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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第67回・串本・古座調査2008年初夏

01 そこには何もない

 どうも最近は熊野に関わる調査に入り込むことが多くて、通常の調査を加えると1ヶ月にほぼ20日間は旅をしている勘定になる。なかなか日程的にはきびしくて、次は青森、岩手だし、それから、イタリア、エチオピア、ドバイ、チュニジアなどへの旅が続くことになる。まるで糸の切れた凧みたいだ。

 今回は、三重県側の熊野にしばしば見られる社殿を持たない神社をテーマに、南紀の古座、串本あたりをランダムに調査してみようと思ったのだった。ただ、ぼくがノートに書いてきたのは串本・矢倉神社と古座・木葉神社くらいで、あまりに調査目的が漠然としているのだが、それに南紀の磐座信仰を重ね合わせれば、何か見えてこないかなという期待はあった。あまり前もって詳しく調べすぎないほうがいい結果をもたらすものである。

 まず、串本の矢倉神社から潮御崎(しおのみさき)神社に向かおうと思っていた。潮御崎神社にも以前から興味はあったが、それはまた別の脈絡(「太陽祭祀の場」)であったし、なぜ矢倉神社がそんなに問題になるのかと言われても答えに窮するが、磐座はおろか「そこには何もない」ということが特に興味を引いた点だった。

02 矢倉神社へ

 東京を新幹線で出たのが朝10時で、紀伊半島の突端部にある串本のホテルに着いたのが17時近くだったわけだから、いかに紀伊半島が遠いところかおわかりになるだろう。それだけの時間があれば香港やマカオにだって行ける。沖縄だってもっと近い。もっとも白浜空港をつかえば多少は楽だが、強風だと着陸に難があるし、そこからの移動もまた別に考えなければならない。

 これまで紀伊半島西岸でいうと、田辺には数え切れないほど来ていたし、白浜で遊んだことも少なくない。数年前に和深まで来て宿泊しているので(連載第44回「日々雑感」参照)、ほぼ串本まで入っているわけではあるけれど、潮岬のある本州最南端までは来たことがなかった。そして、紀伊半島東岸でいうと、熊野町から紀伊勝浦まではしばしば来ていたが、そこから先まで足を延ばすことはなかった。そういうわけで、今回はみごとにその隙間を埋めるかたちになり、紀伊半島をぐるりと一周するのに成功することになった。

 しかし、串本に着いたときには、まだどこをどう調査するかも決めてなくて、とりあえず「東京からだと翌日の昼に地元の方々と待ち合わせをした紀伊勝浦に集合するのが難しそう」という理由だけで、串本で前泊しようと単純に考えたのだった。まあ、それなら、矢倉神社あたりを見てから、ちょっと潮岬あたりも見てみようかという軽い気持ちだった。それが意外な展開を見せることになるのだから調査というのはやってみないとわからない。

 串本に着いてホテルに腰を落ち着けるとすでに17時をまわろうとしている。日没が遅くなったとしても、そんなに時間はない。一日を移動だけで済ませるほどヒマでもない。ぼくと編集のKさんはすぐにタクシーの手配をした。それにしても、ホテルの窓からは眼下に名勝・橋杭岩(はしくいいわ)の連なりが見えている。これでもっとも有名な橋杭岩には足を運ばないで済む。もともとそういう場所にはあまり興味もなかったのだが、それでは、これからまずどこへ行こうか2人で話し合うことになった。そして、とりあえず、手がかりとなる串本の矢倉神社を30分ほど見てこようということになった。軽いジャブみたいな気持ちだった。

 ところが、串本町高富にあるという矢倉神社に着くのはそう簡単なことではなかった。順を追って書いてみよう。まず、タクシーに乗って、矢倉神社までと告げると、運転手が首をかしげる。地図で確認したところでは10分もかからないところで、ほとんど町中だというのに、彼は知らないというのである。運転手は、道路わきに一時停車して無線でやりとりするのだが、串本町高富にあるのは高倉神社であって、そこには矢倉神社はないと指示されている。

 南紀の古い信仰に磐座信仰があるのはこれまでにも繰り返し述べたところである。現在、ごとびき岩の神倉神社の祭神は高倉下(じ)となっているが、もともとはもっと原始的な信仰がバックボーンとなっているのではないかと思っている。高倉下とは神武天皇を助けた土着の地主神とされているが、それより高倉下の「倉」にこそ意味があるのではないかとずっと思っていた。神倉、高倉、丹倉、矢倉、それぞれ磐座への敬称を指しているとみて間違いなさそうだ。そうなると、ここで矢倉か高倉かというのもそれほど大きな違いではなくて、ただの呼称の問題かもしれないのである。

 高富の矢倉神社、いや、高倉神社に着くのには10分もかからなかった。田畑の合間を入っていくと、小高いこんもりと木々が繁っている丘が見えた。すぐにそれとわかる形状ではあったが、しかし、看板ひとつなく、ここがそうなのかどうか確かめようがない。ただし、入口の石段下から眺めるだけで、そこが尋常ではない場所だということはわかる。猪除けの電線が張られているが、昼間は触れてもだいじょうぶだと書かれている。狭い石段を登る。その奥は暗くて見えない。そして、石段を登りきって鳥居をくぐると、そこには何もない質素な空間が広がっている。きわめて好ましい空気がただよっている。しかし、乏しい資料にある「もと、矢倉神社の境内だったところに、幹周り5mを超えるシイの大木、古木が林立している」という記述とは一致しない。たしかにシイの林に囲まれているが、どう見ても幹周り20cmくらいしかない。どうやらここは目的の矢倉神社ではなさそうだと思い、すぐ石段下のおばあさんに確認すると、「ここはたしかに矢倉神社ですよ」という返事。

 たしかに社殿はなく、質素でありながら、どこか気品もあり、神社としてはまったく悪くないのだが、そこが目指す矢倉神社かどうかは、やはり納得できなかった。それから、すぐ隣の丘に建つ小さな禅宗(曹洞宗)の寺を訪ねて、神社とのかかわりを見つけようとしたりしたのだが、それもうまくいかず、その日の調査はそこで終了したのだった。

03 もう一つの矢倉神社?

 ホテルに戻り、那智勝浦町役場の芝先隆さんに電話する。彼には20年ほど前に熊野に来たときにも案内していただいたことがある。1980年代の終わりごろ、舞踏の白虎社の熊野合宿にゲストで講演に来たときのことだった。参加者の多くは東京の大学から来た学生たちで、全体で60名ほど、女の子のほうがはるかの多かったように記憶している。みんなとても熱心で、厳しい舞踏の肉体訓練によく耐えていた。

 ぼくが講演したのはちょうど合宿の中間発表の前日で、翌日には滝で踊りを披露させますから是非ご覧になってくださいと言われ、快く引き受けたのだった。ただ、その夜のぼくの講演が終わったところで、主催者のほうから、明日の注意事項として「白いパンツを着用のこと」と告げられて、学生の中からざわめきが起こった。「やっぱり」「いよいよ」という声と「まさか」という声が入り混じっていた。何か質問があるかと聞かれて、ひとりの女子大生が「あの、ワンポイントものでもいいでしょうか?」と言うと、「それくらいならいいでしょう」という答えが返ってきた。参加者のざわめきはなかなか収まらなかった。

 翌日の滝での光景はいまだに忘れられない。目的地の滝に車で到着するやいなや、全員が外で白いパンツひとつにされ、それもお尻が全部丸出しになるように前後ともT字に絞られて、まるで何かに襲われた羊の群れのような光景になった。昨夜、知的な議論をした筑波大や早稲田の女子大生らがいまやみんな乳房も出してほとんど全裸に近い格好になっている。なんとも刺激が強すぎて、どこに視線を向けていいのかわからなかった。それでも、女の子はやると決めたら思い切って服を脱いだが、男の子はおまけに頭をモヒカン刈りにしなければならず、そこで拒絶する者も出てきたりしていた。その場で服を着ているのは、ぼくと、たしか一緒に講演したタナカノリユキさんだけだったと記憶している。それから、全員がお互いに白塗りをはじめて、ようやく非日常の世界へと入り込んでいったのだった。

 芝先さんとはそのとき以来の関係で、当時の思い出話などもかなり盛り上がったし、今回、串本・古座に入りたいと言うと二つ返事で案内を引き受けてくれたのだった。

 さて、夜になって、芝先さんに電話で連絡をとると、「それなら矢倉甚兵衛さんの家を訪ねられるといいでしょう」という。なんでも、矢倉神社を代々お世話している方で、日本でも十指に入る山林王のお宅で、邸内を見せてもらうだけで十分価値があるということだった。そういえば、先ほどのタクシーの運転手も、屋敷の前を通るときに「ここが矢倉甚兵衛さんの家です」と言ってくれていたので、地元ではかなりの有名人であることはわかっていた。どうやら矢倉甚兵衛さんを訪ねれば、矢倉神社の謎はいくらかでも解明されそうだということになり、翌朝9時にお会いする約束をとりつけてもらったのだった。

 翌朝のことである。頼んでおいたタクシーに乗り込んで行き先を告げると、今度の運転手は「はあ、わかりました」と言った後で、「で、その矢倉神社にはおいでになったんですか」と言う。「ええ、昨日、高富の矢倉神社に言ってきました」と言うと、「いや、そこは高倉神社ではないですか、矢倉神社ならすぐ町内にありますよ」と言う。「矢倉甚兵衛さんのお宅の近くだから、先にそこに寄りますか?」

 なんということだろう、矢倉神社は2つあったのだろうか。もともと南紀には「倉」とつく場所はいくらでもあるのだから、矢倉神社が2つあっても全然不思議ではないのだが、串本の2つの矢倉神社はその位置関係からしてあまりに近すぎるのではないか。しかも、こちらは町中にあるというのだから、どんなふうになっているのか心配しながら、とりあえずその前でタクシーを下りたのだった。

 こちらの矢倉神社はさらに質素で木々が繁っているこじんまりとした何もない空間だった。ただ、そこは沖縄など南西諸島の御嶽(うたき)を思わせるようなところで、そこを見た瞬間、ここが本来の矢倉神社かもしれないと確信した。よくここがこんなかたちで現在まで残されたきたものだというのが率直な感想だった。その空間はほぼ10m四方で、狭いながらも、なかなか気持ちのいい場所だった。いまは干上がっているが、小さな井戸のような石組みだけが残されており、そこで禊の行事が行われたのではないかと想像された。残されているのはそれだけで、いまはその井戸の石組みが信仰の対象になっているかのようだった。ただし、その背後を調べると、なだらかに上がっていって、なんとそこからわずか5mくらいのところに紀勢本線の線路が敷かれているのだった。

 なるほど、そういうことかと思った。ここは実は背後の高い丘と結びついた信仰の地であったのが、線路が敷設されて、真っ二つに切断されてしまったのである。そういう意味ではもはや原形をとどめていないが、それでも明らかにそこには何かがあったという気配だけが残されている。しかし、ここも、「もと、矢倉神社の境内だったところに、幹周り5mを超えるシイの大木、古木が林立している」という記述とは合致しない。それをどう理解すればよいのだろうか?

 矢倉甚兵衛さんはえらぶったところのない知的な人だった。慶応を出てから東大でも学んだことがあるとのことで、名前からくるイメージとは相当違った印象だった。敷地の内部にかつおを燻してかつお節をつくる建物があったりするものの、生活ぶりはきわめて質素な印象で、それもまた好ましかった。ただ、彼にもいまや矢倉神社のことはほとんどわからないとのことで、以前には、田島(たしま)という家が代々神社の世話をしていたのだが、自分の家に引き継いでからは、7月第一日曜に例祭が執り行われている以外には特別な行事は行われていないとのことだった。

 ただ、彼から、「矢倉神社が鉄道で分断される前は、森とひとつながりになっていて、井戸の水もとぎれることがなかったらしい」という先代らの思い出を聞いて、やはりあの線路の向こう側の森も矢倉神社の一部だったのだと改めて納得したのだった。三重・和歌山では明治の神社合祀の嵐によって、ほとんどの神社が取り壊されており、いまやそれ以前のかたちを求めても難しいのだが、こうして痕跡のように残されている社や祠や塚を探し求めると、そこには必ずほのかに神の気配がただよっているから不思議である(むしろ大きい神社にその気配が失われていることが多い)。

04 さらに、潮御崎神社へ

 それから、ぼくらが向かったのは本州最南端に位置する潮御崎神社で、たまたまタクシーの運転手が宮司さんと知り合いで、「ぜひ会われたほうがいい」というので、まずは潮崎勝之宮司宅を訪れることになった。風がさわやかでなんとも気持ちのいい季節だった。

 予定どおり、潮御崎神社に到着したのが11時前で、すべては順調に進んでいるようだった。しかし、そこでびっくり仰天、うっかりビデオカメラを矢倉甚兵衛さん宅に置き忘れてきてしまったのに気がついた。さて、どうしたものか。電話番号を調べたり、タクシーの運転手さんにとってきてもらう算段をしたりしていると、向こうから車がやってきて、恐縮なことに矢倉甚兵衛さん自らがわざわざ届けてくれたのだった。調査をしていると、いつものことながら感謝の念ばかりが増していく。

 宮司はようやく朝のお勤めと掃除を終えて自宅に戻ったばかりらしかったのだが、ぼくらのためにわざわざ案内をかってでてくれることになった。そのときは、ぼくらも本殿の説明くらいで失礼させてもらって、他のいくつかの神社などにも立ち寄ろうかと思っていた。ところが、さすがに本殿もみごとではあったのだが、海辺に下りるとそこに洞窟があり、古くから信仰の対象になっていると聞くやいなや、胸が騒いで、どうしてもそこまで下りてみたいと言わないではいられなくなった。

 さすがに宮司も一瞬ためらったのだが(ややお疲れの様子か)、すぐにご案内しましょうと言ってくれて、木々の生い茂るなかを先にたって下りていってくれた。その好意もまたうれしかったが、それよりもすでに宮司の人柄に魅了されていたぼくらは、詳しい説明を聞きながら、ここもまた特別な地であることに気づき始めていた。

 その洞窟は静の窟(しずのいわや)と呼ばれており、いまは海水が満ちていて奥まで入れないが、先まで進むとさらに高いところにまるで明かりとりになるような場所もあって、そこで祈りが捧げられるということだった。なんにしてもその洞窟の形状もまるで尋常ではない。あたかも太古の信仰と人間の営為との出会いのかたちが想像できるようだった。

 かなり急な崖を上下したので、もうそろそろ失礼しなければというところで、運転手さんが、「来る途中でお二人に話した森の中のイワクラに案内したいが、詳しい場所がよくわからないので教えてほしい」と宮司に訊ねている。精悍だが、どこか学者のように物静かな風貌の宮司は、それなら自分が案内しましょうと言ってくれて、われわれはそこから数百メートル先にある高塚の森に入っていくことになった。そこはちょっと特別な場所なのだった。

 というのも、そこはかつて太陽祭祀が行われていた最古の信仰スペースだということで、以前にもかなり話題になったところだった(北岡賢二「三世紀・日本建国の式典は潮岬太陽神祭祀場で行われた」参照)。すでに芝先さんから新聞の切抜きも渡されていたのだが、いわゆるトンデモ本系の話に近いので、やや警戒しながら森の奥まで入っていった。ところが、宮司は、あっさりと「どこまでが本当かなかなかむずかしいと思うのですが」と疑問を投げかけてくれたので、それなら素直に自分の感覚をたよりにその場所を見てみようという気になったのだった。

 そこは5万平方メートルという途方もない広さを持ち、その森の奥には、三段に高さが異なるように作られている祭祀場らしき空間(奥へ行くほどやや高くなる)があり、さらに塚のようなもので外部と区切られていたので、どう考えても人の手が加わった特別な場所にしか見えなかった。しかも、最後にたどり着いた磐座はそれはみごとなものだった。夏至の太陽がちょうど磐座から昇るように配置されており、それだけを見ても、たしかにここがなんらかの信仰の地であったことはたしかだと思えるのだった。ここでなにか祭祀が行われたことを否定することはできないが、ただし、いまとなっては実際どのようなことが行われていたかは検証しようがない(谷川健一編『日本の神々―神社と聖地』第6巻、二河良英論文など参照)。

05 さらに古座へ

 ここには是非ともまた戻ってこなければならない。そう思った。結局、潮崎宮司には最南端の碑があるところまで案内していただいて、恐縮しながら、ぼくらはそのままタクシーでJR串本駅まで戻ることになったのだった。すでにわずかな時間でいろいろなことがあった。しかし、それはまだこれから起こるさまざまなことのほんの始まりに過ぎなかったのである。

 旅で何かが見つかるのではない。それはすでに見つかっているのだ。旅はそれを永遠のものにするためにあるのであって、それ以上のものを期待してはならない。しかし、この世にそれ以上のものなど果たしてあるのだろうか?

 

後記:
野本寛一「熊野山海民俗考」(人文書院、1990年)によれば、19の矢倉神社(矢倉明神社、矢倉明神森を含む)の名が列挙されており、それを見ると、矢倉神社が紀南を中心に広く分布していることがわかる。宮本誼一「忘れられた熊野」も同じく参照のこと。それで、「もと、矢倉神社の境内だったところに、幹周り5mを超えるシイの大木、古木が林立している」の謎が解けることになったのだった(詳しくは次号で)。

 


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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