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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第56回・熊野考

01 熊野行き

 なんだかモロッコから戻って、いろいろ書きたいこともあったのに、いつのまにか3月に突入してしまった。1年が経つのはどんどん早くなるばかり。考えてみれば、子どものころはやることがなかったから1年が長く感じられただけで、いまは充実していると思ったほうがいいのかもしれない。年老いてやることがないほど悲しいことはない。

 それはさておき、ひょんなことから、また熊野に行くことになった。不思議なもので、以前、室生龍穴神社に出かけたときから、次はおそらく熊野行きになるだろうと思ってはいた。みんなとも日程の相談をしていたところ、三重県のほうから「もしお出かけになるならお手伝いしますが」という申し出があった。なんというタイミングのよさ。しかも、ちょうど龍村仁監督の映画『ガイアシンフォニー』シリーズの第6番が今度公開されることになったのだが、その舞台ともなった熊野について対談してほしいというのである(詳細は末尾参照)。これほどおあつらえ向きなことはない。

 これまで熊野に出かけたことは何度かあった。そして、そこが特別な場所だという認識はずっと持っていた。そもそも熊野は謎の多い場所で、どこから手をつけていいのかわからなかったのだが、それでも、ぼくが一般の商業誌に書いた最初のエッセイは「熊野本地譚と聖なる表徴」(『詩と思想』1972年)と題されたものだったし、けっこう熊野へのこだわりは30年以上にもなるのだった。1980年代後半には細野晴臣さんと出かけたこともあったし、タナカノリユキさんと一緒だったこともある。それ以来、幾度も熊野をめぐって思索を繰り返してきたわけだが、そろそろ熊野について何かまとめてみたいと思っていたところだった。

 ぼくが熊野に興味を持ったそもそものきっかけは、1970年に丸山静が『文藝』8月号に載せた「熊野考」という論文だった。当時、ぼくはフランスの神話学者ジョルジュ・デュメジルの研究をまとめていたところで、思いもかけず、彼がデュメジルを下地におきながら熊野を論じているのを読んで、すっかり参ってしまったのだった(当時はデュメジルの名を知るものも少なかった)。そこでは従来の熊野ではなく、きわめてミスティック(神秘主義的)な熊野が描かれようとしていた(丸山静は1987年死去。その後、1989年に遺稿がまとめられ、『熊野考』と題してせりか書房から出版された)。

 それゆえに、ぼくの熊野はまたこれまでとは違ったものでなければならなかった。これまでのように熊野本宮に入るのでもなければ、熊野速玉大社(新宮)に行くのでもない、かといって、那智大社をのぞくというのでもない。それならば、いったいどこへ行くというのか。熊野三社を除いたら熊野ではなくなってしまうのではないか。そう思われても仕方がないのだが、今回はいかなる先入観も持たず、熊野そのものの根源にまで遡って考えてみたいと思ったわけである。

02  誰も知らない熊野

 まずは、熊野市の海岸沿い(つまり熊野灘)にあるイザナミの葬られた場所である花の窟(いわや)とすぐ近くの獅子岩を訪れた。たしかに国道42号線に面しており、車の通る音が響き渡り、けっしていい環境とは思えなかったが、それでも、花の窟の社(やしろ)に一歩足を入れると、そこはまったくの別世界だった。これまでにもしばしば経験してきたことだが、その場に入るだけで一瞬にして空気が変わってしまうのだ。沖縄や宮古島の御嶽(うたき)とよく似た感覚が甦ってくる。ご神体は磐座(いわくら)といっても、ただの石ではない。崖一面に広がる巨岩だった。いまでも日本書紀に記されたそのままの神事が行われているというが、たしかにここにはもっともプリミティブな形での信仰形態が生きているように思われる。

 もちろん花の窟にはイザナミの墓所という謂れが残されており、ご丁寧にそのすぐ前にはカグツチの墓(塚)まである。しかし、そんなことはどうでもいい。すでにそこが古事記、日本書紀以前から特別な場所であったことはまず間違いないだろう。熊野には古代の歴史からはみ出てしまうものがいくらでもころがっている。しかも、それならそれで熊野はつねに歴史の外側にあるのかと思えば、それがまったく逆で、もっとも重要な場面になるとたちまち歴史の表面に浮かび上がってくる。

 丸山静は「熊野考」で次のように書いている。
「たとえば、『保元物語』という本を読んでみる。すると、すぐに次のような記事が出てきて、それが気になりだす。久寿二年(一一五五年)、熊野に参詣した鳥羽法皇は、『明年の秋のころかならず崩御なるべし。そののち世間手のうらを返すごとくなるべし』という、熊野本宮の託宣をこうむった。果たして、翌保元元年の夏、法皇不豫になり、七月二日に逝くなった」。えっ、熊野本宮の託宣だって? なぜ、この脈絡で熊野に出番が回ってくるのだろうか。ここで丸山も次のように問うことになる。「わが国における古代から中世への一大転換、未曾有の『内乱』の幕が切って落とされる」。そんな重要な事件に熊野が『神の託宣』といったひどく神秘的な仕方で介入してくる。そこにはなにか必然があるのか、と。

 熊野は、特別な権力の集中する場所でもなければ、ただの辺境の地でもなかった。そこが伊勢や吉野・大峯、高野山と一線を画するところである。ただそこは精神史上もっともプリミティブな信仰の地にすぎなかった。だが、それゆえに熊野は、逆説的に、日本の歴史のなかで大きな位置を占めるようになったのかもしれなかった。

 昨日は、ずっと大斎原(おおゆのはら)で過ごしたが、そこも特別な場所だということは一目瞭然だった。大斎原とはもともと熊野本宮のあった場所であり、二つの河にはさまれた中州にいまではとても想像もつかないほど巨大な建築物が造られていたのだった。1889年の熊野川の大洪水ですべてが失われ、いまでは大斎原にはほとんど何も残されていない。ただ、何もないことが何かを伝えるということもある。地元では「いくら雨が降っても大斎原だけには降らない」とか、「あそこに入ると電波が乱れて、携帯が使えなくなる」というようなことを聞いた。もちろん、いまの大斎原はかつての大斎原とは大きく違っていたことだろう。川の流水量にしたって天と地の差があるはずだ。それでも、大斎原は大斎原なのである。

 われわれ一行は、三重県東紀州対策室の平野さん、川添さん、それに、案内してくれた作家の前田さん、NHKの下老さん、助手の女の子の総勢6名だった。もともとひとりで車で回るつもりだったのが、平野さんがいろいろと手配してくれたのだった。
「でも、普通のところにはまったく興味がないのですが」とぼく。
「わかりました、では、だれも行かないようなところを調べておきますから」と平野さん。
 それまでにも、いろいろと聖地について話してあったので、それだけで彼はすべて了解してくれたようだった。

 最初は彼も、熊野市の花の窟、獅子岩、尾鷲の飛鳥神社、波田須の南にある徐福の宮、楯が崎あたりを考えていたらしい。もちろんそれだけでもすごいラインナップだった。ただ、ぼくが求めているのはもっと違ったものだった。そして、信じられないことに平野さんらは、前田さんの協力を得て、それを見つけ出してくれていた。

03 神地

 その筆頭が大丹倉(おおにくら)。さらに、そこへの道筋で見つかった丹倉(あかぐら)神社だった。そこはかつて室生龍穴神社を見つけたときと同じような場所にひっそりと存在していた。ほとんど訪れる人もないその神社のご神体は、やはり樹木が絡み共生している巨石だった。しかし、その空間にはごとびき岩の100倍も強烈な磁力が働いており、その振動で心が震えるような感じがしてならなかった。

大丹倉 神倉神社のごとびき岩もたしかに異常な力を持った石であることは間違いない。江原啓之も次のように書いている。「山頂の神倉神社には、目を奪われるような巨大な石が鎮座していました。これほど険しい山頂に、昔の人の手によって、見上げるほどの巨石を運び込めるはずがありません。そして、ぼくの耳には『ここが熊野のもとである』という、役行者の声がはっきりと聞こえ、この地に立つために熊野を訪れたのだと実感したのです。これほど強い霊場は、なかなか存在するものではありません」(『江原啓之神紀行1』マガジンハウス、2005年)。ごとびき岩がすごいのはたしかだが、もっと霊力の強い場所ならいくらでもある。

 丹倉神社はそんな特別に聖化された場所のひとつに間違いなかった。ご神体にしても、一見したところ、巨石群のまっただなかに鎮座するただの石のひとつに過ぎないように見えるが、それがつくりだす磁場の力もあって、すべての感覚を麻痺させてしまうのだった。

 大丹倉は修験の行場のひとつ。その中腹には修験が行をしたという10畳以上の石畳があるし、頂上には高倉剱大明神が祀られており、苔むした自然石がご神体があり、その下に剣が納められているとのことだった。丹という字は「赤」を意味しており、それゆえ丹倉神社は「あかぐら」と読むわけで、倉という字は「断崖絶壁の山」を表わすことになる。そういうわけだから、大丹倉は、酸化して赤い岩肌が露出した高さ200m、幅500mの大岩壁というわけである。頂上までドライブして岩頭に上がると、そこから先は絶壁でもう足が震えて動かなくなった。

 この一帯にはもっと人の入らない神域のような場所があるに違いないと思ったが、大丹倉、丹倉神社(原・熊野?)を見ただけで、もうそれだけで十分満足だった。ここに多くの修験がこもって修行に励んだというのも当然だろう。彼らはどこが力の場でどこが何もない場なのかを肌で理解しているのである。

 さらに、もうひとつとんでもないパワースポットを挙げるならば、それは神内(こうのうち)神社に尽きるだろう。こちらも、多くの人が訪れるようになると台無しになりそうなので教えたくないのだが、とんでもなく特別な気配に満ちた場所である。龍村仁監督の『ガイアシンフォニー』シリーズの第6番が今度公開されることになっているが、そこにも神内神社が登場しているというから、まさに龍村監督おそるべしと言うほかない。同じ熊野といっても、100箇所回っても何も見つけられない霊能者もいれば、4、5箇所くらい回るだけでとんでもない場所を見つけてしまう人もいる。なんでも地道な努力よりセンスのほうが大切というわけだ。

 神内神社に最初に入ったときは、ちょうど日没間際で雨も降っており、絶好のコンディションだった。まだ車を降りるか降りないかというくらいで、そこが特別な場所だということは気配でわかった。入り口の鳥居を入ると、右に神武天皇御社の碑があり、さらに石室のような祭壇がある。さらに、左には川が流れており、その水音が高く響き渡っている。細い道が内部まで続いており、そのアプローチはまるで出雲の神魂神社に入るときとよく似ている。それだけでいろいろな記憶が甦ってくる。神魂神社は出雲大社の原形とされており、いまでは宮司がひとりで守っているだけだが、かつては出雲を代表する神社なのだった。

 奥まで歩いて右に曲がると、苔に覆われた巨石群が姿を現わし、その前に無数のよだれ掛けが奉納されている。ここは子安信仰でよく知られているらしい。しかし、それは単なる表面的なことで、ここはもっと産土の本意に近い意味での特別な神域ではないかと想像される。それにしても、ここの磐座はなんという荘厳さをたたえていることか。しかも、ここでは石と樹木がほとんど一体となって何千年も絡み合ってきた様子がうかがえる。どこまでが石でどこからが樹木かとても区別がつかない。冷たい雨に打たれながら、われわれ一同はただ黙ってそこに佇むだけだった。

 それにしても、こういうところに来ると、いかに出来合いの知識が役に立たないかを身にしみて教えられる。たしかに祭神は天照大神であり、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)などの名前はあるものの、そんなものには何の意味もない。「明細帳」に「当社の義は近石(ちかいし)と申すところに逢初森(あいそめのもり)というのがあり、そこにイザナギ、イザナミ、天降らせ一女三男を生み給う、この神を産土神社と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(こうのち)と称す。いつの頃よりか神内村(こうのうちむら)と改むと言い伝う」とある。

 近くの人々にとっては子安の神であり、また、豊漁の神としても知られているのだが、それらは後の人々が勝手に因縁づけたものであって、そんなことを鵜呑みにしてはならない。こういうところでは、いかなる神を祭るかはあまり問題にならない。丸山静はそれを以下のように表現している。「もちろん、いますぐに、それに答えることはできない。というより、むしろ、そういう問いを発することによって、私は熊野という問題を発見したところである。修験道とか本地垂迹説についての出来合いの知識を借りてきて、それを解こうとしたりするのは、むしろアベコベのような気がする」。

 つねに観念が先にあるのではなく、そこにある事実を見つめなければならない。これからもこういう場所に立ち会うことなしに熊野を語ることはできないとしみじみ思うのだった。

04 石の力

 実は、今回の調査で回ったのはそれだけではない。大馬神社などさらにいくつか紹介したい場所もあるにはあるのだが、それはまた別の機会にしたいと思う。それよりも、熊野とはいったい何かという最初の問いに戻りたい。熊野を形作るその核心部分は何かというと、一般に言われるような「死者の魂の集まるところ」や「死者の国」そのものではなく、むしろ、その正反対の「万物を生み出す力」なのではないか。熊野にいるだけで、われわれは巨大な子宮の内部に包まれているような印象を受ける。そう、ここでは石は子宮の比喩であり、万物の始まりを象徴しているのである。

 そして、熊野信仰は、ごとびき岩の下から銅鐸の破片や祭祀の用具が見つかったことでもわかるとおり、その歴史は神武東征以前、およそ3000年以前にまで遡る可能性がある。そこは、まだ日本がはっきりとした形をとる前から、多くの人々が何かを感じて集まって祈りを捧げた特別な場所なのであろう。その痕跡がいろいろなところに見え隠れしている。古事記、日本書紀どころか、仏教が入るずっと以前からそこは霊的な地として多くの信仰を集めていたに違いないのだった。

 われわれは周囲が真っ暗になるまで熊野にとどまった。伊勢路の海は刻々とその色を変化させ、そこにいるあいだ、われわれを楽しませてくれた。次にここを訪れるのはいつのことになるだろう。なるべく早く戻ってきたいと思わないではいられなかった。


お知らせ;
龍村仁監督『ガイアシンフォニー』シリーズ第6番完成記念、および、今回の伊勢路熊野調査の成果を含めた対談が以下のように行われるようになりましたので、お知らせします。

◎「祈りの地・熊野」植島啓司VS龍村仁
2007年4月7日(土)
朝日カルチャーセンター(大阪)15時〜17時
申し込み先 06-6222-5222

◎「祈りの地・熊野」植島啓司VS龍村仁
2007年4月21日(土)
朝日カルチャーセンター(新宿)13時〜15時
申し込み先 03-3344-5450 

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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