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 画一化した社会は死滅する。いまの日本は坂道を転がり落ちてる感じ。21世紀へのふくらんだ夢もあっというまに萎みつつある。現在、誰もがなんとかこれまでとは違った生き方を見つけようとしているが、では、価値の多様化はいかにして可能なのか。世界には日本より貧しい国は無数にある。いまや日本の国際的信用度はイタリア並みというが、彼らは、もはや破産寸前といわれた時期でも、深夜までカフェで語り合ったり、踊ったり、小さな賭けをしたりで、なんとも楽しそうだった。その違いはいったいどこにあるのだろうか。

第53回・感情は理性に勝る?

01 感情表現

 ようやく最近になって、自分がかなり喜怒哀楽の激しい人間だということに気がついた(遅い!)。小さい頃から、感情表現が苦手で、目立たない子どもと思われてきたし、実際、自分でもそう思ってきた。しかし、よく考えると、いつも映画を見ていて悲しいシーンになるとだれよりも先に泣き出すし、また、ちょっとしたギャグに大爆笑して周囲の冷たい視線を感じてもきたのだった。たしかに母親譲りの「すぐカッとなる」一面もあるし、「どうでもいいですよ」というクールな一面もある。だれでもある程度そうかもしれないが、ぼくの場合はやや極端な気がしないでもないとこの頃思うのである。

 話題の韓国怪物映画「グエムル−漢江の怪物−」を見てきた。ぼくはポン・ジュノ監督の大ファンで、前回の「殺人の追憶」(2003年)が連続婦女暴行殺人事件、今回の「グエムル」が怪物映画という、彼の「何をつくるか想像もつかない」センスがたまらなく好きだ。そして、「グエムル」も期待にたがわぬすばらしい作品だった。どうして日本の監督はこういう映画をつくれないのかとも思ったのだった。

 しかし、ただ1点だけ問題なのがラストシーン。すでに多くの人が指摘していることだし、まだ映画を見ていない人のためにここで詳しく書くわけにはいかないのだが、あの結末だけはなんとかならなかったのだろうか。全体的に、座席から飛び上がるような恐怖シーンとユーモアたっぷりの家族愛を描いたシーンの連続で、観客は最後まで問答無用といった感じで引っ張られていく。今年度第1位と思って見ていたので、やっぱり最後の結末だけがちょっと惜しまれるのだった。

 まあ、それにしても、この「グエムル」を見ながら、ぼくは自分の感情がこうもたやすく右に左にと揺さぶられるのにびっくりしていた。子どもならともかく、どうしてこうも感情の起伏が激しいのだろうか。映画館を出てからもしばらくは興奮が収まらなかった。こういった気質は墓場までついてくるものなのか。それとも、普通はどこかで克服すべきもので、すっかり忘れたまま年をとってしまったのだろうか。

02  ホモ・サピエンス

 エドガール・モランは『失われた範列』(1973年)の中で、「ホモ・サピエンスの時代は生物体系の中での錯誤の厖大な増加と一致する」と述べている。それまでは「誤り」という概念はほとんど存在さえしていなかったのが、ここで決定的変化が起こったというのである。ホモ・サピエンスにおいて、あるとき突然彼の身に襲いかかったのは、脳と環境との関係の不確実さと曖昧さなのであった。そう、この割れ目にさまざまなものが入り込み、猛威を振るうことになる。そして、われわれにとって説明がつかないものを、別のシステムの中に置き換えようと想像力が動き始める。神話とか、呪術とか、卜占術とか、夢とかは、既知の因果関係では説明つかないものを、別の説明原理によって置き換えようとする試みなのである。

 ホモ・サピエンスはけっして進化したサルなどではなく、なにもかも不確実な世界にポンと投げ込まれた不安いっぱいのサルなのではなかったか。

 エドガール・モランは、われわれはけっして知性によって他の生物と一線を画しているわけではなく、むしろホモ・サピエンスを特徴づけているのは、並外れた感情表出の力なのではないか、と書いている。人間の子どもをよく見てください。他のいかなる生物の子どもでもあれほど激しく泣き叫んだり歓びに有頂天になったりすることはないと思いませんか。自分の無力さや悲しさについて、あれほど絶望的に大声で泣き叫んだり、そうかと思うと、ちょっと母親の顔が見えただけで、たちまち信じられないほどの満足感に浸り、手足をばたばたさせて歓びを表現したりする。こうした突発的な感情の噴出はホモ・サピエンス特有のものということができると思う。それに比べたら、他の動物のほうがむしろ理性とか合理性とかのセンスをしっかり身につけているとさえ思われてくる。

 エドガール・モランはさらに次のようにも書いている。「ホモ・サピエンスが、オルガスムスのみならずあらゆる領域に求める快楽は、満足の状態つまり欲望の達成状態、緊張の解消状態に帰着しえない。快楽は、単なる快楽を超えて、硬直症(カタレプシー)あるいは癲癇(エピレプシー)のぎりぎりのところまで達する全存在の発揚状態にも存在するのだ」と。たしかにわれわれの欲望には限りがない。

 われわれは、何かおいしいものを食べたり、喉が焼けつくように乾いたときに冷たい飲み物を得て満足するというのでは、とても我慢ができないのである。そんなことは生きるうえで必要なことに過ぎない。もっと大切なことは他にある。たとえば、セックスにおいて身体が硬直するほどの歓びを得ないと満足できないというのは、おそらく人間だけの特性であろう。他の動物のセックスなどみごとに淡々としたものである。どうして、そこまで「自分を見失う」ことに執着するのだろうか。まるでそこにこそ生きる歓びがあるとでもいうようではないか。

03 感情を支配するものは何か

 昨年のことなのだが、岩波書店の月刊誌『科学』6月号で「感情を支配するものは何か」という特集が組まれたことがあった。その冒頭の論文で、遠藤利彦が興味深いことを書いている。これまで喜怒哀楽の感情は、理性や知性に比べて一段劣った原始的な心の動きと考えられてきたが、いまや感情とは「人間の生物学的あるいは社会的な適応を高度に保障する合理的な心理的装置である」というのである。つまり、感情こそが人間の認知に関わる行動において中心的な役割を演じるものだと考えられるというのである。

 なるほど、われわれの理性的な行動の背景に、そうしたもっとも「原始的」と思われてきたもの(感情)がどれほど深く関与してくるかは、ぼくら宗教学者にとってはかねてよりなじみ深い問題であった。これまでにも、世界各地での厳粛な宗教儀礼や祭りの際に、多くの人々がトランスに入ったり、忘我の状態で踊りまわったりする光景を散々見てきたわけだし、そこに人間存在の秘密の匂いを嗅ぎとってきたわけだから、突発的な感情が「われわれの生存と深く関わる合理的なシステム」だという指摘には共感しないわけにはいかないだろう。

 さらに、痛みから身を守るために気絶したり、麻酔で意識を失ったり、自己を捨てたり、死ぬということまで含めても、どれもきわめて理にかなった行動なのではなかろうか。

 われわれはいつも覚めていなければならないというわけではない。人生の3分の1近くを眠って過ごすわけだし、日常的な行動の際もほとんど無意識的に時間をやり過ごすこともある。すなわち、その存在の根底にはどうしようもない「自己喪失」が横たわっていると言えるのではなかろうか。それなのに、どうしてこれまでちっぽけな理性にしがみついて「人間の偉大さ」に執着せざるをえなかったのか。キルケゴールの『死に至る病』ではないが、「自己とは何か」という問いには、その「自己」とはどういう自己なのかという問いが必然的に含まれていなければならなかったのだ。男か女か、大人か子どもか、起きているか眠っているか…

 われわれがいかに不確実な世界に生きているかは、われわれの見る夢にまで反映されている。ある研究によると、猫の見る夢はきわめて型通りのものばかりで、種の遺伝的な大きな図式を複製させているだけだという。小動物に襲いかかる捕食の夢、80%。自分より強力な敵に対して身を守る夢、10%。食べ物の夢、10%。もちろん、本当かどうかはわからないが、それに対して、人間の見る夢の多様さ、でたらめさはどうだろう。しかし、そこにこそ人間のクリエイティビティの源がひそんでいるわけである。

 われわれは自分の身に起こる状況をそれほど明確に理解できるわけではない。それは永遠に変わることがないだろう。われわれの理性はいずれ何ものか(チェスにおけるディープブルー?)によって超えられることもあるだろう。しかし、われわれの心理的−情緒的な特性は、それほど容易に別の何ものかによって置き換えられることはないだろう。単純な計算を長く考えたあげく間違ったり、笑ったり、泣いたり、興奮したりするコンピュータをあなたは想像できるだろうか。

 つまり、われわれの本質は、むしろ、知的・論理的能力のほうにではなく、笑い、痙攣、涙、舞踊、陶酔、恍惚、お祭り騒ぎといった心理的−情緒的な特徴のほうにひそんでいるということである。いつも身体をのけぞらせて踊っていたいのだ。そういう意味では、われわれはホモ・サピエンス(理性的な人間)とは永遠に遠く離れた存在だということである。人間にとって生得の能力を磨き上げれば、この世の出来事が理解できるようになるというものではない。世界はわれわれの能力とはまったく無関係に未来に向かって進んでいく。われわれはいかにしてそれと寄り添って生きていくかを考えなければならないのである。

04 矢沢永吉

 あるインタビューで、「なぜ最近ハッピーということばかり考えるんですか」という質問に答えて、矢沢永吉は次のように答えている。ちょっと長いのだがここに引用してみたい。

 あのね、40くらいになったら、「自分ってどういうやつなんだ?」って考えるじゃないですか。僕はね、なんでこんなにがんばって走ってこられたのかと思ったの。それはね、なにか一つ掴んでカタチにしたら、すべてが解決できると思ったから。僕はずーっとどこか寂しかったんだけど、その寂しさも、成功したりお金持ちになったら、全部クリアできると思ってた。みんなが振り向いてくれるこの位置にまでいけたら、不安な部分も全部クリアになると思ってた。ところが、ちっともクリアにならなかった。飯が食えるようになって、いい車転がして、俗にいう表面的な成功というのは、27で手に入れましたよ。だけど、ちっともハッピーじゃないの。なんで? 神様、僕に言ったじゃない、成功手に入れたら、今までの不安なこともクリアにしてくれるって。「なんで?」って思ったとき、「気持ちがいい」とか「ハッピー」というのは、別のレールがもう一個あって、それは仕事で手に入れたり、成功で手に入れるものではないんだ、ということに気づいたんですよね。そのときからです、「幸せって何だろう?」って真剣に考え始めたのは。

 そういう矢沢も、56で現役でやれて、武道館でコンサートやれて、50過ぎてからすごく気持ちがいい、と言う。そう、よくわかる気がする。50過ぎた多くの人が同じような気持ちを抱いているのではないか。この世のやっかいな部分はどうやったってクリアできるわけでもない。しかし、クリアできなくたって何も問題などないのだ。そういう意味では、年をとることはだれにとっても大きな幸せだということではないかと思うのである。

参考文献:
エドガール・モラン『失われた範列』古田幸男訳、法政大学出版局、1975年。
矢沢永吉&リリー・フランキー「ん、スーパー女性感謝論?」資生堂『WORD』60号、2006年。

○植島 啓司(うえしま けいじ)

1947年東京生まれ。1972年、東京大学卒。東京大学人文科学研究科大学院(宗教学専攻)博士課程修了。その後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデらのもとで研究を続ける。1980〜2002年、関西大学専任講師・助教授・教授を歴任。1990〜91年、NYのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(人類学)客員教授。1974年より現在まで、ネパール、タイ、インドネシア・バリ島、スペインなどで宗教人類学調査を続けている。著書に『男が女になる病気』『分裂病者のダンスパーティ』『快楽は悪か』『宗教学講義』『オデッサの誘惑』『聖地の想像力』他。

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