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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第64回・ラスト、コーション

01 映画『ラスト、コーション』(色 | 戒)

 封切りを待つように見て、すぐに書くつもりが、なかなか手がつかなかった。あまりに書きたいことが多すぎたのかもしれない。SEXシーンがカットされた中国の人々がノーカット版を見たくて香港に殺到したという話を聞いて、それは単にポルノを見たいという興味だけではなく、もっと映画の本質部分を知りたいという欲求によるものだと思った。いまやノーカットのポルノなどどこでも見ることができる。最近のエディソン・チャンをめぐる女性タレントらの「わいせつ写真」の流出事件に象徴されるように、ポルノまがいのものはどこにでもあふれかえっている。しかし、それらはエロティシズムとはまったく正反対のものだ。この映画のSEXシーンはまさにカットしたら映画そのものが成立しなくなるほど重要な部分なのだった。

 1度目は渋谷で、2度目は神戸で見た。それぞれ違う女の子と見た。最初に渋谷で見たとき、相手の女の子は上映後大きなショックを受けたようだったが、それでいてまた欲情もしていた。それゆえ、その後、「だれと見に行くか要注意!」とみんなに注意することになった。次に神戸で見たときにも、相手の女の子は南京街で「蒸し鶏とレタスの葱塩ソース」を食べながら、なんだかそわそわして落ち着かなかった。だれかに「どうにかして」と言いたいような、でも、あまりきちんと心の始末をつけたくないという気分もあって、それが彼女の挙動によく表れていた。そして、それは自分も同じだということに気づかされたのだった。

 映画はいきなり女4人のマージャン・シーンから始まる。渋谷で見た女の子は、映画が始まるとすぐに眠ってしまうぼくの性癖を知っていたけれど、最初がマージャン・シーンだったので「これは眠らないな」と思った、と後で言って笑った。監督自身、この映画でもっとも力を入れたのは、幾度か繰り返されるマージャン・シーンと主人公のトニー・レオン扮するイーとタン・ウェイ扮するマイ夫人とのベッドシーンだと語っているが、この2つの「白いシーツの上での戦い」がこの映画にみごとにくっきりした輪郭を与えている。しかも、その描写は、短いカットで、すばやく、ほとんど意味なく聞こえる会話(マージャン)と、どうしたらそういう体位がとれるのかというアクロバティックなSEX(ベッド)によって構成されているのである。

「どういう体位だかわかった?」
「ううん、全然わからなかった。でも、すごかった」
「どちらがどちらだか」(笑)
「ふふっ」
「マージャンは?」
「なんだか音楽を聴いているみたい」
「中国人とやるとあんな感じになるんだ」
「そうなんだ、ずいぶんイメージが違うのね」

 友人でもある映画評論家の佐藤睦雄は、アン・リー監督が来日したとき、彼もマージャンとSEXが好きなせいか、この映画について的確な質問をしている。「オープニングの麻雀シーンから、この映画は《視線の映画》だと気づくわけですが、ロドリゴ・プリエトのカメラワークは素晴らしいの一語です。また、銃声だけ聴かせて、むごたらしい日中戦争を表現しているのに対して、男女のセックス描写はたっぷりあって、官能的に描いています。撮影上、苦労したことは?」。それに対して、監督は「わたしには演出上2つの野心があって、それはまさしくマージャン・シーンとベッドシーンだったのです」と答えている。さらに、ベッドシーンについては(別のインタビューで)以下のように付け加えている。「これはシーツの上における “占領/被占領”の戦いであるとともに、男女の情愛 に関する攻防戦でもあり、また、2人の心の変化を観客に伝える要のシーンであるべきだとも考えました。したがって、それぞれのベッドシーンに4日ずつ、計12日をかけ、わたしと役者2人のほかにはカメラマンとその助手、録音という6人だけのプライベートな環境で撮影を進めていったのです」。

 あの1秒もないようなカットの連続の中で、彼らがどのようなSEXを繰り広げたのか、また、彼女らがどんな手をつくって、だれがいま聴牌(テンパイ)したかまでわかった人はそう多くはいないだろう。マージャンをやっているときの彼女らの会話にはそれほど大きな意味はないかもしれないが、彼女らのしぐさにはさまざまな意味が隠されている。このことはもちろんマージャン・シーンだけではなく、映画全体にいえることなのだが、普通の映画の3分の1ほどにセリフを切り詰めてしまっているので、何が起こっているのかを読みとるには、そのしぐさや特に目の動きをよく見ておかなければならない。4人の女性たちのうちだれがイーとどういう関係にあるかということまで、「白いシーツの上での戦い」で読みとれるようになっているのである。

02 ストーリー

 これ以上話を進める前に、ストーリーを簡単に要約しておきたい。

 1940年代、当時の香港は日本によって占領され、傀儡政権の厳しい弾圧下にあった。その傀儡政権の特務機関の責任者がイーである。トニー・レオン扮するイーについて、「自分には感情などないと言い聞かせているのです。彼は友だちでも、目上の人物でも、旧友でも、だれでも殺さなくてはならないのですから」とトニー・レオン自身、解説している。彼らが多くの抗日メンバーを訊問、虐待、処刑するのと同じく、抗日運動のメンバーも彼ら特務機関のメンバーの所在をつきとめ暗殺しようと狙っていた。

 演劇を志していた十代の主人公チアチーは仲間とともに反日戦線に加わることになるが、なかでも彼女はその天才的な演技力を買われて、イーに近づき、自らの肉体をつかって彼を篭絡する役目を負うことになる(これまでに近づいた女たちはみな正体を暴かれ処刑されていた)。チアチーはマイ夫人に扮してイーの奥さんに取り入るところから始めるのだが、そのために仲間のなかで唯一性経験のある男とベッドでの振る舞いを練習するのだった。

 アイリーン・チャンの原作には彼女の次のようなつぶやきが記されている。「恋愛というものをしたことがなく、いまだにどのようになると愛していると言えるのかわからない。十五、六歳のころからずっといろいろな人たちからの愛の告白の攻勢を防御するのに必死だっただけに、こんな(自分のような)女は愛に溺れそうにもないし、抵抗力が強すぎるのだ」(アイリーン・チャン「色・戒」南雲智訳『ラスト、コーション』所収、集英社文庫。カッコ内は筆者)。

 演劇を志す素朴な女性チアチーと貿易商人の夫人として気品あるマイ夫人、2つの異なる人格を、立ち居振る舞いだけでなく、心理的な心の揺れまでくっきりと演じきったタン・ウェイは本当にみごととしか言うほかない。しかし、実際のところ、いよいよ計画実行というときになってイーは幹部に昇格し、突然、香港を後にして上海へと移ってしまうのだった。

 それから2年経った1942年、日本占領下の上海。叔母の家に身を寄せていたチアチーは再び仲間と合流し、今度は本格的なレジスタンス活動に加わって、さらにイー暗殺計画を続行することになる。彼女は偶然を装ってイー夫人に連絡をとり、彼の家の一室に泊まることになる。そうしたある日、映画を見に行くと外出したマイ夫人をイーはあるアパートに呼び寄せる。彼らは一度だけ香港でデートしたことがあり、それは美しい思い出となっていた。

 ところが、そこでの初めての情事はあたかもレイプのように激しいものだった。マイ夫人はいきなり壁に突き飛ばされ、革手錠で後ろ手に拘束され、衣服を破られ激しく犯されるのである。それはまるで拷問のようだった。イーがなぜそういう行動に出たのかはよくわからない。ただ、行為が終わった後、ひとりベッドに取り残された彼女の顔にかすかに満足そうな表情が浮かんだのを見逃すわけにはいかない。

 それから幾度かの逢瀬のたびに2人は熱く身体を重ねあうのだが、それはまるで何も信じられない心の空隙をうめるかのように激しいものだった。彼女がレジスタンスのリーダーに、イーの暗殺を「早くして」とつぶやくシーンは、そうしないと自分の心がばらばらになってしまうという悲痛な叫びに聞こえなくもないのだった。

 そんなある日、いよいよイー暗殺を決行すべき日がやってくる。それはイーが彼女のためにつくったダイヤモンドの指輪を2人して受け取りに行くその日なのだった―

03 強い欲望と戒めと

 人を愛してどうにもならなくなったことがあれば、どこまでが誠実さでどこまでが演技なのか自分でもよくわからなくなった経験はあるだろう。だれにも自分を完全に失うことなどできはしない。それどころか、強く望んでいながら忌避したり、絶対にしてはいけないことを進んでしてしまうことだってある。自分のことは自分が一番よくわからないのである。

 かつて相模大野にある大学のキャンパスの池に深夜女の子と飛び込んだことがある。他にも何人か女の子はいたのに、なぜその子と飛び込んだのか自分でもよくわからない。彼女は19歳だった。みんなより1学年上の女子学生で、胸が大きくグラマーな子だった。

 飛び込まなかった女の子が数日後忠告してくれた。
「あの池はね、昼間見るとすごくきたないのよ」
「そうなんだ」
「見せたいくらい」
「・・・・・」
「どうしてEさんと飛び込んだの?」

 自分のなかにとんでもないことをしたいという欲望があるとき、それは多分だれかに伝わるのだと思う。ごはんを食べたいとか映画を見たいとかいうのではない。自分以外絶対だれもしないようなこと。そう思った瞬間、必ずだれかがそれに反応してくれる。好きとか嫌いとかではない。いつでも、一緒にダンスを踊る人もいれば、それを諌める人もいる。

 そう、タイトルの「ラスト、コーション」(色 | 戒)はなかなか含みの多い言葉だ。ラスト(Lust)は強い欲望(煩悩)を表わし、コーション(Caution)は社会の側からの警告、戒めを意味する。それらは対立するものでもあり、また、ともに2つは同一の事象の別の側面を表わすともいえるだろう。

 アン・リー監督はそれについては次のように語っている。「僕の映画のテーマは人間性の探求だと言いましたが、探求の過程には必ず葛藤がついてまわります。その葛藤の連続こそがドラマだともいえるのですが、そこにタブーを絡ませると、人間の心理状態はさらに通常のものではなくなる。そうなってはじめて見えてくるものこそ、真実に近いものだと思うんです」(塚田泉、アン・リーインタビュー)。これこそエロティシズムの定義に近い。

 エロティシズムとは一線を超えること。では、どの一線か? それはけっして性的な事柄ばかりを意味しない。禁じられていることを破るときには、たとえそれが精神的または心理的なものであっても、そこにエロティシズムが立ち上がることになる。そういう意味では、いまの「なにもかも消費されていく」日本では、エロティシズムは不可能に近いかもしれない。かつて「不義」「密通」という重い言葉で語られた事柄が「浮気」「フリン」となり、「倒錯」が「ヘンタイ」となり、「夫婦交換」が「スワッピング」となり、あっというまに人々が近寄ることができる手近なものへと置き換えられてきた。SMも例外ではない。

 しかし、そういうレッテルが貼られるとすべてが退屈なものになってしまうのもまた事実。どこかへ行こうと思っても、いつのまにか日常の退屈な繰り返しのなかに絡めとられてしまうのだ。そういう意味では、この映画が中国人(台湾)の監督によってつくられたのも、しかも、舞台が1940年代の占領下の上海、香港というのも、ある意味必然かもしれない。強い抑圧や禁止は果てしない欲望を生みだすことになる。もしだれかに強く禁じられたら、それだけでその行為には大きな意味が生じてしまうのである。

04 横光利一『上海』

 昨夜、たまたま今月改版になった横光利一の長編『上海』(1956、2008)を読んでいたら、1920年代の上海に生きる参木という男の次のセリフが引っかかった。

「―お前は百万円掴(つか)んだとき、成功したと思うだろう。ところが俺は、首を縄で縛って、踏台を足で蹴りつけたとき、やったぞと思うんだ」

 そこに描かれた上海の光景には、混沌とした時代背景をも含めて、『ラスト、コーション』に描かれた時代と共通したものがあるような気がした。

 横光利一は「この作の風景に出てくる事件は、近代の東洋史のうちでヨーロッパと東洋の最初の新しい戦いである五三十事件であるが」と後に述べているが、そういう稀有な一瞬にこそ永遠の傑作は生まれうるのかもしれない。ぼくも久々に上海を訪れてみたいと思ったのだった。高層ビルの立ち並ぶぼくの知らない上海を。


○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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