだが、まずその巨大さに驚かされる。高さ100メートル、横幅は500メートルにも及ぶ。近くにいると全体がカメラのファインダーのなかに収まらない。その前を流れるのが古座川で、大塔山から熊野灘に流れ込む、いまやほかの土地では見ることができない屈指の清流である。さて、古座川の川原に下りて、ゆっくり一枚岩の周辺を見ておこうと思っていると、すでに満喫していた彼らは、挨拶もそこそこに、すぐに出発の仕度を始めている。そこから、まず、嶽の森(だけのもり)山に登り、峯まで歩いて、そこからまた車に乗るということで、ほぼ1時間半くらいの道程だとのことだった。しかし、いきなりの登山はきつい(と心のなかで思った)。すでに朝からかなりの距離を歩いている。とはいうものの、これはすべてぼくのリクエストだったわけで、そんな弱音を吐いている場合ではない。

 さっそく嶽の森山、通称「嶽(だけ)さん」を登り始める。それにふさわしい格好の者もいれば、まったくその場にそぐわない格好の者もいる。上野さんがナイフで枝を切り落とし、あっという間に人数分の杖を作ってくれた。はっきり言って、小さい頃から山登りぐらい嫌いなものはなかった。それなのに、このところ山登りばかりでどうにも辟易している。自分で選んでおいて文句を言うのだから始末に悪いのだが、旅など大嫌いだったのに、こうしてずっと旅して歩いているし、知らない人と話すのが大の苦手だったのに、毎日のように知らない人と会ってインタビューしている。まったく人生とは不思議なものだ。

 「嶽さん」はトレッキングにぴったりなところで、想像していたよりも大変ではなかったが、それもこの地に詳しい先達がいたからで、自分たちだけではこうはいかなかっただろう。けっこうな難所もあり、とりわけ最後の岩場はロープで上がらなければならない。ほとんど垂直に登っていく感じだった。落伍者も出た。狭い頂上には祠があり、そこに立つと360度の絶景が広がっているのだった。この「嶽さん」は下から見てもわかるのだが、上ノ峰(雄嶽)と下ノ峰(雌嶽)からなっており、ぼくらが登ったのは上ノ峰(雄嶽)だった。

 そこからすぐ近くに下ノ峰の頂上が見えるのだが、それは巨人の顔に見えると教えられ、よくよく見ると同行した鈴木理策さんのおにぎり頭とぴったり重なって、ひそかに笑い声が起こった。下ノ峰の頂上も最後の岩壁はほぼ垂直のかたちになっており、なかなか厳しそうな様相を示していた。

 いずれにしても、ここは明らかに修験らの信仰の場所だった。普通の人が歩くにはややしんどいかもしれないが、自然に属しているにもかかわらず、人の入り込んだ跡もわずかに感じられるという修験や山岳修行者に特有の空間がそこにあった。いまではかなり整備されてしまっているが、かつてはもっと難儀な道筋だっただろう。なにしろそこは屋久島とならぶ多雨地帯であり、いったん雨が降り出したら、どこをどうたどればいいのか見当もつかなくなったに違いない。

 そこから古座川町の峯集落までは比較的楽な道のりだった。そして、峯に着いてびっくりしたのはここにも矢倉神社があったことである。いや、串本で探していた矢倉神社は、こちらのかんちがいで実はここのことだったのである。こちらの矢倉神社は「もと、矢倉神社の境内だったところに、幹周り5mを超えるシイの大木、古木が林立している」という記述どおりのところだった。社殿も何もなく、崩れかけたようなイワクラの周囲をシイの木が囲い込んでいるといった風情で、そのうちだれもそこが聖域だったとは気づかなくなるに違いない。

 それにしても、峯はかつては重要なルートに属していて、この矢倉神社だけではなく、薬師堂もあって、かなり信仰の色が濃い場所にもかかわらず、いまや全戸数4戸、しかもそのうち2戸は現在居住していないということで、このままではいつどうなってしまうのかわからない。本当の信仰の地はどこもいまや風前の灯なのである。修験や山岳修行者が歩いた聖なる空間は、けっして吉野・大峯に限られるわけではなく、南紀全体をくまなく探索してみるとかすかに神の気配を感じさせる場所が無数に存在している。それを線で結びつけて熊野(原・熊野?)の信仰の軌跡をたどりなおしたいという野望はいつの日にか実現することがあるだろうか。

03 さらに、旅は続く

 ここから先、冒頭に挙げたリストにそって予定どおりに調査を続けることになった。古座川流域はすばらしいところで、司馬遼太郎があえて別荘をもった気持ちもよくわかる(彼の「街道をゆく」をお読みください)。天柱岩、少女峰、飯盛山、河内神社、滝の拝などを見てまわったが、とりわけ印象に残ったのが「祓いの宮」と「吐生(はぶ)の滝」で、おそらくこういうところが聖地の原型ともいうべきところなのだろうと実感したのだった。そこには社殿もなく、特別な拝み所もなく、木立に囲まれてただひっそりと存在していた。そこにあるのはわずかな目印だけで、特別なものは何もなかった。しかも、ただ自然のままというのとも違っている。

 たとえば、自然にちょっとでも手を加えると、それはもうすでに自分たちの外側の存在ではなくて、われわれの内側へと入ってくる。そして、安心する。そのくらいのかすかな変化は見てとれる。しかし、いろいろ手を尽くしてもあくまでも自然は自然のままなのではないかという疑念もまた心を離れない。もともと自然は自分たちとは何のかかわりもないところにあったのかもしれない。それを軽々と「わかった」と納得していいのだろうか。「わかった」は「わかったではない」。祓いの宮や吐生の滝はわれわれにそう告げている。

 すべては明らかなのに謎でいっぱいなのだ。

 最後に紀伊田原の木葉神社(ここも社殿がないことで有名だ)に至って、みなさんと別れることになったのだが、本当に多くの人々のお世話になった。 詳しい経緯についてはまた別稿で報告することにしよう(このコラムに書くには長すぎるようだ)。そもそも、すでにこれを書いている時点で、和歌山県の串本・古座を遠く離れて、岡山県湯原、岩手県遠野、青森県の下北半島、三内丸山遺跡、群馬県水上とさらに移動を続けている。そして、これから9月まで出雲、大阪、ドバイ、エチオピアと旅はさらに続くことになる。しかし、こんなにずっと歩き続けていったいどこにたどり着こうとしているのか。何が見つかるというのだろうか。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスは「アトラス―迷宮のボルヘス」(現代思潮新社、2000年)のなかで、「未知のものを発見するのは、なにもシンドバッドや、赤毛のエリック(グリーンランドを発見した探検家)や、コペルニクスの専売特許とは限らない。発見者たり得ない人間など一人として存在しない」と書いている。ぼくが見つけたいと思っているものは、自分のなかではすでに発見されているのではなかろうか。それなのに、ただ知らんぷりしながら生きているだけなのかもしれない。でも、それでいったい何がいけないのか? 生きるというのはそのようにして迷宮をさまようことを意味しているようにぼくには思えるのである。

*クロード・レヴィ=ストロース『構造人類学』(荒川幾男・生松敬三・川田順造・佐々木明・田島節夫 共訳、みすず書房、1972)

 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専 攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究 を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NY のニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在 まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続 けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』 『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』『「頭がよい」って何だろう』 『偶然のチカラ』『賭ける魂』他。

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