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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第59回・宇佐から阿蘇へ

01 宇佐・御許山

> 近道をしようとして年配の運転手が道を間違えた。それが悪夢の発端だった。大分の宇佐神宮からその奥宮にあたる御許山(おもとさん)の大元神社へと向かう途中の出来事だった。すべてがあまりに順調に進むときは気をつけなければいけない。そんな不安がチラッと頭をかすめたばかりだった。車はどんどん山奥に入り込んで、いまや自分たちがどこにいるのかもわからなくなっていた。

宇佐神宮の池

 早朝に訪れた宇佐神宮は想像以上にすばらしかった。あまり期待していなかっただけに、人影のない境内を歩いていると、心がしみじみと透明な水のように澄んでくるのがわかった。鳥の鳴き声をはじめとして自然の音が響き渡る。まだ若い禰宜とバイトの巫女たちが本殿の掃除をしている。どこの神社や寺院を訪れても感じるうつろな感じが、ここでは取り巻く自然によって随分と緩和されている。とりわけ蓮がいっぱいに広がる池の周りを歩くと、いったい神はどのようにしてここにやってきたのかますます知りたくなっていた。

 それで、宇佐神宮からその裏に鎮座する奥の院・大元神社に向かいたいというと、ぼくらを一日案内してくれることになった運転手は、それなら先に安心院(あじむ)の佐田京石(さだきょういし)を先に見ることにしましょうと言ったのだった。そちら側から入れば、御許山の7、8合目まで車で入れると聞いたから、ぼくらも黙ってそれに従うことにしたのだった。

佐田京石

 佐田京石とはいわゆるドルメンで、その形状からして弥生時代くらいにまで遡るみごとな遺構、それなら是非ともその山頂にあるという環状列石(ストーンサークル)も見たいということになり、ぼくらは運転手をそこに残し、すぐに笹や緑の木々に囲まれた細い山道を登り始めたのだった。しかし、すぐに、それは意外と簡単なことではないとわかった。細くて急な坂道を100メートルほど登っただけで、生い茂る笹や露をふくんだ雑草でたちまちズボンの先がびっしょりと濡れてしまい、さらにそこから先にはロープが下げられており、それにつかまらないと前に進めないようになっていたのである。たちまち昨年の石鎚山の悪夢が思い出され、ぼくらはすぐさま「やめる勇気も必要だ」と途中で引き返したのだった。

 それでも、ぼくらにはまだ十分余裕があった。では、御許山に向かいましょうという運転手の言葉に従って車に乗り込むと、すぐに地図を取り出して、これなら国東半島全体をまわる時間もとれそうだとあれやこれや計画を話し合ったのだった。ところが、しばらく走ると、車は国道10号線を離れて細い道に入り込み、すぐに向こう側に抜けるのかと思っていると、どんどん山奥に向かって走りこんでいくのだった。やや不安に思い出したころ、運転手は「おかしいな」とか「あれっ、この道のはずだったんだが1本違ったかな」とかつぶやきだした。車は急な山道のヘアピンカーブをさらにスピードを上げて走り回る。これはまずい事態になったなと思ったので、もうちょっとゆっくり走ってくださいと言うと、いや、お客さんが見てまわる時間がなくなるのが心配でと、もはや動転状態。途中で2、3人に道を聞くのだが、どうも要領を得ない。ようやく10号線に戻るまでに1時間以上もかかってしまったのだった。「こりゃ、30分も回り道をしちょったなあ」と言いつつ、運転手がさらに逆方向に向かうのを見て、ようやく普段は温厚なわが友人も地図を見ながらあれこれ指示するようになった。そして、それはことごとく正解なのだった。

 わざわざ地元のタクシー会社の熟練運転手を選んだのにこれはいったいどうしたことか。しかし、さすがに御許山に登るちょっと気がつかないような小道を入り、家々の並ぶ一角を器用に通過していくのを見て、ああ、これは自分たちだけではとても来れなかったな、やっぱりこの人でよかった、と気を取り直したのだった。

 しかし、そこからがまた長かった。それでも、運転手が、ここは以前お祭りのときに道いっぱいに人が広がって大変だったとか、雪が降るとこの急坂を上れない車も出て引っ張りあげたとか言うので、まさか間違って隣の山を登っているとは夢にも思わなかった。頂上にあたる場所に着いて、あれっ、おかしいな、このあたりに駐車スペースがあったはずなんだが、とつぶやくころには、さすがにぼくらも事の重大さに気がついていた。

 だいたい15分くらいで行けるはずが、すでに2時間以上も経過している。せっかく早朝に出発したのに、これではもうすぐ正午になってしまう。老運転手は、時々道をたずねるのだが、それも「御許山行くにはこの道でいいんやろね?」みたいな聞き方で、いや、と相手が言葉を濁して、いまぼくらが来た方向を指しても、「でも、こっちでも行けるんかな?」とどうも往生際が悪い。

 ほとんど出発した地点まで戻って、あたりを慎重に見回してみると、次の路地の入り口に「大元神社登り口」という小さな看板がかかっている。こっちだったのだ。急な山道を登りきると、ようやく小さな駐車スペースらしきところにたどり着いたのだが、そこまでたった1台の車ともすれ違わなかったのに、タクシーが1台停まっているのでびっくり。だれがいったいこんなところまでやってきたのだろうか。そう思いつつ大元神社に向かう100メートル足らずの坂道を歩いて上っていくと、向こうからお参りを終えて下りてくる男女が見えた。挨拶を交わして通り過ぎようとしたら、なんと漫才の大助花子のお二人なのだった。かつて花子さんとはテレビでご一緒したこともあるのだが、こんなシチュエーションだし、すでに通り過ぎてしまっていたので、つい挨拶もしなかったのだった。それにしても、こんなだれも来ない山奥まで訪れるとはテレビの彼らからは到底想像もつかないことである。

 大元神社の一帯はほんのわずかなスペースで、ほとんど見るべきものもなかったのだが、それはそれでとても居心地のいい場所だった。山頂の磐座(いわくら)まで入ることができないのは残念だったが、小さな拝殿の向かい側にある大元八坂神社の一角が沖縄の御嶽(うたき)のように緑につつまれており、さわやかな風が通り抜けて、とりわけ気持ちよかった。宇佐の神がこんなところに降臨したのかと思うとちょっと痛快な気分にもなった。

02 国東・猪群山

 豊後高田で簡単に昼食をすませて、ぼくらはさらに国東半島の猪群山(いのむれやま)に向かったのだが、もはやそんなに時間もない。今度は3人とも出てくる看板に神経質なほど注意を向けて走ることになった。右に看板が出てくると3人とも右に身体を乗り出し、左に標識が出てくると3人ともそれを口に出して読んだ。ただし、情報によると、これから向かう猪群山頂の環状列石(ストーンサークル)にたどり着くには、多くの標識が出ているので絶対に間違うことはないとのことだった。

 ところが、ぼくらは道中しつこいくらい出てくる「ストーンサークル」の標識にややあきれながらも、やはり途中から道に迷ってしまったのだった。

 もはや運転手はすっかり自信を失っており、ぼくら3人はそれぞれ自分の意見を言い合って、あっちだこっちだと走り回るのだが、猪群山頂に向うような道はどこにも見つからない。たしかに一本道だったはずなのに、どう考えても山際をぐるぐる回っているとしか思えない。それではと逆方向に進むと、なんだか海に出てしまいそうな感じで、どうにも八方ふさがりになってしまったのだった。猪群山は標高わずか450メートル級の山で、おそらく目の前のどれかには違いないはずなのに、どうやっても行き着かない。またもや迷子になってしまったのだった。

 これでは宇佐の御許山の繰り返しになりそうだったので、今度はすばやく最後に見た「ストーンサークル」の標識まで戻ることにした。そこから先はぼくらが走った一本道で、考えられるのは、かすかに右に入る小道だけ。ただし、そこには何の標識もない。しかし、他にいくところもないので、仕方なくその小道に入っていった。そして、5分ほど走ったところで、やはりこの道は違うと今度はわが友人が言い出した。たしかに、いくら走っても山を登っていかないのだから無理もない。そろそろ引き返そうかと3人が思い始めたときだった。いきなり左に急な分かれ道が現われ、「猪群山登山口まで0.7キロ」の看板が出てきたのだった。

 ああ、よかった、あと5秒後には引き返すところだった!

 登山口から山頂までは1200メートル。所要時間は45分とのことだった。そこで、だいたい2時間後には戻ってくるからと言い残して、運転手と別れた。標高わずかに450メートルほどなので、やや甘く見ていたところもあったのだが、かなりの急勾配で、5分も進まないうちに、息が荒くなり、足の筋肉がふるえはじめた。昼に飲んだ生ビールがきいている。これはムリかも、再び「やめる勇気も必要なのでは」と彼に言うと、ちょっと考えるしぐさをしていたが、彼は意外と元気そうで、それなら休みながらゆっくり行きましょうということになった。

 すでに汗で全身びっしょりとなっていたし、頭のなかは真っ白で、しゃべる元気もなかった。急な段になっている道をかなり登ったところで(もう限界かもと思ったところで)標識が目に入った。なんと「あと1キロ」と書かれている。えっ、こんなつらい思いをして、まだ200メートルしか歩いていないのか、そう思うとなんだか全身の力が抜けるようだった。まだ全体の6分の1。そして、次の「あと800メートル」の看板もなかなか出てこなかった。そのあたりから急勾配になり、ぼくは彼に先に行くように言って、ビデオで撮影を始めることにしたのだった(もちろん休む口実づくり)。

 ちょうど半分くらい来たところで、かなり平坦な道になるが、こちらはすでに疑心暗鬼で、「これはもしかしたら1200メートルのなかに入ってないんじゃないだろうね」とかつぶやきつつ進む。しかし、そこから先は思いのほか楽になった。何事でもそうだが最初が一番つらいのだ。頂上にたどり着くと、さすがに達成感があった。登頂成功だ(←というほどでもない)。

 いったいどこに環状列石(ストーンサークル)があるというのだろうか。周囲を見回してもそれらしきものは見当たらない。ようやく看板を見つけると、こちらは西峰で、また少し下って東峰のほうに上っていったところにあると書かれている。せっかく頂上まできたのにまた下るのが少し悔しい。

 しかし、いざたどり着くと、その環状列石(ストーンサークル)はみごとにすばらしかった。あらゆる苦労が一瞬にして吹っ飛んでしまった。入り口にあたるところにたたずむ陰陽石もなかなかセクシーだし、中央のご神体にあたる磐座はかなり迫力があった。見渡せばその一帯にはかなり多くの石がころがっており、その向こうには青々とした海が見渡せる。犬走りとよばれる境界線も引かれており、ここがかつての祭場跡であることは間違いなかった。

03 阿蘇へ

猪群山頂にて

 意外と時間を食ってしまったので(ぼくらのせいではないのだが)、転がり落ちるようにして来た道を引き返し、タクシーまで戻ると運転手はやさしい顔でぼくらを出迎えてくれた。なんだか彼のせいでずいぶんと予定が狂ったようにも思ったが、それでも、ぼくらも彼に対してやさしい気持ちになっていた。

 フィールドワーク(調査)というのは、けっして人間抜きでは考えることができない。訪れる場所は同じでも、だれと出かけたか、だれと言葉を交わしたか、たまたまだれに道を尋ねたか、ということが意外と重要なのである。ぼくらの記憶はあくまでも場所に対してではなく人間に基づくものだからだと思われる。ここには五輪塔、塚、寺院、神社、磐座が人家と同じくらいある。だが、おそらくこの国東半島もこの運転手抜きには思い出すことはできないだろう。

 実はここまで、つまり、宮崎から大分に至るまで、すでに数日間旅を続けてきている。いろいろなことがあった。大分の中津では元宇佐と呼ばれる薦(こも)神社なども訪ねてきたが、そこは畏友・甲野善紀さんに教えられたところでもあり、とても心に残る場所だった。

 これから先、ぼくはひとりでさらに阿蘇に入り、古坊中(山岳信仰の霊場)について調べ、そこから高千穂までレンタカーを走らせることになっている。しかし、もはや日も暮れようとしている。国東半島を縦断しつつ、ここは大分でもう一泊しなければならないだろうなとぼくは考えていた。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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